コンサルの引き出し|和田創ブログ

だれの目の前にも可能性の地平は広がる。それを切り拓けるかどうかは自分次第である。「面白くないジョークの会」初代会長が解き明かす経営と人生の奥義とは?

絵画

バッド・ルーテナント|映画感想評価★★☆

2009年「バッド・ルーテナント」ヴェルナー・ヘルツォーク監督(米国作品) ★★

ギャンブル、愛人の娼婦とドラッグにおぼれる、どうしようもない刑事が描かれています。
これといったストーリーもなく、犯罪につけ込むなど、道を外れた行為が繰り返されます。
1992年の「バッド・ルーテナント 刑事とドラッグとキリスト」のリメイク作品とか。

映画を観ているうちに善と悪の感覚がマヒしてきます。
犯罪者が呆れるほどのはちゃめちゃな仕業(しわざ)が身に染みついており、違和感も衝撃もまるで覚えません。

得るもの、学ぶものが何もないという不思議な魅力が漂う作品です。
いかれたデカをニコラス・ケイジが演じています。
とてもよく似合います。

孤独と狂気、そして恍惚・・・。
醜い現実にもかかわらず、夢想の世界にいるかのようです。
犯罪だらけの都市で務めを果たしていくやりきれなさも伝わってきます。
破滅的にならないとやっていけないのかもしれません。
心のバランスを辛うじて保つ繊細さと危うさも伝わってきます。

面白いわけでありませんが、最後まで飽きさせません。

◇◆◇

以下は、和田創の映画評価に共通する趣旨とあらましです。

私が観てよかったと感じた映画について「★」を付します。
正確に述べれば、作品の評価というより、自分が繰り返して観るかどうかの手がかりです。
(私はすぐに忘れてしまいますので・・・。)
好き嫌いはおのずと反映されますが、といってそれだけでもありません。
作品の価値に対する感想も込めています。

実は、huluが5月17日に全面リニューアルを行った際、私が覚えのつもりで残してきた視聴作品の★がすべて消えました。
(この変更は改悪でした。)

このブログで幾度も述べていますが、仕事人間の私はパソコンの画面の片隅で流すという“ながら視聴”になります。
映画ファンに叱られてしまう接し方です。
しかし、ちゃんと観ようとしたら、おそらく永久に映画を楽しめません。

それゆえ、ストーリーが単純でないと厳しい。
また、語学がさっぱりなので邦画でないと厳しい。
★はいい加減な直観にすぎず、次に観たときには変わるかもしれません。
それでも、皆さまの鑑賞にいくらか参考になれば幸いです。

★は普通、★★★★★は最高、☆は★の半分。
(★はわりとよい。★★はかなりよい。★★★はとてもよい。★★★★はおおいによい。★★★★★は素晴らしい。)

⇒「パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト|映画感想評価★★☆」はこちら。

⇒「ガールズ・ステップ|映画感想評価☆」はこちら。

⇒「舟を編む|映画感想評価★★★★」はこちら。

⇒「アメイジング・グレイス|映画感想評価★★★」はこちら。

⇒「ローマの休日|映画感想評価★★★★★」はこちら。

⇒「深夜食堂|映画感想評価★★☆」はこちら。

⇒「霧の旗|映画感想評価★★★☆」はこちら。

⇒「新しい人生のはじめかた|映画感想評価★★☆」はこちら。

⇒「好きだ、|映画感想評価★★」はこちら。

⇒「君が踊る、夏|映画感想評価★★☆」はこちら。

⇒「小津安二郎映画作品 ランキング」はこちら。

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若冲展・・・笑うしかない

何とか仕事をやり繰りし、上野公園の東京都美術館で開催されている生誕3百年を祝う「若冲展」を観ようと思っていました。

ところが、ネットで調べると待ち時間が2時間などと記されています。
ためらっているうちに3時間、そして4時間、ついに5時間に達してしまいました。
私が並べる時間は最長でも2時間までです。
結局、5月24日、火曜日で若冲展は終了しました。

悔しくて、せめて図録を買うことにしましたが、手元に届くのは1か月以上先だそうです。
笑うしかありません。

こうした企画展の集客というか動員の予測はできないものなのでしょうか。
実物に触れる感動はそれは素晴らしいですが、ろくに見られないもみくちゃの状態では怒りたくなります。

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伊藤若冲と与謝蕪村の駄作を楽しむ

私は妻と子と一緒に、東京ミッドタウン(六本木)の「サントリー美術館」に足を運びました。
「若冲と蕪村 〜生誕三百年 同い年の天才絵師」という企画展です。

美術に詳しい方は、傑作の展示が少ないことを分かっています。
春休みの日曜日の昼下がりにもかかわらず、会場は混雑していません。
マイナーなテーマです。

それはそれで興味深いものです。
私はいくつかの作品について、おもに建築家志望の子(4月から高校3年生)に率直な感想を伝えました。
むろん、周りに配慮して小声で話しています。
しかし、辛辣な評価が隣の方に聞こえたようで、睨まれてしまいました。

