おもに大手新聞社が提供する「新聞奨学生制度」。
経済的な事情などにより進学が困難な大学生、短大生、専門学校生などを支援することが目的だ。
今年も新聞奨学生が新聞販売店・専売所に入店・入所する時期に差しかかった。
皆、重大な決意と覚悟を固め、未知の世界に飛び込んだはずだ。
多くは地方出身者。
不慣れな都会で、はたして仕事と学業の両立は図れるのか。
私は約40年前、日本経済新聞社の「日経育英奨学制度」を利用して上京した。
その経験を踏まえ、曖昧な記憶を辿りながら「新聞奨学生物語」の連載を行っている(途中)。
これまでにこのブログに発表した原稿をまとめて掲載した。
◆親を捨てる口実…新聞奨学生物語(2009年11月29日)
「新聞奨学生物語」第1回。
私は両親がアルツハイマーの家系だ。
還暦間近で、いつ発症してもおかしくない。
父は私の年齢で痴呆が始まっていた。
私は頭がボケないうち、若い頃の自分を書き留めておきたいという気持ちが強くなっている。
また、再婚後の子どもが小学生であり、大人になったときに読んでもらえれば嬉しい。
先日のブログで「日経BP社・日経ビジネスの行く手」と題し、私と日本経済新聞社、日経マグロウヒル社、日経BP社など日経グループとのつながりについて触れた。
私は新聞社の「奨学生制度」にお世話になった一人。
ほかに選択肢がなかったから…。
一言で言えば、とてもつらい経験だった。
しかし、それがその後の職業人生、いや人生の基盤となったことは確かである。
私は20歳のときには食べていく自信を得ていた。
そこで「新聞奨学生物語」と題し、数回に分けて綴りたい。
それほど遠くない将来、紙面の電子化により、新聞配達そのものが消滅する可能性もある。
ささやかな記録にもなろう。
◇
受験生は入試シーズンが迫り、志望校を最終決定しなくてならない。
しかし、世の中は景気が悪化し、所得格差も拡大している。
進学を望む、とくに東京圏の大学や短大、専門学校などへの進学を望むが、家庭の経済事情が許さない。
どうしたものか…。
悩んだ末に、大手新聞社の「奨学生制度」の利用を検討している若い人もいるだろう。
何せ入学金や授業料など学校への納付金を含め、学生時代に親の金銭的な援助を一切受けなくて済む。
毎月の仕送りもいらない。
奨学生制度が魅力的に映るのは確かだ。
私は40年程前、富山県立魚津高校に在籍していた。
父に示された条件は、家から通える富山大学(国立)への進学なら認めるというものだった。
「それなら何とか工面できる」。
だが、私は何が何でも上京すると心に決めていた。
東京へ行きたいのもさることながら、とにかく暗い家に留まるのが辛かった。
私は、高校が徳島、東京、富山の3都県にわたった。
2度の学年途中の転校により教科書がすべて変わり、習っていない箇所があちこちに生じた。
長野・伊那中学校時代は確か「オール5」を取ったこともあり、苦手はなかった。
この頃はぼんやりと「東大(東京大学)」に入るのかなと思っていた。
が、高校では勉強に穴が開いた状態。
当時の家庭環境もあり、それを補う努力をまったくしなかった。
成績が急降下。
父のサラリーマン人生の転落、両親の離婚話については、以前のブログ「離婚話」で述べた。
⇒2008年11月09日「離婚話」はこちら。
とくに数学など順序立てて学習する教科はひどかった。
したがって、入試が5教科となる国立大学の合格は早い段階に諦めていた。
転校のハンディを克服する人もいるわけで、もっぱら私の意欲の問題だ。
実際、高校時代に予復習も受験勉強もしていない。
無気力だった。
私は恐らく朝日新聞社と読売新聞社、日本経済新聞社の奨学生制度の資料を取り寄せた。
そうした制度があることをどこで知ったのか不思議。
私の執念?
たいした内容はないのに、何度も繰り返して読んだ。
そのうえで日本経済新聞社の奨学生制度に決めた。
これも不思議だが、日本経済新聞は見たことも聞いたこともなかった。
私の嗅覚(きゅうかく)?
しかし、そこを選んだ理由を思い出せないくらいなので、16〜24ページくらいのカラーパンフレットの出来とかキャッチフレーズなどの表面的な印象に左右されたのでは…。
保存しておけばよかった。
正確な文言は思い出せないが、私が強く反応したのは2点。
第1に「完全個室」。
個室だけでもしびれるのに、“完全”の2文字にノックアウトされた。
マンション風の小奇麗な一室の写真が添えられていた。
私の空想は膨らんでいき、すぐに自分の部屋になった。
第2に「憧れの東京で、勉強と仕事の両立」。
“憧れの東京”は、私の心にピタッとはまった。
都立墨田川高校時代に、幼稚園や小学校や中学校時代とは異質の恋をした。
都会の中流家庭の多感な女の子。
明るくて優しいが、どことなくけだるく、小悪魔的な雰囲気を漂わせていた。
とてもチャーミング!
