私は、NHKなど他局にときどき切り替えるが、たいていテレビ東京(系列)をつけっ放しにして仕事を行っている。
新聞や雑誌に接する時間が限られるため、それを少しでも補うための“ながら視聴”である。
見ているというより聞いており、私の問題意識に触れた言葉がときどき耳に入ってくる。
さらに気になると、仕事の手を止め、画面を覗く。

私がとくに重視している番組の一つが「カンブリア宮殿」。
月曜日午後10時から1時間弱にわたり放送される。
ゲストの経済人とホストの村上龍が対談する公開番組。
ホームページをのぞいたら、「ニュースが伝えないニッポン経済」「平成カンブリア紀の経済人を迎える、大人のためのトーク・ライブ・ショー」とある。
また、ホストでなくインタビュアーと呼んでいた。

                       ◇

先日の番組は「理想の人材」に関する特集。
村上龍が優良企業の経営者数名に取材を行い、今後求められる人材とその育成のあり方を探った。

最後に登場したゲストが、一人勝ちの代表格、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長。
「ユニクロ」を展開している。
2010年の社内テーマは「民族大移動」。
グローバルな展開を見据えてのこと。
海外出店を加速させるに当たり、日本人従業員の海外勤務と海外従業員の日本勤務を推進している。

それにしても民族大移動とは見事なスローガンだ。
「人口減少⇒内需縮小」が本格化し、一人勝ちのユニクロとて“内弁慶”ではやっていけなくなるという経営トップの危機感が伝わってくる。
その際に、日本人の内向性が大きな壁となる。
それを乗り越え、全員が行動を起こそうとの決意を示した。
こうした明確なメッセージが社内に及ぼす影響は絶大である。
経営のツボを心得ている。

さて、私の耳に飛び込んできたのは、「サラリーマンの時代は終わりました。自営業者の時代です」。
まったく同感。
そう語る場所は本社内の応接室か。

同社では平均入社2年、早い人は半年でユニクロの店長になる。
そして、数十人の従業員を動かし、数億円の年商をつくる。
驚きだ。
村上龍の「経営者ですね」に対し、「店長は経営者でなく、その入口ですけれどね」と厳しい言葉、しかしながら当然の言葉を添えることも忘れなかった。
「希望を持つ人材にしか回復は図れない」。
回復とは、日本や企業を元気にするという意味だろう。

もはやサラリーマンという“職業”はなくなった。
決められた時間にやってきて、上から言われたことをそつなくこなす。
そうした働き方の有効性が失われたのだ。
国内のライバルに世界のライバルが加わって熾烈な競争を繰り広げるなかで、企業自体が業績の安定どころか存続の保証を失ったのだからやむをえない。
サラリーマンと長らく一体になっていた「安定」という実体は崩れ去った。

私は、経営者としてのささやかな経験を振り返り、思う。
サラリーマンを抱えるほど会社が苦しくなる。
「自分はサラリーマン」と考える社員は一人もいらない。
荷物になるだけだ。
これは多くの経営者に共通する思いでないか。

いまや、何とかなることはない。
自ら何とかしなければならない。
それくらい私たちが置かれている環境は厳しい。
村上龍は、「成功でなく生き残りを」と述べた。
成功者にして、この認識である。
さらに、「甘えでなく自立を」と…。

私は、だれかにリスクを取らせて自分はそれを避けながら働くという姿勢、生きるという発想が通用しなくなったと考える。
一億総自営業者の時代。
これまでのサラリーマンの意識で携われる仕事、勤められる職場は跡形もなく消えよう。

                      ◇◆◇

柳井正の発言には、経営者として職業人として21世紀を生き抜く真理が含まれている。
彼自身の経験からつかんだ気づきだろう。
私は強い刺激と大きな示唆を受けた。

以下に、「安藤忠雄・柳井正、成功の条件」と題する2009年11月9日のブログを収める。

創造とは挑戦であり、したがって失敗である。
よほどの才能か幸運に恵まれないかぎり、人は挑めばかならずしくじる。
挑戦なくして創造なし、失敗なくして創造なし。
とりわけ若い社会人にとり、失敗が職業人生に創造をもたらす道である。

世界的な建築家、東京大学特別栄誉教授の安藤忠雄にこんな言葉(著書)がある。
「連戦連敗」。
「連戦」から分かるのは、無限に挑んだこと。
「連敗」から分かるのは、無限にしくじったこと。
「連戦連敗」から分かるのは、無限にしくじったが、それでも無限に挑んだこと。
結局、氏は勝利を収めた。
ここから分かるのは、人は無限に挑み、無限にしくじらないと、創造に近づけないこと。
コンクリート打ちっ放しはつとに有名。