伊藤若冲であろうが、与謝蕪村であろうが、ダメなものはダメです。
二人の企画展は駄作が多数含まれています。

有名人は気の毒です。
私は同情します。
主催者などが発見と称し、作品でなく下絵、それどころか習作まで展示してしまいます。
作者が生前、それを望んでいたとはとても思えません。
作品としての価値と資料としての価値は別物ですが、それが混在して展示されていることを理解したうえで眺めるべきです。

私は伊藤若冲が大好きです。
例えば、若冲の習作は、手前の木の枝が後ろの白い鳥にのめり込んでいました。
明らかにおかしいですが、この時点で「構図」に対する並々ならぬ志向が表れています。

私は与謝蕪村を「天才絵師」と呼ぶことに違和感を覚えます。
俳諧が本職です。
例えば、題名のなかの「虎」の一文字を「猫」に変えてくれれば、皆がすんなりと受け入れられます。
また、風景画は緻密に描き込むほど「造園画」になってしまいます。
蕪村は人、少なくとも鳥などの生き物がいないと作品になりません。
犬の絵などほとんど「イヌモン(?)」のルーツで、何という愛嬌でしょう。
そもそも蕪村の作品は接したとき、先に作者の人間性が感じられます。
これがいいか悪いかは、私は判断ができません。

「若冲と蕪村」の企画展。
私がさすが(傑作)とうなったのは、若冲が2点、蕪村が1点。
若冲では、全体が梅(?)の枝で構成された緊密な作品、大根を中心とした野菜のおおらかでダイナミックな作品。
蕪村では、大根の隣(?)に展示された鳥の作品(チケットの烏と一対と思われますが、こちらでなく鳥のほう。胸騒ぎを覚えました)。
いい作品と感じたのは、それぞれ数点。
作者と作品を知る手がかり(資料)としてほほえましく思えたのは、それぞれ数点。

この企画展はにこにこしながら観ないと、作者に失礼です。
「葬式展」じゃあるまいし、会場の空気が暗すぎます(笑っているのは欧米人でした)。
受付ももっとフランクであるべきです(マニュアルなどお捨てなさい。それとも派遣でしょうか)。
ジーンズとTシャツで十分。
人種のるつぼポンギ(←六本木の知ったかぶり)ですから、私たちに「ハーイ」と言ってほしかった。
初心者や家族連れが楽しめるよう、愛好家のすそ野が広がるよう・・・。

私を含め、家族は堪能しました。
企画に感謝します。

なお、伊藤若冲の鶏の絵などにしか興味を見出せない方は、画集のほうが断然いいです。

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曾我蕭白展覧会…茶目っ気たっぷりの遊び心

私は以前、都心への長期出張中、仕事の合間を縫って東京国立博物館へ足を運び、曾我蕭白の「雲龍図」を観た。
「ボストン美術館 日本美術の至宝」。

⇒2012年5月28日「曾我蕭白・雲龍図、ダイナミックでユーモラス」はこちら。

三重県津市の三重県立美術館で「開館30周年記念 蕭白ショック!! 曾我蕭白と京の画家たち」という展覧会が開かれている。
会期は、2012年6月2日(土)〜7月8日(日)。

以下は、公式サイトから。
曾我蕭白(1730〜1781年)は江戸時代中期、独創的な作品を手がけた。
京の商家に生まれた。
伊勢地方(現在の三重県)を巡り、当地に多くの作品と逸話を残した。
曾我蕭白は古い時代の絵画を換骨奪胎し、斬新かつ大胆、個性的な作風を築くことに成功した。
今日では「奇想の画家」の一人に数えられる。
時を越え、海を越え、大勢を魅了しつづける。

この展覧会では、6年に及ぶ修復を終えた、斎宮の旧家永島家伝来の襖絵44面を中心に、代表作、初出品作も交えて曾我蕭白の画業を紹介する。
また、曾我蕭白に先駆けて復古的な作風を示した山口雪溪や大西酔月、曾我蕭白と同時期に京で活躍した円山応挙や伊藤若冲などの作品も紹介する。

例えば、曾我蕭白の「虎溪三笑図」(千葉市美術館蔵)、「美人図」(奈良県立美術館蔵)、「唐獅子図」(朝田寺蔵。重要文化財)、伊藤若冲の「月夜白梅図」(個人蔵)。
作品により展示期間が異なる。

不確かだが、曾我蕭白の「雪山童子図」(1764年頃)が展示されている。

                       ◇

私は手元の「雪山童子図」(印刷物)と「雲龍図」(「ボストン美術館 日本美術の至宝」図録)を観ている。
改めて、ダイナミックな構図、さらに大胆さと細密さが融合した筆致に感心させられた。

