ゲゲゲの女房が大変なことになっている。
もうすぐ赤ちゃんが生まれるというのに、収入が途絶えた。
目の前が真っ暗…。

村井茂(水木しげる)は生活を支えるため、睡眠を削って漫画を描きつづけている。
そして何冊か本になったが、貸本漫画の出版社が経営不振で、肝心の原稿料を1円も払ってもらえない。
口に入れるものも買えない、非常事態に陥っている。

私はだいぶ前のブログでこう記した。
漫画家は連載やシリーズなどで仕事がそれなりに継続する。
収入はわずかでも、いくらか安定しているのが救いだ。
それに引き換え、フリーランスのプランナーだった私は仕事を取るのが大変で、しかも一本一本の勝負だった。

ところが、番組では仕事を収めても原稿料を払ってもらえない。
ひどい。
やっていけるはずがない。
怒りが込みあげてきた。

私は駆け出し時代から、顧客がそれなりの中小・中堅企業だったので、企画料は安いものの払ってもらえた。
まれに先方の事情で入金が遅れ、青ざめたことはあった。
請求金額を巡る交渉や攻防はあったが、決着してしまえば、予定した金額はほとんど受け取れた。
だって、そうでなくては家族が餓死してしまう。

茂と妻の布美枝は極貧というか赤貧というか、想像を絶する生活の真っ只中だ(木曜日放送分)。
気丈で楽観的な二人の苦悩と不安が画面から伝わってくる。
凄い苦労をくぐり抜けて成功を収めたのだ。

以下に「ふすま一枚の地獄…ゲゲゲの女房」と題する2010年5月30日のブログを収める。

                      ◇◆◇

きょうのブログはかなり前にNHK朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」を見て走り書きした素材(パソコン上のメモ)を仕上げた。
この間、番組は進行し、面白さを増した。
とくに父親が島根から突然上京して勃発した大騒ぎは感動的だった。
私には両方の気持ちが分かる。

番組に描かれているのは、私の結婚後の極貧生活と酷似していた。
駆け出しのフリーランスで収入がほとんどなく、しかも安定しない。
最悪だった。
困っていたのは事実だが、私たちに暗さはなかった。
案じたところでどうにもならなかったので、あっけらかんとしていた。
私を知ったうえでパートナーに選んだ妻は腹を括っていた。
調布に暮らす村井茂(水木しげる)が都心へ出て必死に営業活動をかけるシーンも当時の自分とダブる。

妻(前妻)は社員が2〜3人の零細企業(音楽系の雑誌社)で働いていた。
国電飯田橋駅の近く。
やがて子どもを授かり、出産を機会に退職した。
それ以来、専業主婦だった。

私がもっとも思い出したのは、ふすま一枚で隔てられた2つの小さな和室という住環境。
アイデアを納める仕事はいくらかあったが、安くて食べられなかった。
私は能力の限界まで知恵を絞った。
金額を超える満足を与えること、つまり発注者の期待水準を上回ることしか考えなかった。
そうでなくては、二度と仕事の依頼は来ない。
これがフリーランスのプランナーとしてやっていけるかどうかの分かれ目だと強く肝に銘じていた。
1日18〜20時間の労働が延々と続いた。
無休。

ゲゲゲの女房では、やはりふすま一枚を隔てて夫の茂(向井理)が連日徹夜で漫画を描いており、妻の布美枝(松下奈緒)はおちおち眠れなかったろう。
私たちの生活そのものだ。

ただし、布美枝と異なり、妻は体が強いわけでなかったので、普通の睡眠時間が必要になる。
夫が家族を支えるために死に物狂いで働いているのに、隣の部屋で呑気に休むのは辛かったろう。
眠りが浅く、頻繁に目が覚めたに違いない。

妻は東京女子大学時代の友人などによく、私が早死にすると言っていた。
むろん、私がいる場で…。
恐らく本気だ。
私に対する褒め言葉、驚嘆と感謝の念でもあった。
我ながらクレージーだった。
“戦闘”という形容がぴったり。
私は何も案じなかったと記したが、正確にはその時間や余力がなかった。
仕事の手が動かなくなると、布団に倒れ込んだ。

私は仕事の量もさることながら単価を上げないと生活が厳しいと悟り、大日本印刷、凸版印刷、共同印刷の“御三家”に飛び込んだ。
凸版印刷から自宅に戻ると同時に電話が鳴り、私は即座に引き返した。
最初の仕事だった。
口笛を吹きたい気分だった。
私の何かを認めてくれた証拠である。
妻の顔がぱっと輝いたのが忘れられない。

3社ともOKをもらえたが、共同印刷はこちらから辞退し、大日本印刷はしばらくつきあった後に疎遠になった。
私が営業活動に力を入れなかったのだ。
アイデアやプランといったソフトを重視し、それを正当に評価してくれる印刷会社はトッパンアイデアセンターしかないと確信した。
少しずつ収入が増えていった。

妻はこうした毎日に愚痴をこぼしたことがない。
しかし、私はその辛さを感じ取っていた。
「この状態を解消しないと、妻は気の休まる暇がない」。

私は焦っていた。
三鷹の間借りでは、増えてきた仕事をこなすうえで限界と支障が出ていた。
締め切りに間に合わず、知人をときどき呼んで手伝ってもらったりした。
狭い部屋が人の熱とタバコの煙でむせ返った。
仕事と生活がごちゃ混ぜになっていた。
家族がやり切れない。

私は勝負をかけるしかないと決意し、千代田区岩本町に仕事場を借りた。
地下鉄日比谷線小伝馬町駅のそばだ。
30歳を回った頃だったか(曖昧)。
妻はほっとした表情を浮かべた。
“地獄”だったのだ。
総戸数の少ない古いマンションは、都心に近い立地のせいで、住居より仕事場に使われていた。

私がこの場所を選んだのは、すでに収入を依存していた秋葉原の凸版印刷株式会社本社、トッパンアイデアセンターが何とか歩いていける範囲にあったからだ。
すぐに徹夜の連続になった。
私は外食になり、自宅と合わせて支出がかさんだ。
オフィスの家賃や水道光熱費、機器のリース料なども払わなくてならず、必死だった。
仕事場に泊まり込むことになり、自宅に戻ってこられなくなった。
一段と仕事漬けの日々を過ごした。

後年、都心の仕事場の近くに自宅を移そうと妻に2〜3回切り出し、きっぱりと断られた。
妻は、結婚当初の私の仕事振りとそれにかく乱された時代を忘れていなかった。
職場のなかで寝起きする気分だったのでないか。
心底、懲りたのだ。

狭い2部屋の内、1部屋が仕事に占領される。
ふすま一枚を隔てるゲゲゲの女房は、当時の妻の姿である。

後年、妻はガンで亡くなる直前、「お父さんの言うとおり、都心に引っ越せばよかった」と口にした。
本人もこの件を引きずっていたのだ。

                      ◇◆◇

ゲゲゲの女房に関するブログは以下のとおり。

⇒2010年5月8日「ゲゲゲの女房…蘇る前妻との初デート」はこちら。

⇒2010年5月19日「松下奈緒、ゲゲゲの女房を好演する」はこちら。

⇒2010年5月20日「ゲゲゲの女房、小銭入れが空っぽの極貧」はこちら。

⇒2010年5月30日「ふすま一枚の地獄…ゲゲゲの女房」はこちら。

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