世界フィギュアスケート選手権2011(モスクワ大会)。
「東日本大震災」にともなう開催都市の変更、開催時期の延期の影響か、得点はともかく、全般に出来が低調という印象を受けた。
オリンピックイヤーの翌年ということも一因かもしれない。
そのなかで、1年ぶりに国際試合に登場した韓国のキム・ヨナ(金妍児)はさすが「五輪女王」という演技を見せた。
やはり圧倒的な実力を備えている。
スケーティング全般もさることながら、そこに豊かな表情を交えながら深い情感を塗り込めていく。
ほかの選手の表現が淡泊に感じられるほど・・・。
⇒2011年4月23日「キム・ヨナの恩返しと現役引退…世界フィギュア」はこちら。
キム・ヨナは会場を巻き込み、観客を惹き付ける術(すべ)にたけている。
しかし、案の定、ブランクの影響がジャンプに出た。
それでも金メダル・安藤美姫と僅差の銀メダル。
脱帽!
⇒2011年4月29日「浅田真央の連覇か安藤美姫の返り咲きか…世界女王」はこちら。
また、浅田真央は滑りの修正(矯正)期間ということを割り引いたとしても深刻な状態である。
いまの延長では、これから先もおそらく勝てない。
次のブログで、彼女自身に根差す“敗因”を探っている。
⇒2011年5月1日「浅田真央、世界で勝つ判断と作戦…佐藤信夫コーチ」はこちら。
私が待ち望んでいた世界フィギュア。
が、彼女は変化(成長)が遅い。
むしろ、周りに置いて行かれている。
身近な小塚崇彦やベテランの安藤美姫、外国選手のほうが著しい変化を遂げている。
むろん、キム・ヨナも・・・。
⇒2011年4月30日「浅田真央、やってみないと分からない…修正途上」はこちら。
◇
さて、私は世界フィギュアで採点に対する疑問を感じた。
主要な国際試合では選手はとりわけ順位を競っている。
1位(金メダル)、2位(銀メダル)、3位(銅メダル)、4位、5位、6位・・・。
採点競技では当然、採点結果で順位が決まる。
2010年バンクーバー冬季五輪(オリンピック)の女子シングルにおけるキム・ヨナ、本大会の男子シングルにおけるカナダのパトリック・チャンのように“ぶっちぎり”というケースでは順位が変わるわけでなく、たいして気にならない。
私は、大会の地元選手を除き、会場の反応はかなり正しいと思う。
それ以前に、自分が上か相手が上かは、戦った選手がもっともよく分かっている。
勝負の世界に身を投じている人はたいていそうだ。
それが感じられないとしたら一流、まして一番になれない。
ところが、本大会の女子シングルにおけるショートプログラム(SP)のように1位と2位が僅差というケースでは採点結果に関心が向かう。
私は、キム・ヨナと安藤美姫の得点、したがって順位に違和感を覚えた。
それで終わらなかった。
フリースケーティングにおける二人の得点も腑に落ちなかった。
明らかなミスを犯したキム・ヨナがなぜ同じような採点結果になるのかと・・・。
⇒2011年4月30日「安藤美姫、逆転世界女王!…審査員の粋な計らい」はこちら。
私は世界フィギュアで不正があったと述べているのでない。
あれが客観的だというなら、採点基準(方法)そのものに問題がありはしないか。
競技の評価は専門家(審査員)が行うことに異論はない。
が、観衆(ファン)あってのスポーツ。
ファンの印象と審査員の判定がかけ離れていることは好ましくない。
なるべく大勢にとっての分かりやすさは、競技の人気を高めるうえでも重大な要素でなかろうか。
私は門外漢だが、フィギュアスケートの採点基準(方法)を見直したほうがいいと感じた。
知識を持たない素人でもそれなりに共感できるものであってほしい。
⇒2011年4月29日「安藤美姫、世界女王へガッツポーズの品格」はこちら。
◇
人間がつくった採点基準(方法)に完璧はない。
ゆえに、ときどきもしくはしばしば、いくらかもしくはかなり変更される。
しかも、広い意味の「政治力」が関わることがある。
非常に厄介だ。
これは採点基準でなくルールの変更だが、日本では過去に複合を含めたノルディックスキージャンプの選手が苦しめられた。
世界に敵なしの荻原健司はそれにより突然、勝てなくなってしまった。
天国から地獄に突き落とされた。
彼が苦悩する姿を見て、何と理不尽なことかと思った。
採点基準が変更され、特定の選手が有利になったり不利になったりするということが起こる。