画風は一言でいえば、破天荒。
見る人を驚かせてやろうとする茶目っ気たっぷりの遊び心が伝わってくる。
サービス精神が旺盛なのだ。
どこか子どもがいたずらを仕掛けて楽しむかのよう・・・。

曾我蕭白は作品に鑑賞者へのもてなし(ホスピタリティ)とちょっとした意地悪(かすかな悪意)を忍ばせた。
京の商家の出身という生い立ちも関係しているのでないか。

以下に、「曾我蕭白・雲龍図、ダイナミックでユーモラス」と題する2012年5月28日のブログを収める。
関連する箇所を抜粋した。

                      ◇◆◇

顧客からだいぶ前に「ボストン美術館 日本美術の至宝」の入場券をいただいた。
東京・上野の東京国立博物館平成館で開催されている。
キャッチフレーズ(?)は、「まぼろしの国宝、ニッポンに帰る。」。

私は江戸時代の画家、曾我蕭白(そが・しょうはく)の「雲龍図(うんりゅうず)」を観てみたいと思っていた。
作風は「鬼才」と呼ぶにふさわしい。
ダイナミックで幻想的。
おどろおどろしく、ユーモラス。

この作品はもともと大きな襖(ふすま)絵だった。
それが修復・パネル化され、日本初公開となった。
が、残念ながら何面かは失われている。

ほかに、長谷川等伯(はせがわ・とうはく)、尾形光琳(おがた・こうりん)、伊藤若冲(いとう・じゃくちゅう)の作品も展示されている。

私は都心に宿泊中、仕事のわずかな空き時間に駆け付けた。
そして、曾我蕭白の「雲龍図」に惹き付けられた。
このためだけに足を運んでよかった。
墨一色でここまで表現してしまう腕に驚かされた。
おそらく作者は楽しんで筆を振るったのでないか。

私は若い頃、画家になりたいという夢を抱えて悶々としていたことを思い出した・・・。

読者に誤解されると困るので、言葉を補いたい。
ほかにも素晴らしい作品がたくさんあった。
ただし、私は時間の都合でちらっと目にしたくらいだ。

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マティス最高傑作「赤いハーモニー(赤い部屋)」の心地よさ

六本木(乃木坂)の国立新美術館が開館5周年を記念し、力の入った企画展(特別展)を実施している。
それも2本がほぼ並行して開催される。



名称:セザンヌ−パリとプロヴァンス
会期:2012年3月28日(水)−6月11日(月)
会場:企画展示室1E
主催:国立新美術館、日本経済新聞社

ファンにはたまらない、セザンヌの個展だ。
私は静物画が好きである。
一部の風景画も…。

⇒2012年6月2日「セザンヌのりんごは歯が欠ける…食べないこと!」はこちら。



名称:大エルミタージュ美術館展 世紀の顔・西欧絵画の400年
会期:2012年4月25日(水)−7月16日(月・祝)
会場:企画展示室2E
主催:国立新美術館、日本テレビ放送網、読売新聞社、エルミタージュ美術館

公式ウェブサイトによる。
エルミタージュ美術館はロシアのサンクトペテルブルクに位置する。
建物(本館)はロマノフ王朝の歴代皇帝の宮殿であり、所蔵作品は3百万点を超える。
歴代ロシア皇帝とロシアのコレクターにより収集された。
本展覧会では、16世紀から20世紀までの西洋美術の名作を、その世紀を象徴するキーワードを軸に紹介する。

16世紀は、人間の世紀。
17世紀は、黄金の世紀。
18世紀は、革命の世紀。
19世紀は、進化する世紀。
20世紀は、アヴァンギャルドの世紀。

ティツィアーノ、ルーベンス、レンブラント、ブーシェ、レノルズ、モネ、ルノワール、セザンヌ、マティス、ピカソら83作家の89作品。

最大の注目は、アンリ・マティスの最高傑作の一つである「赤い部屋(赤のハーモニー)」。
東京では約30年振りの展示となる。

本展覧会はこの後、名古屋市美術館、京都市美術館を巡回する。



私はアンリ・マティスが大好きだ。
Facebookに、とくに好きな画家(版画家を含む)の名前を何人か挙げている。
実はたくさんいる。
そのなかでアンリ・マティスは一番かもしれない(厳密に順序を決められないし、年齢や時期により順序が変わる)。
もちろん画集を持っている。

私は大エルミタージュ美術館展でぜひとも「赤い部屋(赤のハーモニー)」を観たい。
1908年、油彩。
アンリ・マティスはこの作品を「青のハーモニー」として描いた。
ところが、展覧会に出品する直前に赤に塗り替えた。
キャンバスの縁に元の青が残っている。
自ら「青では十分に装飾的でなかった」と変更の理由を述べている。

