コンサルの引き出し|和田創ブログ

だれの目の前にも可能性の地平は広がる。それを切り拓けるかどうかは自分次第である。「面白くないジョークの会」初代会長が解き明かす経営と人生の奥義とは?

マイライフ

RPAテキスト作成・・・日本ロボコム

陽気のせいか、頭がぼんやりする

だいぶ春らしくなってきました。
陽気のせいでしょうか、眠気に襲われ、頭がぼんやりとしています。
私は仕事に追われ、きのうが「ひな祭り」ということも忘れていました。
心の余裕がまったくありません。

「RPA」のテキストを作成する

早めに着手したにもかかわらず和田創研「増収直結SFA・CRM基礎講座」、日本ロボコム「RPA大勉強会」のテキストの作成が遅れ気味です。
とくに「RPA大勉強会」のテキストは3月の「ロボットビジネス勉強会」でも使います。
一日も早く仕上げたい。

講演とセミナー、打合せで出張へ

今週は「営業精鋭学校説明会」の講演、「値上げ交渉の進め方」や「値引き対策の進め方」のセミナーで講師を務めます。
クライアントとの打ち合わせ、経営相談を含め、4泊5日の出張になります。
(自室のクマがさみしがり、家族に噛みついてばかりいます。)

体力が衰えて集中力を高められず

新年度の準備を始めなければならない時期に差しかかりました。
気持ちは焦っていますが、加齢などで体力が衰えて「集中力」をなかなか高められません。

夢に見るのも過去の出来事がずいぶん多くなりました。

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宮原知子と坂本花織に追いつくのは大変

平昌五輪の興奮を味わえなかった

仕事に忙殺されている間に、フィギュアスケートやスピードスケートの観戦を楽しみにしていた平昌五輪(ピョンチャンオリンピック)が終わってしまいました。
日本勢が大活躍し、冬季五輪で過去最多となるメダル獲得を成し遂げました。
私はその興奮を味わえなかったことが心残りです。

福岡出張で大杉漣の訃報に接する

長期出張の福岡のホテルで、徳島県の小松島中学校を卒業し、城北高校に入学し、明治大学を中退するという学歴がまったく同じだった俳優の大杉漣が66歳で亡くなったことを知りました。
ご冥福をお祈りします。
偶然とはいえ、飼っていたペットの名前まで同じです。

私は66歳になり、訃報に接することが多くなりました。
とことんつきあった長野県の伊那中学校の友人はだいぶ前に亡くなりました。
さみしいかぎり。

⇒2010年9月19日「大杉漣プロフィール…小松島中学校・城北高校出身」はこちら。

2月下旬にブログ更新が途絶える

2月下旬に疲れがどっと出て、頑張って更新してきた和田創ブログも途絶えています。
とりわけフィギュアスケート女子シングルについて書きたいことがたくさんあります。

平昌五輪に出場した宮原知子と坂本花織が自己ベストを更新するなどし、代表切符を逃した樋口新葉や三原舞依、本田真凜などと力の差を大きく広げました。
自信をつけた2選手に追いつくのは簡単でありません。

2018年世界フィギュアスケート選手権が行われるはずですので楽しみたいと思います。

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謹賀新年  和田創

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくおつきあいください。
皆さまのご健康とご多幸をお祈りします。



私は年末年始休暇に新刊『社長の営業力』の原稿の素読みに追われています。
「素読み」の本来の意味は、原稿と突き合わせを行わずに「校正」を進めることです。
(出版社は著者から原稿をデータで受け取っているはずですので、突き合わせの必要性はほぼなくなっていることでしょう。)

私の場合は著者と編集者を兼ねています。
そこで、書籍の状態に「編集レイアウト」を行った原稿を出力して確認したうえで印刷所にデータで入稿します。
その後に著者として原稿に直しを入れることはありません。
印刷所はそのまま刷るだけです。
したがって、いまは原稿の最終確認と最終校正を行っていることになります。

『社長の営業力』は長い年月をかけてブラッシュアップを重ねてきましたので、原稿にざっと目を通して終えるつもりでした。
しかし、気になるところがちょこちょこ出てきて、手を入れつづけています。
際限がなく、かなりの手間を取られています。
元日に手を放したいと思っていますが・・・。

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昔の上京は鈍行での大変な長旅でした・・・

昔はそれはそれは大変な長旅でした。
1951年生まれの私にその記憶が残っているのは1950年代後半から1960年代初頭の数年です。
列車がSL(蒸気機関車)でのろく、移動にとんでもない時間を要しました。
暑い季節は窓を閉めておくわけにいかず、煙が石炭の灰とともに容赦なく入ってきました。

背面が垂直の座席は恐ろしく固く、座り心地が最悪でした。
(背板だったかもしれません。)
さらに、前の座席との間隔が狭く、大人だと膝がぶつかり、脚が窮屈でした。
体が痛くても疲れても、姿勢を崩しようがありません。
ほとんど身動きが取れない状態で、ひたすら耐えなければなりませんでした。
(こうした座席はわりと近年までありましたが、10時間に迫る乗車では珍しいはずです。)

記憶が曖昧ながら、信越本線の鈍行(各駅停車)で直江津駅から上野駅へと向かいました。
(やがて「急行」に乗るようになったはずです。)

山間地帯を抜け出して関東平野に出ると一気に視界が広がりました。
高崎駅(高崎市)は最初の都会、東京の入口という印象でした。
団塊の世代の方ならお分かりいただけるでしょう。

目的地(終着駅)にたどり着いたわけでもないのに、胸をなでおろしました。
小学生の私だけでなく、両親も同じだったと思います。

気が遠くなるような道中、横川駅で「峠の釜めし」を土瓶入りの緑茶と買い求めることが唯一の楽しみでした。
ウィキペディアによれば、「駅弁=折詰」という常識を打ち破った峠の釜めしが発売されたのが1958年でした。
直江津小学校の2年生に当たります。

手元に写真が残っていれば、当時をいくらか振り返れます。
例えば、上京が何回だったか、東京で何を楽しんだかなどです。
しかし、私は1990年代後半(40代後半)以前の記録を何一つ持っていません。
誕生、幼児、園児、小学生〜高校生、社会人、結婚・・・。
いつ頃か分かりませんが、卒業文集も卒業アルバムも卒業証書も失いました。
亡くなった両親の昔の写真もありません。

老いが深まるにつれて、過去を懐かしく感じる気持ちが膨らんでいます。
当時に戻れると思っていませんが、手がかりがないのはさみしいかぎりです。
死ぬ前に写真でもいいから会いたい人がたくさんおり、触りたい暮らしがたくさんあるのです。

生きた記録を大切にしなかったことを悔やんでいます。

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直江津の映画館…日本映画の全盛期

昭和26年(1951年)生まれの私は先だって、Huluで1957年の「喜びも悲しみも幾歳月」と1954年の「二十四の瞳」を“ながら視聴”しました。
どちらも松竹映画ですが、両親と見たかもしれません。
しかし、私の記憶は幼稚園の年長くらいからですので、少なくとも「二十四の瞳」を覚えているはずがありません。
昔は東京に数年遅れで地方都市に映画がかかったのでしょうか?
それとも情操教育の一環として直江津小学校で見たかもしれません。
悲しいかな、すべてがあいまい・・・。

私はたまたま、昭和32年(1957年)の直江津市に4つの映画館があったことを知りました。
「直江津銀座劇場」「直江津第一劇場」「直江津東映劇場」「みなと劇場」。
当時は人口3万人未満(?)の地方都市でした。

日本映画は1950年代前半〜半ばが全盛期のようです。
戦後、数少ない娯楽として大衆に愛されたのでしょう。
ちなみに、黒澤明の「七人の侍」は1954年の作品でした。
彼の代表作であるとともに、映画の黄金期の代表作でした。

私は両親と映画館に足を運んだ記憶がいくらか残っています。
しかし、映画館のなかの独特な雰囲気とにおいはわりとはっきりと覚えています。

当時、真行寺幼稚園前の自宅(呉羽紡績直江津支所)と直江津小学校の通学路の途中に映画の看板屋がありました。
道路(雁木)に面したガラス戸を開け放し、広い土間(コンクリート?)で映画館にかける横位置の大看板を巧みな筆さばきで描いていました。
私は下校時に足を止め、ほれぼれするような職人技に見入っていました。
まもなく上映される映画のタイトルと象徴的なシーン、そして主演の役者などでした。
看板屋の斜め向かいに映画館があった気がしますが、勘違いでしょうか。
直江津東映劇場?

