私は月曜日に広島に入った。
そして、火曜日から3日間の「提案営業セミナー」を何とか乗り切った。
かつて中国生産性本部のセミナー、中国電力やグループ企業の研修でたびたび訪れた。
私は数年振りの広島での講義に、腰痛ベルトや湿布薬、痛み止め(飲み薬)などを携えて臨んだ。
しかし、3日目の朝は疲労でベッドからしばらく起き上がれなかった。
きょうは激しい腰痛と背筋痛に悩まされている。
身動きがままならない。
体が「く」の字に折れ曲がっている。
私は、来週待ち受けるタカクラホテル福岡での合宿セミナーが気がかり。
泊まり込みなので深夜までだ。
体力と体調が持ち堪えられるだろうか。
さて、NHK朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」は、長女が生まれた。
粉ミルク代に困る極貧生活で、ついに電気を止められてしまった。
漫画の原稿料は落ちるばかり。
その原稿料もろくに入らない。
“貧乏神”に取りつかれている。
わが家だけが真っ暗な夜を過ごす辛さ、惨めさ…。
それでもろうそくの明かりで漫画を描きつづける村井茂。
傍らでベタ塗りを手伝う布美枝。
二人は崖っぷちに追い詰められてしまった。
記憶がよみがえった。
私も結婚後、電気を止められたことがあった。
わずかな日数と回数だと思うが、懐中電灯やろうそくに頼った(独身時代は幾度か)。
人は極限の状況で笑うしかないことがある。
それもまた人生。
夫婦で噴き出したのでは…。
ところで、印刷業界について思うところがあり、2010年5月30日のブログ「ふすま一枚の地獄…ゲゲゲの女房」にいくらか手を加えた。
私が「セールスプロモーション(SP)」のノウハウに触れたのは、印刷会社とのつきあいを通じてだった。
つまり、カネをもらいながらイロハを学んでいった。
なかでもトッパンアイデアセンターに食べさせてもらった。
私にはカネを払って学ぶという発想がまったくない。
それらは40代になり、日本実業出版社「企画の愉しみ」、日本経済新聞社「ビジネス企画書の作成技法」、東芝「企画書上手」、産能大学出版部「企画書のまとめ方」、日経BP出版センター「和田創の企画力養成講座」などの著作に結実していった。
◇◆◇
NHK朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」。
番組に描かれているのは、私の結婚後の極貧生活と酷似していた。
駆け出しのフリーランスで収入がほとんどなく、しかも安定しない。
最悪だった。
困っていたのは事実だが、私たちに暗さはなかった。
案じたところでどうにもならなかったので、あっけらかんとしていた。
私を知ったうえでパートナーに選んだ妻は腹を括っていた。
調布に暮らす村井茂(水木しげる)が都心へ出て必死に営業活動をかけるシーンも当時の自分とダブる。
妻(前妻)は社員が2〜3人の零細企業(音楽系の雑誌社)で働いていた。
国電飯田橋駅の近く。
やがて子どもを授かり、出産を機会に退職した。
それ以来、専業主婦だった。
私がもっとも思い出したのは、ふすま一枚で隔てられた2つの小さな和室という住環境。
アイデアを納める仕事はいくらかあったが、安くて食べられなかった。
私は能力の限界まで知恵を絞った。
金額を超える満足を与えること、つまり発注者の期待水準を上回ることしか考えなかった。
そうでなくては、二度と仕事の依頼は来ない。
これがフリーランスのプランナーとしてやっていけるかどうかの分かれ目だと強く肝に銘じていた。
1日18〜20時間の労働が延々と続いた。
無休。
ゲゲゲの女房では、やはりふすま一枚を隔てて夫の茂(向井理)が連日徹夜で漫画を描いており、妻の布美枝(松下奈緒)はおちおち眠れなかったろう。
私たちの生活そのものだ。
ただし、布美枝と異なり、妻は体が強いわけでなかったので、普通の睡眠時間が必要になる。
夫が家族を支えるために死に物狂いで働いているのに、隣の部屋で呑気に休むのは辛かったろう。
