たまたまBS2にチャンネルを合わせたら、「日本のフォーク&ロック大全集」という、視聴者のリクエストに応えて昔のVTRを放映するナマ番組をやっていた。
一部、生演奏も…。
12月22日、土曜日、夜10時頃のこと。
私は音楽に興味がなく、したがって知識を持たない。そのジャンルさえ分からない。
ただ、私にも「青春時代」はあったわけで、街をうろついていても、酒に溺れていても、音楽が流れていた。
それはシャワーのように全身に降り注いだ。
歌手もメロディも歌詞も知らないので、カラオケはやらないのでなく、やれない。
営業失格かなぁ…。
さて、1951年(昭和26年)生まれの私が、音楽以前に存在自体に衝撃を受けたミュージシャンがいる。
過去最大のインパクト!
それは「荒井由実」という不可解なシンガーソングライター。
「こんな曲をつくってしまっていいのか。まして歌ってしまっていいのか」。
勇気? 鈍感?
私は、あっけらかんとした図太さに驚愕した。
当時、フォークは、地方出身者が引っ張っていた。
「東京で一旗挙げる」。
「故郷に錦を飾る」。
そんな高揚した気分が、まだいくらか残っていた。
しかし、若者は学校に入り仕事に就くため、つまりサラリーマンになるため、続々と上京した。
そして、都会に反発しながら、都会に吸い寄せられるという矛盾した構図―。
私は「団塊の世代」を1年外れている。
それでも小学校などでは1組50名くらいで、教室の後ろに空きスペースがない。
東大入試が中止になった翌年、私は明治大学に入学した。
キャンパスには、学生運動に対する冷ややかな視線があり、ほどなく無関心の風が漂う。
若者のエネルギーがはけ口を求めた結果が、フォークの隆盛でなかったか。
とはいえ、フォークは時代の空気を敏感に察知し、既成社会との「距離感」にこっけいなほどこだわっていた。
それが主張(メッセージ)になり、装い(ポーズ)となって、“かっこよさ”につながったのだから当然である。
どの歌手もアイデンティティを打ち出そうと必死だった。
当時の規範や幸福観を拒む、極私的な曲まで現れる。
また、音楽を聞く側も、メッセージやポーズといった拠りどころを欲していた。
荒井由実の曲が耳に入ると、私は冷や冷やした。
「時代の空気が許さない…」。
居心地が悪いのでなく、居心地がない曲!
バイト先の雑談で、だれかが彼女の名前を出したが、一人も呼応せず、無視されたことを覚えている。
私を含め、男は肝っ玉が小さい。
荒井由実は存在がいまわしく、話題がはばかられた。
彼女は能天気なのか自信家なのか、イデオロギーに対して怖いくらい“無防備”で、まるで気負いがなかった。
都会の思春期の子女のたわいない生活のシーンやエポックを、「絵日記」みたいに切り取っただけの音楽…。
荒井由実は、当時のいかなる異端よりも異端だった。
反社会でぶつかるにしろ、非社会で背を向けるにしろ、それは時代への期待があればこそ…。
戦後の高度成長により、国民の多くが経済的な豊かさを手に入れた。
都市部で中産階級が膨張する。同時に、社会への関心が急速に失われていく。
力んだメッセージやポーズが敬遠されはじめた。
やがて、彼女は大衆に圧倒的に支持され、時代の最先端を疾走するように…。
文字どおり、音楽界の頂点にのぼり詰めた。
彼女は1976年、松任谷正隆と結ばれ、「松任谷由実」に変えてしまった。
荒井由実という名前を捨てることに、何の躊躇も未練もなかったのだろうか…。
私は愕然とした。
「恋人がサンタクロース」と歌ったのも彼女。
この頃から「彼氏や彼女がいないクリスマスはありえない」とされ、皆がイブに向けて仕込む風潮が生まれた。
また、真正の恋人同士なら、イブにホテルやマンションでエッチするルールが固まった。
若者のライフスタイルに、これほど大きな影響を与えた歌手はほかにいない。
なお、和田創「明日へのヒント」で、松任谷由実の言葉を取りあげ、コメントを加えている。
「日本のフォーク&ロック大全集」では、番組の終わりにリクエストが一番多かった曲が披露された。
吉田拓郎の「落陽」。
初めて聞いたなぁ…。
ちなみに、私が衝撃を覚えた歌手の順番。
荒井由実、美空ひばり、山下達郎。
知ったとき、いずれも容認できなかった。
体が受け付けなかったのだ。
いまはどうかって?