あるいは、特定の国や地域が…。
競った(せった)展開では、観衆やファンに対して採点がグレーという印象が残りかねない。
今日、採点に関してあからさまな不正は行われない。
話題の国際試合になるほど、マスコミもファンも世界中が監視しているからだ。
明白な順位が引っ繰り返るというのは、よくよくのこと。
ただし、審査員が採点に当たって特定の国や選手に肩入れすることは起こりうる。
また、採点は人間が行うことなので、審査員がすり込まれた情報、植えつけられたイメージなどにより左右される。
大会の事前や寸前に、陣営がそれらをどのようにコントロールするかも選手の得点に影響する。
選手の名声や人気、実績、勢い、さらに会場の盛り上がりなど、もろもろの要素が採点の圧力として作用する。
むろん、国際情勢も…。
今回の世界フィギュアでは会場のあちこちで掲げられた「日の丸」がいくらか影響したのでないか。
世界が日本の復興を応援していた。
また、1年ぶりに登場したキム・ヨナを勝たせてよいのかというためらいが働いた?
そもそも審査員の採点ははなはだ危うく、したがって選手の得点もはなはだ怪しい。
採点競技の宿命といってよい。
注目のスポーツにおける採点の問題は、それ自体よりも基準のほうがはるかに大きい。
競技が高度化するにつれ、採点が複雑化しやすい。
素人は理解不能に…。
やがて審査員の判定とファンの印象が大きく食い違うという事態が生じる。
そうした採点基準だが、選手の演技(表現と技術)の向上や進化をもたらしてきた。
とくに国際試合を活躍の舞台とする有力選手に、努力(練習)の方向性やあり方を決定づけている。
世界中の選手とファンが納得しやすいことが大切だろう。
⇒2011年4月25日「女子フィギュアと熱烈ファン…勝敗に目くじら」はこちら。
以下に、「浅田真央を取りあげた、いい加減なブログ」と題する2010年12月18日のブログを収める。
ついては原稿にいくらか手を入れた。
◇◆◇
名もない私のブログに大勢の読者が訪れてくれる。
心より感謝したい。
私は懸命に執筆しているが、これは「いい加減なブログ」である。
それをお断りしておきたい。
このブログを読むうえで頭に入れておいてほしいことは、以下のとおり。
記事とは「取材」を行って書くものだ。
そうすれば“確証”が得られると限らないが、これが基本中の基本である。
そうでない記事は信憑性(しんぴょうせい)がきわめて低い。
何せじかに見たり聞いたり触れたりしていない。
私は年中無休で働いており、仕事に四六時中追われている。
ブログを書くために取材をわざわざ行うことはない。
内容に相当な限界がある。
このブログを含め、ネット上に流通する情報は他人の情報を土台としていることが多い。
私が心がけているのは、なるべく取材を経た記事を参考にすること、そうでない場合には信用が置けそうな記事を参考にすることくらい。
それが精一杯だ。
このブログのなかで、事実に関する記事はテレビや新聞の報道を踏まえており、わりと正確である。
だが、それとてもメディア(媒体)が取捨選択、編集加工を行っており、バイアス(偏向)がかかっている。
私がそれを下敷きにして書いた記事は事実が歪んでいるかもしれない。
このブログのなかで、私の体験に基づいて書いた記事はもっとも信頼が置ける。
すなわち、自ら実行した事柄、自ら遭遇した事柄だ。
その中心になるのは、私の本職である再建・変革・創造系の「コンサルティング」と密接に関わる内容。
これらの情報はそれなりに的確でなかろうか。
記事により、豊富な体験を踏まえて“信念”に達した事柄を述べている。
とりわけ熱心な読者に、このブログの危うさを十分に理解していただきたい。
私が取材をはしょる以上、記事を書く際に確証を得ているということはまずない。
しかし、それがなくては記事を書けないとなると、このブログは成り立たない。
そこで、私はなるべく“確信”が持てた事柄を書くように努めている。
が、確信とは主観に基づいた“憶測”にすぎない。
間違いだらけ・・・。
◇
私は記事を書く際に、その場に自分を置くという「イマジネーション」を大切にしている。
特定の個人や団体(企業・組織)を取りあげるとき、面と向かって言えることしか書かない。
あるいは、講師という仕事柄、大勢を前にして演台で言えることしか書かない。