おそらく半世紀以上隔てて「喜びも悲しみも幾歳月」と「二十四の瞳」に触れ、直江津小学校時代の両親と暮らしの思い出がぼんやりとよみがえり、とても懐かしくなりました。
戻れるものなら戻りたい・・・。

◇◆◇

生まれ故郷・直江津に関するブログは以下のとおり。

⇒2016年4月15日「直江津駅乗降客激減…北陸新幹線開業」はこちら。

⇒2014年10月20日「直江津小学校同窓会…半世紀振り」はこちら。

⇒2013年10月7日「直江津駅は北陸新幹線が通らない」はこちら。

⇒2012年7月13日「直江津港はエネルギー港湾へ…佐渡沖石油・天然ガス田」はこちら。

⇒2012年7月10日「直江津市街の衰退…北陸新幹線開業」はこちら。

⇒2011年11月10日「直江津駅から上野駅まで各駅停車の旅…直江津に関するブログ」はこちら。

⇒2010年7月25日「直江津祗園祭花火大会、山車集結の賑わい」はこちら。

⇒2010年5月1日「鱈めしと磯の漁火は名作駅弁…直江津」はこちら。

⇒2010年4月30日「直江津マイミクとセピオーラで歓談」はこちら。

⇒2010年4月29日「特急はくたか、強風で全面運休」はこちら。

⇒2010年4月8日「大正期の洋館・いかや旅館…直江津」はこちら。

⇒2010年3月20日「校歌を歌ってみなさい…就活・面接」はこちら。

⇒2010年3月17日「卒業式シーズン…大人への通過儀礼」はこちら。

⇒2010年3月11日「心にぽっかり穴…直江津小学校卒業式」はこちら。

⇒2010年3月10日「直江津ホテルハイマートに宿泊予約」はこちら。

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伊那中学校の親友・・・卒業50周年の同窓会

きょうのブログは伊那中学校時代のいまは亡き親友に捧げます。

1951年(昭和26年)生まれの私は来年2017年(平成29年)に66歳を迎えます。
1967年(昭和42年)、伊那中学校卒業50周年の節目となります。

私は父の転勤にともない、日本海を望む新潟県直江津市(現上越市)から、アルプス山脈に囲まれた長野県伊那市に引っ越してきました。
直江津小学校では卒業式の前日に移動したため、出席することが叶いませんでした。

伊那中学校ではクラス替えが行われず、友人がたくさんできました。
とりわけ仲がよかったのが4人であり、学校の帰りがしばしば一緒でした。
休日の遊びや遠出もまま・・・。
なかでも一人は互いの自宅が国鉄伊那市駅のすぐ裏手であり、歩1分の距離でしたので、夕食後に部屋を行き来しました。
くっついていた時間がとにかく長かった。

私は中学3年で卒業式を意識しはじめた10月中旬に徳島県小松島市(小松島中学校)に引っ越しました。
伊那は寒冷な盆地なので学校は冬季の休みが長く、登校日は3か月ほどを残すだけでした。
がっかり・・・。

というわけで、私は伊那中学校を卒業したわけでありませんが、半世紀ぶりの同窓会か同級会が開かれると信じ、2〜3年前から楽しみにしていました。
親友は面倒見がよく、幹事になるはずです。
彼に頼み込んで、仲間に混ぜてもらおう・・・。

私は6月頃から消息を追いかけ、お盆休み明けの8月30日にようやく近隣の方と電話で連絡を取ることができました。
(グーグルマップのストリートビューがなければ、手がかりをつかめませんでした。)
そして、彼がかなり前に亡くなったことを知らされました。
高齢のお母さんは存命のようですが、伊那(実家)に一人で置いておけないと弟さんがロシアに連れていったそうです。
きれいでやさしいお母さんでした。
私まで可愛がってくださいました。

「会っておけばよかった・・・」。
私は1週間、悔いに苦しみ、講師の仕事とクライアントの受託業務のほかは何も手につかなくなりました。
彼はさみしさと喪失感を悟ってか、昔の笑顔で夢にたびたび現れました。
仲がよすぎて距離を取った時期もありましたが、素晴らしくいい奴だった。
ありがとう!

私(富山県立魚津高校卒業)も彼(長野県立伊那北高校卒業)も大学進学で上京しました。
二人とも昼間の学生でありながら昼間の仕事についていました。
彼は有名デパートなどでお得な宝飾品の販売に携わっており、収入が多かったのでしょう。
私は新宿や銀座の盛り場に誘われ、酒をおごってもらいました。
すべてが女の子のいる店です。

やがて彼は札幌など遠隔地に転勤し、さらに私も彼も所帯を持って転々とし、連絡が取れなくなってしまいました。
おそらく音信が途絶えた最大の理由は、どちらも家族を養うのに精一杯だったことでしょう。
私自身は今日まで仕事漬けになりました。

先だって東京生まれの団塊の世代と話していたとき、「同窓会のたびに人が消えていく」と嘆きました。
どうしても会いたい人には早めに会っておくべきですね。
人間はかならず死にますから・・・。

私は直江津小学校の卒業50周年記念同窓会に参加できませんでした。
せめて魚津高校の卒業50周年記念同窓会には参加したいと思います。

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リオ五輪、時差12時間の寝不足、観戦疲れ

私はスポーツに関心が高いわけでありません。
しかし、五輪などの主要な世界大会は別です。
なかでもオリンピックは夏季・冬季を問わず、夢中になります。

ブラジルは地球上の位置が日本の真裏に当たり、時差が12時間です。
リオデジャネイロ五輪の会期中は猛烈な寝不足になりました。
パソコン画面の片隅に最小サイズで放送を流しているだけですが、日本選手が活躍する競技や種目では仕事の手が止まり、つい見入ってしまいます。

台風の襲来をきっかけに気温が大幅に下がりました。
観戦疲れ、応援疲れもようやく抜けてきました。
どかんと溜まった仕事を片づけたいと思います。

◆書き加え(8月31日)

土日や祝日を利用し、新会社の創業メンバーと接触しています。
(若い世代との交流や協業は私の喜びでもあります。)
こちらのプロジェクトにも勢いをつけたいと欲張っています。

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合格発表、緊張の瞬間、歓喜の光景

「あった!」。
緊張の瞬間、そして歓喜の光景もいいものだと思いますが、時代はどんどん変わっています。

合格発表がキャンパスの掲示板に貼り出されることもないようですね。
この時期、祈るような気持ちで自分の受験番号を探した記憶がよみがえってくる年配の方もおられるのでないでしょうか。

私はきのう妻から、子が最初に受験した私立大学の入試結果を知らされ、ほっとしました。
国公立大学を含め、私も子もこの大学のおっとりとした校風がもっとも気に入っています。
また、港北ニュータウンの自宅から理工学部の校舎まで、横浜市営地下鉄でも自転車でも20分ちょいで通えるので理想的です。

しかし、この大学にずばりの「建築学科」はありません。
資格を取れないというわけでありませんが、子はきわめて早い段階から「建築士」になると決めています。
人生はなかなか思いどおりになりません。

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浄土真宗本願寺派本山・西本願寺に参拝

私は先だって京都での新春講演の前に「西本願寺」に寄りました。
半世紀前に伊那中学校の修学旅行で行ったのは「東本願寺」でした(記憶が曖昧)。
かねてより一度は西本願寺に行きたいと思っていました。

さて、私は京都駅から最短の距離を目指し、住宅街をじぐざぐに曲がってたどり着きました。
信号待ちの時間も減らせます。
西本願寺は構え(塀と門)がとても立派でした。
そして、門を潜ると広大な敷地(境内)と建物(堂)が現れました。

仕事の時間が差し迫っていた私が境内に留まったのはわずか3分ほどでした。
とても参拝と呼べませんが、おごそかな空気に触れられました。
足を運んでよかった・・・。

私は三が日に家族と地元・横浜の杉山神社に出向いており、今回の参拝に初詣という言葉は使えません。
しかし、これまでの初詣は神社がほとんどでしたので、お寺はそれと違った気分を味わうことができました。
とてもいいものですね。

ウィキペディアによれば、西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山であり、正式名称は「龍谷山 本願寺」とのこと。
京都市民から「お西さん」の愛称で親しまれているそうです。
おみくじ、御札(おふだ)、御守(おまもり)などはありませんでした。

もう一度ゆっくり訪れるつもりです。

◆書き加え(1月25日)

和田創ブログはたいてい書き溜め記事を妻にアップしてもらっています。

私が新潟県直江津市(現上越市)に暮らしていたときに通った自宅前の「真行寺幼稚園」は浄土真宗本願寺派です。

私はやがて「直江津小学校」に進みました。
当時は、大晦日の「紅白歌合戦」が終わってから、両親と「除夜の鐘」をつきに真行寺に行ったものです。

また、我が家の納骨堂(墓)がある渋谷区元代々木の「應慶寺」も浄土真宗本願寺派です。

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撮りてぇと思ういいオンナがいねぇのさ

スマホをiPhone5から6に買い替えました。
本体が薄く画面が大きくて気持ちがいいです。

店員との雑談のなかで、ガラケー時代を含めてカメラ(写真・動画撮影機能)を一度も使ったことがないと言ったら驚かれました。
古代人を見るかのような目つきでした。

失礼でしょ!

「せっかくですから、ぜひお使いください」。
「撮りてぇと思ういいオンナがいねぇのさ」。

タバコを吸う人と写真を撮らない人を犯罪者のように扱うのはやめましょう。

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京都人の親切に救われる

私は先だって二条城の近くのANAクラウンプラザホテル京都で新春講演を行い、タクシーで新幹線・京都駅に向かいました。
年配の運転手と意気投合し、話に夢中になってしまいました。
私は若い頃から京都の土地、そして京都の人間、企業が大好きです。

次の乗客が後席の床に落ちている名刺入れを見つけました。
そして、運転手から和田創研に電話がありました。
着払いで送ってくれるようにお願いしたそうですが、先方負担で翌日に届きました。

私は会社から電話で知らされるまで名刺入れをなくしたことさえ気づきませんでした。
恥ずかしい。
大失態を京都人の親切に救われました。

それはホテルのエントランス(タクシー乗り場)にちょうど入ってきた個人タクシーでした。
私は高齢の運転手の多い個人タクシーに進んで乗りません。
クルマがいいので頼まないのに飛ばす運転手もいます。

思い起こせば、車内での会話に人柄がにじみ出ていました。
心より感謝します。
個人タクシーを毛嫌いすることもやめます。

今回、京都大学のキャンパスに立ち寄る余裕がなかったのは残念でした。

ところで、初めて名刺入れをなくし、ボケが心配になってきました。
自分でもこのところ急に老いた気がします。
私は昔なら、寿命が尽きる年齢に達しています。
1950年代は男の平均寿命が65歳前後でした。

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杉山神社に合格祈願…センター北初詣

   
大学受験に御利益か
センター北駅前の杉山神社へ

初詣は元日の混雑を避け、2日に行いました。
私は加齢とともに元日の初詣が億劫になってきました。

今年は再婚後の子どもが大学受験に臨みます。
長いといえば長かった、短いといえば短かった・・・。
親の責任は高校卒業までと考えていますので、ようやく肩の荷を下ろせます。

合格祈願は湯島天神?