恥ずかしいから言わない。
うふっ。
一部、生演奏も…。
12月22日、土曜日、夜10時頃のこと。
私は音楽に興味がなく、したがって知識を持たない。そのジャンルさえ分からない。
ただ、私にも「青春時代」はあったわけで、街をうろついていても、酒に溺れていても、音楽が流れていた。
それはシャワーのように全身に降り注いだ。
歌手もメロディも歌詞も知らないので、カラオケはやらないのでなく、やれない。
営業失格かなぁ…。
さて、1951年(昭和26年)生まれの私が、音楽以前に存在自体に衝撃を受けたミュージシャンがいる。
過去最大のインパクト!
それは「荒井由実」という不可解なシンガーソングライター。
「こんな曲をつくってしまっていいのか。まして歌ってしまっていいのか」。
勇気? 鈍感?
私は、あっけらかんとした図太さに驚愕した。
当時、フォークは、地方出身者が引っ張っていた。
「東京で一旗挙げる」。
「故郷に錦を飾る」。
そんな高揚した気分が、まだいくらか残っていた。
しかし、若者は学校に入り仕事に就くため、つまりサラリーマンになるため、続々と上京した。
そして、都会に反発しながら、都会に吸い寄せられるという矛盾した構図―。
私は「団塊の世代」を1年外れている。
それでも小学校などでは1組50名くらいで、教室の後ろに空きスペースがない。
東大入試が中止になった翌年、私は明治大学に入学した。
キャンパスには、学生運動に対する冷ややかな視線があり、ほどなく無関心の風が漂う。
若者のエネルギーがはけ口を求めた結果が、フォークの隆盛でなかったか。
とはいえ、フォークは時代の空気を敏感に察知し、既成社会との「距離感」にこっけいなほどこだわっていた。
それが主張(メッセージ)になり、装い(ポーズ)となって、“かっこよさ”につながったのだから当然である。
どの歌手もアイデンティティを打ち出そうと必死だった。
当時の規範や幸福観を拒む、極私的な曲まで現れる。
また、音楽を聞く側も、メッセージやポーズといった拠りどころを欲していた。
荒井由実の曲が耳に入ると、私は冷や冷やした。
「時代の空気が許さない…」。
居心地が悪いのでなく、居心地がない曲!
バイト先の雑談で、だれかが彼女の名前を出したが、一人も呼応せず、無視されたことを覚えている。
私を含め、男は肝っ玉が小さい。
荒井由実は存在がいまわしく、話題がはばかられた。
彼女は能天気なのか自信家なのか、イデオロギーに対して怖いくらい“無防備”で、まるで気負いがなかった。
都会の思春期の子女のたわいない生活のシーンやエポックを、「絵日記」みたいに切り取っただけの音楽…。
荒井由実は、当時のいかなる異端よりも異端だった。
反社会でぶつかるにしろ、非社会で背を向けるにしろ、それは時代への期待があればこそ…。
戦後の高度成長により、国民の多くが経済的な豊かさを手に入れた。
都市部で中産階級が膨張する。同時に、社会への関心が急速に失われていく。
力んだメッセージやポーズが敬遠されはじめた。
やがて、彼女は大衆に圧倒的に支持され、時代の最先端を疾走するように…。
文字どおり、音楽界の頂点にのぼり詰めた。
彼女は1976年、松任谷正隆と結ばれ、「松任谷由実」に変えてしまった。
荒井由実という名前を捨てることに、何の躊躇も未練もなかったのだろうか…。
私は愕然とした。
「恋人がサンタクロース」と歌ったのも彼女。
この頃から「彼氏や彼女がいないクリスマスはありえない」とされ、皆がイブに向けて仕込む風潮が生まれた。
また、真正の恋人同士なら、イブにホテルやマンションでエッチするルールが固まった。
若者のライフスタイルに、これほど大きな影響を与えた歌手はほかにいない。
なお、和田創「明日へのヒント」で、松任谷由実の言葉を取りあげ、コメントを加えている。
「日本のフォーク&ロック大全集」では、番組の終わりにリクエストが一番多かった曲が披露された。
吉田拓郎の「落陽」。
初めて聞いたなぁ…。
ちなみに、私が衝撃を覚えた歌手の順番。
荒井由実、美空ひばり、山下達郎。
知ったとき、いずれも容認できなかった。
体が受け付けなかったのだ。
いまはどうかって?
恥ずかしいから言わない。
うふっ。
当時、彼女は演歌歌手のような歌い方をしていたそうです。
今みたいに抑揚を押さえた歌い方に至るまでにかなりの努力を要したようで、作られた歌い方なのだそうです。
また、松任谷氏と出会ってから、大衆的な音楽性に変わったそうです。
それで、そのギターの人はバンドを辞めました。
売れない頃の話をたくさん聞きました。
北海道のツアーでギャラをもらえず、ほっけを干している小屋のほっけを盗んで食べた事。
キャバレーでやくざと喧嘩した事。
話せない事も沢山あるみたいです。
どこまでが本当かは分かりませんが…。
あれだけ支持されている彼女も、湖面の白鳥のように水面下では死に物狂いで足を動かしているんですね。