新潟、長野、徳島と、田舎育ちの私はとりこになった。
あまりに好きで、オナニーの対象にならなかった。
彼女に思いを打ち明ける前に、別れも告げずに魚津高校へ。
悔いの念をずっと引きずっていた。
“勉強と仕事の両立”はどうでもよかった。
両親が富山大学卒業後のYKK(吉田工業)への就職を含めて地元に留まることを望んでおり、私は大学進学を口実に上京したかっただけ。
そのためには、奨学生制度を利用せざるをえない私立大学が好都合だった。
東京六大学なら、親の面子も立つ。
“勉強と仕事の両立”は、むしろ親に対する説得材料。
インターネットで検索したところ「日本経済新聞育英奨学会(日経育英奨学会)」とある。
当時もそうした名称だったかもしれない。
私はついにパンフレットを見せ、両親を説き伏せた。
1円もかからないのだから、強く反対のしようがない。
私立大学3校を受験した。
高校時代は家で教科書も参考書も開かなかったくらいなので「過去問」は解かなかった。
志望校の下見もしていない。
投げやりだった。
明治大学経営学部と法政大学経済学部は合格。
新潟・直江津小学校、長野・伊那中学校までの成績の貯金で十分に入れた。
数回の模擬試験での判定はずっと安全圏。
私は勉強する気もなかったのに「経営学部」の“経営”の響きに惹かれていた。
当時は神戸大学(国立)を除いて唯一。
この段階でサラリーマン人生は眼中になかったのかもしれない。
東洋紡績による呉羽紡績の吸収合併をきっかけとした父の転落を目の当たりにし、嫌気が差していた。
会社を信用したらお仕舞いだと思っていた(いまだにそう思っている)。
早稲田大学政治経済学部は不合格。
模擬試験での判定は5割を切る辺り。
合格しても不思議はない。
入学試験は得意な問題が多く、上々の出来だった(推測)。
私は合格を疑わなかったが、「サクラチル」の電報。
当時は内申書の成績が重視され、比重は半々(うろ覚え。私立大学は無関係?)。
私は宿題もろくにやらなかったので、内申書がボロボロだった。
第1志望は明治大学経営学部だったが、早稲田大学に受かっていたらそちらを選んだかもしれない。
何といい加減な…。
一番の友人は早稲田大学が不合格、東京大学が合格。
私はやはり早稲田大学を選んだ。
が、悔しさはなく、私はむしろ明治大学でホッとした。
六大学のなかでもっとも勉強がゆるそうだった。
仕事に早く慣れたくて、卒業式を待たずに夜行列車で上京した。
荷物はほとんどなく、身一つ。
3月初旬か前半の寒い深夜、両親は入善駅までついてきた。
私は見送りを断ったと思う。
しかも入場券を買い、乗り場に入った。
家を出てから会話は少なめ。
吐く息は真っ白。
列車が滑り込んできた。
私はデッキ(昇降口)に立った。
母が切なそうに見つめ、声をかけた。
無口な父が、体に気をつけて頑張りなさいと言った。
両親は寂しそうだった。
が、それ以上に私を案じていたのでなかったか。
歳月が流れ、そう思うようになった。
当時は「苦学生」という言葉が生きていた。
両親は、私の行く手に“地獄”が待ち受けていることを分かっていたのだ。
入善町椚山の貧農に長男として生まれた父(大正生まれ)は向学心と成功欲に燃えて大阪に行き、書生暮らしを味わった。
それを母から聞かされたのは、2年後?
あるいは十年後?
大変な苦労だったろう。
父は昔、自分を見送ってくれた母(私の祖母)の光景とダブったのでは…。
父(私の祖父)は早く亡くなり、母が育ててくれた。
しかも大やけどで片手が溶けて団子みたいに縮まり、農作業が厳しかった。
にもかかわらず、跡を取らず、家を飛び出した。
その父を、祖母はいつも案じていたらしい。
私は、入善駅のホームでの両親の表情がいまだに脳裏に焼き付いている。
列車がゆっくりと動き出した・・・。
そのとき、私は親を捨てていくようで、申し訳ない感情が湧いてきた。
この思いは後々まで尾を引いた。
やがて、妹に両親を押し付けたという呵責が加わった。
これが約30年後に両親をこちら(横浜・港北ニュータウン)に呼び寄せることにつながった。
私は、いよいよ新聞販売店に入店し、新聞奨学生としての生活を始める。
◆奨学金の今と昔…新聞奨学生物語(2009年11月30日)
「新聞奨学生物語」第2回。
高校卒業後すぐに働いて家庭にカネを入れなければならない人は別として、親にカネがないという理由で大学進学を諦めなくてよい。
昔もそうだったが、今はなおさらだ。
私は大学進学が40年程前であり、当時は奨学生制度が貧弱だった。
「日本育英会(現在は日本学生支援機構)」のほかは地方自治体が細々と学生の経済支援を行っていたくらい。
月額は小さく、学業を続けていくには不足がかなり生じた。
しかも、成績がそれなりに優秀でないと、奨学金を受けられなかった。
しかし、現在は有利子(低利率)のものを含めると、希望者はだいたい奨学金を受けられる。
月額は幅が広く、学生の成績や経済状況、通学形態などで上限が大きくなる。
後は入学手続きに必要なカネを手当てすれば、大学進学を叶えられる。
当時との最大の違いは、この“一時金”を用立てる教育ローンが整ったこと。
上限は5百万円程。
大学生でも入学金と4年間の授業料など、学校納付金をすべて賄える。
ただし、教育ローンはもちろん奨学金も“借金”である。
学生は卒業後、長期にわたり返済を行わなければならず、それへの覚悟を欠かせない。
ちなみに、私の前妻は東京女子大学を日本育英会の奨学金に助けられながら卒業した。
がんを患い、完済直後に他界した。
どこまでも律儀な性格だった。
返還義務は重く、学ぶ意欲がないのに奨学金などに頼って大学へ入ってしまうと後悔するのでは…。
私は高校時代の通知表がひどかった。
申し込んだとしても、奨学金は貸与されなかったろう。
また、仮にそれが通ったとしても、入学時の一時金、それ以降の授業料などを準備できなかった。
家が貧しい。
どうにもならない状態なので、あれこれ悩みようがない。
私は東京の私立大学への進学を諦める気はなかった(本音は東京での暮らし)。
考えるまでもなく、結論は「独力」。
選択肢はなく、大手新聞社の「奨学生制度」を利用した。
◇
私は明治大学経営学部に合格すると、富山県立魚津高校の卒業式を待たずに上京した。
新聞奨学生としての第一歩を早く踏み出したかった。
奨学会が学校納付金を全額負担してくれる。
勤めあげれば返済は不要であり、私はむろん4年間を覚悟していた。
また、新聞販売店が住居と食事(1日2食)を提供してくれる。
何も持たなくても、最低限の生活は困らない。
非常にありがたい制度だった。
私は寒さが残る3月初旬か前半、わずかなカネと普段着をカバンに詰め込んで東京にやってきた。
余談だが、旅費も出してもらったかもしれない。
そして、千代田区大手町の「日本経済新聞育英奨学会(日経育英奨学会)」に行った。
以下は、曖昧な記憶に基づいて記す。
日経新聞育英会のドアを入ると、カウンターを挟んでスーツを着た職員と、こわばった面持ちの学生1〜2人が向かい合っていた。
私が職員から待つように指示された後方の椅子に、ジャンパーなどを着た中年2〜3人が座っていた。
人相がよくない。
知的な雰囲気がまるでないので、新聞社の社員でないことは分かった。
すぐに私の順番になった。
書類は事前に郵送で提出していたのでないか。
なぜなら、その場で学校納付金を手にした記憶がない。
大金ゆえに忘れないはず。
すでに金銭処理は終わっていた?