さて、私は当然、学問の神様・菅原道真公を祀る「湯島天神(湯島神社)」に合格祈願に行くと思い込んでいました。
しかし、本人の希望により、自宅のある横浜・港北ニュータウン、最寄りの横浜市営地下鉄センター北駅前の「杉山神社」(横浜市都筑区中川6−1−1)に出かけました。
センター試験が丸2週間後に迫っており、その対策になるべく多くの時間を割きたいのでしょう。

センター北・杉山神社がはたして大学受験にどれくらいの御利益(ごりやく)があるかも分かりません。
しかし、たいていの神社では合格祈願や学業成就など、ベーシックな御守(おまもり)を置いていたりします。
あまり神経質になる必要はないのかもしれません。

インターネットで調べたところ、センター北・杉山神社は「第一志望に合格した」など、受験の神様ともされているとのこと。
おそらく港北ニュータウンは住民の平均所得が高く、子どもの教育に熱心ということも関係しています。

千年以上の歴史とか

ウィキペディアなどによれば、センター北・杉山神社は千年以上の歴史を持ち、日本武尊(やまとたけるのみこと)と五十猛命(いそたけるのみこと)などを祀ります。
大晦日の午後10時半から甘酒とお餅が振る舞われ、御札(おふだ)と御守が販売されます。

なお、杉山神社は横浜市だけで35ほどありますが、本家に当たる神社、御祭神については定説がありません。
どこに参拝してもよさそうです。

お賽銭の金額と意味

ちなみに、お賽銭は子が5円、妻が50円、私が5百円でした。
大学受験なので奮発してもいいのではと考えましたが、家族の意見に従いました。
いまインターネットで初詣のお賽銭の金額はいくらがいいかを調べたら、5百円はよくないとのことでした。
それと、お賽銭は祈り(祈願・祈念)を叶えてもらうためでなく、これまでの感謝のしるしとして納める(供える)という初歩的なことを知りました。
恥ずかしい・・・。

子どもが絵馬も御守も不要と言うので、私は驚きました。

⇒2011年1月2日「元日の初詣…センター北・杉山神社(横浜市都筑区)」はこちら。

◆書き加え(2月26日)

最難関とされる私立大学2校に幸先よく受かりました。
受験にも御利益はあるようです。
2017年元旦は感謝のしるしとしてお賽銭を納めます。

⇒2010年12月31日「紅白歌合戦が終わり明治神宮へ初詣…参拝客日本一」はこちら。

⇒2016年1月27日「浄土真宗本願寺派本山・西本願寺に参拝」はこちら。

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肉の青木…新小岩で頑張る

私は先週、下町の中堅企業で「提案営業研修標準講座(2日×5回)」の最終回を行った。
その休憩時間に喫煙コーナーで受講者と雑談を交わし、一人の方が新小岩に住んでいることを知った。

実は、私が総武線の都内区間で唯一下車したことのない駅が新小岩だった。
7カ月弱の墨田川高校在籍時、そして魚津高校卒業を経て明治大学進学後にもっとも利用したのは、赤い電車の中央線と黄色い電車の総武線だった。

三鷹⇒吉祥寺⇒西荻窪⇒荻窪⇒阿佐ヶ谷⇒高円寺⇒中野⇒東中野⇒大久保⇒新宿⇒代々木⇒千駄ヶ谷⇒信濃町⇒四ツ谷⇒市ヶ谷⇒飯田橋⇒水道橋⇒御茶ノ水⇒秋葉原⇒浅草橋⇒両国⇒錦糸町⇒亀戸⇒平井⇒新小岩⇒小岩。

私が駅名をすらすらと言えるのは総武線(都内区間)だけである。
中野、東小金井、西荻窪、三鷹、八王子に20年以上も暮らしていたので、おもに生活と仕事などで降り立った。

私が受講者に「肉の青木」を知っているかと尋ねたところ、新小岩の肉屋がどんどん消えるなかで頑張っていると教えてくれた。

私が初めて本気で思いを寄せた相手が墨田川高校の同級生だった。
当時、本人から新小岩で精肉店を営んでいると聞かされたことがあった。

私は近年、グーグルで検索して存在を確かめた。
テレビ朝日で2011年8月1日に放送された「ちい散歩」という番組にも取りあげられていた。
「みのり商店会」でも老舗なのだろう。
また、ストリートビューで肉の青木の店頭の様子を見られた。
建て替えられたのかもしれないが、彼女がここで育ったのかと胸が熱くなった。

私は魚津高校に転校する夏休み前の墨田川高校の下駄箱で、そして明治大学進学後の電話で、自分の思いを伝える機会を逃した。
どうして勇気を出せなかったのだろうと悔やみ、半世紀近く引きずってきた。
すぱっと振られてしまえば一時的に落ち込むにしろ、心が晴れた。

・・・スーパーマーケット(GMS、SM)やコンビニエンスストア(CVS)などの大手資本による精肉と惣菜の取り扱いはいまも拡充しており、街の肉屋を巡る環境は悪化するばかりである。
娘さんなので嫁がれたはずだが、肉の青木には末永く営業を続けてほしいと心から願っている。

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書き初め・・・一年の始まり

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
皆さまのご健康とご多幸をお祈りします。

さて、元日は毎年恒例、姿勢を正し、心を込めて「書き初め」を行いました。
といっても、大きな「能率手帳」の見返しに、今年の「挑戦のテーマ」を筆ペンで記します。
このテーマは、昨年の成果と反省を踏まえて設定しています。
ごく短いフレーズですが、12月に入った頃から1カ月近くかけて考えます。
今年も納得のいくものになりました。
私の場合、これを経て、新しいスタートを切ることができます。
初詣と並び、絶対に欠かせないセレモニーです。

きょうとあすは楽しみな「箱根駅伝」です。
私はデスクトップパソコンのモニター画面の片隅に極小サイズで映像を流します。
仕事をずっとしていますので、音声は聞こえるか聞こえないかというボリュームに抑えています。
すべての選手と大学に頑張ってほしいと思いますが、私はとくに明治大学を応援しています。
私は世相に疎く、どこが優勝候補かも知りません。
前評判が分からないほうがわくわくします。

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直江津小学校同窓会…半世紀振り

2014年の今年は東京五輪(第18回夏季オリンピック)開催から50年が経ったということで、テレビで特集番組が組まれたり、ちまたで記念イベントなどが催されたりしている。
それにより、1951年(昭和26年)生まれの私が直江津小学校(新潟県)を卒業したのは、その東京オリンピックが行われた1964年だったことに気づいた。
自分のなかで卒業と五輪開催の年が一致しなかったのだ。
あくまで伊那中学校1年の出来事だった。

私は前日に父の転勤にともなって伊那市(長野県)に引っ越したため、卒業式に出られなかった。
このときの無念はいまだに引きずっている。

⇒2010年8月13日「直江津小学校卒業式…半世紀の無念とは?」はこちら。

という事情もあり、かねてより同級会、それが無理なら同窓会に参加したいと思っていた。
今年が卒業半世紀の節目に当たることは早くから気づいており、ひそかに期待していた。

私は直江津小学校で1〜2年は加藤先生、3〜4年は渡辺先生、5年は高山先生、6年は小林先生が担任だった。
2年単位だが、6年になるときに高山先生が他校へ移られた。

私はその後、転校と引っ越しを繰り返し、すべての卒業証書や卒業文集、卒業アルバム、そしてすべての記念写真やスナップ写真などをなくしており、半生の記憶がかなり消えた。
にもかかわらず、直江津小学校の担任だけは名前を覚えている。
よほど学校生活が楽しかったのだろう。

高等学校(高校)は同窓会や同級会が行われるところもある。
しかし、中学校はほとんど行われない。
まして、小学校は行われるところはないのか。

私は、半世紀振りの同級会でクラスメイトと再会を果たすという願いが叶わなかった。
薄情で申し訳ないが、名前を思い出せるのは1人になっている。

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「iPhone5s」なら白髪を増やせる

9月30日にヤマダ電機で、入荷待ちの「iPhone5s」を手にした。
何日か要したので、やれやれ・・・。

ところが、その後に茨(いばら)の道が待ち受けていた。

結局、「iPhone5s」を使える状態にするまで約1週間、いくらか使えるようになるまで約1週間かかった。

私は、老いてなお現代人として生きていくことの厳しさを、アップルに教えられた。
おかげで、白髪(しらが)が一気に増えた。

ありがとう、アップルプル!

