私は、嫌いなものが自分の幅を広げてくれると思うに至った。
さらに、それが自分の深みも増してくれると思うに至った。
ものとは、ヒト・コト・モノ。

それは50代に入って…。
私は何事も気づきが遅い。

好きなものに拘っていては、成長が覚束ない。
成長とは、むろん「変化」のこと。
時代が激しく変わっているからだ。

拘りは捉われに変わり、捉われは囚われに変わりやすい。
いつしか好き嫌いの感情に自分が飼い馴らされ、思考にバイアスがかかる。
つまり、好き嫌いをもって評価にかえる。

私たちにとり、囚われは安堵や安心につながる。
それは、囚われに感じる窮屈や退屈よりはるかに大きい。
好きなものに接したり囲まれたりすることは楽であり、この上なく「快適」なのだ。

かたや、嫌いなものに接したり囲まれたりすることは苦であり、この上なく「不快」なのだ。
私たちにとり、それは居心地の悪さにつながる。

しかし、この「不快」こそ人の成長に不可欠だ。
学びとは“違和感”にほかならない。

好きなものに身を置く典型が、読書や勉強である。
その最大の問題は、満ち足りた気分に浸れること。
カネと時間を注ぎ込んだわりに成果を得られていない理由は、成長が遅いからだ。

ところで、社長は好きなものを手繰り寄せ、嫌いなものを遠ざけられる立場にある。
こうした状態が続くと、人間としての成熟はとても果たせない。
若くして頂点に立ったトップなどに、ひどく子どもじみた人が少なくない。
会社の発展もそこで止まることになろう。

                       ◇

かの大山康晴は、「将棋の駒に好き嫌いなどあってはならない」と断じた。
経営と人生において豊かさと幸せをつかむ極意だ。

⇒2009年9月14日「大山康晴の言葉と生き様」はこちら。

                       ◇

私は長らく再建系のコンサルタントとして講演やセミナーを行ってきた。
来場者のなかに業績や成績の不振から抜け出せなくてもがいている人が少なくない。
経営トップや営業幹部もやって来る。
ありがたい。

人は感謝の気持ちを抱くと、相手に優しくしたくなる。

が、私は好かれる講師になってならないと、強く戒めている。
当然ながら、結果を出せないでいる参加者が首を縦に振る内容では話にならない。
建て直しは、彼らの“否定”から始まる。

私はプロフェッショナルを自任しており、参加者に「不快」を持ち返っていただきたい。
これを真剣に追求してきたから、悠々と講師稼業を続けてこられたのでなかろうか。

言い換えれば、講師は自分にとり「快適」な講演やセミナーにしてならない。
そのためには参加者に嫌われればよい。
許されるなら、自分が会場から逃げ出したいと思うこと。
闘いの場に居心地のよさはあってならない。

大丈夫、大勢が拒絶を示しても、少数が評価を下してくれるなら、仕事に困らない。
人は全員に好かれなくても食べていける、生きていける。
世の中はうまくできている。

                      ◇◆◇

きょうのブログは、2008年2月15日「拘り、捉われ、囚われ…」に大幅な改訂を施したものである。

⇒2008年2月15日「拘り、捉われ、囚われ…」はこちら。

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