コンサルの引き出し|和田創ブログ

だれの目の前にも可能性の地平は広がる。それを切り拓けるかどうかは自分次第である。「面白くないジョークの会」初代会長が解き明かす経営と人生の奥義とは?

学び

新学説「頭は筋肉」、本日発表!

俗に「頭がいい」というとき、乱暴な分類ながら2タイプがあるように思う。「頭が切れる」と「頭が強い」。
頭が切れる。
おもに先天的な資質による。回転の速さであり、頭の瞬発力である。
「脳」の優劣と密接に関わる。キャパシティの大きさと、思考回路の円滑さである。
持って生まれた才能がものをいう。
陸上競技にたとえれば、ハイジャンプや短距離走か…。
頭が強い。
おもに後天的な努力による。稼動の長さであり、頭の持続力である。
「心」の強弱と密接に関わる。思考回路を働かせようとする意志の固さである。
身につけた人生哲学や職業観がものをいう。
スポーツにたとえれば、長距離走やトライアスロンか…。
一握りの傑出した人を別にすれば、資質は似たり寄ったりである。それで闘える人をうらやんだところで仕方ない。
…私のように才能に恵まれなかった人間にも“救い”がある。
「資質は有限、努力は無限」。
うまく経験を積んでいくなら、だれしも少しずつ“いい頭”に変えられる。
「うまく」とは何か。
第1のキーワードは、「挑む」だ。
できることはやらない。慣れと安心の世界から離れ、違和と不安の領域に入る。つねに“高み”をうかがう。
第2のキーワードは、「考える」だ。
考えてから行う(設計)。考えながら行う(最適)。行いながら考える(改善)。行ってから考える(検証)。
言い換えよう。「挑むには考えるしかない」。
ところで、私が指導している「ソリューションセールス」は、頭の切れでは不十分で、頭の強さが不可欠となる。
顧客のベネフィットにフォーカスし、それを最大化するためにどこまでしつこく考えられるかが決め手である。
私のように生きる意欲、働く姿勢では負けないという人に向いている。
「頭は筋肉」。
頭は鍛えるほど強くなるというのが、私の結論である。
鍛えるうえで大事なのは、体と同様、これくらいでいいと妥協しないこと。
「人は限界を超えない限り、ネクストステージへ進めない」。
すなわち、ブレークスルーが必須。
頭が切れないと嘆く必要はない。鍛えれば鍛えるほど、頭は強くなる…。
土光敏夫に、氏ならではの名言がある。
ただし、うろ覚えなので、正確なところは不明である。趣旨は次の通り。
「体は外から分かるので、体を鍛えている人はたくさんいる。だが、外から見えない頭を鍛えている人はめったにいない」。
非常に耳が痛い。私は体を鍛えていないので…。
なお、どなたか出典と原文をご存知でしたら、教えてくださいませんか。

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「人の本のうえに、私の本をつくる」

学ぶ決意で「本」を読む職業人が、どうしても守るべきことがある。
心に残ったこと、頭に浮かんだことを、片っ端から走り書きしていく。後に回すと、そのときには忘れている。
目を使うより、心を動かし頭を巡らすこと、そして手を休めないことが肝要―。
そう、「読む→感じる・考える→表す」。後ろに重きを置くようにする。
私は、筆記具として、ペンテルの「プラマン」を用いている。万年筆は書き味が滑らかで、紙が破れない。
また、文字が大きくならざるをえない。
近視、乱視、老眼が同居する、私のお気に入り。
その際に、感じたり考えたりした部分のなるべく近くに書く。余白に限らず、行間や本文にどんどん記す。
書き込みが増えるにつれ、本文は見えなくなるが、それは「他人の知識」なのでまったく惜しくない。
「自分の気づき」のほうが十倍、百倍は貴重である。
著者のなかには、役に立ってほしいと思いながら真剣に書いている人がいる。
それどころか、自分を超えてほしいと願いながら死に物狂いで書いている人がいる。
自分の本がきっかけとなり、読者が多くの「気づき」を得て、それと引き換えに本文が消えたのだとしたら、苦労が報われることになる。
「この上ない喜び」。
こうした著者のためにも、メモは本文の上に容赦なく行うべきである。
「人の本のうえに、私の本をつくる」。
あなたが職業人生で成功を収めたいと考えるなら、それくらいの気迫で本とつきあっていただきたい。
実際、そうした走り書きを拾ってパソコンでまとめれば、ブログの内容、雑誌への投稿、あるいは自著の素材や原型くらいにはなるだろう。
くれぐれも古本をいつか金に換えようなどと思わないこと。いま以上にアマゾンを喜ばせる必要はない。
学ぶ決意で本を読む人は、しっかりと感じる、考える。
そして、それを表す、行うことにより、投資を十倍、百倍にして回収する。
一般に、古本を売ったところで、新本に払った金は戻ってこない。