なお、このヤマダ電機は「ヤマダ電機テックランドNew港北センター本店」という恐ろしく長い店名である。
これを覚えきる頃には、私はこの世にいないだろう。

◆書き加え1(10月13日)

この記事はアップル製品の批判でない。
私の満足度はかなり高い。

「iPhone5s」を使いこなせるふりをするだけで、女性の視線が違ってくる。
高齢者が若さを演出するうえでマスト・アイテムと考える。

◆書き加え2(10月14日)

「iPhone5s」に買い替えた若い知人がいまだにほとんど使えず、怒り狂っているとのこと。
私もちょっとした操作を試みて挫折を味わうという繰り返しである。
同類がいると知り、非常に心強い。

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東京大学に入りたい…オール5の私

私は先だって、創業まもないベンチャー企業との打ち合わせで、生まれて初めて「東京大学」を訪れた。
入試の合格発表で有名な「赤門」から入った。
狭き門をくぐった気分である。

そして、本郷キャンパスの素晴らしさに驚いた。
最高学府は大学を指すが、この言葉の響きにふさわしい威容を備えていた。
私は、都心の文教地区の一角、ゆとりの敷地につくられた全体のたたずまいにため息をつき、歴史と風情を堪能した。
勉強嫌いの私が言うのもなんだが、東大生はこんなに恵まれた環境で学んでいるのかと、うらやましく思った。

私が富山県立魚津高校時代に一番仲のよかった友人が東大に現役で合格した。
例の「安田講堂事件」の影響で入試が中止された翌年だったので、よけいに大変だったはずだ。
彼は入学後、私に大教室での授業を受けにくるように奨めた。
その気がなかった私は応じなかった。
が、この日、彼があれほど熱心に誘ってくれた理由の一つが腑に落ちた気がした。

私は、ほかの国立大学のキャンパスも、主要な私立大学のキャンパスも知らない。
かつて在籍した明治大学(5年中退)の1〜2年生が通う明大前の和泉キャンパスをちょっと知っているくらいだ。
3〜4年生が通う御茶ノ水の駿河台キャンパスはあまり知らない。
通っていないというより大学に行っていないので当然だ。
私は当日、キャンパスのあまりの格差を目の当たりにし、私立大学の学生(私も…)がかわいそうになった。

私は長野県の伊那市立伊那中学校2年生までは成績が突出しており、「オール5」を取った(むろん、体育も音楽も美術も…)。
親を含めた周囲から、将来は東大へ進むのでないかと思われていた。
私自身もぼんやりと、そう思っていた。

ところが、中学3年生の10月下旬に父の転勤にともない、徳島県の小松島市立小松島中学校に転校してから、状況が一変した。
新しい教科書を受け取ったが、すでに授業はおおよそ終わっていた。
習わなかったところが出てきた。
ほどなく徳島県立城北高校に入学し、その後は東京都立墨田川高校、富山県立魚津高校と学年の途中で転校した。
その都度、教科書が変わり、習っていないところがあちこちに出てきた。
私はいわゆる理数系の科目がとくに強かった。
しかし、数学などはいったん分からなくなると、どんどん試験の点数が下がった。
高校2年生の2学期には、5教科の国立大学(旧一期校)の合格が困難な学力になっていた。
その後は坂を転げ落ちた。

私は、気になったら実際に足を運んでみることの大切さを痛感させられた。
中学2年生か3年生に東大のキャンパスを訪れていれば、おそらく人生が変わった。
それくらい惹きつけられるとともに、強い刺激を受けたのだった。
この大学に入りたいと本気で思ったはずだ。
私は根が怠け者だが、いったん明確な目標が定まると、猛烈に頑張れる性分。
ただし、高校時代に訪れても、学力の立て直しはとても間に合わなかった。

誤解が生じると困るので説明を補うと、私が東大に入れるということでない。
受験勉強に必死になれたという意味である。
入りたいと思って入れる大学でないのは承知している。

また、私の学力の低下を親の転勤のせいにしようということでもない。
私と同年齢の知人は、私よりもっと多くの転校を経て、なおかつ東大に合格している。
学校の授業で習っていないところが出てきたら、自己学習で補えば済む話である。
私はその努力をまったく放棄した。
やる気がなく、ろくに授業さえも聞いていなかった。
教科書は、唯一の楽しみの早弁の隠れ蓑だった。
成績がずたずた、ぼろぼろになったのは、もっぱら私の責任だと認識している。

なお、私は当日、安田講堂前の広場の地下の中央食堂で「中央カレー」という妙な名前のカレーを食べた。
とくにうまいということはない。
が、東大生がこれをいつも食べていると思うと、悔しさがこみ上げてきた。
なぜかは不明。

余談・・・。
東大キャンパスを視野に収められるところに暮らすと、子どもが合格する可能性が高まるのでなかろうか。
周囲のマンションを眺め、私はそう感じた。

◆書き加え1(10月9日)

世間が最高学府を東大に誤用するのも無理はないと思った。

正直に言う。
私は、半分感嘆し、半分あきれた。
カネをかけすぎだぞと憤慨しながら、中央カレーを口に放り込んでいた。
かなり怒っていたので、味が分からなかった。

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戒名の位…父は居士、母は大姉にする

きのうのブログ、「父は認知症入所棟へ…特養老人ホーム都筑の里」に続いて・・・。

⇒2013年9月18日「父は認知症入所棟へ…特養老人ホーム都筑の里」はこちら。

私は、浄土真宗の寺と葬儀場を兼ねた建物の地下1階につくられたロッカー式納骨堂の墓を持っています。
通常の墓と同様、家族が代々、遺骨を納められます。
ロッカー式と記しましたが、正確には佛壇形式の家族墓所です。
上部は仏壇になり、下部は骨壺が6つ入ります。
この寺は、後継者が絶えても「無縁墓」として合葬しない方針を打ち出しています。

私は、バブル崩壊後しばらくして前妻が亡くなったときに買い求めました。
おそらく3百万円は支払いました。
こうしたことに疎く、しかも切羽詰まっていましたので、言われるままに契約を交わしました。
東京の一等地、なかなか見事なつくりとはいえ、値段が高すぎます。
いまなら百万円もしないでしょう。

先週、父が亡くなり、戒名をつけることになりました。
この戒名は宗派によりいくらか異なりますが、「位」が設けられています。
「浄土真宗」には位が2つしかありません。
先に亡くなった母が「大姉」でした。
そこで、釣り合いが取れるよう、父は「居士」にしました。
ちなみに、亡くなった前妻(先妻)も「大姉」でした。
戒名についても、先方に勧められるままに位を決めました。
私が両親の葬儀を経験する前に、前妻は3人の子どもを残して先立ちましたので、何も考える余裕がありませんでした。
相場は年々下がっているようですが、読経料込みでお布施は結構な金額になります。

さて、寺が戒名をつけるに当たり、「人となりを一言でいえば…」と尋ねてきました。
ところが、私は情けないことに簡潔な言葉で括れず、返事に詰まってしまいました。
このとき、父はわりとつかみどころがないと思いました。

だれから聞かされたかは忘れましたが、父は戦時中に軍隊で「堅パン」と呼ばれていました。
「尊敬半分、揶揄半分」というより、からかいの比重が大きいのかもしれません。
「憲作」という名前の「憲」が父の生き方を決めたようです。
「堅パン」は、融通がまったく利かないということでしょう。
実際、父は曲がったこと、間違ったことが大嫌いでした。
嘘偽りのない人生を歩みました。

また、父は淡々としていました。
自分の気持ちや感情を表にほとんど出しませんでした。

父はとても子煩悩でもありました。
母もそうでした。

父も母も兄弟が多く、長男と長女として大切にされたせいか、エリート意識を持っていました。
母もいくらかそうでした。
両親は「(お)にいさん」「(お)ねえさん」と周りから呼ばれていましたので…。
昔は長男と長女を立てるのが当たり前だったのかもしれません。
以上。
父の人となりの説明になったかどうか・・・。

両親は、私が横浜・港北ニュータウンに呼び寄せるまで、富山県滑川市常光寺天望町で暮らしました。
かつての実家に住む妹にこの話をしたとき、「一言でいえば、おだやかだった」と返され、意外でした。
男の私と女の妹では、父の印象がだいぶ違うのです。

私は直江津小学校時代まで、ときどき父から注意を受けました。
父がほんとうに厳しく叱ったのは一回です。
まさに激昂でした。
私が、隣(裏)の家の2階に引っ越してきて間もない小さな子を連れ出し、帰りが真っ暗になったときでした。
二人は気が合い、私は自分の一番好きな直江津から郷津にかけての砂浜をずっと歩き、戻るのが遅くなったのです。
(母は何かにつけ、買い物や掃除などの家事を命じました。)

しかし、父はそのほかは好きにさせてくれました。
母も同じでした。
子育ては、基本のしつけを押さえつつ、放任状態でした。
うるさいことはまったく口にしませんでした。
私が根っからの自由人なのも、これと無関係でないでしょう。

妹が迷うことなく口にした「おだやか」という表現はそれなりに的を射ている気がしてきました・・・。

⇒2013年9月16日「父の訃報にほっとする・・・大往生」はこちら。

⇒2013年9月17日「火葬炉の父の名前『憲作』に気づく」はこちら。

⇒2013年9月18日「父は認知症入所棟へ…特養老人ホーム都筑の里」はこちら。

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父は認知症入所棟へ…特養老人ホーム都筑の里

きのうのブログ、「火葬炉の父の名前『憲作』に気づく」に続いて・・・。

⇒2013年9月17日「火葬炉の父の名前『憲作』に気づく」はこちら。

93歳の父は先週、2013年9月11日に老衰で永眠しました。
急速に進んでいた「アルツハイマー病」が特養施設の入所後に決定的に進み、だれも何も分からなくなりました。
あっという間…。
父は植物人間に近い状態でしたが、生来の「生命力」で十年ほど生きつづけました。
痴呆(ボケ)のほかは何一つ悪いところがなく、体が素晴らしく丈夫でした。
私たちが「もうダメかなぁ」と思った幾度かの危機も乗り越えていきました。

両親はどちらも深刻な痴呆の家系でした。
私は顔などが父にそっくりですので、アルツハイマー発症は時間の問題と覚悟を決めています。
私は、父が衰えはじめた50代後半を過ぎ、62歳に達しています。
ここ数年、自分の記憶がどんどん曖昧になっています。
そこで、父が亡くなった機会に父について、母について綴っておこうと思います。
このブログですでに述べている可能性があります。
また、それと内容に食い違いや矛盾が生じるかもしれません。
原則として、古い記事のほうが正しいはずです。
しかし、その後に分かったり思い出したり気づいたりした事柄もありますので、新しい記事のほうが間違っているとも言い切れません。