アンリ・マティスはこの作品で三次元空間(部屋)の奥行きを見事に消し去った。
大きな窓外の風景まで額縁の風景画に変えてしまった。
華やかな原色系の平面を構成するだけで作品を完成させた。
くねくねの植物模様が装飾性とリズム感を与えている。

私は、「赤の部屋」くらい心地よい絵をほかに知らない。
作品全体から感覚的な癒し(いやし)が得られる。

私はずっと仕事に追われっ放しだ。
とはいえ、東京駅や紀尾井町、六本木などの都心のホテルに数泊することも珍しくない。
30分あれば、「赤い部屋」を観られる。
都合がつけば、そのために足を運ぶ。
ほかの作品に興味がないということでない。

余談。
わが家はもっとも多いときで、アメリカンショートヘアが9匹いた。
渋谷・松涛に暮らしていた頃である。

私はアンリ・マティスにネコだらけの室内を描いてほしかった。
切り絵でなく油彩で…。
想像するだけで、わくわくする。
が、鳥をたくさん飼っていたというから無理かなぁ。

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月下シルクロードを行く…平山郁夫展の感動

新潟市美術館で平山郁夫展が行われている。
会期は、5月26日(土)〜7月22日(日)。
正式名称は、「佐川美術館所蔵 平山郁夫展 大唐西域画への道」。
Facebookの友達が近況に、大きな感動を綴っていた・・・。
2001年制作の「月下シルクロードを行く」は代表作の一つ。

この平山郁夫展は昨年、北海道立函館美術館、北海道立釧路芸術館、酒田市美術館、金沢21世紀美術館、大分県立芸術会館で行われた。
今年、高崎市タワー美術館、富山県水墨美術館で行われた。
新潟市美術館に次いで秋田県立近代美術館で行われる。

公式ウェブサイトによる。
平山郁夫は29歳で「仏教伝来」を発表した。
仏教が生涯のテーマになることに…。
古代インドに発生した仏教を日本まで伝えた仏教東漸の道、東西文化交流の道である「シルクロード」に旅を続けた。

そして、玄奘三蔵の旅を追体験した成果を、奈良・薬師寺の玄奘三蔵院大唐西域壁画殿の「大唐西域壁画」に結実させた。
本展出品の「大唐西域画」は、もっと大勢にそれを見てもらいたいとの強い願いで2007年に制作した。
本展は3百点を超える平山作品を所蔵する佐川美術館の全面的な協力により、「大唐西域画」「シルクロードシリーズ」「アンコールワットシリーズ」「南京城壁シリーズ」などのなかから76点を展示する。
平和を祈る心を描きつづけた平山郁夫の画業を振り返る。

私は琵琶湖近くの「財団法人佐川美術館」へ2度、足を運んだ。
日本画家・平山郁夫の作品のコレクションでつとに名高い。
以下に、2010年12月1日の和田創ブログの一部を収める。
ついては、手を加えた。

                      ◇◆◇

1回目の訪問は帰りの新幹線の時刻が迫っており、駆け足だった。
そうした理由もあったが、なぜ2回目の訪問を行ったか?
高名な画家なのに、作品の魅力がピンと来なかったからだ。
シルクロードの絵を見て、いいなあとは思う。
が、それ以上の感動が得られなかった。
なぜか心がときめかない。

私にとり、芸術とは魂を強く揺さぶってくれるものだ。
分かりやすい激しさを求めてしまう・・・。

平山郁夫の作品は、腕の確かな職人が丁寧に仕事をしたという印象に留まった。
真心と誠実さは伝わってくるのだが、通俗性が拭えなかった。
すでに画家としての評価が確立しており、自分に「見る目がない」に違いないと考えた。

平山郁夫は仏教、とくに仏教伝来の道となった「シルクロード」を題材にし、幻想的な画風を築いた。
京都や奈良などに取材した歴史的風景画も多い。
叙情的な文学性、物語性が漂う。

                       ◇

私は以前、インターネットの情報に当たった。
平山郁夫にとり被爆体験は深い傷を残した。
20年間、広島へ行けなかった。

仕事で訪れたシルクロード。
それは、画家としての将来を決定づける運命的な出合いだった。
平山郁夫はそこに救済と鎮魂を求めた。
以来、戦争により失われた多くの命を背負い、シルクロードシリーズ(作品群)に平和の祈りを込めた。
それは、日本文化の源流になった仏教を伝えた道を描くことでもあった。

平山郁夫の作品には、日本人の深部に流れる静かな川のような、抑制された簡素な美しさがあるのかもしれない。
私は還暦を目前にし、その魅力がいくらか分かるようになった。

平山郁夫は活躍の幅がきわめて広い。
「画家とは絵を描く人」という通念を大きくはみ出している。
思い込みの激しい私は、平山郁夫をどこかで胡散(うさん)臭く感じていた。

