きのうのブログ、「火葬炉の父の名前『憲作』に気づく」に続いて・・・。

⇒2013年9月17日「火葬炉の父の名前『憲作』に気づく」はこちら。

93歳の父は先週、2013年9月11日に老衰で永眠しました。
急速に進んでいた「アルツハイマー病」が特養施設の入所後に決定的に進み、だれも何も分からなくなりました。
あっという間…。
父は植物人間に近い状態でしたが、生来の「生命力」で十年ほど生きつづけました。
痴呆(ボケ)のほかは何一つ悪いところがなく、体が素晴らしく丈夫でした。
私たちが「もうダメかなぁ」と思った幾度かの危機も乗り越えていきました。

両親はどちらも深刻な痴呆の家系でした。
私は顔などが父にそっくりですので、アルツハイマー発症は時間の問題と覚悟を決めています。
私は、父が衰えはじめた50代後半を過ぎ、62歳に達しています。
ここ数年、自分の記憶がどんどん曖昧になっています。
そこで、父が亡くなった機会に父について、母について綴っておこうと思います。
このブログですでに述べている可能性があります。
また、それと内容に食い違いや矛盾が生じるかもしれません。
原則として、古い記事のほうが正しいはずです。
しかし、その後に分かったり思い出したり気づいたりした事柄もありますので、新しい記事のほうが間違っているとも言い切れません。

                       ◇

父は2002年(不確か)に「特別養護老人ホーム都筑の里(センター北)」に入所しました。
この特養施設には認知症患者の入所棟が設けられています。
父は痴呆が進み、それまでもデイサービス(通所介護)を利用していました。
ときに母もつきあったかもしれません。

母は2004年8月に「昭和大学横浜市北部病院(センター南)」に入院しました。
この大学病院には病気(おもにガン?)の治療を目的とした医療でなく、症状(おもに苦痛?)の緩和を目的とした、人生の終末を迎えるための緩和ケア病棟が設けられています。
病棟に入ってほどなく亡くなる方が多いなかで、母は1年くらい頑張りました。
私は、医師にも看護師にも驚かれました。
母は、生きることへの執着が凄まじかったです。

私は2005年8月14日、母の死期が近づいていると感じ、富山・滑川の妹の家族を呼び寄せました。
いよいよ病状が悪化した9月3日、再び妹の家族に声をかけました。
9月4日、都筑の里のスタッフに協力してもらい、父を病床に連れてきて母と対面させました。
母はとても喜びました。
父はわずかな時間でしたが、差し迫った状況が飲み込めたようでした。
母の手を握らせると、涙を流しました。
私が見た父の最初の涙でした。
個室がもっとも盛りあがった瞬間です。

妹がそのまま病室に残り、病床につきっきりでした。
が、3泊目にどうにも疲れてしまい、昭和大学横浜市北部病院の真正面の「ホテルアトラス(センター南)」に入り、シャワーを浴びて体をちょっと休めた間のことでした。
母は2005年9月7日朝に永眠しました。
人生の後半(1968年〜)は生活と闘い、晩年は病気と闘いました。

9月8日、都筑の里のスタッフに協力してもらい、父を母の遺体が安置されている「奉斎殿・葬儀の板橋(十日市場)」に連れていきました。
私や関係者が、父は葬儀に立ち会うのは困難という判断を下したからです。
また、父は何よりボケることを恐れ、恥じていました。
とくに兄弟や親戚に自分の姿を見られたくなかったでしょう。
私がその思いを汲みました。
なお、当時、自宅のそばの「奉斎殿・葬儀の板橋(都筑)」はできていませんでした。

そして、霊安室で、私も妻も妹も驚く出来事が起こりました。

私が父に棺(柩)に納められた母を見せ、父に母が亡くなったことを告げたときでした。
父は我に返った表情で、「えらいすまんことをしたのう(不確か)」とつぶやきました。
私が見た父の最後の涙でした。

父は十秒くらいで無表情に戻りました。
時間はもっと短かったかもしれません。
父は、決して楽でなかった生涯をともにした母の死という、もっともつらい現実と情景を見たくなくて、心にシャッターを下ろしたのだと、私は考えました。

私は、痴呆が決定的に進んだ父がこの言葉を発したことがいまだに信じられません。
妻の死を悟り、しばらく悲しみに暮れるのなら分かりますが…。

「えらいすまんことをしたのう」。
父の一言には、母の死に至る互いの経緯と事情が込められているからです。
「そばにいてやれなくて…」「放っておいて…」。
父は、自分を責めつつ、母に謝っています。
脳裏に、取り返しのつかない悔恨の念がわいたのでしょう。

両親が、そして家族がひどく苦しいとき、自分の気持ちをしまっておけない母がしばしば父に突っかかりました。
が、それでも、私も妹も二人はとても仲がよかったと思っています。
病床での対面時の母の大きな喜び、死後の対面時の父の深い悲しみに、夫婦の揺るぎない絆と愛情が凝縮されています。

⇒2013年9月16日「父の訃報にほっとする・・・大往生」はこちら。

⇒2013年9月17日「火葬炉の父の名前『憲作』に気づく」はこちら。

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