だれが日経育英奨学会から学校納付金を受け取り、明治大学の入学手続きを行ってくれたのだろう。
前者は、本人以外は認められないのでは…。
親に尋ねたくても母は亡くなり、父はボケた。
キツネにつままれたよう。
私がその日に日経育英奨学会を訪ねたのは、入店先を決めるためだった。
だとすれば、私は2回目になるが…。
でも、初めてだったのは間違いない。
謎が残る。
悲しいほど、あやふや。
私は、確かその場でのやり取りがほどんどなかった。
職員は後方の椅子に座る中年の一人に「連れて行きますか」と声をかけた。
「明治大学の学生」と添えたかも…。
それに対し、中年男は無言でうなずいた。
私の配属が決定した瞬間である。
「日本経済新聞高円寺専売所」。
胡散臭く感じたのは、新聞販売店の所長たちだった。
挨拶もなく、「行こう」。
私はこれじゃ人買いだと思った。
所長はコロンとした体型。
背が低く、腹回りが出ていた。
そのわりにとっとと歩くので、私はついていくのが精一杯だった。
太くて短い首は、やけに赤黒かった。
新聞配達の日焼けか、それとも酒焼けか、気になって仕方がなかった。
私は、千代田区大手町の日経から杉並区高円寺南の専売所まで地下鉄丸ノ内線で行ったのだろうか。
その交通手段を覚えていない。
途中は沈黙が続いた?
所長はムスっとした表情。
話し方がぶっきら棒で、口数が少ない。
悲壮な決意で上京した私をリラックスさせるどころか緊張させた。
後日、先輩によれば、所長は最初のうちはだれにもそうした態度を取るとのこと。
新聞販売店には奨学生だけでなく専業も入ってくる。
そこに一癖も二癖もある輩が紛れ込む。
学生にも猛者がいる。
従業員になめられたら、新聞販売店の所長は務まらないのだそうだ。
なお、人は結構、どうでもよいことを覚えていたりする。
私は国電東京駅から日本経済新聞社へ向かいながら、日本最大のビジネス街、大手町のビル群を見あげて血が騒いだ。
活躍の舞台に対する憧れだったろう。
しかし、キョロキョロしてはまずいと戒めた。
周りはエリートばかり。
かたや私はやせ細り小汚い野良犬である。
みすぼらしい自分の姿が心に浮かんできた。
また、私は専売所の所長に荷受けされ、奨学会の部屋を出てエレベータで1階へ。
途中階で日本経済新聞社の社員がどんどん乗り込んできた。
そして、遠慮ない視線を注いだ。
私は癪に障り、睨み付けた。
見世物じゃない!
◆いざ新聞配達!…新聞奨学生物語(2009年12月1日)
「新聞奨学生物語」第3回。
私は、日経育英奨学会で無愛想な所長に引き取られ、「日本経済新聞高円寺専売所」に入店した。
所在地は杉並区高円寺南1丁目。
中野区と杉並区の境界辺り、大久保通り沿いに立地する4階建てビル。
新築後それほど年月が経っていないのでは…。
最寄り駅は国電中央線「中野駅」、徒歩で8分程。
隣の「高円寺駅」、12分程。
私は高円寺駅に出たことがない。
地下鉄丸ノ内線「東高円寺駅」、5分程。
なお、高円寺専売所はいわゆる「新聞販売店」。
とはいえ、おもな業務は販売でなく配達である。
長らく新聞の宅配制度を支えてきた。
また、「専売所(専売店)」とは、1社の新聞しか扱わないという意味。
かならずしも1紙でない。
私が日経高円寺専売所で配ったのは「日本経済新聞」。
日本経済新聞社(本社)が配達請負の契約でも結んでいたのか、ほかにスポーツ紙1紙と業界紙数紙。
こちらは、合計10部に届かなかった。
やがて「日経流通新聞(現在は日経MJ)」が創刊された。
週3回の発行で、こちらも負担になる部数でなかった。
「併売店」は2社以上の新聞を扱う。
東京地区の繁華街やオフィス街、開けた住宅街は、大手新聞社については「専売所」が中心だろう。
しかし、昨今では「専売所」という言葉が消え、カタカナの名称に置き換えられた。
それにともない、「専売」「併売」の区分けもぼやけてきているのかもしれない。
新聞社は実売部数が落ち込めば、配達についても思い切った合理化を推し進めなくてなるまい。
将来、電子化の流れが加速すると、全紙を扱う新聞販売店が登場するのでなかろうか?
◇
私は専売所に到着し、所長から大雑把な説明を受けた。
日経育英奨学会のパンフレットに担当業務は記されていたが、いささか乱暴だった。
まあ、単純な肉体労働だから…。
私はすぐに「新聞配達」に携わった。
それが翌日の朝だったか、翌々日の朝だったか記憶がない。
配達時の運動靴や汗拭きタオル、自室で茶を飲むための湯沸かし(ポット)など雑貨は欲しいはずで、その買い物に中野駅方面に出かけたのでないか。
1日の猶予が与えられた?
最初、私が先輩(前任者)につく。
互いに自転車。
新聞を積むのも配るのも先輩。
冷え込みの厳しい日の朝刊だったことを覚えている。
1軒目の塀の投函口がありありと目に浮かぶ。
その部分だけを忘れない。
もちろん、辺りは真っ暗。
私は、実際の道筋と配達先を「順路帳」に記されたそれと照らし合わせる。
街灯や玄関の明かりが頼り。
しばらくして空が少しずつ白んできた。
このときは先輩に遅れないようにするのが精一杯で、順路帳はまともに見られなかった。
夕刊は明るいので、順路帳を見やすく、周囲の光景などを覚えやすかった。
朝刊と夕刊では人通りがまったく違う。
徐々に新聞を積むのも配るのも私。
最後、先輩が黙って私につく。
多くの配達先を覚えられるか不安に感じる人がいるかもしれない。
しかし、「順路記号」はきわめてシンプルでありながら、とてもよく考えられている。
私は4〜5日間かかった(不確か)。
早いといえないが、とくに遅くもない。
皆がこれくらいの日数で覚えるらしい。
私は方向音痴だが、新聞配達に影響はない。
記憶力の良し悪しもあまり関係がない。
ベテランだと、1日どころか朝刊か夕刊のいずれかにつくと大丈夫。
配達に不可欠の情報は順路帳に記されているからだ。
なお、前任者のつくったそれに自分なりのワンコメントなどを添えると完璧だろう。
先輩は入店し、一人で配達するようになったばかりで退店した。
理由は聞かされなかったし、聞かなかった。
だから、本人に余裕がなく、指導される側は大変だった。
私が覚えたら即座に辞めるとプレッシャーをかけられた。
気性の激しい人だったが、幾度か軽く叱られたくらい。
新聞販売店で働く人はだいたいが穏やかで優しい。
そうでない人もそうなってしまうようだ。
私は初めて一人で配ったとき、3時間半はかかった?
ふらふらになって専売所に戻ってきた。
所長と奥さんが温かく出迎えてくれた。
皆は朝食が済んでおり、一人で食べた。
そのときの味噌汁のおいしさは忘れられない。
大げさと笑われそうだが、感動!