ファーストリテイリング代表の柳井正にこんな言葉(著書)がある。
「一勝九敗」。
「一勝」から分かるのは、1回うまくいったこと。
「九敗」から分かるのは、9回うまくいかなかったこと。
「一勝九敗」から分かるのは、9回うまくいかなかったが、それでも1回うまくいったこと。
結局、氏は勝利を収めた。
ここから分かるのは、人は九敗を避けると、一勝も挙げられないこと。
カジュアル衣料のユニクロはつとに有名。

安藤忠雄の成功は連敗によりもたらされ、柳井正の成功は九敗によりもたらされた。
先の言葉は、しゃにむに突き進んだ人だけがつかみえた真理であろう。
私たちは成功者の成功に目を奪われやすいが、失敗に目を向けることが大事なのだ。

なお、本日のテーマについて、もう少し掘り下げて語っている。

⇒和田創講演TV人生編「成功の条件を考える」はこちら。
ユーチューブの数分の動画だ。

                      ◇◆◇

私はこのブログにおいて「破壊と創造」「知識と気づき」「社会人の学習法」「起業」などについて幾度も述べている。
どうか参考にしていただきたい。

以下に、「知識と気づきの違い…MBA授業」と題する2010年3月25日のブログを収める。

日本は衰退が進んでいる。
これが長期化すると、凋落が決定的になる。
西欧から私たちはエコノミックアニマルとからかわれながら、経済大国を築いていった。
もともと時代が右肩上がりで、企業は成長余地が大きかった。
が、いまや右肩下がり。
頑張るものの、成長が難しい。
規模の縮小を止めるのが精一杯…。

巷に優良企業がないわけでないが、それはおもに経営に長けているからだ。
先人などだれかがつくったビジネスを踏襲したり利用したりして、それをうまく回している。
昨今の環境下で黒字を実現するのは立派だ。
また、雇用に貢献しているのも事実だ。
私はこうした経営者を尊敬する。
しかし、旧来のビジネスで数字を伸ばしているとしたら、どこかの会社から社員が移っているはずだ。
雇用の確保は認められても、創造に至らない。
既存企業の好業績は、そこに革新的な取り組みがなされていようと結局、広い意味での「管理」の勝利でないか…。

日本では有望なビジネスが芽生えるとか新しい産業が育つとか、次なるうねりがなかなか湧き起こらない。
とくに世界に通用するもの。
先行きに希望を見出しにくい。

その原因として指摘されるのは、私たちが「創造」を不得手とすること。
まったくそのとおり。
しかし、それ以上に苦手なのは「破壊」である。

つくろうとすると難しい。
実際、創造らしい創造はきわめて限られる。
ところが、先に壊してしまえばつくらざるをえない。
破壊が創造をもたらす。
この認識が重要だ。
私は、破壊があるから創造があると考える。

言い換えれば、評価すべきは、挑戦による失敗である。
私が知る範囲では、天才が幸運に恵まれた場合にしか成功が先行しない。
多くの失敗の向こうにわずかな成功があるのでないか。
そして、この成功が次の社会や世代を支える。
むろん、いま手に入れている成功が次の社会や世代を支えるわけでない。

私は、とりわけ成熟社会や飽和市場において大事なのは「破壊」だと思う。
まして、行き詰まりが顕著になり、閉塞感が覆っているとしたら…。

では、なぜ破壊できないか。
教育の堕落だ。

本来有為の人材が知識を持つのと引き換えに覚悟を失ったからだ。
例えば、わざわざMBAに入り、起業コースで学んだ挙げ句、行動を起こさない学生がほとんどである。
中途半端…。
評論家になれない評論家ばかり。
それが言いすぎだとしたら、自分が携わる仕事をうまくやろうとする人ばかり。
志が低い…。

創造は凶暴であり、たいていは知性と馴染まない。
そして、成功は創造の報酬である。
正確に述べれば、成功は失敗の報酬である。
ゆえに、成績と成功の間にたいした相関関係はない。

教育の目的は、失敗する人材を社会へ送り込むことだ。
それを第一に担うべきはMBAである。

人は怖くて壊せない。
ゆえに、新しい何かを生み出せない。
経営者の集まりでさえ守りに汲々とする人ばかりで退屈極まりない。
会社が縮むわけだ。
私は、いくつかの経済団体の会合に顔を出したことがあり、化石となっている現実を思い知らされた。
この人たちはいったいいつの時代に生きているのか。

