きのうのブログ、「父の訃報にほっとする・・・大往生」に続いて・・・。

⇒2013年9月16日「父の訃報にほっとする・・・大往生」はこちら。

先週水曜日、長らく施設(都筑の里)に入所していた父が93歳、老衰で亡くなりました。
私はバタバタになり、予定どおりに仕事を進められませんでした。
大幅な遅れを取り戻さなくてなりません。
今週も引き続き、猛烈に頑張ります。
62歳でそれができる自分に、幸せを感じます。

ところで、私は火葬場(横浜市北部斎場)の火葬炉の前に表示された父の名前「憲作」を見て、それは父の職業人生、さらに人生を決したことに気づきました。
ぼんやりと分かってはいましたが・・・。

父は大正8年(1919年)、入善町椚山の貧農(おそらく小作農)に生まれました。
長男です。
私は、若くして亡くなった祖父(父の父)をまったく知りません。
が、この名前には、祖父の長男に対する特別の思いというか期待が込められているのでないでしょうか。
「憲作」は、農家の後継ぎにしようとする名前でありません。
「憲」は「基本となる掟」「憲法」の意味があり、それを「作る」となると大変なスケールです。

昔、長男は一家の職業の跡取りになりました。
保守的な村社会のなかの農家の長男ならなおさらです。
にもかかわらず、父は大阪へ出て書生暮らしを始め、法律専門学校に通いました。
卒業はできなかったようですが、その事情や理由は分かりません。
苦労は筆舌に尽くしがたいものだったでしょう。

父が法律家を目指したのは確かです。
少なくとも法律に関わる仕事に就こうとしました。
ひょっとすると、政治家になりたかったのかもしれません。
それもこれも親がつけた名前「憲作」が影響を及ぼしていると、私は火葬場で考えたのでした。
いまとなっては父にも母にも尋ねられませんが・・・。

父は、エリート意識が強く、プライドが高い人でした。
それは半端でなく、自分の兄弟に対してもそうでした。
いや、自分の兄弟に対して一番はっきりと表れました。
家を飛び出したからには偉くなるとの気持ちを抱きつづけていたのでしょう。
「立身出世して故郷に錦を飾る」という言葉が生きていた時代です。
そうでなくては、自分の兄弟にも、実家の近所にも、椚山の住民にも顔向けできないと・・・。

父は、呉羽紡績、東洋紡績(呉羽紡績を実質、吸収合併)、YKK(吉田工業)で職業人生を終えました。
どうやら当時(戦後)の一流企業、地元(富山)の一流企業に勤めることで自尊心を保とうとしました。
どこか見栄や面子にこだわっており、ちっぽけに思えます。
が、それは父の能力と境遇で叶えられた精一杯だったのでしょう。
私は胸が熱くなります。

父は、自分が大阪へ出ていくときに見送ってくれた祖母(父の母)の顔を忘れられないと、私に一度だけ語ったことがあります。
女手一つで育ててくれた母を捨てる罪悪感を持ったのでしょうか。
それとも、母に楽をさせたいとの願いが強かったのでしょうか。

祖母がどのような思いで見送ったかは分かりません。
私たちがときどき椚山の実家を訪れたとき、祖母が私たちの暮らす直江津に訪ねてきたとき、父への祖母の接し方は他の兄弟(私の叔父・叔母)への接し方と明らかに違いました。
とても誇らしげでした。
おそらく父は生涯、心の底で名誉を欲していました。

私は、日本経済新聞社の奨学生制度を利用して明治大学へ進学するために夜行列車で上京するとき、入善駅のホームで見送ってくれた父の顔を覚えています。
時代も環境もまるで違いますが、父はかつての自分の姿とだぶらせていたのでしょう。

また、だれから聞かされたかは忘れましたが、父は戦時中に軍隊で「堅パン」と呼ばれていました。
「尊敬半分、揶揄半分」というより、からかいの比重が大きいのかもしれません。
やはり「憲作」という名前が人生観の根っこにあったのです。

私は、父が燃やされる頃になり、宿命と生きざまがいくらか腑に落ちた気がしました。

⇒2013年9月16日「父の訃報にほっとする・・・大往生」はこちら。

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