後日、仲間に尋ねたら、全員がそうだった。
私は自室に戻り、ベッドに横たわった。
そして、ささやかな充実感を味わった。
同時に、これが毎日続くのかとも思った。
4年間。
いまは大学が始まっていないから苦にならない。
社会人として仕事をやっているにすぎない。
まもなく学生を兼ねることになる。
しかも、そちらがあくまで「主」。
う〜ん。
それと、生活のリズムをつくっていくのは容易でないと感じた。
実際に引き返せないし、また新聞奨学生になったことに後悔の念はこれっぽっちも持たなかった。
私にとり第一の目的は「上京」。
それがこうして叶ったわけだから…。
しかし、前途は多難だ。
◆チラシ折り込み…新聞奨学生物語(2009年12月2日)
「新聞奨学生物語」第4回。
新聞奨学生は苦労が大きい。
中途半端な覚悟でやり通せるものでない。
私の頃は文字どおり“地獄”だった。
今の奨学生に叱られるかもしれないが、昔の奨学生は肉体的にも精神的にも数倍は過酷だったと思う。
家庭の経済事情から新聞奨学生制度を利用し、大学や短大、専門学校などへの進学に踏み切ろうとする高校生は少なくない。
私は向学心に燃えて頑張る人を尊敬するし、応援したい。
そこで、40年程前の実情や実態を紹介しながら、奨学生が経験するであろう業務や環境などについて述べてみたい。
ただし、私は現在の状況や様子を正確に把握しているわけでない。
【折り込み】
別刷(本紙以外)とチラシがあるときには、配る前に朝刊に折り込まなくてならない。
真面目な奨学生は、その分早めに起きていた。
私は、偉いなぁと感心したものだ。
当時はすべて手作業。
日本経済新聞はチラシがないのが普通だった。
現在もそれほど多くない(ただし、併売店では一般紙のチラシが日本経済新聞にも割り当てられることがある)。
日本経済新聞ではチラシよりも別刷のほうに時間を奪われた。
週に1〜2回だった(うろ覚え)。
別刷はおもに8〜16ページだが、折り込む手間はチラシ1枚分とそれほど変わらない。
あっという間に片づけられる。
ごくまれにチラシが多いことがあり、いやになった。
それでも数枚止まり。
あ、夕刊にチラシが入ることは例外で、まずない。
東京圏では朝日新聞や読売新聞などの全国紙にチラシが膨大に入る(他地域は不明)。
数枚以上、金・土・日曜日、祝日には優に十枚以上。
現在は平日でも十枚を超えたりする。
それ以外の日は30〜50枚に達したりする。
昔も今も一般紙はチラシが多い。
当時はこれを手作業で折り込んでいた(一部の先進的な専売所では機械作業だった可能性がある)。
私の推測にすぎないが、新聞配達より時間がかかった。
ゆえに、前日の夕食後にチラシのなかにチラシを折り込んでおく。
ならば、朝刊にチラシセットを折り込むだけなので、あっという間。
ただし、チラシは折り込み手当てがついた。
新聞販売店がスポンサーから折り込み料を受け取っているのだから当然である。
そうでなくては、奨学生はやっていられない。
新聞を配っているうちに一般紙の奨学生と顔見知りになり、会話を交わす機会が増えてきた。
折り込み手当てがかなりの金額にのぼり、給料のとてもよい専売所があった。
かたや、雀の涙ほどの金額しかもらえない専売所があった。
しかし、不満が募ったとしても、大学の入学金や授業料などの“一時金”を負担してもらった奨学生は、他の専売所や新聞社へ移ることができない。
なぜなら、途中で退店する場合には、勤続年数に応じた一定の割合の金額を一括で返還しなくてならない。
要は、やめられないような制度設計がなされている。
チラシの多寡により奨学生の生活が変わってくる。
手当てが大事か、時間が大事か。
勉強を重視すれば後者だ。
私は呑気に過ごすために後者が欲しかった。
日経の専売所で働いていた私はチラシの苦労をほとんど知らない。
それと、チラシは良質な紙を用いているものも少なくない。
30〜50枚に及ぶと、新聞をポストに投函する際に新聞を折り曲げるのも苦労でないか。
それ以前に、新聞がかなり重くなる。
現在、問題は自分が配属される新聞販売店が手作業か機械作業かだろう。
後者だとチラシが何枚あろうと、折り込みはなし(チラシセットを新聞に折り込むのは奨学生か)。
ゆえに、折り込み手当ては見込めない。
ただし、折り込みが機械作業だとして、だれかがついていなくてならない(恐らく)。
奨学生が行うのか、それとも専業が担うのか。
なお、チラシの少ない日経の専売所では機械を置いていないかもしれない。
大手新聞社の奨学生制度を通じて専売所に入店した奨学生は、奨学会が約束した労働条件や待遇はおおよそ順守される。
当時もそれなりだったが、現在はさらに…。
しかし、零細な新聞販売店のなかには労働条件や待遇が悪いところがあるはず。
昔、奨学生が折り込み手当てがつかないと嘆いていた。
新聞販売店の経営状態、そして所長(経営者)のモラルにより奨学生の運不運が決まったりする。
これは会社にも通じよう。
◆直江津のマイミク…新聞奨学生物語(2009年12月2日)
マイミクの「げらっち」氏。
私の生まれ故郷・新潟県直江津市(現上越市)に暮らす。
「げら」はあの辺りの方言で、「〜したらしい」。
きのうのブログ「いざ新聞配達!…新聞奨学生物語」にメッセージを寄せてくださった。
本人の許可を得られたので、以下に転載する。
ブログの更新、お疲れさまです。
最新のブログ、新聞奨学生の記事は、とても身につまされました。
私の同級生にもおり、これまでに何度も話を聞かされてきました。
昔は国全体がそれほど裕福でなく、そのために進学を諦めたり、働きながら学校に通ったりという話はそこらじゅうにありましたね。
私も決して裕福でない家庭にありながら、親が苦労して大学を出させてくれたことを感謝しております。
カネもモノもない時代の苦労を思えば、いまの不況や円高なども気構えで乗り越えていける力を、我々日本人は持っているのではないでしょうか。
以上。
メッセージ、まことにありがとうございます。
私は「新聞奨学生」と「新聞配達」について、自分の体験を土台にブログを書いている。
若い頃の生活を振り返ることのほかに、もう一つ社会的な意味がある。
実は、新聞の「宅配制度」はそれほど長く続かないだろうと考えている。
それを記録に残しておきたい。
※文字数がブログの規定をオーバーし、2つに分割して掲載せざるをえなかった。
「地獄の新聞奨学生制度へようこそ2」は夕方にアップする。
Copyright (c)2010 by Sou Wada
←応援、よろしく!