ブログの左サイドに記したとおり、記事の一部を講演や公開セミナー、企業研修でしばしば用いる。
これまでに数えきれないほど会場全体が凍りついた。
一例を挙げれば、トヨタを痛烈に批判した記事がある。
もし私が同社で講演を行うとしたら述べる。
もし豊田章男社長と面会を行うとしたら述べる。
私は、企業のセレモニー(記念行事)に招かれることがある。
人前で話す商売を長く続けているのに、こうしたおめでたい席でスピーチを頼まれたことが一度もない。
「あいつは指名するな」と言われているのか・・・。
私は自分なりに確信が持てないと述べない。
むろん、最終的には相手や参加者が判断することだ。
私は自分なりに確信が持てないと書かない。
むろん、最終的には読者が判断することだ。
私は出張が非常に多い。
このブログはおもに車中や宿泊先でまとまった時間が取れるときにどんどん書き溜めている。
1年前、2年前の素材を仕上げることもある。
ブログを始めた頃からコメントにほとんど対応できなかった。
去年までは社員、今年からはマネジャーや妻がときどきチェックし、まとめて削除。
残すのは、まれに寄せられる知人のコメントのみ。
が、アクセスが千を超えてから、それとても対応できなくなった。
そうした状態なので、いまは受け付けていない。
◇
実は、浅田真央が銀メダルに終わった2010年バンクーバー冬季五輪(オリンピック)以降、このブログにコメントなどが寄せられた。
フィギュアスケートの採点に関する意見だ。
私はちらっと見たことがある。
おそらくすべてが浅田真央の得点に不満を訴える内容であり、その勢いで韓国のキム・ヨナを退ける。
たいてい“裏情報”が添えられる。
ワンパターンで、読むに値しない。
すでに述べたとおり、私は韓国へ行って当事者や関係者に面と向かって言えることしか書かない。
それなりに確信が持てる事柄にほかならない。
なお、フィギュアスケートの採点について私がどう思ったかは、このブログで2度述べている。
もちろん韓国で言える。
採点競技では採点方法により得点はもちろん順位まで動くことはよく知られている。
ノルディックスキー複合の超人(鳥人)・荻原健司は度重なるルール変更で勝てなくなった。
これは採点競技にも通じる。
⇒「明日へのヒント 荻原健司」はこちら。
◇
これもブログで繰り返し述べているが、私はあの人が好きか嫌いかという自分の気持ちに興味がない。
それは私の勝手な感情であり、どうでもいい。
このブログにわざわざつづらない(好きに限り述べることはある)。
人生の貴重な時間をそれに費やすことはしない。
⇒2010年11月8日「自分の時間を他人の批判に費やす」はこちら。
あの人を評価するかしないか。
これに尽きる。
好きだから応援するわけでない。
評価するから応援する。
このブログを貫く基本姿勢である。
⇒2010年4月27日「素人とプロの決定的な違いとは?」はこちら。
私は個人の好き嫌いを表明しない(好きに限り述べることはある)。
意味がないからだ。
その人が嫌いと思った瞬間、その人から学ぶべきことまで見えなくなる。
頭も心も貧しくなる。
つまらん。
人は皆、評価できる点と評価できない点が混在していると、私は考えているのだ。
この世に絶対的に正しい人、絶対的によい人はいない。
そうした人がいたなら、大勢が教えを乞おうとする。
「門前、市を成す」。
世間が放っておかない。
⇒2010年4月26日「学びとは違和感、成長とは不快」はこちら。
以前、公開セミナーの休憩時間、私のブログの読者だという参加者が話しかけてきた。
ありがたい。
「先生は****が好きですか」。
幾度か取りあげたタレントだった。
私は答に窮した。
こう述べると、誤解されるかもしれない。
「和田創は****が嫌いだ」。
そういうことでない。
このブログで取りあげる尺度は「好き嫌い」とまったく無関係である。
⇒「明日へのヒント 大山康晴」はこちら。
ブログの執筆では、好き嫌いと評価をごちゃ混ぜにしないように戒めている。
とくに自分の感情に引きずられないように…。
◇
私はイマジネーションを大切にしている。
特定の個人を取りあげるとき、つきあいたいと思うかどうかを自らに問いかけている。
浅田真央でも、北島康介でも、イチローでも同様。
和田創は、なぜ凡人のままなのか?