                       ◇

父は2002年(不確か)に「特別養護老人ホーム都筑の里(センター北)」に入所しました。
この特養施設には認知症患者の入所棟が設けられています。
父は痴呆が進み、それまでもデイサービス(通所介護)を利用していました。
ときに母もつきあったかもしれません。

母は2004年8月に「昭和大学横浜市北部病院(センター南)」に入院しました。
この大学病院には病気(おもにガン?)の治療を目的とした医療でなく、症状(おもに苦痛?)の緩和を目的とした、人生の終末を迎えるための緩和ケア病棟が設けられています。
病棟に入ってほどなく亡くなる方が多いなかで、母は1年くらい頑張りました。
私は、医師にも看護師にも驚かれました。
母は、生きることへの執着が凄まじかったです。

私は2005年8月14日、母の死期が近づいていると感じ、富山・滑川の妹の家族を呼び寄せました。
いよいよ病状が悪化した9月3日、再び妹の家族に声をかけました。
9月4日、都筑の里のスタッフに協力してもらい、父を病床に連れてきて母と対面させました。
母はとても喜びました。
父はわずかな時間でしたが、差し迫った状況が飲み込めたようでした。
母の手を握らせると、涙を流しました。
私が見た父の最初の涙でした。
個室がもっとも盛りあがった瞬間です。

妹がそのまま病室に残り、病床につきっきりでした。
が、3泊目にどうにも疲れてしまい、昭和大学横浜市北部病院の真正面の「ホテルアトラス(センター南)」に入り、シャワーを浴びて体をちょっと休めた間のことでした。
母は2005年9月7日朝に永眠しました。
人生の後半(1968年〜)は生活と闘い、晩年は病気と闘いました。

9月8日、都筑の里のスタッフに協力してもらい、父を母の遺体が安置されている「奉斎殿・葬儀の板橋(十日市場)」に連れていきました。
私や関係者が、父は葬儀に立ち会うのは困難という判断を下したからです。
また、父は何よりボケることを恐れ、恥じていました。
とくに兄弟や親戚に自分の姿を見られたくなかったでしょう。
私がその思いを汲みました。
なお、当時、自宅のそばの「奉斎殿・葬儀の板橋(都筑)」はできていませんでした。

そして、霊安室で、私も妻も妹も驚く出来事が起こりました。

私が父に棺(柩)に納められた母を見せ、父に母が亡くなったことを告げたときでした。
父は我に返った表情で、「えらいすまんことをしたのう(不確か)」とつぶやきました。
私が見た父の最後の涙でした。

父は十秒くらいで無表情に戻りました。
時間はもっと短かったかもしれません。
父は、決して楽でなかった生涯をともにした母の死という、もっともつらい現実と情景を見たくなくて、心にシャッターを下ろしたのだと、私は考えました。

私は、痴呆が決定的に進んだ父がこの言葉を発したことがいまだに信じられません。
妻の死を悟り、しばらく悲しみに暮れるのなら分かりますが…。

「えらいすまんことをしたのう」。
父の一言には、母の死に至る互いの経緯と事情が込められているからです。
「そばにいてやれなくて…」「放っておいて…」。
父は、自分を責めつつ、母に謝っています。
脳裏に、取り返しのつかない悔恨の念がわいたのでしょう。

両親が、そして家族がひどく苦しいとき、自分の気持ちをしまっておけない母がしばしば父に突っかかりました。
が、それでも、私も妹も二人はとても仲がよかったと思っています。
病床での対面時の母の大きな喜び、死後の対面時の父の深い悲しみに、夫婦の揺るぎない絆と愛情が凝縮されています。

⇒2013年9月16日「父の訃報にほっとする・・・大往生」はこちら。

⇒2013年9月17日「火葬炉の父の名前『憲作』に気づく」はこちら。

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火葬炉の父の名前「憲作」に気づく

きのうのブログ、「父の訃報にほっとする・・・大往生」に続いて・・・。

⇒2013年9月16日「父の訃報にほっとする・・・大往生」はこちら。

先週水曜日、長らく施設(都筑の里)に入所していた父が93歳、老衰で亡くなりました。
私はバタバタになり、予定どおりに仕事を進められませんでした。
大幅な遅れを取り戻さなくてなりません。
今週も引き続き、猛烈に頑張ります。
62歳でそれができる自分に、幸せを感じます。

ところで、私は火葬場(横浜市北部斎場)の火葬炉の前に表示された父の名前「憲作」を見て、それは父の職業人生、さらに人生を決したことに気づきました。
ぼんやりと分かってはいましたが・・・。

父は大正8年(1919年)、入善町椚山の貧農(おそらく小作農)に生まれました。
長男です。
私は、若くして亡くなった祖父(父の父)をまったく知りません。
が、この名前には、祖父の長男に対する特別の思いというか期待が込められているのでないでしょうか。
「憲作」は、農家の後継ぎにしようとする名前でありません。
「憲」は「基本となる掟」「憲法」の意味があり、それを「作る」となると大変なスケールです。

昔、長男は一家の職業の跡取りになりました。
保守的な村社会のなかの農家の長男ならなおさらです。
にもかかわらず、父は大阪へ出て書生暮らしを始め、法律専門学校に通いました。
卒業はできなかったようですが、その事情や理由は分かりません。
苦労は筆舌に尽くしがたいものだったでしょう。

父が法律家を目指したのは確かです。
少なくとも法律に関わる仕事に就こうとしました。
ひょっとすると、政治家になりたかったのかもしれません。
それもこれも親がつけた名前「憲作」が影響を及ぼしていると、私は火葬場で考えたのでした。
いまとなっては父にも母にも尋ねられませんが・・・。

父は、エリート意識が強く、プライドが高い人でした。
それは半端でなく、自分の兄弟に対してもそうでした。
いや、自分の兄弟に対して一番はっきりと表れました。
家を飛び出したからには偉くなるとの気持ちを抱きつづけていたのでしょう。
「立身出世して故郷に錦を飾る」という言葉が生きていた時代です。
そうでなくては、自分の兄弟にも、実家の近所にも、椚山の住民にも顔向けできないと・・・。

父は、呉羽紡績、東洋紡績(呉羽紡績を実質、吸収合併)、YKK(吉田工業)で職業人生を終えました。
どうやら当時(戦後)の一流企業、地元(富山)の一流企業に勤めることで自尊心を保とうとしました。
どこか見栄や面子にこだわっており、ちっぽけに思えます。
が、それは父の能力と境遇で叶えられた精一杯だったのでしょう。
私は胸が熱くなります。

父は、自分が大阪へ出ていくときに見送ってくれた祖母(父の母)の顔を忘れられないと、私に一度だけ語ったことがあります。
女手一つで育ててくれた母を捨てる罪悪感を持ったのでしょうか。
それとも、母に楽をさせたいとの願いが強かったのでしょうか。

祖母がどのような思いで見送ったかは分かりません。
私たちがときどき椚山の実家を訪れたとき、祖母が私たちの暮らす直江津に訪ねてきたとき、父への祖母の接し方は他の兄弟(私の叔父・叔母)への接し方と明らかに違いました。
とても誇らしげでした。
おそらく父は生涯、心の底で名誉を欲していました。

私は、日本経済新聞社の奨学生制度を利用して明治大学へ進学するために夜行列車で上京するとき、入善駅のホームで見送ってくれた父の顔を覚えています。
時代も環境もまるで違いますが、父はかつての自分の姿とだぶらせていたのでしょう。

また、だれから聞かされたかは忘れましたが、父は戦時中に軍隊で「堅パン」と呼ばれていました。
「尊敬半分、揶揄半分」というより、からかいの比重が大きいのかもしれません。
やはり「憲作」という名前が人生観の根っこにあったのです。

私は、父が燃やされる頃になり、宿命と生きざまがいくらか腑に落ちた気がしました。

⇒2013年9月16日「父の訃報にほっとする・・・大往生」はこちら。

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父の訃報にほっとする・・・大往生

私は先々週から先週にかけ、息をつく暇もない状態でした。
おもに昼間は教育指導の仕事に当たり、夜間はホテルと書斎でクライアントからの受託業務の締め切りに追われました。
疲労が溜まり、背中の張りと腰の痛みに苦しみました。

途中、(2013年)9月11日、福岡でのセミナーの終了後、妻が「父が老衰で永眠した」と知らせてくれました。
昼頃に亡くなっていましたが、私に伏せていました。
10月に満94歳を迎えるところでしたので、大往生と呼べるでしょう。

私は40代後半に講師の道を本格的に歩みはじめた際、父母に「親の死に目に会えない仕事」と告げました。
両親はむしろそれを誇らしく思っているようでした。
なかでも父は、私の顔写真やセミナー(講演)内容などが記されたパンフレット、新聞・雑誌での案内(広告)を近所や職場の方々、親戚に見せて回ったようです。
つきあわされた人は興味を感じるはずもなく、さぞかし迷惑だったことでしょう。

父は、エリート意識が強く、プライドが高い人でした。
自分がボケることを何よりも恐れ、もっとも恥じていました。
昔、祖母が深夜に国道8号線を徘徊し、交通事故で痛ましい最期を遂げました。
父は痴呆の家系だということを自覚していました。

私は2000年夏(不確か)、老いた両親を富山・滑川から横浜・港北ニュータウンに呼び寄せました。
2年後(不確か)、私は父の様子に明らかな異変を感じました。
それでも父は母に対し、私に心配をかけるからそうした症状を話さないように命じていました。
周りはとうに気づいていましたが、父はボケをだれにも隠し通そうとしました。