経済的な事情などにより進学が困難な大学生、短大生、専門学校生などを支援することが目的だ。
今年も新聞奨学生が新聞販売店・専売所に入店・入所する時期に差しかかった。
皆、重大な決意と覚悟を固め、未知の世界に飛び込んだはずだ。
多くは地方出身者。
不慣れな都会で、はたして仕事と学業の両立は図れるのか。
私は約40年前、日本経済新聞社の「日経育英奨学制度」を利用して上京した。
その経験を踏まえ、曖昧な記憶を辿りながら「新聞奨学生物語」の連載を行っている(途中)。
これまでにこのブログに発表した原稿をまとめて掲載した。
◆親を捨てる口実…新聞奨学生物語(2009年11月29日)
「新聞奨学生物語」第1回。
私は両親がアルツハイマーの家系だ。
還暦間近で、いつ発症してもおかしくない。
父は私の年齢で痴呆が始まっていた。
私は頭がボケないうち、若い頃の自分を書き留めておきたいという気持ちが強くなっている。
また、再婚後の子どもが小学生であり、大人になったときに読んでもらえれば嬉しい。
先日のブログで「日経BP社・日経ビジネスの行く手」と題し、私と日本経済新聞社、日経マグロウヒル社、日経BP社など日経グループとのつながりについて触れた。
私は新聞社の「奨学生制度」にお世話になった一人。
ほかに選択肢がなかったから…。
一言で言えば、とてもつらい経験だった。
しかし、それがその後の職業人生、いや人生の基盤となったことは確かである。
私は20歳のときには食べていく自信を得ていた。
そこで「新聞奨学生物語」と題し、数回に分けて綴りたい。
それほど遠くない将来、紙面の電子化により、新聞配達そのものが消滅する可能性もある。
ささやかな記録にもなろう。
◇
受験生は入試シーズンが迫り、志望校を最終決定しなくてならない。
しかし、世の中は景気が悪化し、所得格差も拡大している。
進学を望む、とくに東京圏の大学や短大、専門学校などへの進学を望むが、家庭の経済事情が許さない。
どうしたものか…。
悩んだ末に、大手新聞社の「奨学生制度」の利用を検討している若い人もいるだろう。
何せ入学金や授業料など学校への納付金を含め、学生時代に親の金銭的な援助を一切受けなくて済む。
毎月の仕送りもいらない。
奨学生制度が魅力的に映るのは確かだ。
私は40年程前、富山県立魚津高校に在籍していた。
父に示された条件は、家から通える富山大学(国立)への進学なら認めるというものだった。
「それなら何とか工面できる」。
だが、私は何が何でも上京すると心に決めていた。
東京へ行きたいのもさることながら、とにかく暗い家に留まるのが辛かった。
私は、高校が徳島、東京、富山の3都県にわたった。
2度の学年途中の転校により教科書がすべて変わり、習っていない箇所があちこちに生じた。
長野・伊那中学校時代は確か「オール5」を取ったこともあり、苦手はなかった。
この頃はぼんやりと「東大(東京大学)」に入るのかなと思っていた。
が、高校では勉強に穴が開いた状態。
当時の家庭環境もあり、それを補う努力をまったくしなかった。
成績が急降下。
父のサラリーマン人生の転落、両親の離婚話については、以前のブログ「離婚話」で述べた。
⇒2008年11月09日「離婚話」はこちら。
とくに数学など順序立てて学習する教科はひどかった。
したがって、入試が5教科となる国立大学の合格は早い段階に諦めていた。
転校のハンディを克服する人もいるわけで、もっぱら私の意欲の問題だ。
実際、高校時代に予復習も受験勉強もしていない。
無気力だった。
私は恐らく朝日新聞社と読売新聞社、日本経済新聞社の奨学生制度の資料を取り寄せた。
そうした制度があることをどこで知ったのか不思議。
私の執念?
たいした内容はないのに、何度も繰り返して読んだ。
そのうえで日本経済新聞社の奨学生制度に決めた。
これも不思議だが、日本経済新聞は見たことも聞いたこともなかった。
私の嗅覚(きゅうかく)?
しかし、そこを選んだ理由を思い出せないくらいなので、16〜24ページくらいのカラーパンフレットの出来とかキャッチフレーズなどの表面的な印象に左右されたのでは…。
保存しておけばよかった。
正確な文言は思い出せないが、私が強く反応したのは2点。
第1に「完全個室」。
個室だけでもしびれるのに、“完全”の2文字にノックアウトされた。
マンション風の小奇麗な一室の写真が添えられていた。
私の空想は膨らんでいき、すぐに自分の部屋になった。
第2に「憧れの東京で、勉強と仕事の両立」。
“憧れの東京”は、私の心にピタッとはまった。
都立墨田川高校時代に、幼稚園や小学校や中学校時代とは異質の恋をした。
都会の中流家庭の多感な女の子。
明るくて優しいが、どことなくけだるく、小悪魔的な雰囲気を漂わせていた。
とてもチャーミング!