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「そんなことは分かっています」

提案営業の公開セミナーでの、私と参加者のやり取り―。
勉強していると言い張るわりに、話がちんぷんかんぷんだったので、私はやんわりと諭した。
「本を読む目的は、知識を得ることでない」。
すると、イラついて「そんなことは分かっています」。
ならば、もっと賢くなっていてよいのでは…。
本を読む目的が知識を得ることだとしたら、永久に本を買いつづけなければならない。
これでは著者や出版社の“思う壺”である。
こうした当然のことに気づかない人が、とくに知識系の本の上得意、いや“餌食”になる。
学者でもないのに、似たような分野やテーマの本をたくさん買う人がいる。知識を得ようとすると、かならずそうなる。愚かなことである。
本を読む目的は、本を読まなくてよくなることに尽きる。それも職業人生の、なるべく早い段階で…。
もし、そうでないとしたら、本はなんと罪つくりだろう。
世の中のたいがいのことは、自ら考えられるようになるために「本」はある。
他人の知識でなく、自分の“気づき”により、仕事で成果を伸ばし、職業人生で豊かさと幸せを手に入れる。
学習の目的は、「考えられる人間に変わること」。
私たちが一生に出くわす現実は限りない。本を膨大に読んだところで、その対処法をもれなく知ることは叶わない。
…ところで、私は営業分野の職業講師である。とくに「提案営業バカ」のインストラクターである。
だが、「教育者」の端くれという強い誇りを持っている。同時に、大きな責任を感じている。
教育の目的は、「考えられる人間を育てること」。
これ以外にないのではなかろうか。
人は考えられるようになれば、周りが放っておいても、おのずと成長していく。
私は、これを唯一の使命として演台に向かい、そして大勢へ語りかけているのである。

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毛筆で味わう

それで本から学んだと言えるか

昨日、私のブログで、「本は読み終えてからが勝負となる」と述べた。
仕事に関わる読書においては、「読む」ことで満たされると、「学ぶ」ことから遠ざかりやすい。
また、読むことで満たされると、やがて読むことが学ぶことだという勘違いが起こりかねない。
昨日明かした時間配分は、あくまでも私自身の頑固な流儀であるから、それは置いておこう。
さて、職業人生で多少なりとも成功をつかもうとする人が、肝に銘じたい本との“つきあい方”がある。
それは、「読む」が1、「考える」が2〜3、「行う」が3〜9という“黄金則”だ。
分かりやすい話をしよう。
なお、「行う」にはいろいろあるが、ここではその一つの「まとめる」に絞りたい。
1冊、本を「読む」。
そうしたら、そのテーマなり内容なりについて引きずりつづける。つまり、じっくり「考える」。
そのうえで、やおら「まとめる」。
…それが、自分の考えをきちんと表していたら、「本から学んだ」ことになる。著者の知識をおおよそなぞっていたら、「本から知った」ことになる。
「知った」と「学んだ」は次元が異なるので、「知った」ことを「学んだ」と思うのは致命傷である。
それは、本を読んでいるわりに血にも肉にもならず、仕事も職業人生もあまり“変わり映え”のしない人の共通項だ。
念を押したい。本は「読後勝負」である。考えること、まとめる(行う)ことに注力せよ。
読む、考える、行う。
この3つのうち、もっとも楽なのは「読む」である。
「本に逃げない」。
ある分野に関して、他人の本を10冊も読んだとしたら、自分の本を1冊は書かないと…。
誤解がないよう、説明を補足したい。
私は、何も本を読むことを否定しているわけでない。大事なのは、本とどうつきあうかだと主張している。
本をせっかく読むのだから、本から多く学んでほしい。
切にそう願う。
…ところで、本から正しく学べない人が犯しがちな最大の過ちは、持っている知識の多寡で人の価値を判断することである。
それは、持っているモノの多寡で人の価値を判断することと変わりがない。
どうです、皆さんの周りにいませんか?
そうした人は、もっとも下品な部類に属する。

