3連休の終わり、台風一過の晴天とはいかないようで…。
周りは意外に静かである。
この3日間、反響の大きかったブログを採録するつもりだったが、昨日は休んでしまった。

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徳川将軍家の剣の指南役、「柳生家」に有名な家訓がある。
江戸時代の初期に、家康、秀忠、家光の3代に仕えた、柳生宗矩の言葉らしい。徳川家が3百年の太平の礎を築くうえで、少なからず貢献した。
                     ◇
             小才は、縁に出合って縁に気づかず。
             中才は、縁に気づいて縁を活かさず。
             大才は、袖すり合うた縁をも活かす。
                     ◇
剣術から武道へ―。
先の言葉には、敵をも味方に変えてしまう「活人剣」という、深遠かつ高邁な思想が込められているそうだ。
剣を通じて自分を磨き、相手を高める…。
私には、敵を“縁”と見なすこと自体が驚きであり、それだけで「人生の達人」と呼ぶに値する。
だが、そうした時代背景は置いておき、一般的な縁という意味合いで解釈しても名言といえよう。
さて、学んでいるつもりなのに、幸せにも豊かにもなれない人は、「出会い」を生かせていないのではないか。
会社、地域、社会…。どれも人の集まりだ。
ここで成功を収めるには、人との関係性を掘り下げることが絶対条件である。
小才は、縁に出合って縁に気づかず。
学び方を間違えており、人を見る目が狂っているか備わっていないタイプである。
自分を含め、人間を“客観視”できない。
目の前の縁が見えないので、ぶつけようのない不満や怒りの感情に苦しめられる。
ひとまず本を閉じ、きちんと人と相対する訓練を積んでいくしかない。
そして、相手の悪いところが先に飛び込んでくる状態が解消されたとき、中才に近づいたことになる。
当然だが、他人の弱点や欠点に捉われることほど、人間として孤独なことはない。
出会いを通じた成功と、永久に無縁である。
中才は、縁に気づいて縁を活かさず。
学び方を外しており、一番肝心な度量と度胸が備わっていないタイプである。
プライドが邪魔し、“懐”に飛び込めない。
目の前を縁が通り過ぎるので、言いようのない淋しさや虚しさの感情に苦しめられる。
果敢に名刺を交わし、じっくりと人と話し込む習慣をつけていくべきである。
そして、「私」をさらし、相手とくつろいだ時間を共有できたとき、大才に近づいたことになる。
当然だが、自分の弱点や欠点を覆い隠すことほど、人間として窮屈なことはない。
出会いを通じた成功と、相当な距離がある。
大才は、袖すり合うた縁をも活かす。
このタイプは凄すぎて、私には言及できない。溜め息をつくばかりである。
ただし、営業実践大学の公開講座にゲストとしてお招きしたトップセールスパーソンのなかに、この言葉がぴったり当てはまる方がわずかにいらしたと思う。
また、営業コンサルタントとしてお会いした経営者、とりわけ創業社長のなかに、やはりわずかにいらしたと思う。
…ところで、わが身を振り返るなら、ほとんど縁を生かせなかった。ごくまれな縁も、私がつかんだのでなく、相手から差し延べられたものである。
言い訳がましいが、その理由の一つは「多忙」である。文字どおり「心が亡ぶ」状態に陥っていたことになる。
忙しさにより失いつづけてきたものの大きさに、私は最近ようやく気づいた。
これまでの懸命な頑張りが、あまり報われないはずである。
人間にとり、第一の才能とは、“縁”を生かす心のありようであろう。
「才能は心」なのだ。

                    ◆◆◆

以上。
以下は追って書き。
この柳生家の家訓だが、「中才」と「大才」の間に、もう“一段階”を設けてほしかった。両者の距離が開きすぎており、リアリティに欠ける。
むろん、これは「中才」の私の嫉妬や愚痴にすぎない。
それとこのブログに「剣を通じて自分を磨き、相手を高める」とあるが、剣を「営業」と置き換えられそうだ。
「営業を通じて自分を磨き、相手を高める」。
営業の仕事とは、そういうこと。
私たちは、“誇り”の世界で働いている。

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