理由は簡単、彼らとつきあいたいと思わないからだ。
苦しくて、辛くて、私には耐える自信がない・・・。
彼らと本気でつきあおうと思う人は、すでに素晴らしい成果を上げ、実績を残しているはずだ。
私は彼らからかならず逃げ出そうとする。
食らいつく覚悟があったら、私はいまの地点やレベル(水準)に留まっていない。
平たく言えば、偉くなっている。
はたから応援するのは気楽。
私は、自分がつきあいたくない人を取りあげることが断然多い。
つきあいたくない人とは、私が学ぶべき人にほかならない。
相手の年齢は問わない。
“尊敬”に値する人物である。
還暦目前とはいえ、このブログを自らの成長の糧にしたいと願う。
そして、懸命に執筆している。
⇒2010年7月29日「和田創ブログ&セミナーの基本スタンス」はこちら。
きょう述べたことは、このブログで大切にしている基本姿勢である。
ところが、人格者でないので、それをまま外してしまう。
あくまで私が心がけていることだ。
このブログなど取るに値しない。
くだらん。
まして馴れあいのブログやサイトは・・・。
大事なのは、世間や周りに惑わされず、自分の頭で考え抜くことだ。
考えて、考えて、考えて、考えて、考えよ。
Copyright (c)2011 by Sou Wada
←応援、よろしく!
「東日本大震災」にともなう開催都市の変更、開催時期の延期の影響か、得点はともかく、全般に出来が低調という印象を受けた。
オリンピックイヤーの翌年ということも一因かもしれない。
そのなかで、1年ぶりに国際試合に登場した韓国のキム・ヨナ(金妍児)はさすが「五輪女王」という演技を見せた。
やはり圧倒的な実力を備えている。
スケーティング全般もさることながら、そこに豊かな表情を交えながら深い情感を塗り込めていく。
ほかの選手の表現が淡泊に感じられるほど・・・。
⇒2011年4月23日「キム・ヨナの恩返しと現役引退…世界フィギュア」はこちら。
キム・ヨナは会場を巻き込み、観客を惹き付ける術(すべ)にたけている。
しかし、案の定、ブランクの影響がジャンプに出た。
それでも金メダル・安藤美姫と僅差の銀メダル。
脱帽!