破壊はエリートの特権。
MBAの学生の使命はそれ。
私がアルバイトの時給くらいで講師を引き受けた理由も、壊せる人材を育てたかったから…。
優れたリーダーに日本を救ってほしい。

学生に強調しているのは、「授業を信じるな」。
社会人大学院の基本は実学のはず。
にもかかわらず、例えば起業関連講座の教授や講師が失敗していない。
大問題!
なぜなら、教えることを仕事にしているからだ。
失敗しようがない。
大丈夫、人は行えば、しくじる。
私は断言する。

授業は、自ら考える材料かきっかけにすぎない。
ありがたがって教わっている学生を見ると、がっかりする。
「MBAを取得したい」。
大学や大学院の卒業資格の延長と考える学生も…。

「私の授業など取るに足らない」。
これを冗談と受け止められては困る。

さらに、私が辛くなるのは、自分の持つ知識や技術、手法の豊富さを誇る学生である。
悲惨極まりない。
知識や技術、手法は、そもそも頭の悪い人のためにある。
自ら考えられる人には不要の代物、無用の長物。
この程度のことは子どもでも分かるが、MBAの学生には分からない。
それらを身につけると、創造から遠ざかる。

守っていく力と壊していく力がせめぎ合わない社会は不幸である。
健全性、そして活力が失われていく。
ダイナミックな息吹が感じられない。

失敗と破壊を忌み嫌う日本は、どこまでもすたれ、どこまでも貧しくなる。
凋落は決定的だ。

私自身の生き方や働き方について述べれば、守ってうまくいくより、壊してしくじるほうがしっくりする。
前者に喜びや価値をそれほど見出せない。
もちろん、壊してうまくいくように努力を払ってきたが…。

                       ◇

先頃、私は三菱UFJ東京で「提案営業」の公開セミナーを行った。
あくまで営業強化・再建を主眼としている。

終了後、私は受講者のアンケート用紙をめくり、跳び上がりそうになった。
そこには簡潔な印象がポツンと記されていた。
「破壊と創造を感じた」。

営業セミナーなので、そうした言葉を用いていない。
これは鋭い指摘だ。
剛速球の評価を寄せてくれた。

私は、この仕事をやっていてよかったと思った。
うれしい・・・。

社会にしても企業にしても暮らしにしてもうまくいっていないのに、皆が守ろう守ろうとする。
私はせめてそうした姿勢を突き崩したい。

                       ◇

きょうのテーマと密接に関連するブログとセミナーは以下のとおり。
世界的建築家・安藤忠雄とユニクロ・柳井正を例題に引き、成功のキモを探った。

⇒2009年11月9日「安藤忠雄・柳井正、成功の条件」はこちら。

このブログに対し、社長からコメントが寄せられた。
「失敗の大切さに気づきました」。
読んでくださったことに感謝しつつ、このコメントは間違いだと思った。
正しくは、「失敗の大切さを知りました」。
私は失敗の大切さを述べており、そのまま。

「知る」と「気づく」の違いが分からない人が圧倒的大多数だ。
「気づき」の最大の特徴は、それを境にして劇的に行動が変わること。
ときに風景が変わる。
一生で0〜3回くらいか。
ごくささやかな気づきは、一年で0〜3回くらいか。
めったにないのが普通だろう。

私たちが気づきを得られるなら、それはもう目覚ましい成長を遂げる。
人の行動を変えさせるのは、気づきレベルに達した認識だけである。
知識はそうでない。
いくらか行動をよくするのが関の山。
自分の成長を遅らせたいと本気で願うなら、知識を得るのがベストだ。

「失敗しないことは努力していないことだと気づきました。あすからどんどん失敗します」。
これはOK。
私はときめく。
が、現実にはこうしたコメントは寄せられない。
それは、知識が行動と交わらないと気づきに変わりにくいこととも関係する。

私は、しくじらない人はサボっている人だと思っている。
まったく評価しない。
できそうなことに甘んじていたり、似たようなことを繰り返していたりするのだろう。

当然ながら、失敗がもっとも必要なのは社長だ。
でなくては、会社を伸ばしていけるはずがない。

今日の経営者の最大の仕事は、会社を変えることだ。
マネジメント、マーケティング、ビジネス、事業、商品、営業・販売…。
変えられない社長は、無能だ。

余談。
起業とは名刺をつくることである。
気づけない人があまりに多い。

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