実は、耳を疑う言葉が残されている。
「絵描きは絵だけ描いていてもだめだ。世の中とつながりを持たなければいけない。」。
印象は穏やかだが、凄い勇気を持っている。
画家としての実績と社会活動家としての実績という裏づけがなければ、波紋を巻き起こしかねない発言である。
平山郁夫の生涯を貫いた信念だろう。

ところで、私の父は陸軍中野学校の出身だ。
山陰から広島へ徒歩(?)で向かう途中、キノコ雲を目撃したが、それを母のほかに語らなかった。
一足先に市内に入った戦友が命を落とした。
予定が変わり、父と順番が逆になったのだ。
そうでなければ母と巡り会わず、私も生まれなかった。
父は戦争について、また広島について、私に一度も口を開かなかった・・・。

《略歴・作品》
1930年、広島県瀬戸田町で生まれた。
1945年、中学3年生のときに勤労動員先の広島で被爆した。
この体験が画家としての、人間としての原点となった。
1952年、東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科を卒業し、そこで後進を指導しながら前田青邨に師事した。
その後も教鞭を執りながら創作にいそしんだ。
教え子には人格を磨くことの大切さを説いた。
おもな活動の舞台となった日本美術院展で、1953年に「家路」が初入選した。1959年に「仏教伝来」が評価され、1961年に「入涅槃幻想」が大観賞を受賞した。
1966年、東京芸術大学からオリエント遺跡調査団の模写班の一員としてトルコに派遣された。
これをきっかけにシルクロードへの取材旅行を重ねた。
1968以降、「平和の祈り」を重ね合わせたシルクロードシリーズを40年以上描きつづけた。
1976年にこの東西交流の道を描いた作品群で、日本芸術大賞を受賞した。
1989年から東京芸術大学学長を2度務めた。
1996年から日本美術院理事長。
1998年、文化勲章を受章した。
2000年、奈良・薬師寺の「大唐西域壁画」を完成させた。
この間、法隆寺金堂壁画の再現模写、高松塚古墳壁画の現状模写に従事した。

平山郁夫は、世界の文化遺産の保存に関わった。
また、中国人を招いて敦煌の石窟群の修復技術を伝授するなど、日中の文化交流を深めた。
日本人初のユネスコ親善大使、アフガニスタンの支援など活動は多方面に及んだ。
ほかに、広島県名誉県民、広島市名誉市民、東京国立博物館特任館長、日中友好協会会長など。
社会的にもこれほどの功績を残した画家は珍しい(おそらくいない)。
人格者だった。

平山郁夫は、故郷の生口島の自然や人々を深く愛し、講演や著書で「古里が私を育てた」と感謝の気持ちを述べた。
「平山郁夫美術館」が造られている。
1998年に海道沿線の島や橋を描いた「しまなみ海道五十三次」を約1年がかりで制作した。

画家として生前の早い時期から高い評価を得た人はそれほど多くない。
平山郁夫は2009年12月2日に79歳で亡くなった。
自宅は神奈川県鎌倉市。

                       ◇

・・・私は、平山郁夫の画業は偉大だと思う。
足跡(職業人生)は文句なし。
しかし、個々の作品はどうなのだろうという疑問がすっかり消えたわけでない。
そもそも、偉大というのは画家に対する形容でないような・・・。

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セザンヌのりんごは歯が欠ける…食べないこと!

六本木(乃木坂)の国立新美術館が開館5周年を記念し、力の入った企画展(特別展)を実施している。
それも2本がほぼ並行して開催される。

                       ◇

名称:セザンヌ−パリとプロヴァンス
会期:2012年3月28日(水)−6月11日(月)
会場:企画展示室1E
主催:国立新美術館、日本経済新聞社

公式ウェブサイトによる。
「近代絵画の父」と称されるポール・セザンヌ(1839−1906年)の画業を、パリとプロヴァンスという2つの場所に注目して振り返る個展。
セザンヌは、南仏のエクス=アン=プロヴァンスに生まれた。
1860年代初め、成功を夢見てパリへ出る。
1870年代に入り、印象派のまばゆい色彩に感化されながらも、形態と空間の表現にこだわった。
そして、伝統的なアカデミスム絵画とも同時代の印象派とも異なる世界を築いた。
1880年代以降、故郷に戻り、制作に打ち込んだ。
セザンヌが孤高の画家とされるゆえん。
が、実際には、晩年まで20回以上もパリとプロヴァンスを行き来していた。
本展は、セザンヌの芸術的創造の軌跡を、南北の対比という新たな視座から捉え直そうという画期的な試みだ。