しかし、痴呆が一気に深刻化しました。
体は元気で、力がみなぎっていましたので、家族の手に負えなくなりました。
父は施設に入所してほどなく、富山から見舞いに訪れる妹のことが分からなくなりました。
あんなに可愛がっていたのに…。
妹は落胆して帰っていきました。
まして、横浜で身の回りの世話をした妻のことは真っ先に分からなくなりました。
妻は私に代わり、骨を折ってくれました。
面倒なこと、大変なことは、一手に引き受けたのです。

私は妹と十歳、年齢が離れていましたので、施設で話しかけると、父はかすかに反応を示しました。
が、それも数年前まででした。
父は入所後に体力が衰え、動くこと、やがて立つことができなくなりました。
そして、食事の時間のほかは植物人間のように眠りこけていました。

私は父の訃報に接し、ほっとしました。
父は、本能に近い生命力だけで生きながらえている状態でした。
いつ亡くなっても不思議でないと、何年か前に医者から告げられていました。
私は、廃人となった父を見るたび、本人は非常に不本意だろうと、複雑な思いを抱いてきました。
頭が確かなときに「尊厳死」が選べるなら、父は迷わずにそうしたと断言できます。
ただし、私は、痴呆後の父を支えてくれた施設や病院の方々の尽力に感謝こそすれ、それを否定するわけでありません。
心よりお礼を申しあげます。

父は、痴呆を除き、悪いところがありませんでした。
人生で病気らしい病気を経験していません。
骨が丈夫で、自分の歯でした。虫歯も見つかりません。
私が仕事に相当な無理が利くのも、父親譲りの健康と体力のせいです。
父がボケなければ、優に百歳を超えて生きたと思います。

ところで、母は2005年9月7日に他界しました。
父を誇りにしていた母は、老いと痴呆がひどくなる父にいら立ち、声を荒げました。
ときに激しく罵りました。
人は長く生きるにつれ、不甲斐ない姿をさらすようになります。
自らのガンの進行に苦しんでいた母は、父の醜態に我慢がならなかったのでしょう。

母はもともと気性が激しく、冷静で淡々としたところのある父と一緒になったおかげで、自分をかろうじてコントロールできました。
対照的な性格は、夫婦の妙といえます。
その両親の最大の共通点は「子煩悩」でした。
家族の生活を守ろうと、必死に働きつづけました。
体が強くなかった母は病気や苦痛と闘いながらでした。
また、長男と長女の組み合わせであり、二人とも兄弟に負けたくないとの気持ちが大きかったのでないでしょうか。
私には過剰と思えるエリート意識やプライドは、育てられた環境が主因かもしれません。

この世ではいろいろありましたが、二人はとにかく仲がよかった・・・。
わがままな母は「来るのが遅い」と怒っていたはずです。
これでまた父と新しい暮らしを始められます。
そう思うと、私は喜ばずにいられません。

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自分の人生と昔の住所をたどる…ストリートビュー

私は以前、グーグルマップで自分がかつて住んだ場所を調べていて、たまたまストリートビューを知った。
それは衝撃的だった。
わざわざ足を運ばなくても現地の様子がつかめる。

私が初めて下宿生活を送った小金井市東町2丁目(アパート)、前妻と同棲生活を送った杉並区松庵1丁目(アパート)、結婚後の武蔵野市関前1丁目(間借り)、家族が増えて転居した三鷹市上連雀9丁目(借家)と跡をたどった。
40年以上前の学生時代を含め、結婚を挟んだ前後の時代が手に取るように思い出され、懐かしさがこみ上げてきた。
すっかり時間を忘れてしまい、朝を迎えたのだった・・・。

私がグーグルマップストリートビューでもっとも驚いたのは、小金井市東町のアパートだった。
43年前にすでに古かった建物がほとんどそのまま残っていたのだ。
ここは大家の自宅に間借りするスタイルである。
私だけは屋根に後から増設された独立部屋であり、皆が用いる玄関の脇の狭い門扉を出入りした。
当時と同じで、錆びたままだった。
ブロック塀も汚れたまま・・・。

結局、杉並区松庵を除き、場所を特定できた。
「番」「号」の数字の入力を繰り返し、昔の住所も突き止められた。
これらの建物はいくらか手が入れられているかもしれないが、おそらく当時のものである。
三鷹市上連雀のマッチ箱みたいな借家は手さえ入れられていないようだ。

私は、自分の昔の写真を一枚も持っていない。
数え切れないくらい引っ越しを重ねるうちになくしてしまった。
卒業証書や卒業アルバム、通知表、表彰状、文集なども残っていない。
人生を回想する手がかりはまったくなし。
しかも、老いとともに記憶がどんどん薄れている。

グーグルマップストリートビューは単に昔の場所や住所を探るだけでなく、自分の人生をたどることができる。
思い出は、そのときに暮らした土地や建物と結びついているからだろう。

私はパソコンの画面を、自宅の写真として撮りたいとの衝動に駆られた。
それなりに鮮明である。
どの建物も古く、いつ取り壊されても不思議でない。
私にとり貴重な記録を保存しておきたかった。
が、いまは他人が住んでいる。
それはやるまい・・・。

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人の名前を思い出せない…アルパチーノ

先週の6日間の九州出張で・・・。
日中、猛烈な暑さのなかで営業講師を務めました。
しかも、経費削減のせいか、会場は冷房が極端に抑えられています。
蒸し風呂状態・・・。

私は立ちっ放し・しゃべりっ放しで汗だくです。
幾度か意識が遠のき、ロレツが回らなくなりました。
絶えず水分を補給していましたが、熱中症寸前までいきました。

何とか灼熱地獄を乗り切り、夜間にホテルの自室でデスクワークに向かいました。
しかし、集中力を高められません。
それ以前に、へとへとで根気が続きません。

私は仕事を諦め、気分転換に映画を見ることにしました。
締め切りが迫っていますが、やけくそです。
有名な俳優が出ており、内容もわりと面白い。
ところが、どうしても名前を思い出せません。
物忘れが年々ひどくなっており、老いを実感させられます。
人の名前はとくに・・・。

映画が終盤のクライマックスに差しかかった頃、「ペペロンチーノ」を経て、ようやく「アルパチーノ」という結論に達しました。
きょうはアッチーノ!

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長野駅は門前町の風情なし…仏閣駅舎から駅ビルへ

先日のブログ「善光寺詣り…ホテル国際21…長野経済研究所」に続いて・・・。

⇒2013年7月14日「善光寺詣り…ホテル国際21…長野経済研究所」はこちら。

私は先週、八十二銀行(長野経済研究所)で「目標必達セミナー(営業管理セミナー)」の講師を務めました。
ところが、セミナーの開始直前、講師用テキストを表示するノートパソコンのワイヤレスマウスが反応しないというハプニングが起こりました。
これまでに一度もなかったことです。
私はタッチパッドを用いたことがありません。
すっかり慌ててしまい、講義をうまく進められません。
冷や汗が出てきました。
最初の15分、参加者にご迷惑をかけました。
主催者(事務局)もはらはらしたことでしょう。

一日のセミナーを終えて「ホテル国際21」に戻り、問題を解決しようとノートパソコンを操作しているとき、ワイヤレスマウスのレシーバーが破損していることに気づきました。
どうりでマウスが使えないわけです。

私は眠りそびれて“完徹”の状態でセミナーに臨んでおり、ノートパソコンに差し込んだままのレシーバーを演台か何かにぶつけたのでしょう。
朦朧とした頭と意識で、講義の準備をしていたことになります。
この仕事を始めて20年になりますが、体調管理に万全を期さなければならないと改めて思いました。

ところで、私は長野駅とホテルの往復にタクシーを利用しました。
運転手と会話を交わしましたが、訛りが感じられません。
私が生まれ育った直江津市、移り住んだ伊那市も標準語にきわめて近かったと思います。

また、「ホテル国際21」の最上階のレストランから眺める長野市街は、私の勝手な思い込みより広く、また立派でした。
長野は早くから東京と新幹線でつながり、都会的に洗練されたのかもしれません。
日本一の高級別荘地(避暑地)・軽井沢が近いことも関係しているのでしょうか。

私が今回の長野訪問で残念に思ったのは、仏閣駅舎が単なる駅ビルに変わっていたことでした。
長野冬季五輪(オリンピック)の開催に合わせて長野新幹線が開業し、現在の長野駅舎が新築されたようです。
どうして玄関口に門前町の風情を残さなかったのでしょう。
長野市は観光客による収入が多いはずです。
私は拍子抜けしました・・・。

おそらく再来年には「長野新幹線」の名称が消え、長野駅は途中駅になります。

⇒2013年5月6日「四国巡礼88札所巡り…結願之証に感無量」はこちら。

⇒2009年9月20日「連休、伊豆88寺巡礼の旅へ」はこちら。

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善光寺詣り…ホテル国際21…長野経済研究所

私は木曜日、おそらく直江津小学校の5年生以来、51年ぶりに長野駅に降り立ちました。
学校(学年)か、地域か、サークルか、家族か、いずれかで善光寺詣り(参り)へ出かけました。
何とも言えない感慨が込みあげてきました。

私は直江津生まれですが、半世紀の間、直江津駅〜高崎駅間の信越本線の沿線を訪れる機会がありませんでした。
とても不思議です。
信越本線の沿線を通る機会もごくわずかでした。
父の転勤にともない、直江津小学校を卒業して伊那中学校に入学しました。
その後、北陸地方から乗り換えなしに上野駅へ行ける信越本線経由の特急や急行を幾度か利用しました。
しかし、これらは夜行列車を含め、だいぶ前に消滅しました。
私は長野新幹線に乗り、途中の軽井沢や上田の駅名の響きが懐かしく、新鮮でもありました。

