東北新幹線が八戸駅から新青森駅まで延伸され、これで全線が開業した。
38年間、待ちに待った人も少なくないだろう。
「はやて」の最速達列車なら、東京駅と新青森駅を3時間20分で結ぶ。

地元は観光客増加の熱い期待をかかる。
来春、新型車両E5系の「はやぶさ」が登場すると、3時間10分。
大阪(新大阪駅)へ行く感覚に近い。
将来は2時間40分とか…。

来夏、青森ねぶた祭の人出は、踊り手のハネトみたいに跳ねあがろう。
「ラッセラー、ラッセラー」。
私も行きたいなぁ。
5年後に北海道新幹線に接続するらしい。
とりあえず新函館駅まで…。



それにしても3時間ちょっとは、私に言わせれば一瞬である。
なぜなら、大昔、青森駅から数回上野駅に戻ってきたが、すべて夜行列車を利用した(うろ覚え)。
つまり、寝台列車である。
3段ベッドでなかったか。
2段ベッドでなかったと思う。
長旅だった。

東北新幹線の新青森駅延伸により、上野駅と札幌駅を結ぶ「寝台特急北斗星」の利用者が大幅に減る可能性がある。
これまでは仙台以北で降りる人がそれなりにいたが、これからは北海道に渡る人しか乗らなくなるのでは…。
となると、北斗星が消滅するのも時間の問題でなかろうか。
北海道新幹線とつながる前の廃止もありうる?

⇒2008年6月1日「北斗星ロイヤルチケット予約のコツ」はこちら。

⇒2008年1月21日「寝台特急北斗星ロイヤル完全制覇!」はこちら。

寝台特急北斗星は2008年、1日2往復4編成から1往復2編成に減らされた。
そして、まもなく栄光の歴史に幕を閉じようとしている。
A寝台1人用個室「ロイヤル」がプラチナチケットだった時代が懐かしく回想されるのか。

⇒2008年1月25日「北斗星3号ロイヤル初体験!」はこちら。

大阪駅と青森駅を結ぶ「寝台特急日本海」を除き、私が生まれ暮らした北陸地方(新潟県、富山県)でも寝台列車はすべて消えた。
「寝台特急北陸」は打ち切り。
また、夜行列車「急行能登」は臨時運行のみ。

時間をたくさんかけて移動するということは、ある意味でぜいたくだった。
それが許されない、世知辛い世相だ。
あぁ〜。

以下に、「寝台特急北陸、急行能登が消える」と題する2009年12月21日のブログをほとんどそのまま収める。

◇◆◇

金沢駅と上野駅を結ぶ寝台特急「北陸」と急行「能登」は、2010年3月12日に定期運行を終える。
廃止。
そんな記事を一昨日の日本経済新聞の片隅に見つけた。
JR東日本は、車体の老朽化を理由に挙げている模様。

北陸に限らないが、地方と上野を結ぶ「夜行列車」はおおよそ姿を消したのか。
昔は編成がとても長かった。
列車がホームに入ってくるとき、そして自分が乗り込むときには、特有の気分になった。
さまざまな感情が入り交ざり、一言で表せない。
中高年の地方出身者なら、実感として分かってもらえるのでないか。
私は急に寂しくなり、遠い過去をぼんやりと思い浮かべた。



東京・下町生まれの母は疎開先の富山・朝日(泊)で、入善出身の父と出会ったのか?
私は一度も確かめていない。
そうでないとしても、戦時疎開がなければ両親が結ばれることはなかった。

父は恐らく戦後、呉羽紡績の社員として新潟・直江津と長野・伊那で働き、吸収合併により東洋紡績の社員として徳島・小松島で働いた。
そして、職業人生の勝負をかけ、母の父が営む町工場を継ぐつもりで上京した。
しかし、祖父母とうまくやっていけず、追い出された。
私は8カ月足らず、少し遅れて上京した両親は数カ月の東京暮らし。
行き場を失った家族が父の生まれ故郷に戻ったとき、両親は心がすっかり壊れていた。

50歳手前の父は、吉田工業(現YKK。当時は黒部が本社)の嘱託として働いた。
給料は比べられないほど下がったはずだが、世界のYKKに潜り込めただけでも幸せだった。
引っ越し1年後くらいに、呉羽・東洋紡績時代のわずかな中途退職金と貯蓄を投じて入善に建てた家は大失敗だった。
が、だいぶ後に建てた滑川の家はとても気に入っていた。
ごく普通の一軒家だが、両親にとり理想の住まいだった。
両親は、私が17歳から49歳まで30年以上、富山で暮らしたことになる。

私は親不幸の極みで、富山に帰省しなかった。
過ごした期間が短く、友人がいないことも理由の一つ。
最大の理由は、家庭崩壊の時期を思い出したくなかったこと。
私は、学生時代に働いた楽譜専門取次の松沢書店で、北陸地区を数カ月担当した。
月1回の出張の際に、おおよそ入善に立ち寄ったのでは…。
それ以外は3〜4回?
確かな記憶は3回であり、水彩画、痛飲、結婚の披露。
滑川に3〜4回?
確かな記憶は3回であり、妹の結婚、家族との接触、再婚の報告。
これが正しいとすれば、4〜5年に1回戻った。
実家に寄りつかなかったのだ。

まれな帰省の際にわりと利用したのが夜行列車だった。
出張時にも…。
いつ頃からか信越本線・長野経由から上越線・長岡経由に変わった?
何もかもあやふや。
しかし、私は間違いなく寝台特急「北陸」と急行「能登」に幾度か乗った。

このブログの「新聞奨学生物語(連載中)」で、日経育英奨学制度を利用して明治大学へ進学する際に、入善駅から夜行列車に乗り込む光景を書いた。
恐らく1970年3月。
特急は入善駅に止まらない?
となると、寝台特急「北陸」でなく急行「能登」。
これには寝台車両はないはずだから、私は普通の座席で上京したことになる。
驚いた…。

インターネットで少し調べたが、それは急行「能登」でなく急行「黒部」だった?
そんな名前の夜行列車があったかもしれない。
やはり寝台車両はないようだ。

寝台特急「北陸」と急行「能登」はまもなく通常運行が打ち切られる。
それにつれ、私は若い頃の思い出まで奪われる感慨にとらわれた。
北陸や東北など、年配の地方出身者にとり、夜行列車は特別な存在だった。
我が身を振り返っても、人生の節目、節目に夜行列車が関わっている。
…廃止の知らせは、切ない。

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