セザンヌは静物画に多くの傑作を残している。
自分が暮らした部屋の幾何学的な模様の壁紙を背景に、カップやりんご、布などのモチーフを組み合わせ、それまでにない形態や空間の表現を探った。
描く対象を自由に配置できるので、静物画は造形的な挑戦に適する。
セザンヌは、「私は1つのりんごでパリを驚かせたい」と言ったとか・・・。
独自の造形論理に基づき、対象に堅牢な存在感を与え、自律した構築物としての静物画を完成させた。

私にとりセザンヌとはリンゴの静物画だ。
画風から孤独で頑固な印象が伝わってきて、かなり好きだ。
セザンヌは、私が食べたいと思わないリンゴばかり描いてきた。
胃で消化できないという以前に、歯が欠ける。
素晴らしい!!!(特別に3個)

Facebookの絵好きの友達が足を運んだ。
リンゴの悪夢にうなされたのでなかろうか・・・。

                       ◇

名称:大エルミタージュ美術館展 世紀の顔・西欧絵画の400年
会期:2012年4月25日(水)−7月16日(月・祝)
会場:企画展示室2E
主催:国立新美術館、日本テレビ放送網、読売新聞社、エルミタージュ美術館

こちらについては後日に・・・。

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曽我蕭白・雲龍図、ダイナミックでユーモラス

仕事の嵐をくぐり抜け、金曜日夜遅くに生還した。
この間、寝不足、そして背筋痛と腰痛がひどくなっていった。
私は疲労のあまり、意識が幾度か遠のいた。
講演やセミナー、研修が中断した(といっても数秒〜十数秒)。
参加者や受講者が驚いたのでないか。

土日はちょっとした動作もおっかなびっくりで、ぎっくり腰に近い。
久し振りにゆっくりしたかったが、次の締め切りが迫っており、痛みを和らげる湿布(市販薬)を貼り、腰痛ベルトを巻いてデスクワークに没頭した・・・。

私は丸2週間、ブログを休んでしまった。
仕事に追われっ放しの自分にとり、ほとんど唯一の楽しみなのでさみしかった。

きょうからまた滅茶苦茶の状態・・・。
ブログも実質休止が続く。

                       ◇

ところで、顧客からだいぶ前に「ボストン美術館 日本美術の至宝」の入場券をいただいた。
東京・上野の東京国立博物館平成館で開催されている。
キャッチフレーズ(?)は、「まぼろしの国宝、ニッポンに帰る。」。

私は江戸時代の画家、曽我蕭白(そが・しょうはく)の「雲龍図(うんりゅうず)」を見てみたいと思っていた。
作風は「鬼才」と呼ぶにふさわしい。
ダイナミックで幻想的。
おどろおどろしく、ユーモラス。

この作品はもともと大きな襖(ふすま)絵だった。
それが修復・パネル化され、日本初公開となった。
が、残念ながら何面かは失われている。

ほかに、長谷川等伯(はせがわ・とうはく)、尾形光琳(おがた・こうりん)、伊藤若冲(いとう・じゃくちゅう)の作品も展示されている。

私は都心に宿泊中、仕事のわずかな空き時間に駆け付けた。
そして、曽我蕭白の「雲龍図」に惹き付けられた。
このためだけに足を運んでよかった。
墨一色でここまで表現してしまう腕に驚かされた。
おそらく作者は楽しんで筆を振るったのでないか。

私は若い頃、画家になりたいという夢を抱えて悶々としていたことを思い出した・・・。

読者に誤解されると困るので、言葉を補いたい。
ほかにも素晴らしい作品がたくさんあった。
ただし、私は時間の都合でちらっと目にしたくらいだ。

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平山郁夫シルクロード、日本人の深部に流れる川

以前のブログ「平山郁夫を偲ぶ…略歴と作品」において、私が琵琶湖近くの「佐川美術館」へ2度、足を運んだと記した。

私は、絵の勉強は中学校の授業まで。
したがって、好き嫌いは言えても、評価は行えない。
絵の良し悪しが分からないのだ。

世界的な画家の展覧会でも出向いたのは数えるほど。
行列も混雑も避けたいという気持ちが先に立つ。

ただ、これまでに百数十冊は画集を買い求め、ベッドに横たわって眺めたりした。
20代前半、生活費が尽きて、お気に入りの絵画全集を古本屋に引き取ってもらった。
絵は嫌いでない。

                       ◇

さて、1回目の訪問は駆け足だった。
そうした理由もあったが、なぜ2回目の訪問を行ったか?
高名な画家なのに、作品の魅力がピンと来なかったからだ。
シルクロードの絵を見て、いいなあとは思うが、それ以上の感動が得られなかった。
心がときめかない。

私にとり芸術とは魂を強く揺さぶってくれるもの。
明白な激しさをほしがる。

平山郁夫の作品は、技巧の確かな職人が丁寧に仕事をしたという印象に留まった。
真心のようなものは伝わってくるが、私は通俗性を拭えなかった。
画家としては珍しく生前に評価が確立していたので、自分に「見る目がない」に違いないと考えた。