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本は読み終えてからが勝負となる

会社経営者、営業担当者、大学理事長、職業講師、コンサルタントを兼ねる私は、人と出会う機会が非常に多い。
そのなかで、とくに感じる疑問の一つ。
「本をたくさん読んでいるわりに、なぜこの人はこんなに頭が悪いのだろう」。
本を読むというからには、「学ぶ」意欲はあるはずだ。
それで、頭が悪いとしたら、もう本との「接し方」が間違っているとしか思えない…。
1冊読んで、百冊分も学べる人がいる。
かたや、百冊読んで、1冊分も学べない人がいる。
本との接し方により、それほどの大差がつく。
両者の決定的な違いは何だろう。
それは「考える」に尽きる。
当然だが、本は「読後勝負」になる。
なぜなら、売れない本でも、千人や2千人は読んでいる。したがって、読むこと自体にたいした優位性はない。
本のテーマや内容について、どれくらいしつこく考えつづけられるかが差別化の源泉であり、頭の良し悪しの分かれ道となる。
めったに本を読まない私に、絶対というこだわりがある。
それは、本に関わる時間配分だ。
「読む」に1を要したら、「考える」に10をかけている。そして、その後に「行う」に 100を費やすようにしている。
実際、私がここ数年間で読んだ本は1冊にすぎない。
「ベンチャー創設」をテーマとしたビジネス書であり、これに関して先ほど述べた配分より、読後にはるかに長い時間を割いている。気が遠くなるくらい…。
その結果が、超短期上場を目指す「ベンチャー」への参画である。新会社は、大安のきょう、設立登記された。
もう一つ、IT企業との折半出資により、営業支援と営業指導のベンチャーを近々立ち上げる。
他人の本を1冊読めば、例えば自分の本を1冊出すし、自分たちの会社を1社つくる。
「知った」のでなく「学んだ」という以上は、それをかならず何らかの“カタチ”で表現するように、強く戒めている。
「一冊一行(いっさついっこう)」。
私自身の座右の銘にほかならない。
本が「考える」きっかけになり、さらに「行う」きっかけになっていること―。
ならば、それなりに豊かで幸せな職業人生を“謳歌”できるのではなかろうか。
結局、頭の良し悪しは、「本をどれくらい読んだか」でなく、「本でどれくらい考えたか」で決まる。
前者では本が“目的”となっているのに対して、後者では本が“手段”となっている。
「月とすっぽん」とは、このことだ。

