3日ブログの続き。
私は高校2年生の夏休みに東京・小松川から富山県・朝日町(泊)に引っ越した。
高校1年生の冬休みから8カ月足らずで私の東京暮らしは幕を閉じた。
都立墨田川高校を去ることはだれにも告げず、富山県立魚津高校へ。
実は一人だけ伝えたい女の子が隣のクラスにいたが、急に決まった話で、その機会がなかった。
このときの甘美な無念が、ひょっとしたら上京願望につながったのかもしれない。そう思うときがある。

さて、東京を追われた家族はしばらく借家住まい。
泊駅から3〜5分の距離だったろうか、記憶が曖昧。
昼間も真っ暗、ぼろぼろの田舎の建物だった。
幽霊屋敷みたい。
確か小学2年生の妹がとても怖がった。
大家の老婆と同居。
とてもいい人だった。
控え目なのに人なつこい。
傷ついていた家族にとり、せめてもの救い。

後で分かったのだが、これはほんとうの仮住まい。
緊急避難先と呼んだほうがよい。
冬前には隣の入善町に引っ越した。
2階建てのマッチ箱みたいな一軒家。
入善駅から2〜3分の距離。

そして、そこから5分ほどの距離に土地を買い、自宅の新築に取りかかった。
父は入善町の椚山の貧しい農家の生まれ。
恐らくツテを頼って個人の大工(棟梁)に任せたのだろう。
私も学校が休みの日に建築現場に茶菓を運んだことがあるが、顔が赤く、息が臭かった。
ひどい出来映えだった。
入居しても、新築に特有の気持ちの高ぶりをまったく感じなかった。私だけでなく両親もそうだったのでは…。
だれも家のことを話題にしなかった。
父はだいぶのちに「大将にやられたっちゃ」と、富山なまりで何度かこぼした。
よほど悔しかったようだ。

ここに満足していたら後年、滑川市の天望町に家を建てることはなかったのでないか。
苦い失敗を教訓に、両親は素敵な暮らしを叶えた。
それはそれはこの家を気に入っていた。執念が実を結んだ。
私は住んでいない。数回しか帰省していないが、ほっとする家だった。とても落ち着いた。
いまは妹夫婦が住む。

やがて私は明治大学経営学部に合格し、そそくさと上京した。
私立はダメと言い渡されていたので、日本経済新聞社の奨学生制度を利用し、高円寺専売所に入店。
いわゆる住み込み。現在の奨学生の境遇と異なり地獄。
初めから勉強はどうでもよかった。
実際、5年間在籍しただけで中退(正確には除籍かもしれない)。
つまり、私は上京するために進学したのだ。
家を出る理由がほしかった。
それも、それなりの私立でなければならない。
当時の明治は早慶に次ぎ、立教と第2グループを形成していた。受験勉強はしていなかったが…。

父は家族を養うため、地元のYKK(吉田工業)に入社。
50歳間近なので正社員になれず、嘱託に甘んじた。
それでも採用してもらえたこと自体、幸運だった。
そして、私が富山大学に通い、YKKに入るよう切望した。
何度その話を蒸し返されただろう。
進学先と就職先を指定してきた。
高校3年生だというのに会社案内まで読まされた。
母は、本心はどうだったか分からないが、それほど引き止めなかった。
もともと下町生まれの江戸っ子であり、疎開先のこちらで父と出会った。

ちなみに、父は椚山が嫌で、家を飛び出した。
長男が家業を継がないのはまれな時代。まして農家。
向学心と成功欲が強かったようだ。
大阪に出て書生を経験したと、母から聞かされたことがある。
大変な苦労だったろう。私の比でない。

ところで、泊と入善に暮らした頃は、家庭が崩壊していた。
私以上に辛かったのは、むろん両親。
人生でもっとも苦しい時期だったに違いない。

泊に住んでいたときは赤の他人がいたから抑えられていたが、入善に移ってからは感情が爆発した。
互いに持っていき場のない憤怒。
離婚話が幾度も持ちあがり、ついに私は父に、妹は母に引き取られることになった。
「おれについてくるかね」。
力なくそう言った父の顔をいまだに覚えている。
もっとも私は高校3年生になっており、家を出ることを内心決めていたので、父に引き取られるという感じはなかった。
要は、妹が母に引き取られる。

妹は小学2年生の頃なので記憶がないはず。
また、両親は妹の前ではこうした話をしなかった。
それにしても離婚がなぜ解消したのか不思議だった。
いつか尋ねてみたいと思いつつ、母は亡くなり、父はボケてしまった。
そもそも仲のよい夫婦だったからか。

同じ頃、父が突然、町長選挙に立候補すると言い出した。
これには私もさすがに驚いた。
母は呆れ、涙を流した。
大口を叩くタイプでない。
「おれが立候補したら、みんな応援してくれる」。
父は至って真面目。
本気でそう思い込んでいる様子。

私はようやく分かった。
それは、いまで言うところの「鬱」の典型的な症状なのだ。
父はそうした気質を持っていない。
理性的でドライ。くよくよしない。
だが、プライドは高い。
当時、大手企業のエリートサラリーマンからあっという間の転落。
呉羽紡績が東洋紡績に吸収されたときから歯車が狂った。
世間にも周囲にも認めてもらえないとの焦燥感と孤独感に駆られた結果。
心を患っていたのだ。
それくらい父は追い詰められていた。

根っこにあるのは、何としても家族の生活を支えなければという思いだったろう。

Copyright ©2008 by Sou Wada

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