                       ◇

私は以前、インターネットの情報に当たった。
平山郁夫にとり被爆体験は深い傷を残した。
20年間、広島へ行けなかった。

仕事で訪れたシルクロード。
それは、画家としての将来を決定づける運命的な出合いだった。
平山郁夫はそこに救済と鎮魂を求めた。
以来、戦争により失われた多くの命を背負い、シルクロードシリーズ(作品群)に平和の祈りを込めた。
それは、日本文化の源になった仏教を伝えた道を描くことでもあった。

平山郁夫の作品には、抑制された簡素な美しさがあるのかもしれない。
日本人の深部に流れる静かな川。
私は還暦を目前にし、その魅力がいくらか分かるようになってきたところ…。

平山郁夫は活躍の幅があまりに広い。
画家とは絵を描く人。
そうした通念をはるかに超えている。
思い込みの強い私は、平山郁夫をどこかで胡散(うさん)臭く感じていた。

実は、耳を疑う言葉が残されている。
「絵描きは絵だけ描いていてもだめだ。世の中とつながりを持たなければいけない。」。
印象は穏やかだが、凄い勇気を持っている。
画家としての実績と社会活動家としての実績という背景がなければ、波紋を巻き起こしかねない発言である。
平山郁夫の生涯を貫いた信念だろう。

                       ◇

私の父は陸軍中野学校の出身だ。
山陰から広島へ徒歩(?)で向かう途中、キノコ雲を目撃したが、それを母以外に語らなかった。
一足先に市内に入った戦友が命を落とした。
予定が変わり、順番が逆になったのだ。
そうでなければ母と巡り会わず、私も生まれなかった。

父は戦争について、また広島について、私に一度も口を開かなかった。

以下に、「平山郁夫を偲ぶ…略歴と作品」と題する2009年12月5日のブログを収める。
わずかに手を入れた。

                      ◇◆◇

佐川急便は琵琶湖の湖畔に保養所とそれに付随する体育館と広大な運動場(グラウンド)を有する。
ゴールデンウィークに恒例の社内行事があり、私は家族で招待されたことがある。
申し訳ないが、運動会に興味があったわけでなく、観光気分でご好意に甘えた。
感謝。

そして、近くの「財団法人佐川美術館」を訪ねた。
日本画家・平山郁夫の作品のコレクションでつとに名高い。
また、彫刻家・佐藤忠良の作品のコレクションも充実する。
佐藤忠良は、人が平凡な日常のなかで垣間見せる一瞬の美を作品に昇華させ、世界的に高い評価を得ている。
帽子をかぶった若い女性の彫像といえば、あれかと思う方も少なくないだろう。

私は佐川美術館が楽しみだった。
実は、以前に私一人で立ち寄ったことがある。
このときは帰りの新幹線の時間に追われていたので、慌てて見て回った。
そこで、平山郁夫の作品を中心に家族でじっくりと味わった。

                       ◇

先日、平山郁夫(ひらやま・いくお)が亡くなった。
79歳。自宅は神奈川県鎌倉市。
仏教、とくに仏教伝来の道となった「シルクロード」を題材にし、幻想的な画風を築いた。
それは日本文化の源流を探ることでもあった。
京都や奈良などに取材した歴史的風景画も多い。
叙情的な文学性、物語性が漂う。

《略歴・作品》
1930年、広島県瀬戸田町で生まれた。
1945年、中学3年生のときに勤労動員先の広島で被爆した。
この体験が画家としての、人間としての原点となった。
1952年、東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科を卒業し、そこで後進を指導しながら前田青邨に師事した。
その後も教鞭を執りながら創作にいそしんだ。
教え子には人格を磨くことの大切さを説いた。
おもな活動の舞台となった日本美術院展で、1953年に「家路」が初入選した。1959年に「仏教伝来」が評価され、1961年に「入涅槃幻想」が大観賞を受賞した。
1966年、東京芸術大学からオリエント遺跡調査団の模写班の一員としてトルコに派遣された。
これをきっかけにシルクロードへの取材旅行を重ねた。
1968以降、「平和の祈り」を重ね合わせたシルクロードシリーズを40年以上描きつづけた。
1976年にこの東西交流の道を描いた作品群で、日本芸術大賞を受賞した。
1989年から東京芸術大学学長を2度務めた。
1996年から日本美術院理事長。
1998年、文化勲章を受章した。
2000年、奈良・薬師寺の「大唐西域壁画」を完成させた。
この間、法隆寺金堂壁画の再現模写、高松塚古墳壁画の現状模写に従事した。

平山郁夫は、世界の文化遺産の保存に関わった。
また、中国人を招いて敦煌の石窟群の修復技術を伝授するなど、日中の文化交流を深めた。
日本人初のユネスコ親善大使、アフガニスタンの支援など活動は多方面に及んだ。
ほかに、広島県名誉県民、広島市名誉市民、東京国立博物館特任館長、日中友好協会会長など。
社会的にもこれほどの功績を残した画家は珍しい。
人格者だった。