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「本は読むものでない」

私は「本」をほとんど読まない。
自分で本を出しておいて、読者からひんしゅくを買うかもしれないが、事実である。
本に頼らず、自力で「考える」ことを優先させている。
これに関しては、4月20日21日のブログで「職業学習の順序と方法」として述べた。
第1に、自分から学ぶ。
第2に、他人から学ぶ。
これらで頭のなかがいつも一杯になる。
第3に、本から学ぶ。
こちらへ時間をなかなか割けないでいる。
もう一つ、私の視力も原因である。
強い近視と乱視に、40代から老眼が加わった。さらに、50歳頃から利き目の右がダメになった。
いまや本を読み切ることが難しくなり、ここでムリをすると仕事に重大な支障を来たしてしまう。
その私が、本をまれに読むことがある。もともと本が嫌いでないようだ。
目がつらいから、読み方が浅くなり、ともすれば“拾い読み”になる。それでも本の難易度により、3時間や5時間、10時間を要する。
私がもっとも大切にするのは、その時間の少なくとも10倍は、「頭」を巡らすことである。そのテーマや内容について、数十時間や百時間は考えつづける。
実際、数週や数カ月は“うだうだ”引きずる。この間、テーマや内容が、自分の経験や他人の事例と激しく交わる。
やがて、プラマンの“書き込み”で本文が見えなくなり、本は原形を留めなくなる(「製本」が読む仕様になっていて、使う仕様になっていない)。
こうしたプロセスを経て、「他人の知識」が「自分の気づき」に変わってくる。したがって、自分の考えとして書いたり述べたりできるし、行動へ移したり成果を上げたりできる。
そして、これが投資を“回収”した状態である。
私に対し、「営業本をたくさん読んでいる」と言ってきた人がいた。それがどうしたの…。
ある分野やテーマの本をたくさん読んだら、少なくとも1冊は自分の考えを著さないとダメでしょう。
私は、ある分野やテーマの本を3冊も読んだら、自分の本を1冊は書くなぁ、絶対に。
まあ、3冊も読むことはないのだが…。
それと、「テレビ番組」や「新聞記事」などについても本と同様に、うだうだ引きずる。
私のブログが、放映日や発行日からかなり遅れて取りあげる理由の一つは、それ。
和田創をやめ、「宇田創」にしようかなぁ。

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学ぶ目的とは、いったい何か?

当然、学ぶほどに「悩み」が少なくならなければならない。
顔に光が差し、目に力が増してくる…。
では、なぜ学ぶほどに悩みが少なくなるのか。
ものごとを“単純”に考えられるようになるためである。
私たちは、仕事や人生において、ありとあらゆる現実に直面する。
ものごとを“単純”に考えられると、頭や心の霧が晴れるように、その本質や核心が見えてくる。混乱や錯誤から解放され、冷静かつ的確に対処することができる。
「悩み」とも無縁になる道理である。
ものごとを“複雑”に考えたがる習性は、学ぼうとして学べなかった人に特有のものである。
「知識」を取り込むことが学ぶことだと勘違いしている人が多い。知識の過信や偏重は、自信のなさの裏返しである。それでは飢餓感や強迫観念が高じて、悩みを深めてしまう。
松下幸之助に「悩んでも悩まない」という言葉がある。
正しく学ぶと、そういう境地に達するのだろう。
学ぶ目的は、入り組んだ“迷路”のような様相を呈する仕事や人生をシンプルに解きほぐし、ゆったりと楽しむことにある。

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知識は所詮、他人のものでしかない

私は思う。
「知識は他人のもの。気づきは自分のもの」。
その証拠に、「知識」の大半は、自分のものとして堂々と発表することができない。遠慮がちに引用するのが関の山である。
世の中、他人の知識をたくさん持っているくらいで「学んだ」と言い放つ人が多すぎないか。
そもそも、学んで自分のものにならないなんて悲しすぎる。まして、学ぶためにわずかでもカネを使っているとしたら…。
知識は、実践を得て、「気づき」へ高められる。咀嚼され消化され吸収されて、自分の養分に変化した状態である。
知識そのものを競う一部の職種は例外として、私たちは広い意味での行動の「成果」によってしか評価されない。
気づきの豊かさと深さが、職業人生で手にする“果実”の大きさを決定づける。
仕事に関わる「勉強」については、明確な目的のもとに、必要不可欠な手段と位置づけて進めることが大事である。
何かに役立つかもしれないと思ってする勉強では、なかなか何かに役立てられない。
おやすみなさい。

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講座/職業学習の順序と方法(2)