眠りが浅く、頻繁に目が覚めたに違いない。
妻は東京女子大学時代の友人などによく、私が早死にすると言っていた。
むろん、私がいる場で…。
恐らく本気だ。
私に対する褒め言葉、驚嘆と感謝の念でもあった。
我ながらクレージーだった。
“戦闘”という形容がぴったり。
私は何も案じなかったと記したが、正確にはその時間や余力がなかった。
仕事の手が動かなくなると、布団に倒れ込んだ。
私は仕事の量もさることながら単価を上げないと生活が厳しいと悟り、大日本印刷、凸版印刷、共同印刷の“御三家”に飛び込んだ。
秋葉原の凸版印刷から三鷹の自宅に戻ると同時に電話が鳴り、私は即座に引き返した。
最初の仕事だった。
口笛を吹きたい気分だった。
私の何かを認めてくれた証拠である。
妻の顔がぱっと輝いたのが忘れられない。
3社ともOKをもらえたが、共同印刷はこちらから辞退した。
失礼な言い方になるが、大きな印刷会社というだけで将来性がないと判断した。
実際、現在では御三家という言葉が用いられなくなった。
断トツの大日本印刷はしばらくつきあった後に疎遠になった。
私が営業活動に力を入れなかったのだ。
アイデアやプランといったソフトを重視し、それを正当に評価してくれる印刷会社はトッパンアイデアセンターしかないと確信した。
実際、凸版印刷はその後、周辺領域さらに先端分野へ果敢に進出し、両者の立場は逆転した。
いまや印刷会社と呼べない。
30年以上前の直感は見事に的中した。
私は少しずつ収入が増えていった。
妻はこうした毎日に愚痴をこぼしたことがない。
しかし、私はその辛さを感じ取っていた。
「この状態を解消しないと、妻は気の休まる暇がない」。
私は焦っていた。
三鷹の間借りでは、増えてきた仕事をこなすうえで限界と支障が出ていた。
締め切りに間に合わず、知人をときどき呼んで手伝ってもらったりした。
狭い部屋が人の熱とタバコの煙でむせ返った。
仕事と生活がごちゃ混ぜになっていた。
家族がやり切れない。
私は勝負をかけるしかないと決意し、千代田区岩本町に仕事場を借りた。
地下鉄日比谷線小伝馬町駅のそばだ。
30歳を回った頃だったか(曖昧)。
妻はほっとした表情を浮かべた。
“地獄”だったのだ。
総戸数の少ない古いマンションは、都心に近い立地のせいで、住居より仕事場に使われていた。
私がこの場所を選んだのは、すでに収入を依存していた秋葉原の凸版印刷株式会社本社、トッパンアイデアセンターが何とか歩いていける範囲にあったからだ。
すぐに徹夜の連続になった。
私は外食になり、自宅と合わせて支出がかさんだ。
オフィスの家賃や水道光熱費、機器のリース料なども払わなくてならず、必死だった。
仕事場に泊まり込むことになり、自宅に戻ってこられなくなった。
一段と仕事漬けの日々を過ごした。
後年、都心の仕事場の近くに自宅を移そうと妻に2〜3回切り出し、きっぱりと断られた。
妻は、結婚当初の私の仕事振りとそれにかく乱された時代を忘れていなかった。
職場のなかで寝起きする気分だったのでないか。
心底、懲りたのだ。
狭い2部屋の内、1部屋が仕事に占領される。
ふすま一枚を隔てるゲゲゲの女房は、当時の妻の姿である。
後年、妻はガンで亡くなる直前、「お父さんの言うとおり、都心に引っ越せばよかった」と口にした。
本人もこの件を引きずっていたのだ。
◇◆◇
ゲゲゲの女房に関するブログは以下のとおり。
⇒2010年5月8日「ゲゲゲの女房…蘇る前妻との初デート」はこちら。
⇒2010年5月19日「松下奈緒、ゲゲゲの女房を好演する」はこちら。
⇒2010年5月20日「ゲゲゲの女房、小銭入れが空っぽの極貧」はこちら。
⇒2010年5月30日「ふすま一枚の地獄…ゲゲゲの女房」はこちら。
⇒2010年6月6日「ゲゲゲ原稿料を払ってもらえない」はこちら。
Copyright (c)2010 by Sou Wada