平山郁夫は、故郷の生口島の自然や人々を深く愛し、講演や著書で「古里が私を育てた」と感謝の気持ちを述べた。
「平山郁夫美術館」が造られている。
1998年に海道沿線の島や橋を描いた「しまなみ海道五十三次」を約1年がかりで制作した。

画家として早い時期から高い評価を得た人はそれほど多くない。
入院先の病床でも創作意欲は衰えなかった。
ご冥福をお祈りする。

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平山郁夫を偲ぶ…略歴と作品

佐川急便は琵琶湖の湖畔に保養所とそれに付随する体育館と広大な運動場(グラウンド)を有する。
ゴールデンウィークに恒例の社内行事があり、私は家族で招待されたことがある。
申し訳ないが、運動会に興味があったわけでなく、観光気分でご好意に甘えた。
感謝。

そして、近くの「財団法人佐川美術館」を訪ねた。
経営と人生の名言0243日本画家・平山郁夫の作品のコレクションでつとに名高い。
また、彫刻家・佐藤忠良の作品のコレクションも充実する。
佐藤忠良は、人が平凡な日常のなかで垣間見せる一瞬の美を作品に昇華させ、世界的に高い評価を得ている。
帽子をかぶった若い女性の彫像といえば、分かる方も多いだろう。

私は佐川美術館が楽しみだった。
実は、以前に私一人で立ち寄ったことがある。
このときは帰りの新幹線の時間に追われていたので、慌てて見て回った。
そこで、平山郁夫の作品を中心に家族でじっくりと味わった。

                       ◇

先日、平山郁夫(ひらやま・いくお)が亡くなった。
79歳。自宅は神奈川県鎌倉市。
仏教、とくに仏教伝来の道となった「シルクロード」を題材にし、幻想的な画風を築いた。
それは日本文化の源流を探ることでもあった。
京都や奈良などに取材した歴史的風景画も多い。
叙情的な文学性、物語性が漂う。

《略歴・作品》
1930年、広島県瀬戸田町で生まれた。
1945年、中学3年生のときに勤労動員先の広島で被爆した。
この体験が画家としての、人間としての原点となった。
1952年、東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科を卒業し、そこで後進を指導しながら前田青邨に師事した。
その後も教鞭を執りながら創作にいそしんだ。
教え子には人格を磨くことの大切さを説いた。
おもな活動の舞台となった日本美術院展で、1953年に「家路」が初入選した。1959年に「仏教伝来」が評価され、1961年に「入涅槃幻想」が大観賞を受賞した。
1966年、東京芸術大学からオリエント遺跡調査団の模写班の一員としてトルコに派遣された。
これをきっかけにシルクロードへの取材旅行を重ねた。
1968以降、「平和の祈り」を重ね合わせたシルクロードシリーズを40年以上描きつづけた。
1976年にこの東西交流の道を描いた作品群で、日本芸術大賞を受賞した。
1989年から東京芸術大学学長を2度務めた。
1996年から日本美術院理事長。
1998年、文化勲章を受章した。
2000年、奈良・薬師寺の「大唐西域壁画」を完成させた。
この間、法隆寺金堂壁画の再現模写、高松塚古墳壁画の現状模写に従事した。

平山郁夫は、世界の文化遺産の保存に関わった。
また、中国人を招いて敦煌の石窟群の修復技術を伝授するなど、日中の文化交流を深めた。
日本人初のユネスコ親善大使、アフガニスタンの支援など活動は多方面に及んだ。
ほかに、広島県名誉県民、広島市名誉市民、東京国立博物館特任館長、日中友好協会会長など。
社会的にもこれほどの功績を残した画家は珍しい。
人格者だった。

平山郁夫は、故郷の生口島の自然や人々を深く愛し、講演や著作で「古里が私を育てた」と感謝の気持ちを述べた。
「平山郁夫美術館」が造られている。
1998年に海道沿線の島や橋を描いた「しまなみ海道五十三次」を約1年がかりで制作した。

画家として早い時期から高い評価を得た人はそれほど多くない。
入院先の病床でも創作意欲は衰えなかった。
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和田創

和田創研代表
シニア起業家
和田 創(わだ・そう)

数字立て直し(伸長)一筋の経営コンサルタント。
教育と指導の年間実績は約百回。対象は社長から役員、管理者、社員まで、テーマは経営から管理、採用、事業、商品、企画まで広範。著書や教材は多数。
2017年、66歳以降はAIやロボット関連の起業に挑むとともに、おもに内需・地場企業から先端分野・成長分野の事業・商品開発を請け負う。

その他の役職
面白くないジョークの会会長 

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