新潟、長野、徳島と、田舎育ちの私はとりこになった。
あまりに好きで、オナニーの対象にならなかった。
彼女に思いを打ち明ける前に、別れも告げずに魚津高校へ。
悔いの念をずっと引きずっていた。
“勉強と仕事の両立”はどうでもよかった。
両親が富山大学卒業後のYKK(吉田工業)への就職を含めて地元に留まることを望んでおり、私は大学進学を口実に上京したかっただけ。
そのためには、奨学生制度を利用せざるをえない私立大学が好都合だった。
東京六大学なら、親の面子も立つ。
“勉強と仕事の両立”は、むしろ親に対する説得材料。
インターネットで検索したところ「日本経済新聞育英奨学会(日経育英奨学会)」とある。
当時もそうした名称だったかもしれない。
私はついにパンフレットを見せ、両親を説き伏せた。
1円もかからないのだから、強く反対のしようがない。
私立大学3校を受験した。
高校時代は家で教科書も参考書も開かなかったくらいなので「過去問」は解かなかった。
志望校の下見もしていない。
投げやりだった。
明治大学経営学部と法政大学経済学部は合格。
新潟・直江津小学校、長野・伊那中学校までの成績の貯金で十分に入れた。
数回の模擬試験での判定はずっと安全圏。
私は勉強する気もなかったのに「経営学部」の“経営”の響きに惹かれていた。
当時は神戸大学(国立)を除いて唯一。
この段階でサラリーマン人生は眼中になかったのかもしれない。
東洋紡績による呉羽紡績の吸収合併をきっかけとした父の転落を目の当たりにし、嫌気が差していた。
会社を信用したらお仕舞いだと思っていた(いまだにそう思っている)。
早稲田大学政治経済学部は不合格。
模擬試験での判定は5割を切る辺り。
合格しても不思議はない。
入学試験は得意な問題が多く、上々の出来だった(推測)。
私は合格を疑わなかったが、「サクラチル」の電報。
当時は内申書の成績が重視され、比重は半々(うろ覚え。私立大学は無関係?)。
私は宿題もろくにやらなかったので、内申書がボロボロだった。
第1志望は明治大学経営学部だったが、早稲田大学に受かっていたらそちらを選んだかもしれない。
何といい加減な…。
一番の友人は早稲田大学が不合格、東京大学が合格。
私はやはり早稲田大学を選んだ。
が、悔しさはなく、私はむしろ明治大学でホッとした。
六大学のなかでもっとも勉強がゆるそうだった。
仕事に早く慣れたくて、卒業式を待たずに夜行列車で上京した。
荷物はほとんどなく、身一つ。
3月初旬か前半の寒い深夜、両親は入善駅までついてきた。
私は見送りを断ったと思う。
しかも入場券を買い、乗り場に入った。
家を出てから会話は少なめ。
吐く息は真っ白。
列車が滑り込んできた。
私はデッキ(昇降口)に立った。
母が切なそうに見つめ、声をかけた。
無口な父が、体に気をつけて頑張りなさいと言った。
両親は寂しそうだった。
が、それ以上に私を案じていたのでなかったか。
歳月が流れ、そう思うようになった。
当時は「苦学生」という言葉が生きていた。
両親は、私の行く手に“地獄”が待ち受けていることを分かっていたのだ。
入善町椚山の貧農に長男として生まれた父(大正生まれ)は向学心と成功欲に燃えて大阪に行き、書生暮らしを味わった。
それを母から聞かされたのは、2年後?
あるいは十年後?
大変な苦労だったろう。
父は昔、自分を見送ってくれた母(私の祖母)の光景とダブったのでは…。
父(私の祖父)は早く亡くなり、母が育ててくれた。
しかも大やけどで片手が溶けて団子みたいに縮まり、農作業が厳しかった。
にもかかわらず、跡を取らず、家を飛び出した。
その父を、祖母はいつも案じていたらしい。
私は、入善駅のホームでの両親の表情がいまだに脳裏に焼き付いている。
列車がゆっくりと動き出した・・・。
そのとき、私は親を捨てていくようで、申し訳ない感情が湧いてきた。
この思いは後々まで尾を引いた。
やがて、妹に両親を押し付けたという呵責が加わった。
これが約30年後に両親をこちら(横浜・港北ニュータウン)に呼び寄せることにつながった。
私は、いよいよ新聞販売店に入店し、新聞奨学生としての生活を始める。
◆奨学金の今と昔…新聞奨学生物語(2009年11月30日)
「新聞奨学生物語」第2回。
高校卒業後すぐに働いて家庭にカネを入れなければならない人は別として、親にカネがないという理由で大学進学を諦めなくてよい。
昔もそうだったが、今はなおさらだ。
私は大学進学が40年程前であり、当時は奨学生制度が貧弱だった。
「日本育英会(現在は日本学生支援機構)」のほかは地方自治体が細々と学生の経済支援を行っていたくらい。
月額は小さく、学業を続けていくには不足がかなり生じた。
しかも、成績がそれなりに優秀でないと、奨学金を受けられなかった。
しかし、現在は有利子(低利率)のものを含めると、希望者はだいたい奨学金を受けられる。
月額は幅が広く、学生の成績や経済状況、通学形態などで上限が大きくなる。
後は入学手続きに必要なカネを手当てすれば、大学進学を叶えられる。
当時との最大の違いは、この“一時金”を用立てる教育ローンが整ったこと。
上限は5百万円程。
大学生でも入学金と4年間の授業料など、学校納付金をすべて賄える。
ただし、教育ローンはもちろん奨学金も“借金”である。
学生は卒業後、長期にわたり返済を行わなければならず、それへの覚悟を欠かせない。
ちなみに、私の前妻は東京女子大学を日本育英会の奨学金に助けられながら卒業した。
がんを患い、完済直後に他界した。
どこまでも律儀な性格だった。
返還義務は重く、学ぶ意欲がないのに奨学金などに頼って大学へ入ってしまうと後悔するのでは…。
私は高校時代の通知表がひどかった。
申し込んだとしても、奨学金は貸与されなかったろう。
また、仮にそれが通ったとしても、入学時の一時金、それ以降の授業料などを準備できなかった。
家が貧しい。
どうにもならない状態なので、あれこれ悩みようがない。
私は東京の私立大学への進学を諦める気はなかった(本音は東京での暮らし)。
考えるまでもなく、結論は「独力」。
選択肢はなく、大手新聞社の「奨学生制度」を利用した。
◇
私は明治大学経営学部に合格すると、富山県立魚津高校の卒業式を待たずに上京した。
新聞奨学生としての第一歩を早く踏み出したかった。
奨学会が学校納付金を全額負担してくれる。
勤めあげれば返済は不要であり、私はむろん4年間を覚悟していた。
また、新聞販売店が住居と食事(1日2食)を提供してくれる。
何も持たなくても、最低限の生活は困らない。
非常にありがたい制度だった。
私は寒さが残る3月初旬か前半、わずかなカネと普段着をカバンに詰め込んで東京にやってきた。
余談だが、旅費も出してもらったかもしれない。
そして、千代田区大手町の「日本経済新聞育英奨学会(日経育英奨学会)」に行った。
以下は、曖昧な記憶に基づいて記す。
日経新聞育英会のドアを入ると、カウンターを挟んでスーツを着た職員と、こわばった面持ちの学生1〜2人が向かい合っていた。
私が職員から待つように指示された後方の椅子に、ジャンパーなどを着た中年2〜3人が座っていた。
人相がよくない。
知的な雰囲気がまるでないので、新聞社の社員でないことは分かった。
すぐに私の順番になった。
書類は事前に郵送で提出していたのでないか。
なぜなら、その場で学校納付金を手にした記憶がない。
大金ゆえに忘れないはず。
すでに金銭処理は終わっていた?