第2は、「他人」から学ぶ。
人を“見る”ことである。優れた人から学ぶ。劣った人を「反面教師」にするやり方もないわけでない。だが、能力が要るし、効率も悪い。劣った人からは、優れた人との比較において学ぶのが正解だろう。
さて、私たちは、人と接した瞬間に感じることがある。
例えば、「自分より豊かそう」「自分より幸せそう」。
そう思うとき、その人は相当に“上”である。
だれしも年に数回くらいは、そうした人に出会う。名刺を交わし、懐に飛び込んで、その働き方や生き方に触れていく。
学ぶうえでの最大の“障害”は、他人の優れている点に気づくことのできない自分にある。勉強に励むわりに、仕事で成果を出せない人の共通項といえる。
自分より優れているから“上”にいる。上から何をつかみ取れるかは、本人次第である。
以上、私にとっての学ぶ順序と方法の基本である。これを実行できる人は、職業人生で多少いい思いを味わえるのでないか。
なお、自ら行うにしろ、人を見るにしろ、「因果関係」を突き止める。そして、就寝前に大学ノートに走り書きしておく。この継続―。
そのためには、とことん「考える」しかない。
だが、それはつらく孤独な行為である。どうしても「本」へ走りたくなる。考えることから逃げてならない。
例えば、自分や他人を参考にしてこの内容を考えることは、本で知ることと比べて、十倍や百倍は大変である。
第1と第2で精一杯のはずだが、もしも時間が余ったなら…。
第3は、「書籍」から学ぶ。
第1と第2はタダということもあり、こちらを優先させるのが賢明だろう。

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講座/職業学習の順序と方法(1)

職業人として、どのように「学ぶ」ことが、もっとも効果的だろうか。
学ぶ順序と方法の基本があるに違いない。2日間にわたり、私が大切にするやり方を述べてみたい。
第1は、「自分」から学ぶ。
自ら“行う”ことである。挑んだ現実と経験から学ぶ。身近な機会でありながら、圧倒的に貴重である。
何かを試みたら、なぜうまくいったのか、なぜうまくいかなかったのかを納得できるまで振り返る。昼食休憩や通勤電車、風呂やトイレ、ながら視聴や散歩など、くつろげる時間や場所で…。あ、ベッドに入ったら忘れよう。
私は、学ぶ場合に、これが最上位に位置すると信じる。
学ぶうえでの最大の“不幸”は、自分の現実と経験から多くを気づくことのできない自分にある。勉強に励むわりに、仕事で成果を出せない人の共通項といえる。
続きは、あした。

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勉強が目指す最終的な姿とは何か?

学生と社会人。どちらがより「勉強」が必要だろうか。
親の保護下を離れ、自立しなければならない社会人に決まっている。だから、勉強することは褒められてよい。
しかし、懸命に勉強しているのに、成果があまり上がっていない人も少なくない。まして、豊かさや幸せを手に入れたという実感をほとんど持てない。
それどころか、勉強するほどに、周囲に対して「不満」を募らせるようになる。会社や上司は自分を認めてくれない、顧客は自分を分かってくれない…。
学んだ結果としては最悪の状態である。
勉強が目指す、最終的な姿とは何か。私は、2点に尽きると考えている。
第1は、心が開いていること。
第2は、勇気を授かっていること。
つまり、よりよい人生を切り開いていくうえで根本となる積極的な精神を獲得し、それが体質に昇華した状態にほかならない。
第1について―。心が開いていなくては、人が入ってこられない。
「他者」を呼び込めないと、自分の努力が孤立してしまう。異質の努力を受容・吸収し、互いの努力を共鳴・増幅させる前提といえる。
世の中、出会いや縁を生かせない人であふれ返っている。それもこれも心が開いていないためだ。私のような凡人は人を助け、人に助けられるべきである。
どこまで人と広く深く関われるかは、己の心のありようで決まる。勉強は、生まれつき持つことのない、この「度量」をもたらすものでなくてはならない。
第2について―。勇気を授かっていなくては、未知の行動を起こせない。
頭に取り込んだ知識は、勇気に励まされ、体を巻き込んだ挑戦へ結びつく。つまり、知識は、勇気を触媒として、「成果」に変容する。
知識の実践につきまとう「恐怖心」に打ち克つ前提といえる。勉強は、生まれつき持つことのない、この「覚悟」をもたらすものでなくてはならない。
また、知識を得るには、費用と時間という相当な投資が必要になる。その典型が「資格」である。勇気がないと、支出がかさんで、実入りが少ない。
心が開いていること、勇気を授かっていること。
自分は正しい学び方をしているか、ときおり問いかけよう。
ちなみに、「学ぶとは、学び方を考えることである」。
私は、大阪のホテルに宿泊。おやすみなさい。