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そして、火曜日から3日間の「提案営業セミナー」を何とか乗り切った。
かつて中国生産性本部のセミナー、中国電力やグループ企業の研修でたびたび訪れた。
私は数年振りの広島での講義に、腰痛ベルトや湿布薬、痛み止め(飲み薬)などを携えて臨んだ。
しかし、3日目の朝は疲労でベッドからしばらく起き上がれなかった。
きょうは激しい腰痛と背筋痛に悩まされている。
身動きがままならない。
体が「く」の字に折れ曲がっている。
私は、来週待ち受けるタカクラホテル福岡での合宿セミナーが気がかり。
泊まり込みなので深夜までだ。
体力と体調が持ち堪えられるだろうか。
さて、NHK朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」は、長女が生まれた。
粉ミルク代に困る極貧生活で、ついに電気を止められてしまった。
漫画の原稿料は落ちるばかり。
その原稿料もろくに入らない。
“貧乏神”に取りつかれている。
わが家だけが真っ暗な夜を過ごす辛さ、惨めさ…。
それでもろうそくの明かりで漫画を描きつづける村井茂。
傍らでベタ塗りを手伝う布美枝。
二人は崖っぷちに追い詰められてしまった。
記憶がよみがえった。
私も結婚後、電気を止められたことがあった。
わずかな日数と回数だと思うが、懐中電灯やろうそくに頼った(独身時代は幾度か)。
人は極限の状況で笑うしかないことがある。
それもまた人生。
夫婦で噴き出したのでは…。
ところで、印刷業界について思うところがあり、2010年5月30日のブログ「ふすま一枚の地獄…ゲゲゲの女房」にいくらか手を加えた。
私が「セールスプロモーション(SP)」のノウハウに触れたのは、印刷会社とのつきあいを通じてだった。
つまり、カネをもらいながらイロハを学んでいった。
なかでもトッパンアイデアセンターに食べさせてもらった。
私にはカネを払って学ぶという発想がまったくない。
それらは40代になり、日本実業出版社「企画の愉しみ」、日本経済新聞社「ビジネス企画書の作成技法」、東芝「企画書上手」、産能大学出版部「企画書のまとめ方」、日経BP出版センター「和田創の企画力養成講座」などの著作に結実していった。
◇◆◇
NHK朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」。
番組に描かれているのは、私の結婚後の極貧生活と酷似していた。
駆け出しのフリーランスで収入がほとんどなく、しかも安定しない。
最悪だった。
困っていたのは事実だが、私たちに暗さはなかった。
案じたところでどうにもならなかったので、あっけらかんとしていた。
私を知ったうえでパートナーに選んだ妻は腹を括っていた。
調布に暮らす村井茂(水木しげる)が都心へ出て必死に営業活動をかけるシーンも当時の自分とダブる。
妻(前妻)は社員が2〜3人の零細企業(音楽系の雑誌社)で働いていた。
国電飯田橋駅の近く。
やがて子どもを授かり、出産を機会に退職した。
それ以来、専業主婦だった。
私がもっとも思い出したのは、ふすま一枚で隔てられた2つの小さな和室という住環境。
アイデアを納める仕事はいくらかあったが、安くて食べられなかった。
私は能力の限界まで知恵を絞った。
金額を超える満足を与えること、つまり発注者の期待水準を上回ることしか考えなかった。
そうでなくては、二度と仕事の依頼は来ない。
これがフリーランスのプランナーとしてやっていけるかどうかの分かれ目だと強く肝に銘じていた。
1日18〜20時間の労働が延々と続いた。
無休。
ゲゲゲの女房では、やはりふすま一枚を隔てて夫の茂(向井理)が連日徹夜で漫画を描いており、妻の布美枝(松下奈緒)はおちおち眠れなかったろう。
私たちの生活そのものだ。
ただし、布美枝と異なり、妻は体が強いわけでなかったので、普通の睡眠時間が必要になる。
夫が家族を支えるために死に物狂いで働いているのに、隣の部屋で呑気に休むのは辛かったろう。