⇒2011年4月29日「浅田真央の連覇か安藤美姫の返り咲きか…世界女王」はこちら。
また、浅田真央は滑りの修正(矯正)期間ということを割り引いたとしても深刻な状態である。
いまの延長では、これから先もおそらく勝てない。
次のブログで、彼女自身に根差す“敗因”を探っている。
⇒2011年5月1日「浅田真央、世界で勝つ判断と作戦…佐藤信夫コーチ」はこちら。
私が待ち望んでいた世界フィギュア。
が、彼女は変化(成長)が遅い。
むしろ、周りに置いて行かれている。
身近な小塚崇彦やベテランの安藤美姫、外国選手のほうが著しい変化を遂げている。
むろん、キム・ヨナも・・・。
⇒2011年4月30日「浅田真央、やってみないと分からない…修正途上」はこちら。
◇
さて、私は世界フィギュアで採点に対する疑問を感じた。
主要な国際試合では選手はとりわけ順位を競っている。
1位(金メダル)、2位(銀メダル)、3位(銅メダル)、4位、5位、6位・・・。
採点競技では当然、採点結果で順位が決まる。
2010年バンクーバー冬季五輪(オリンピック)の女子シングルにおけるキム・ヨナ、本大会の男子シングルにおけるカナダのパトリック・チャンのように“ぶっちぎり”というケースでは順位が変わるわけでなく、たいして気にならない。
私は、大会の地元選手を除き、会場の反応はかなり正しいと思う。
それ以前に、自分が上か相手が上かは、戦った選手がもっともよく分かっている。
勝負の世界に身を投じている人はたいていそうだ。
それが感じられないとしたら一流、まして一番になれない。
ところが、本大会の女子シングルにおけるショートプログラム(SP)のように1位と2位が僅差というケースでは採点結果に関心が向かう。
私は、キム・ヨナと安藤美姫の得点、したがって順位に違和感を覚えた。
それで終わらなかった。
フリースケーティングにおける二人の得点も腑に落ちなかった。
明らかなミスを犯したキム・ヨナがなぜ同じような採点結果になるのかと・・・。
⇒2011年4月30日「安藤美姫、逆転世界女王!…審査員の粋な計らい」はこちら。
私は世界フィギュアで不正があったと述べているのでない。
あれが客観的だというなら、採点基準(方法)そのものに問題がありはしないか。
競技の評価は専門家(審査員)が行うことに異論はない。
が、観衆(ファン)あってのスポーツ。
ファンの印象と審査員の判定がかけ離れていることは好ましくない。
なるべく大勢にとっての分かりやすさは、競技の人気を高めるうえでも重大な要素でなかろうか。
私は門外漢だが、フィギュアスケートの採点基準(方法)を見直したほうがいいと感じた。
知識を持たない素人でもそれなりに共感できるものであってほしい。
⇒2011年4月29日「安藤美姫、世界女王へガッツポーズの品格」はこちら。
◇
人間がつくった採点基準(方法)に完璧はない。
ゆえに、ときどきもしくはしばしば、いくらかもしくはかなり変更される。
しかも、広い意味の「政治力」が関わることがある。
非常に厄介だ。
これは採点基準でなくルールの変更だが、日本では過去に複合を含めたノルディックスキージャンプの選手が苦しめられた。
世界に敵なしの荻原健司はそれにより突然、勝てなくなってしまった。
天国から地獄に突き落とされた。
彼が苦悩する姿を見て、何と理不尽なことかと思った。
採点基準が変更され、特定の選手が有利になったり不利になったりするということが起こる。
あるいは、特定の国や地域が…。
競った(せった)展開では、観衆やファンに対して採点がグレーという印象が残りかねない。
今日、採点に関してあからさまな不正は行われない。
話題の国際試合になるほど、マスコミもファンも世界中が監視しているからだ。
明白な順位が引っ繰り返るというのは、よくよくのこと。
ただし、審査員が採点に当たって特定の国や選手に肩入れすることは起こりうる。
また、採点は人間が行うことなので、審査員がすり込まれた情報、植えつけられたイメージなどにより左右される。
大会の事前や寸前に、陣営がそれらをどのようにコントロールするかも選手の得点に影響する。
選手の名声や人気、実績、勢い、さらに会場の盛り上がりなど、もろもろの要素が採点の圧力として作用する。
むろん、国際情勢も…。
今回の世界フィギュアでは会場のあちこちで掲げられた「日の丸」がいくらか影響したのでないか。
世界が日本の復興を応援していた。
また、1年ぶりに登場したキム・ヨナを勝たせてよいのかというためらいが働いた?