私は当時の記憶が皆無であり、長野市の半世紀の変遷や変貌は記せません。
ただし、木造の駅舎の印象、そして善光寺の真っ暗闇のなかで触れた鍵か取っ手の感触がかすかに残っています。

私は午後3時に長野駅に着き、何が何でも善光寺へ出かけると決めていました。
しかし、仕事を終えられず、日がすっかり落ちてから「ホテル国際21」にチェックインしました。
そして、善光寺を目指して大体の見当で歩きましたが、すぐに挫折してホテルに戻りました。
長野を訪れる機会はもうないと思っていましたので、とても残念でした。

ホテルの自室で、締め切りが金曜日の朝一の仕事に追われました。
ノートパソコンの画面に長時間向かったせいか、午前3時過ぎにベッドに入っても寝つけません。
ほかにも納期の近い仕事を抱えていましたので、幾度か起きてはパソコンに向かい直すうちに朝を迎えてしまいました。
結局、一睡もできませんでした。
デスクワークははかどりましたが、頭と意識は朦朧としています。

私はその日、長野経済研究所(八十二銀行)主催の実務セミナー「目標必達・営業管理セミナー」の講師を務めることになっていました。
多くの地場企業の方々にお申し込みをいただいています。
長野は東京より数度涼しいとはいえ、体が持つかどうか心配でした。
主催者と参加者に迷惑をかけるわけにいかないので頑張り、何とか一日を乗り切りました。
力を使い果たし、立っているのも難儀です。

私は、木曜日の夜にまったく眠れなかったおかげ(?)で、仕事がいくらか片づいていました。
そこで、金曜日の夜に長野から帰京する予定を変更し、「ホテル国際21」に連泊しました。
そして、土曜日の朝にホテルと善光寺を徒歩でゆっくりと往復しました。
雨が降っており、ずいぶん濡れました。
なぜかタクシーに乗りたくなかったのです。
年齢的に最後の善光寺詣りになるでしょう。
足を運び、心の底からよかったと思います。
途中、参道の入口で、手打ちの「さらしなそば(更科蕎麦)」をいただきました。

私はせっかくの機会なので故郷の直江津まで足を延ばし、海水浴を楽しんでから上越線経由で帰りたいところでした。
が、さすがにそこまでの時間的な余裕はありません。
長野新幹線の「あさま」の車内販売で「峠の釜めし(本舗おぎのや)」をいただきました。
私は半世紀前までの直江津時代に幾度か信越本線で上京していますが、両親は横川駅でたいてい「峠の釜めし」を買い求めたものです。
列車の窓を開け、手招きしながら駅弁の売り子を呼ぶ顔が思い浮かんできました・・・。

仕事で訪れた長野でしたが、私にしては珍しく旅行気分を味わうことができました。
長野経済研究所の関係者と大勢のセミナー参加者に心より感謝します。

⇒2013年5月6日「四国巡礼88札所巡り…結願之証に感無量」はこちら。

⇒2009年9月20日「連休、伊豆88寺巡礼の旅へ」はこちら。

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四国巡礼88札所巡り…結願之証に感無量

皆さま、ありがとうございます!

私はわずかな期間だが、東洋紡績の社員だった父親の転勤で四国・徳島に暮らした。
中学3年(小松島中学校)の10月下旬から高校1年(城北高校)の12月下旬まで、1年2カ月ちょっと。

そうした縁もあり、わりと若い頃から、いつか四国へ巡礼に出かけたいという気持ちを温めていた。
その思いは年齢を重ねるにつれて膨らんでいった。

しかし、弘法大使の足跡を訪ねる「四国遍路」は全行程約千3百キロメートルの行脚となる。
しかも、道のりが険しい。
四国はそれほど高い山がない。
が、全体は、一つの大きな山が海面に突き出たような地形である。
遍路の旅は距離も長いし、高低差も大きい。
生半可な覚悟では、四国八十八カ所霊場巡りに挑めない。
自分の心が整うまでに、かなりの歳月を要してしまった・・・。

私は、最後(88番目)の札所・大窪寺(おおくぼじ)で万感の思いが込みあげ、涙を必死にこらえた。
そして、88札所巡りを成し遂げた一人として「結願之証(けちがんのしょう)」を受け取った。
感無量!

振り返れば、長旅だった。
仕事の都合を何とかやりくりし、時間をつくった。
四国巡礼のゴールまで、まさか40分もかかろうとは、だれが思うだろう。

私は妻と軽快にハイタッチを交わした。

                       ◇

うたい文句は「1日で巡るお遍路さん」。
東京・丸の内のJPタワーに、四国八十八カ所霊場の本尊が集結した。
寺院以外の場所で公開する「出開帳(でかいちょう)」用の本尊である。
会場には、1番札所の霊山寺(りょうぜんじ)から、88番札所の大窪寺まで、四国霊場の本尊とお砂が順番に並べられる。
会場を回ると、「結願之証」がもらえる。
つまり、四国八十八カ所を巡るのとご利益(ごりやく)は同じ。

私は長年の夢だった四国遍路を諦めかけていたので、このイベントに飛びついた。
何が何でも行こうと・・・。
幸い、前売り券を買うことができた。

和田創研は丸の内トラストタワー20階、サーブコープのオフィスサービスを利用している。
4月23日は毎回圧倒的な評価を獲得している「社長の打ち手」講演会だった。
午後の半日講座なので、終了後にJPタワーにすっ飛んでいった。

すでに夜間の部は長い行列ができていた。
大盛況である。
本尊が並ぶ会場内に入るのに2時間近くかかった。

私は翌日納期の仕事があり、駆け足になった。
会場内では、係の方が急ぐ私を先導(?)してくれた。
私は88体のご本尊すべてを各3秒、心を込めて拝んだ!!!
所要時間は20分弱。
会場を出たら、午後8時をだいぶ過ぎていた。

私は夢が叶い、胸のつかえが取れた。
出かけてよかったと、つくづく思う。
「結願之証」は私の宝である。

                       ◇

四国八十八カ所霊場の本尊が揃って四国を離れるのは77年ぶりとか・・・。
私は今年62歳を迎える。
いかに貴重な機会かお分かりいただけるだろう。

真言宗開祖・空海が四国霊場を設け、来年で1200年を迎える。
その記念行事の一環である。
愛知、東京、宮城を巡回する。

東京は初開催、期間は4月18日〜25日、入場料は前売り2千円、当日2千3百円だった。

ご本尊は当然ながら、すべて異なる。
それぞれに深い趣があり、心が洗われる。
私は印象を目に焼き付けようと、土産に木製のフォトフレームを買い求めた。

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「親に楽をさせる」は死語へ・・・

私は戦後まもなくの生まれだ。
世の中に自由の風が吹くようになっていた。
それでも「親に楽をさせたい」という気持ちが色濃く残っていたように思う。

私は、家庭の経済状態がどん底だったため、日本経済新聞社の奨学制度に頼って明治大学へ進んだ。
夜行列車で富山から上京する際、入善駅まで見送ってくれた両親の顔を見て、そう心に誓った・・・。

私は収入の保証のないフリーランスのまま所帯を構え、家族5人を食べさせるのに汲々としていた。
しかし、そうした状態でも「親に楽をさせたい」という気持ちは忘れたことがなかった。
それが我武者羅に働くモチベーションの一つになっていた・・・。

私は能力も甲斐性もなく、それを叶えたのは49歳のときだった。
上京から30年の歳月を要してしまった。
せめてもう何年か早く富山・滑川から横浜に呼び寄せたかった。
いまだに大きな悔いである。

父は貧農の出であり、それも母親に育てられた。
「親に楽をさせたい」という気持ちが、私よりもはるかに強かっただろう。
が、自分の家族で精一杯の人生を送った。
皆、たいていそうだ。

私が数年前から気になっているのが、妻を一人で育てた会津の母である。
かなり老いているが、横浜にまだ呼び寄せられない・・・。

今日、「親に楽をさせる」はほとんど死語になっている。

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日経奨学生と日経電子版・・・新聞配達で大学進学

私は1970年に日本経済新聞社の奨学生制度(日経育成奨学会)を利用して明治大学に進学した。
そうしなくては地元の国立大学(当時二期校)しか選択肢がなく、上京を諦めるしかなかった。
私は勉強、まして四年制大学卒業という資格にまったく興味がなく、東京に出たいという一心だった。
そうすれば自分を変えられるのでないかという漠然とした思いである。

私は上京した当日に日経高円寺専売所(当時)に住み込み、翌日から朝・夕刊の配達を行った。
むろん、数日は先輩についていき、仕事を教わった。
そして、集金なども行った。

⇒2010年3月7日「地獄の新聞奨学生制度へようこそ1」はこちら。

当時、日本経済新聞は発行部数が百万部前後。
実は運・不運があり、私は非常にきつい7区(当時)を担当した。
読者の密度が高いオフィス街や商店街でなく、純然たる住宅街ということ。
自転車を飛ばし、駆け足をしないと朝刊の配達は3時間、夕刊の配達は2時間半かかった。
ただし、2年目に楽な2区(当時)に変更してもらった。
朝・夕刊の配達はそれぞれ1時間近く短くなった(40〜50分か)。
1年間頑張ったご褒美である。

⇒2010年3月7日「地獄の新聞奨学生制度へようこそ2」はこちら。

現在は新聞配達の時間が短いのでないか。
また、おそらく集金も行わない。

さて、そうした経験から、私は新聞販売店の経営の内情はいくらか分かっている。
当時もそれほど楽でなく、いまはかなり厳しいはずだ。

⇒2009年8月20日「新聞が消える、宅配がなくなる」はこちら。

私は新聞配達の仕事に就くことで、親に負担をかけずに東京暮らしを叶えた。
だから、心情としては新聞(紙)を取ってあげたい。
しかし、実際には日経電子版しか取っていない。
紙に電子版を加えるとプラス千円なのに、電子版だけだと紙と同じ購読料になる。
用紙・印刷・製本(折り)・梱包・配送・配達など、コストがまったく違う。
高すぎる!