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学んだあげくダメになった人の話

昨日の続き。学んだあげくダメになった人の話―。
公開セミナーで、休憩時間に参加者が近寄ってきた。いやな予感。
近寄られるのがいやなのでなく、この参加者がいやなのだ。
パンフレットに「基礎講座」と謳ってあったのに、どうやら講義のレベルに不満があるらしい。
「企画関連の勉強を続けてきた」と、誇らしげに言う。私の知識はたいしたことがないというニュアンスを、何としても伝えたいようだ。
私は、無表情を装う。
講義の終了後、じれた彼が「自分が作成した企画書を見てほしい」とやってきた。
初めからそう言いなさいよ、まったく。この手合いが多い。
――やっぱり。私は、あまりのつたなさに、うれしくなった。でも、吹き出してはいけないから、無表情を装う。
「企画書」をすぐに戻したのが、彼は気に食わないようだ。
「なぜ、ちゃんと見ないのか」と、顔に書いてある。
もちろん、見る価値がないからだ。私のほうが、10倍、20倍、30倍は上だなぁ…。だって、その気になれば、それで食べていけるもの。
立案した企画内容、作成した企画書、その出来が肝心なのだ。
たくさん学んだとか、ほとんど学ばなかったとか、どうでもいいことである。
たくさん知っているとか、ほとんど知らなかったとか、どうでもいいことである。
おやすみなさい。

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“横串学習”をもっと大切にせよ

ホワイトカラーの仕事がどんどん細分化し、高度化している。
一昔前は、仕事の“幹”を知っていればすんだ。現在は、そこから加速度的に“枝分かれ”が進んでいる。
それらをすべて習得しようとすると、年がら年中勉強するハメになる。知識そのものを競う学者や評論家などの職種は別とし、一般の職業人はもっぱら仕事の「成果」によって評価される。あまり賢明なやり方といえない。
仕事を進めるなかで、疑問や壁にぶつかったときに人や本に当たってみるといった“いい加減”な気持ちでよいのではないか。
根が真面目だと、あれもこれも勉強しなくてはという「強迫観念」に追い立てられるようになる。心を患いかねず、要注意の状態である。
ここに、枝分かれしたものに“横串”を通すという、ベーシックな、しかもスキルへ寄せた学習の意義と必要性がある。
業務に直結する部分は掘りさげて学ぶとしても、それ以外の分野は基礎的かつ実践的なところを学べば間に合う可能性がある。
忘れてならないのは、横串となる学習が貧弱だと、枝分かれした勉強に振り回されやすいことである。また、咀嚼率、吸収率が悪くなる。
よく指摘されるが、その会社や仕事に限り使用できる知識と、世間で広く応用できる知識がある。知識の習得では、このバランスに留意する必要がある。
1日は短い。そして、1年は短い。
職業人生を謳歌したいなら、役立てられない勉強を行うヒマはない。
「使うものしか勉強しない。勉強したらかならず使う」。
勉強が目的と化してしまった人からは、どこか“世捨て人”の風情が漂う。
誇るべきは、学習の努力でなく、仕事の成果である。
ここをはき違えないよう、肝に銘じて学んでいこう。

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このブログは、おもに長期出張の移動時や宿泊時などに数日分〜1月分の記事を書き溜め、それを家族に更新してもらっています。
しかも、私がときどき新しい記事を割り込ませています。
内容が古かったり、順序が変だったりするのはそのためです。

なお、ブログによりぎりぎりのジョーク、成人向けの内容が含まれます。
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私は執筆に当たり全人格を投影したいと考えます。
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プロフィール
wada01











和田創

和田創研代表
シニア起業家
和田 創(わだ・そう)

数字立て直し(伸長)一筋の経営コンサルタント。
教育と指導の年間実績は約百回。対象は社長から役員、管理者、社員まで、テーマは経営から管理、採用、事業、商品、企画まで広範。著書や教材は多数。
2017年、66歳以降はAIやロボット関連の起業に挑むとともに、おもに内需・地場企業から先端分野・成長分野の事業・商品開発を請け負う。

その他の役職
面白くないジョークの会会長 

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