そもそも審査員の採点ははなはだ危うく、したがって選手の得点もはなはだ怪しい。
採点競技の宿命といってよい。
注目のスポーツにおける採点の問題は、それ自体よりも基準のほうがはるかに大きい。
競技が高度化するにつれ、採点が複雑化しやすい。
素人は理解不能に…。
やがて審査員の判定とファンの印象が大きく食い違うという事態が生じる。
そうした採点基準だが、選手の演技(表現と技術)の向上や進化をもたらしてきた。
とくに国際試合を活躍の舞台とする有力選手に、努力(練習)の方向性やあり方を決定づけている。
世界中の選手とファンが納得しやすいことが大切だろう。
⇒2011年4月25日「女子フィギュアと熱烈ファン…勝敗に目くじら」はこちら。
以下に、「浅田真央を取りあげた、いい加減なブログ」と題する2010年12月18日のブログを収める。
ついては原稿にいくらか手を入れた。
◇◆◇
名もない私のブログに大勢の読者が訪れてくれる。
心より感謝したい。
私は懸命に執筆しているが、これは「いい加減なブログ」である。
それをお断りしておきたい。
このブログを読むうえで頭に入れておいてほしいことは、以下のとおり。
記事とは「取材」を行って書くものだ。
そうすれば“確証”が得られると限らないが、これが基本中の基本である。
そうでない記事は信憑性(しんぴょうせい)がきわめて低い。
何せじかに見たり聞いたり触れたりしていない。
私は年中無休で働いており、仕事に四六時中追われている。
ブログを書くために取材をわざわざ行うことはない。
内容に相当な限界がある。
このブログを含め、ネット上に流通する情報は他人の情報を土台としていることが多い。
私が心がけているのは、なるべく取材を経た記事を参考にすること、そうでない場合には信用が置けそうな記事を参考にすることくらい。
それが精一杯だ。
このブログのなかで、事実に関する記事はテレビや新聞の報道を踏まえており、わりと正確である。
だが、それとてもメディア(媒体)が取捨選択、編集加工を行っており、バイアス(偏向)がかかっている。
私がそれを下敷きにして書いた記事は事実が歪んでいるかもしれない。
このブログのなかで、私の体験に基づいて書いた記事はもっとも信頼が置ける。
すなわち、自ら実行した事柄、自ら遭遇した事柄だ。
その中心になるのは、私の本職である再建・変革・創造系の「コンサルティング」と密接に関わる内容。
これらの情報はそれなりに的確でなかろうか。
記事により、豊富な体験を踏まえて“信念”に達した事柄を述べている。
とりわけ熱心な読者に、このブログの危うさを十分に理解していただきたい。
私が取材をはしょる以上、記事を書く際に確証を得ているということはまずない。
しかし、それがなくては記事を書けないとなると、このブログは成り立たない。
そこで、私はなるべく“確信”が持てた事柄を書くように努めている。
が、確信とは主観に基づいた“憶測”にすぎない。
間違いだらけ・・・。
◇
私は記事を書く際に、その場に自分を置くという「イマジネーション」を大切にしている。
特定の個人や団体(企業・組織)を取りあげるとき、面と向かって言えることしか書かない。
あるいは、講師という仕事柄、大勢を前にして演台で言えることしか書かない。
ブログの左サイドに記したとおり、記事の一部を講演や公開セミナー、企業研修でしばしば用いる。
これまでに数えきれないほど会場全体が凍りついた。
一例を挙げれば、トヨタを痛烈に批判した記事がある。
もし私が同社で講演を行うとしたら述べる。
もし豊田章男社長と面会を行うとしたら述べる。
私は、企業のセレモニー(記念行事)に招かれることがある。
人前で話す商売を長く続けているのに、こうしたおめでたい席でスピーチを頼まれたことが一度もない。
「あいつは指名するな」と言われているのか・・・。
私は自分なりに確信が持てないと述べない。
むろん、最終的には相手や参加者が判断することだ。
私は自分なりに確信が持てないと書かない。
むろん、最終的には読者が判断することだ。
私は出張が非常に多い。
このブログはおもに車中や宿泊先でまとまった時間が取れるときにどんどん書き溜めている。
1年前、2年前の素材を仕上げることもある。
ブログを始めた頃からコメントにほとんど対応できなかった。
去年までは社員、今年からはマネジャーや妻がときどきチェックし、まとめて削除。
残すのは、まれに寄せられる知人のコメントのみ。
が、アクセスが千を超えてから、それとても対応できなくなった。