だれが日経育英奨学会から学校納付金を受け取り、明治大学の入学手続きを行ってくれたのだろう。
前者は、本人以外は認められないのでは…。
親に尋ねたくても母は亡くなり、父はボケた。
キツネにつままれたよう。
私がその日に日経育英奨学会を訪ねたのは、入店先を決めるためだった。
だとすれば、私は2回目になるが…。
でも、初めてだったのは間違いない。
謎が残る。
悲しいほど、あやふや。
私は、確かその場でのやり取りがほどんどなかった。
職員は後方の椅子に座る中年の一人に「連れて行きますか」と声をかけた。
「明治大学の学生」と添えたかも…。
それに対し、中年男は無言でうなずいた。
私の配属が決定した瞬間である。
「日本経済新聞高円寺専売所」。
胡散臭く感じたのは、新聞販売店の所長たちだった。
挨拶もなく、「行こう」。
私はこれじゃ人買いだと思った。
所長はコロンとした体型。
背が低く、腹回りが出ていた。
そのわりにとっとと歩くので、私はついていくのが精一杯だった。
太くて短い首は、やけに赤黒かった。
新聞配達の日焼けか、それとも酒焼けか、気になって仕方がなかった。
私は、千代田区大手町の日経から杉並区高円寺南の専売所まで地下鉄丸ノ内線で行ったのだろうか。
その交通手段を覚えていない。
途中は沈黙が続いた?
所長はムスっとした表情。
話し方がぶっきら棒で、口数が少ない。
悲壮な決意で上京した私をリラックスさせるどころか緊張させた。
後日、先輩によれば、所長は最初のうちはだれにもそうした態度を取るとのこと。
新聞販売店には奨学生だけでなく専業も入ってくる。
そこに一癖も二癖もある輩が紛れ込む。
学生にも猛者がいる。
従業員になめられたら、新聞販売店の所長は務まらないのだそうだ。
なお、人は結構、どうでもよいことを覚えていたりする。
私は国電東京駅から日本経済新聞社へ向かいながら、日本最大のビジネス街、大手町のビル群を見あげて血が騒いだ。
活躍の舞台に対する憧れだったろう。
しかし、キョロキョロしてはまずいと戒めた。
周りはエリートばかり。
かたや私はやせ細り小汚い野良犬である。
みすぼらしい自分の姿が心に浮かんできた。
また、私は専売所の所長に荷受けされ、奨学会の部屋を出てエレベータで1階へ。
途中階で日本経済新聞社の社員がどんどん乗り込んできた。
そして、遠慮ない視線を注いだ。
私は癪に障り、睨み付けた。
見世物じゃない!
◆いざ新聞配達!…新聞奨学生物語(2009年12月1日)
「新聞奨学生物語」第3回。
私は、日経育英奨学会で無愛想な所長に引き取られ、「日本経済新聞高円寺専売所」に入店した。
所在地は杉並区高円寺南1丁目。
中野区と杉並区の境界辺り、大久保通り沿いに立地する4階建てビル。
新築後それほど年月が経っていないのでは…。
最寄り駅は国電中央線「中野駅」、徒歩で8分程。
隣の「高円寺駅」、12分程。
私は高円寺駅に出たことがない。
地下鉄丸ノ内線「東高円寺駅」、5分程。
なお、高円寺専売所はいわゆる「新聞販売店」。
とはいえ、おもな業務は販売でなく配達である。
長らく新聞の宅配制度を支えてきた。
また、「専売所(専売店)」とは、1社の新聞しか扱わないという意味。
かならずしも1紙でない。
私が日経高円寺専売所で配ったのは「日本経済新聞」。
日本経済新聞社(本社)が配達請負の契約でも結んでいたのか、ほかにスポーツ紙1紙と業界紙数紙。
こちらは、合計10部に届かなかった。
やがて「日経流通新聞(現在は日経MJ)」が創刊された。
週3回の発行で、こちらも負担になる部数でなかった。
「併売店」は2社以上の新聞を扱う。
東京地区の繁華街やオフィス街、開けた住宅街は、大手新聞社については「専売所」が中心だろう。
しかし、昨今では「専売所」という言葉が消え、カタカナの名称に置き換えられた。
それにともない、「専売」「併売」の区分けもぼやけてきているのかもしれない。
新聞社は実売部数が落ち込めば、配達についても思い切った合理化を推し進めなくてなるまい。
将来、電子化の流れが加速すると、全紙を扱う新聞販売店が登場するのでなかろうか?
◇
私は専売所に到着し、所長から大雑把な説明を受けた。
日経育英奨学会のパンフレットに担当業務は記されていたが、いささか乱暴だった。
まあ、単純な肉体労働だから…。
私はすぐに「新聞配達」に携わった。
それが翌日の朝だったか、翌々日の朝だったか記憶がない。
配達時の運動靴や汗拭きタオル、自室で茶を飲むための湯沸かし(ポット)など雑貨は欲しいはずで、その買い物に中野駅方面に出かけたのでないか。
1日の猶予が与えられた?
最初、私が先輩(前任者)につく。
互いに自転車。
新聞を積むのも配るのも先輩。
冷え込みの厳しい日の朝刊だったことを覚えている。
1軒目の塀の投函口がありありと目に浮かぶ。
その部分だけを忘れない。
もちろん、辺りは真っ暗。
私は、実際の道筋と配達先を「順路帳」に記されたそれと照らし合わせる。
街灯や玄関の明かりが頼り。
しばらくして空が少しずつ白んできた。
このときは先輩に遅れないようにするのが精一杯で、順路帳はまともに見られなかった。
夕刊は明るいので、順路帳を見やすく、周囲の光景などを覚えやすかった。
朝刊と夕刊では人通りがまったく違う。
徐々に新聞を積むのも配るのも私。
最後、先輩が黙って私につく。
多くの配達先を覚えられるか不安に感じる人がいるかもしれない。
しかし、「順路記号」はきわめてシンプルでありながら、とてもよく考えられている。
私は4〜5日間かかった(不確か)。
早いといえないが、とくに遅くもない。
皆がこれくらいの日数で覚えるらしい。
私は方向音痴だが、新聞配達に影響はない。
記憶力の良し悪しもあまり関係がない。
ベテランだと、1日どころか朝刊か夕刊のいずれかにつくと大丈夫。
配達に不可欠の情報は順路帳に記されているからだ。
なお、前任者のつくったそれに自分なりのワンコメントなどを添えると完璧だろう。
先輩は入店し、一人で配達するようになったばかりで退店した。
理由は聞かされなかったし、聞かなかった。
だから、本人に余裕がなく、指導される側は大変だった。
私が覚えたら即座に辞めるとプレッシャーをかけられた。
気性の激しい人だったが、幾度か軽く叱られたくらい。
新聞販売店で働く人はだいたいが穏やかで優しい。
そうでない人もそうなってしまうようだ。
私は初めて一人で配ったとき、3時間半はかかった?
ふらふらになって専売所に戻ってきた。
所長と奥さんが温かく出迎えてくれた。
皆は朝食が済んでおり、一人で食べた。
そのときの味噌汁のおいしさは忘れられない。
大げさと笑われそうだが、感動!
