きのうのブログ「締め切りが怠け者に仕事をさせる」に続いて・・・。

⇒2012年8月21日「締め切りが怠け者に仕事をさせる」はこちら。

私は講師の仕事に恵まれ、それをこなす毎日が続いた。
なかでも1997年〜2003年の7年間は仕事が津波のように押し寄せた。
自宅にときどき戻ると、精も根も尽きていた。
ベッドから起き上がる気力も失せた。

できることの、果てしない繰り返し。
行き先が変わるだけで、やっていることは同じ。
テーマも内容も「提案営業」一本。

私はクライアントに締め切りを言い渡され、困難な仕事に四苦八苦していた頃が懐かしくなった。
それはいくらかでも「挑戦と創造」の要素が含まれていた。
気分の高揚も感じられた。

そうこうするうちに、提案営業のブームが去りはじめた。
今後について考えるゆとりが降ってきた。
私は50代後半に差しかかり、還暦を意識するようになった。
60歳以降のサードキャリアである。

同時に、長年の惰性を一掃したかった。
自分が腐ってしまう。
職業人生が残りわずかになり、「挑戦と創造」を大切にしたいと考えた。
私は両親ともに深刻な痴呆の家系であり、ボケを少しでも遅らせたいという気持ちもあった。
介護に当たる家族がたまらない。

ならば、自らに斬新なテーマを与え、かつ過酷な締め切りを押しつけよう。
そう誓った。

そこで、50代後半に商品開発に取り組んだ。
営業コンサルタント、営業講師として保有する膨大なノウハウを集大成する。
具体的には多様なコンテンツ(カリキュラム)に仕上げる。
それを用い、講師として新規の講演やセミナー、研修を行う。
仕事を活性化できる。
また、テキストデータ(電子教材)、CD(音声教材)、DVD(映像教材)として提供する。
将来、eラーニングとして展開する。

ところが、後で判明したのだが、更年期障害とぶつかった。
私は父がそうだったことを思い出した。

3〜4年ほど体調が悪く、なかでも57〜58歳は仕事がほとんど手につかなかった。
妻によれば、ブログを書くくらいしかできない状態(実際には働いていた)。
商品開発も挫折に近かった。
この間、妻はひたすら我慢していたことになる(文句を一度も言わなかった)。

59歳の誕生日が迫り、長年お世話になったクライアントとセミナー会社に講師の仕事を続けられない旨を伝えた。
私の代わりを探すのに、時間の猶予が必要かもしれないと考えたからだ。
突然辞めては迷惑をかける。

59歳(2010年7月)を迎えてほどなく、別の病気の受診でたまたま更年期障害が判明した。
すると、なぜか最悪の体調が徐々に改善した。
原因が分かって安心したからなのか、それともそういう時期に差しかかっていたのか、不思議である。

私は2010年秋頃から仕事(商品開発)に向かえるようになった。
とくに還暦(2011年7月)以降はエンジン全開である。

怠け者の私は、締め切りを設けたことで前へ進んでいる。
とはいえ、意志が弱く、頭が悪く、集中力も乏しく、遅々とした歩みである。
が、頑張っているのは確か。
現時点でアルツハイマーは発症していない。
いつまで突っ走れるだろう・・・。

◆書き加え1(8月22日)

明確な締め切りを設けられないと、何一つやり遂げられないうちに人生が終わってしまう。

幕引きが迫り、そうした思いが強くなっている。
私は気づきが遅い。

以下に、「締め切りが怠け者に仕事をさせる」と題する2012年8月21日のブログを収める。

                      ◇◆◇

締め切りは偉大だ。

私は30代までプランナーとしていわゆる業界に生息していた。
クライアント(顧客)から企画業務を受託し、それを約束の期日に納入する。
アウトプットは企画書になる。
つねに締め切りに追い回されていた当時は、締め切りについて考えることもなかった。

私は職業人生が終わる頃になり、締め切りが人に仕事をさせることに気づいた。
むろん、前々から分かっていた。
身に染みてそう思うようになったのはわりと最近である。

私は、学生時代を振り返るまでもなく怠け者である。
そもそも働くのが好きでない。
クライアントから次々と締め切りを与えられたせいで仕事に打ち込み、ささやかな収入が得られた。
それだけでない。
能力が培われたのは、容赦ない締め切りのおかげだ。

・・・40代、本を出そうと思ったが、手がかりがない。
そこで、日本経済新聞社やダイヤモンド社など、ビジネス系の出版社5社に飛び込み営業をかけた。
どこか1社で話がまとまればもうけものと考えていた。
結果、5社すべてから出版のゴーサインが出てしまった。
まさか!

しかし、働きかけたのはこちらなので、引っ込められない。
原稿の執筆は地獄だった。
自分はまともな文章を書けない、筆が恐ろしく遅いと悟ったが、後の祭である。
迷惑をかけた出版社もあったが、私が40代前半に5冊の本を出せたのは厳しい締め切りのおかげだ。
それがなければ、1冊の本も出せなかった。

私は40代後半にコンサルタントと講師の仕事が軌道に乗りはじめた。
突出した評価が得られ、とくに講師の仕事が殺到した。
手帳が先々まであっという間に埋まった。

私は当日、クライアントやセミナー会社に足を運ぶだけでよい。
そして、大勢を対象に絶叫に近い状態で営業教育や営業指導を行う。
百人、2百人は当たり前。
私は汗まみれ。
来る日も来る日も同じことを繰り返した。
テーマも内容も「提案営業」一本。

テープを再生すれば済む。
疲れ果てたとき、そんな思いが麻痺した頭をかすめた。

私は締め切りから解放された。
その点においてはらくだった。
が、引き換えに、何もできなくなった。
こなしきれない講師の仕事を抱え、新しいことに挑めず、新しいことを生み出せなかった。
出版についても心身と時間の余裕はもちろんなかったが、それ以前に仕事上の必要性がなかった。

締め切りと無縁に・・・。

「挑戦と創造」が、私が私である所以(ゆえん)だったはずだ。
このままでは自分がダメになってしまうという気持ちが21世紀に入り、次第に強くなっていった。

私には決して少なくない家族もいるし、社員もいる。
相変わらず講師の仕事で飛び回っていた。
もう惰性だった。

続きは、あすのブログ「自分に締め切りを押しつける」で・・・。

⇒2010年8月18日「漫画家・水木しげる、締め切りの地獄と天国」はこちら。

⇒2010年8月20日「職業人生に締め切りを設けよ…水木しげるの教え」はこちら。

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