「新聞奨学生物語」第1回。
私は両親がアルツハイマーの家系だ。
還暦間近で、いつ発症してもおかしくない。
父は私の年齢で痴呆が始まっていた。
私は頭がボケないうち、若い頃の自分を書き留めておきたいという気持ちが強くなっている。
また、再婚後の子どもが小学生であり、大人になったときに読んでもらえれば嬉しい。

先日のブログで「日経BP社・日経ビジネスの行く手」と題し、私と日本経済新聞社、日経マグロウヒル社、日経BP社など日経グループとのつながりについて触れた。
私は新聞社の「奨学生制度」にお世話になった一人。
ほかに選択肢がなかったから…。
一言で言えば、とてもつらい経験だった。
しかし、それがその後の職業人生、いや人生の基盤となったことは確かである。
私は20歳のときには食べていく自信を得ていた。
そこで「新聞奨学生物語」と題し、数回に分けて綴りたい。
それほど遠くない将来、紙面の電子化により、新聞配達そのものが消滅する可能性もある。
ささやかな記録にもなろう。

                       ◇

受験生は入試シーズンが迫り、志望校を最終決定しなくてならない。
しかし、世の中は景気が悪化し、所得格差も拡大している。
進学を望む、とくに東京圏の大学や短大、専門学校などへの進学を望むが、家庭の経済事情が許さない。
どうしたものか…。
悩んだ末に、大手新聞社の「奨学生制度」の利用を検討している若い人もいるだろう。
何せ入学金や授業料など学校への納付金を含め、学生時代に親の金銭的な援助を一切受けなくて済む。
毎月の仕送りもいらない。
奨学生制度が魅力的に映るのは確かだ。

私は40年程前、富山県立魚津高校に在籍していた。
父に示された条件は、家から通える富山大学(国立)への進学なら認めるというものだった。
「それなら何とか工面できる」。
だが、私は何が何でも上京すると心に決めていた。
東京へ行きたいのもさることながら、とにかく暗い家に留まるのが辛かった。

私は、高校が徳島、東京、富山の3都県にわたった。
2度の学年途中の転校により教科書がすべて変わり、習っていない箇所があちこちに生じた。
長野・伊那中学校時代は確か「オール5」を取ったこともあり、苦手はなかった。
この頃はぼんやりと「東大(東京大学)」に入るのかなと思っていた。
が、高校では勉強に穴が開いた状態。
当時の家庭環境もあり、それを補う努力をまったくしなかった。
成績が急降下。
父のサラリーマン人生の転落、両親の離婚話については、以前のブログ「離婚話」で述べた。
⇒2008年11月09日「離婚話」はこちら。

とくに数学など順序立てて学習する教科はひどかった。
したがって、入試が5教科となる国立大学の合格は早い段階に諦めていた。
転校のハンディを克服する人もいるわけで、もっぱら私の意欲の問題だ。
実際、高校時代に予復習も受験勉強もしていない。
無気力だった。

私は恐らく朝日新聞社と読売新聞社、日本経済新聞社の奨学生制度の資料を取り寄せた。
そうした制度があることをどこで知ったのか不思議。
私の執念?
たいした内容はないのに、何度も繰り返して読んだ。
そのうえで日本経済新聞社の奨学生制度に決めた。
これも不思議だが、日本経済新聞は見たことも聞いたこともなかった。
私の嗅覚(きゅうかく)?

しかし、そこを選んだ理由を思い出せないくらいなので、16〜24ページくらいのカラーパンフレットの出来とかキャッチフレーズなどの表面的な印象に左右されたのでは…。
保存しておけばよかった。
正確な文言は思い出せないが、私が強く反応したのは2点。
第1に「完全個室」。
個室だけでもしびれるのに、“完全”の2文字にノックアウトされた。
マンション風の小奇麗な一室の写真が添えられていた。
私の空想は膨らんでいき、すぐに自分の部屋になった。

第2に「憧れの東京で、勉強と仕事の両立」。
“憧れの東京”は、私の心にピタッとはまった。
都立墨田川高校時代に、幼稚園や小学校や中学校時代とは異質の恋をした。
都会の中流家庭の多感な女の子。
明るくて優しいが、どことなくけだるく、小悪魔的な雰囲気を漂わせていた。
とてもチャーミング!
新潟、長野、徳島と、田舎育ちの私はとりこになった。
あまりに好きで、オナニーの対象にならなかった。
彼女に思いを打ち明ける前に、別れも告げずに魚津高校へ。
悔いの念をずっと引きずっていた。