⇒2009年8月21日「新聞販売店の生き残り」はこちら。

私は当初の日経Wプラン(併読)から、地球環境にも優しそうだからと、電子版の単独購読に切り替えた。

何せ電子版は圧倒的に利便性が高い。
情報が速く、しかも使い勝手が抜群にいい。
購読(といっても見るくらい)の時間が短くて済む。
ページをめくる手間がいらない。
文字も大きくできる。
至れり尽くせり・・・。

⇒2010年9月8日「日経電子版、突出した利便性と使い勝手!」はこちら。

ところで、私が紙を取らなくなったのには、もう一つ大きな理由がある。
約40年に及ぶ営業活動を58〜59歳でやめた。
私は重点顧客の上層部へ働きかける際に、日本経済新聞などの記事の切り抜きを持ち歩いていた。
面談の導入が円滑になるだけでなく、商談への誘導が自然になる。
こちらが情報を引き出さなくても、切り抜き記事を介して相手がしゃべってくれることが多い。
重宝した。

また、私は「情報営業」として企業研修やSMBCコンサルティング主催の公開セミナーなどで、新聞や雑誌、業界紙や専門誌の切り抜き記事を用いた営業活動の進め方とポイントを指導してきた。
が、私自身は営業の現役を退いた。

おそらく、紙に戻ることはないだろう。

                       ◇

新聞と宅配制度に関するブログは以下のとおり。

⇒2009年8月20日「新聞が消える、宅配がなくなる」はこちら。

⇒2009年8月21日「新聞販売店の生き残り」はこちら。

⇒2009年10月14日「溜まった新聞にうんざり…出張帰り」はこちら。

⇒2009年10月14日「凄い! 日経が電子版で読める!」はこちら。

⇒2009年11月10日「地方紙危機、北日本新聞が夕刊廃止へ」はこちら。

⇒2009年11月20日「書籍・雑誌・新聞、紙媒体消滅へ」はこちら。

⇒2009年11月23日「新聞・テレビ・広告は構造不況業種」はこちら。

⇒2010年9月8日「日経電子版、突出した利便性と使い勝手!」はこちら。

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腰痛を言い訳にして仕事をさぼる

私は8月下旬以降の疲労の蓄積に11月中旬以降の気温の低下が加わり、腰痛がぶり返した。
腰が曲がったような状態・・・。
実際には、痛みを和らげるためにおのずとそうした姿勢になってしまう。

先週終わりから今週始まりにかけ、あまりの痛みに幾度も目が覚めた。
ひどい寝不足になった。

私は湿布薬を含めて薬を取り揃えて持ち歩いている。
いまは痛みがだいぶ取れた。

                       ◇

腰痛はつらい。
しかし、ある意味で助かる。
腰痛を言い訳にして仕事をさぼることができるからだ。
講演やセミナーの主催者を含め、クライアントに関する仕事は通常どおりこなしている。
あくまで私が自分に課した仕事に限る。
例えば、本の原稿の執筆、自分商品(各種教材)の開発など。
夜間に少しずつ進めているが、これをずるずると延ばせる・・・。

私は腰痛のおかげで徐々に疲れが抜け、いくらか体を休められた。

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病床で子どもの食事を案じる…盆に思う

今年は曜日の並びがよく、Facebookを見ても盆休みをゆっくりと過ごした方が多かった。
私はクライアントの仕事を4本抱えて猛烈に働いた。
実は、わが家に不相応な、とても立派な仏壇がある。
両親が無理をして買い求めたものだ。
相当な値段(金額を聞かされたが、忘れた)。
私はその仏壇に手を合わせるのが精一杯だった。

せめてというわけでないが、盆の間、眠る前に前妻のことを振り返った。
すると、いまの妻のことも思い浮かんだ。

                       ◇

前妻は末期がんの病床で、3人の子どもの食事がどうなるのかを気にかけていた。
家事のことも…。
賢い彼女は、家に戻れないと悟っていたのか。
考えたところで自分がどうにかできるわけでないが、それがモルヒネでぼんやりした頭を占めていた。
私が妻の立場でも同じだっただろう。

テレビドラマ「八日目の蝉」で、野々宮希和子が警察に逮捕・連行される際、「その子はまだ朝ごはん食べてないの」と叫んだ(不確か)。
このシーンはどこかで前妻と重なり、胸に迫った。
母が子どものもとを離れざるをえないとき、その世話をもっとも案じる。

私は40代前半、猛烈なせきから大量の喀血を起こした。
新宿・河田町の東京女子医大(東京女子医科大学病院)に緊急入院。
ここは呼吸器の疾患に定評があった。
血液が片側の肺に溢れ、それが片側の肺にかなり流れ込んだ。
両方の肺が血液に浸かっていたら助からなかったと、医師に後日言われた。

前妻を亡くした後だったので、私は医師に「ほんとうのことを教えてください。自分は片親なので、もし助からないなら、生きているうちに子どもをどうするかを決めなくてならないのです」と伝えた。
医師は「末期のがんか重度の結核か、どちらかです」と答えた。
私は死を覚悟した。
看護婦(看護師)の気配からも、生きられないと感じていた。
しかし、残される3人の子どものことで頭が一杯で、不思議と恐怖心はなかった。
前妻もそうだったのかもしれないと、ふと思った。

私が真っ先に案じたのは、子どもの養育費のことだった。
妻が子どもの世話のことだったように…。
子どもが食べていく、まして育っていくには、大きなカネがいる。
それを手当てするのは、私の役目だ。
が、まったく果たせないで、この世を去る。

子どもの面倒を老いた富山の両親に頼めない。
地元に留まってほしいとの父の懇願を振り切り、高校卒業と同時に上京したので、なおさら。
富山の妹夫婦も同じ。
妻の実家も同じ。
3人の子どもを引き取る余裕はどこにもない。
私はだれにも相談を持ちかけられなかった。
子どもを施設に入れるしかないのだが、それだけはどうしても避けたかった。
望ましい結論は出せないと分かっていたが、病床で考えつづけた。

幸い、医師が推察したがんも結核も該当せず、私は手術を経て回復を果たした。
人間の限界を超えた頑張りで体が壊れたとの診断だった。
たいてい先に心が壊れるが、私の場合はそれが頑丈だったために無理を重ねて体が壊れたらしい。

私は40代になり、転職に挑んだ。
「石の上にも三年」。
そう言い聞かせて狂ったように働いたが、能力が乏しいこともあり、3年を過ぎてもうまくいっていなかった。
目指していた教育指導の仕事(現在の職業)を軌道に乗せられなかったのだ。

私は大病の後で、調子が戻らない。
むろん、無理は禁物。
再発の恐怖に怯えていた。
コンサルタントや講師としての仕事を得ることができず、収入が途絶えがちになった。

すぐにどん底へ。
家政婦を雇うなどとんでもない。
食べものを買うカネがなくなった。
電話はまだしも電気が止まるようになった。
子どものぎりぎりの生活さえ支えられなくなった。

どうにもならない窮状を救ってくれたのが、いまの妻だった。
近所の店で難のある野菜を安く譲ってもらうなどし、私と子どもの命をつないでくれた。
ときに自分は食べなくても、最低限の食事をやり繰りした。
空腹で目まいを起こすこともあった。
前妻が最後まで気にかけていた子どもの食事をすべて担った。
この間、家賃の滞納で幾度か追い出されそうになったが、そのたびに大家と掛け合ってくれた。

また、一周忌か三回忌(2年目)か、前妻の父が途方に暮れていた私を救ってくれた。
「子どもたちに母親が必要だ」。
高崎弁だった。
伏し目がちで口にした言葉に、私はやさしさと配慮を感じた。

やがて、いまの妻は初婚で、難しい時期を迎える3人の子持ちに嫁ぐ覚悟を決めた。
壮絶な苦労が待ち受けているのに、驚きだった。
それを片親で育てた彼女の母が快く許した。
これも驚きだった。
自分が親の立場なら認めなかっただろう。

私は、入籍・挙式は前妻の七回忌を済ませてからと決めていた。
自分なりの区切りとしたかった。
が、45歳に達しており、いまの妻をすぐに家に迎え入れた。
彼女は子どもを望んでおり、私は自分の年齢を考えると、子どもを急ぎたかったからだ。
正直、育てられるのかという不安のほうが大きかった。
その苦労は3人の子どもで身に染みていた。
1年後にいまの子を授かった。
入籍・挙式を遅らせたことで妻と子、とくに女房の姓で生まれた子に申し訳なく思う。

                       ◇

私は盆の間、仕事に忙殺されながらも、二人の妻に対する感謝の念がふつふつと湧いてきた。
もちろん、亡くなった母に対しても…。

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私は執筆に当たり全人格を投影したいと考えます。
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プロフィール
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和田創

和田創研代表
日本ロボコム代表
ロボットビジネス勉強会&交流会主宰
シニア起業家
和田 創(わだ・そう)

数字立て直し(伸長)一筋の経営コンサルタント。
教育と指導の年間実績は約百回。対象は社長から役員、管理者、社員まで、テーマは経営から管理、採用、事業、商品、企画まで広範。著書や教材は多数。
2017年、66歳以降はAIやロボット関連の起業に挑むとともに、おもに内需・地場企業から先端分野・成長分野の事業・商品開発を請け負う。クライアントとともに77歳までに百社の設立を目指す(内、自ら11社)。

その他の役職
面白くないジョークの会会長 

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