後日、仲間に尋ねたら、全員がそうだった。
私は自室に戻り、ベッドに横たわった。
そして、ささやかな充実感を味わった。
同時に、これが毎日続くのかとも思った。
4年間。
いまは大学が始まっていないから苦にならない。
社会人として仕事をやっているにすぎない。
まもなく学生を兼ねることになる。
しかも、そちらがあくまで「主」。
う〜ん。
それと、生活のリズムをつくっていくのは容易でないと感じた。
実際に引き返せないし、また新聞奨学生になったことに後悔の念はこれっぽっちも持たなかった。
私にとり第一の目的は「上京」。
それがこうして叶ったわけだから…。
しかし、前途は多難だ。
◆チラシ折り込み…新聞奨学生物語(2009年12月2日)
「新聞奨学生物語」第4回。
新聞奨学生は苦労が大きい。
中途半端な覚悟でやり通せるものでない。
私の頃は文字どおり“地獄”だった。
今の奨学生に叱られるかもしれないが、昔の奨学生は肉体的にも精神的にも数倍は過酷だったと思う。
家庭の経済事情から新聞奨学生制度を利用し、大学や短大、専門学校などへの進学に踏み切ろうとする高校生は少なくない。
私は向学心に燃えて頑張る人を尊敬するし、応援したい。
そこで、40年程前の実情や実態を紹介しながら、奨学生が経験するであろう業務や環境などについて述べてみたい。
ただし、私は現在の状況や様子を正確に把握しているわけでない。
【折り込み】
別刷(本紙以外)とチラシがあるときには、配る前に朝刊に折り込まなくてならない。
真面目な奨学生は、その分早めに起きていた。
私は、偉いなぁと感心したものだ。
当時はすべて手作業。
日本経済新聞はチラシがないのが普通だった。
現在もそれほど多くない(ただし、併売店では一般紙のチラシが日本経済新聞にも割り当てられることがある)。
日本経済新聞ではチラシよりも別刷のほうに時間を奪われた。
週に1〜2回だった(うろ覚え)。
別刷はおもに8〜16ページだが、折り込む手間はチラシ1枚分とそれほど変わらない。
あっという間に片づけられる。
ごくまれにチラシが多いことがあり、いやになった。
それでも数枚止まり。
あ、夕刊にチラシが入ることは例外で、まずない。
東京圏では朝日新聞や読売新聞などの全国紙にチラシが膨大に入る(他地域は不明)。
数枚以上、金・土・日曜日、祝日には優に十枚以上。
現在は平日でも十枚を超えたりする。
それ以外の日は30〜50枚に達したりする。
昔も今も一般紙はチラシが多い。
当時はこれを手作業で折り込んでいた(一部の先進的な専売所では機械作業だった可能性がある)。
私の推測にすぎないが、新聞配達より時間がかかった。
ゆえに、前日の夕食後にチラシのなかにチラシを折り込んでおく。
ならば、朝刊にチラシセットを折り込むだけなので、あっという間。
ただし、チラシは折り込み手当てがついた。
新聞販売店がスポンサーから折り込み料を受け取っているのだから当然である。
そうでなくては、奨学生はやっていられない。
新聞を配っているうちに一般紙の奨学生と顔見知りになり、会話を交わす機会が増えてきた。
折り込み手当てがかなりの金額にのぼり、給料のとてもよい専売所があった。
かたや、雀の涙ほどの金額しかもらえない専売所があった。
しかし、不満が募ったとしても、大学の入学金や授業料などの“一時金”を負担してもらった奨学生は、他の専売所や新聞社へ移ることができない。
なぜなら、途中で退店する場合には、勤続年数に応じた一定の割合の金額を一括で返還しなくてならない。
要は、やめられないような制度設計がなされている。
チラシの多寡により奨学生の生活が変わってくる。
手当てが大事か、時間が大事か。
勉強を重視すれば後者だ。
私は呑気に過ごすために後者が欲しかった。
日経の専売所で働いていた私はチラシの苦労をほとんど知らない。
それと、チラシは良質な紙を用いているものも少なくない。
30〜50枚に及ぶと、新聞をポストに投函する際に新聞を折り曲げるのも苦労でないか。
それ以前に、新聞がかなり重くなる。
現在、問題は自分が配属される新聞販売店が手作業か機械作業かだろう。
後者だとチラシが何枚あろうと、折り込みはなし(チラシセットを新聞に折り込むのは奨学生か)。
ゆえに、折り込み手当ては見込めない。
ただし、折り込みが機械作業だとして、だれかがついていなくてならない(恐らく)。
奨学生が行うのか、それとも専業が担うのか。
なお、チラシの少ない日経の専売所では機械を置いていないかもしれない。
大手新聞社の奨学生制度を通じて専売所に入店した奨学生は、奨学会が約束した労働条件や待遇はおおよそ順守される。
当時もそれなりだったが、現在はさらに…。
しかし、零細な新聞販売店のなかには労働条件や待遇が悪いところがあるはず。
昔、奨学生が折り込み手当てがつかないと嘆いていた。
新聞販売店の経営状態、そして所長(経営者)のモラルにより奨学生の運不運が決まったりする。
これは会社にも通じよう。
◆直江津のマイミク…新聞奨学生物語(2009年12月2日)
マイミクの「げらっち」氏。
私の生まれ故郷・新潟県直江津市(現上越市)に暮らす。
「げら」はあの辺りの方言で、「〜したらしい」。
きのうのブログ「いざ新聞配達!…新聞奨学生物語」にメッセージを寄せてくださった。
本人の許可を得られたので、以下に転載する。
ブログの更新、お疲れさまです。
最新のブログ、新聞奨学生の記事は、とても身につまされました。
私の同級生にもおり、これまでに何度も話を聞かされてきました。
昔は国全体がそれほど裕福でなく、そのために進学を諦めたり、働きながら学校に通ったりという話はそこらじゅうにありましたね。
私も決して裕福でない家庭にありながら、親が苦労して大学を出させてくれたことを感謝しております。
カネもモノもない時代の苦労を思えば、いまの不況や円高なども気構えで乗り越えていける力を、我々日本人は持っているのではないでしょうか。
以上。
メッセージ、まことにありがとうございます。
私は「新聞奨学生」と「新聞配達」について、自分の体験を土台にブログを書いている。
若い頃の生活を振り返ることのほかに、もう一つ社会的な意味がある。
実は、新聞の「宅配制度」はそれほど長く続かないだろうと考えている。
それを記録に残しておきたい。
※文字数がブログの規定をオーバーし、2つに分割して掲載せざるをえなかった。
「地獄の新聞奨学生制度へようこそ2」は夕方にアップする。
Copyright (c)2010 by Sou Wada