そうした状態なので、いまは受け付けていない。
◇
実は、浅田真央が銀メダルに終わった2010年バンクーバー冬季五輪(オリンピック)以降、このブログにコメントなどが寄せられた。
フィギュアスケートの採点に関する意見だ。
私はちらっと見たことがある。
おそらくすべてが浅田真央の得点に不満を訴える内容であり、その勢いで韓国のキム・ヨナを退ける。
たいてい“裏情報”が添えられる。
ワンパターンで、読むに値しない。
すでに述べたとおり、私は韓国へ行って当事者や関係者に面と向かって言えることしか書かない。
それなりに確信が持てる事柄にほかならない。
なお、フィギュアスケートの採点について私がどう思ったかは、このブログで2度述べている。
もちろん韓国で言える。
採点競技では採点方法により得点はもちろん順位まで動くことはよく知られている。
ノルディックスキー複合の超人(鳥人)・荻原健司は度重なるルール変更で勝てなくなった。
これは採点競技にも通じる。
⇒「明日へのヒント 荻原健司」はこちら。
◇
これもブログで繰り返し述べているが、私はあの人が好きか嫌いかという自分の気持ちに興味がない。
それは私の勝手な感情であり、どうでもいい。
このブログにわざわざつづらない(好きに限り述べることはある)。
人生の貴重な時間をそれに費やすことはしない。
⇒2010年11月8日「自分の時間を他人の批判に費やす」はこちら。
あの人を評価するかしないか。
これに尽きる。
好きだから応援するわけでない。
評価するから応援する。
このブログを貫く基本姿勢である。
⇒2010年4月27日「素人とプロの決定的な違いとは?」はこちら。
私は個人の好き嫌いを表明しない(好きに限り述べることはある)。
意味がないからだ。
その人が嫌いと思った瞬間、その人から学ぶべきことまで見えなくなる。
頭も心も貧しくなる。
つまらん。
人は皆、評価できる点と評価できない点が混在していると、私は考えているのだ。
この世に絶対的に正しい人、絶対的によい人はいない。
そうした人がいたなら、大勢が教えを乞おうとする。
「門前、市を成す」。
世間が放っておかない。
⇒2010年4月26日「学びとは違和感、成長とは不快」はこちら。
以前、公開セミナーの休憩時間、私のブログの読者だという参加者が話しかけてきた。
ありがたい。
「先生は****が好きですか」。
幾度か取りあげたタレントだった。
私は答に窮した。
こう述べると、誤解されるかもしれない。
「和田創は****が嫌いだ」。
そういうことでない。
このブログで取りあげる尺度は「好き嫌い」とまったく無関係である。
⇒「明日へのヒント 大山康晴」はこちら。
ブログの執筆では、好き嫌いと評価をごちゃ混ぜにしないように戒めている。
とくに自分の感情に引きずられないように…。
◇
私はイマジネーションを大切にしている。
特定の個人を取りあげるとき、つきあいたいと思うかどうかを自らに問いかけている。
浅田真央でも、北島康介でも、イチローでも同様。
和田創は、なぜ凡人のままなのか?
理由は簡単、彼らとつきあいたいと思わないからだ。
苦しくて、辛くて、私には耐える自信がない・・・。
彼らと本気でつきあおうと思う人は、すでに素晴らしい成果を上げ、実績を残しているはずだ。
私は彼らからかならず逃げ出そうとする。
食らいつく覚悟があったら、私はいまの地点やレベル(水準)に留まっていない。
平たく言えば、偉くなっている。
はたから応援するのは気楽。
私は、自分がつきあいたくない人を取りあげることが断然多い。
つきあいたくない人とは、私が学ぶべき人にほかならない。
相手の年齢は問わない。
“尊敬”に値する人物である。
還暦目前とはいえ、このブログを自らの成長の糧にしたいと願う。
そして、懸命に執筆している。
⇒2010年7月29日「和田創ブログ&セミナーの基本スタンス」はこちら。
きょう述べたことは、このブログで大切にしている基本姿勢である。
ところが、人格者でないので、それをまま外してしまう。
あくまで私が心がけていることだ。
このブログなど取るに値しない。
くだらん。
まして馴れあいのブログやサイトは・・・。
大事なのは、世間や周りに惑わされず、自分の頭で考え抜くことだ。
考えて、考えて、考えて、考えて、考えよ。
Copyright (c)2011 by Sou Wada
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