“勉強と仕事の両立”はどうでもよかった。
両親が富山大学卒業後のYKK(吉田工業)への就職を含めて地元に留まることを望んでおり、私は大学進学を口実に上京したかっただけ。
そのためには、奨学生制度を利用せざるをえない私立大学が好都合だった。
東京六大学なら、親の面子も立つ。
“勉強と仕事の両立”は、むしろ親に対する説得材料。
インターネットで検索したところ「日本経済新聞育英奨学会(日経育英奨学会)」とある。
当時もそうした名称だったかもしれない。

私はついにパンフレットを見せ、両親を説き伏せた。
1円もかからないのだから、強く反対のしようがない。
私立大学3校を受験した。
高校時代は家で教科書も参考書も開かなかったくらいなので「過去問」は解かなかった。
志望校の下見もしていない。
投げやりだった。
明治大学経営学部と法政大学経済学部は合格。
新潟・直江津小学校、長野・伊那中学校までの成績の貯金で十分に入れた。
数回の模擬試験での判定はずっと安全圏。
私は勉強する気もなかったのに「経営学部」の“経営”の響きに惹かれていた。
当時は神戸大学(国立)を除いて唯一。
この段階でサラリーマン人生は眼中になかったのかもしれない。
東洋紡績による呉羽紡績の吸収合併をきっかけとした父の転落を目の当たりにし、嫌気が差していた。
会社を信用したらお仕舞いだと思っていた(いまだにそう思っている)。

早稲田大学政治経済学部は不合格。
模擬試験での判定は5割を切る辺り。
合格しても不思議はない。
入学試験は得意な問題が多く、上々の出来だった(推測)。
私は合格を疑わなかったが、「サクラチル」の電報。
当時は内申書の成績が重視され、比重は半々(うろ覚え。私立大学は無関係?)。
私は宿題もろくにやらなかったので、内申書がボロボロだった。
第1志望は明治大学経営学部だったが、早稲田大学に受かっていたらそちらを選んだかもしれない。
何といい加減な…。
一番の友人は早稲田大学が不合格、東京大学が合格。
私はやはり早稲田大学を選んだ。

が、悔しさはなく、私はむしろ明治大学でホッとした。
六大学のなかでもっとも勉強がゆるそうだった。
仕事に早く慣れたくて、卒業式を待たずに夜行列車で上京した。
荷物はほとんどなく、身一つ。
3月初旬か前半の寒い深夜、両親は入善駅までついてきた。
私は見送りを断ったと思う。
しかも入場券を買い、乗り場に入った。
家を出てから会話は少なめ。
吐く息は真っ白。

列車が滑り込んできた。
私はデッキ(昇降口)に立った。
母が切なそうに見つめ、声をかけた。
無口な父が、体に気をつけて頑張りなさいと言った。
両親は寂しそうだった。
が、それ以上に私を案じていたのでなかったか。
歳月が流れ、そう思うようになった。
当時は「苦学生」という言葉が生きていた。
両親は、私の行く手に“地獄”が待ち受けていることを分かっていたのだ。

入善町椚山の貧農に長男として生まれた父(大正生まれ)は向学心と成功欲に燃えて大阪に行き、書生暮らしを味わった。
それを母から聞かされたのは、2年後?
あるいは十年後?
大変な苦労だったろう。
父は昔、自分を見送ってくれた母(私の祖母)の光景とダブったのでは…。
父(私の祖父)は早く亡くなり、母が育ててくれた。
しかも大やけどで片手が溶けて団子みたいに縮まり、農作業が厳しかった。
にもかかわらず、跡を取らず、家を飛び出した。
その父を、祖母はいつも案じていたらしい。

私は、入善駅のホームでの両親の表情がいまだに脳裏に焼き付いている。
列車がゆっくりと動き出した・・・。
そのとき、私は親を捨てていくようで、申し訳ない感情が湧いてきた。
この思いは後々まで尾を引いた。
やがて、妹に両親を押し付けたという呵責が加わった。
これが約30年後に両親をこちら(横浜・港北ニュータウン)に呼び寄せることにつながった。

私は、いよいよ新聞販売店に入店し、新聞奨学生としての生活を始める。

続きは、あした。

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