眠りが浅く、頻繁に目が覚めたに違いない。
妻は東京女子大学時代の友人などによく、私が早死にすると言っていた。
むろん、私がいる場で…。
恐らく本気だ。
私に対する褒め言葉、驚嘆と感謝の念でもあった。
我ながらクレージーだった。
“戦闘”という形容がぴったり。
私は何も案じなかったと記したが、正確にはその時間や余力がなかった。
仕事の手が動かなくなると、布団に倒れ込んだ。
私は仕事の量もさることながら単価を上げないと生活が厳しいと悟り、大日本印刷、凸版印刷、共同印刷の“御三家”に飛び込んだ。
秋葉原の凸版印刷から三鷹の自宅に戻ると同時に電話が鳴り、私は即座に引き返した。
最初の仕事だった。
口笛を吹きたい気分だった。
私の何かを認めてくれた証拠である。
妻の顔がぱっと輝いたのが忘れられない。
3社ともOKをもらえたが、共同印刷はこちらから辞退した。
失礼な言い方になるが、大きな印刷会社というだけで将来性がないと判断した。
実際、現在では御三家という言葉が用いられなくなった。
断トツの大日本印刷はしばらくつきあった後に疎遠になった。
私が営業活動に力を入れなかったのだ。
アイデアやプランといったソフトを重視し、それを正当に評価してくれる印刷会社はトッパンアイデアセンターしかないと確信した。
実際、凸版印刷はその後、周辺領域さらに先端分野へ果敢に進出し、両者の立場は逆転した。
いまや印刷会社と呼べない。
30年以上前の直感は見事に的中した。
私は少しずつ収入が増えていった。
妻はこうした毎日に愚痴をこぼしたことがない。
しかし、私はその辛さを感じ取っていた。
「この状態を解消しないと、妻は気の休まる暇がない」。
私は焦っていた。
三鷹の間借りでは、増えてきた仕事をこなすうえで限界と支障が出ていた。
締め切りに間に合わず、知人をときどき呼んで手伝ってもらったりした。
狭い部屋が人の熱とタバコの煙でむせ返った。
仕事と生活がごちゃ混ぜになっていた。
家族がやり切れない。
私は勝負をかけるしかないと決意し、千代田区岩本町に仕事場を借りた。
地下鉄日比谷線小伝馬町駅のそばだ。
30歳を回った頃だったか(曖昧)。
妻はほっとした表情を浮かべた。
“地獄”だったのだ。
総戸数の少ない古いマンションは、都心に近い立地のせいで、住居より仕事場に使われていた。
私がこの場所を選んだのは、すでに収入を依存していた秋葉原の凸版印刷株式会社本社、トッパンアイデアセンターが何とか歩いていける範囲にあったからだ。
すぐに徹夜の連続になった。
私は外食になり、自宅と合わせて支出がかさんだ。
オフィスの家賃や水道光熱費、機器のリース料なども払わなくてならず、必死だった。
仕事場に泊まり込むことになり、自宅に戻ってこられなくなった。
一段と仕事漬けの日々を過ごした。
後年、都心の仕事場の近くに自宅を移そうと妻に2〜3回切り出し、きっぱりと断られた。
妻は、結婚当初の私の仕事振りとそれにかく乱された時代を忘れていなかった。
職場のなかで寝起きする気分だったのでないか。
心底、懲りたのだ。
狭い2部屋の内、1部屋が仕事に占領される。
ふすま一枚を隔てるゲゲゲの女房は、当時の妻の姿である。
後年、妻はガンで亡くなる直前、「お父さんの言うとおり、都心に引っ越せばよかった」と口にした。
本人もこの件を引きずっていたのだ。
◇◆◇
ゲゲゲの女房に関するブログは以下のとおり。
⇒2010年5月8日「ゲゲゲの女房…蘇る前妻との初デート」はこちら。
⇒2010年5月19日「松下奈緒、ゲゲゲの女房を好演する」はこちら。
⇒2010年5月20日「ゲゲゲの女房、小銭入れが空っぽの極貧」はこちら。
⇒2010年5月30日「ふすま一枚の地獄…ゲゲゲの女房」はこちら。
⇒2010年6月6日「ゲゲゲ原稿料を払ってもらえない」はこちら。
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