コンサルの引き出し|和田創ブログ

だれの目の前にも可能性の地平は広がる。それを切り拓けるかどうかは自分次第である。「面白くないジョークの会」初代会長が解き明かす経営と人生の奥義とは?

ふるさと

徳島市阿波おどり、破産でイメージ低下は避けられず

徳島小松島中学校から城北高校へ

66歳の私は大昔、徳島県で1年2か月ほど暮らしたことがあります。
1969年10月下旬から1970年12月下旬まで、小松島市立小松島中学校と徳島県立城北高校に在籍しました。
先だって66歳で亡くなった大杉連と同じです。

⇒2010年9月19日「大杉漣プロフィール…小松島中学校・城北高校出身」はこちら。


私は東洋紡績小松島工場の長屋のような社宅に両親と妹の4人で住んでいました。
父が勤務していた呉羽紡績が実質的に吸収合併され、肩書を奪われて徳島に転勤しており、家庭内には重苦しい空気が流れていました。

東洋紡績桟敷席で阿波おどり見物

城北高校1年生の夏に東洋紡績の桟敷席で「徳島市阿波おどり」を見ました。
迫力満点、面白おかしい祭でしたが、私自身は先に述べた事情で心から楽しむことができませんでした。
それでも地元民がこの祭にかける情熱だけは十分に感じ取れました。
街全体の盛り上がりは凄まじいものがありました。

私は長い歳月を経て、家族で「東京高円寺阿波おどり」を見ました。
しかし、本場の阿波踊りと比べようもありません。
致し方のないことです。

⇒2010年9月2日「高円寺阿波おどりの感想評価…見る阿呆になれず」はこちら。

⇒2009年11月14日「日本の祭『阿波おどり』の天水たち」はこちら。



阿波おどり主催の観光協会が破産

私は3月2日に徳島市が債権者として、阿波おどりを主催する公益社団法人徳島市観光協会の破産手続きを申請したというニュースを見ました。
どうやら徳島市と徳島市観光協会が阿波おどりの運営で対立しています。

徳島市は申し立ての理由を「市の負担額をこれ以上増やさないために、裁判所の関与で透明性を保って債権回収を行う」としています。
徳島市観光協会に委ねては収支を改善できないという判断です。

徳島市は借入の損失補償をしない

徳島市は2月7日に今後、徳島市観光協会の借り入れを損失補償しないことを決めました。
これを受けて、徳島市観光協会は2月16日までの期限に返済できないことを金融機関に伝えました。
預金などを差し引いた約3億8千万円が借入額となっています。
(それ以降、年利率14%の遅延損害金も発生しています。)

徳島市は金融機関が持つ徳島市観光協会への債権を譲り受けたうえで破産手続きを申請したのです。
(むろん金融機関から約3億8000万円の代理弁済を求められます。)

阿波おどり事業に不適正会計処理

阿波おどりの予算の執行と管理に重大な問題が見つかりました。
徳島市観光協会は徳島新聞社と共催し、事業会計を担当しています。
徳島新聞社は裏づけ書類に基づかない不適正な会計処理を慣例で行ってきたことを認め、累積赤字の負担も「一定の責任がある。可能なかぎり協力する」と回答しました。

阿波おどりは徳島というより、日本の夏の風物詩です。
私は約4百年の歴史を持ち、日本の三大盆踊りとして毎年百万人以上を集めている阿波おどりが累積赤字4億円超を抱えていたことがどうも腑に落ちません。

利権が絡んでいて、事業会計がずさんだったということでしょうか?
徳島市による損失補償の打ち切りが遅すぎたのかもしれません。
もっと早くメスを入れるべきでした。

2018年阿波おどりは開催されるか

破産手続きが開始されれば運営体制が整わず、2018年夏の「徳島市阿波おどり」の準備が間に合うかどうか微妙です。
徳島市は市の関係課でつくるプロジェクトチームで検討すると説明しました。

しかしながら、今回の破産騒動により阿波おどりのイメージ低下は絶対に避けられません。
軽妙でユーモラスな祭に暗い影が差すことになります。

踊る阿呆も見る阿呆も包み込んできた熱狂的な賑わいは次第に薄れていくのでしょうか・・・。

徳島もふるさとの一つと考える私は残念でなりません。
(自室で飼うアメリカンショートヘアの「クマ(♂)」は城北高校近くのブリーダーで見つけました。)
いまだに徳島に縁があるのです。

◆書き加え(3月5日)

真偽は不明、観光協会排除の企て

私はこのニュースに接したとき、巨額の経済効果をもたらすイベントでなぜこれほどの累積赤字が発生したのか疑問を感じました。

「週刊現代」が阿波おどりの存続危機に関わる状況の深層に切り込んでいるようです。
記事では、阿波おどりを巡る利益を守るために、徳島市長と徳島新聞社が徳島市観光協会を排除しようとしていると結論づけています。
徳島市観光協会は運営の健全化を推進する改革勢力になっています。

ちなみに、徳島市の遠藤彰良市長は地元放送局の四国放送の元アナウンサーであり、その四国放送の筆頭株主が徳島新聞です。

私にはこの記事の真偽を判断する材料(情報)がありませんが、一日も早く問題を解決してほしい。
長引けば長引くほど、阿波おどりのイメージ低下が深刻になります。

徳島といえば、「阿波おどり」。
地元民が大切に大切に育てあげてきた祭です。
彼らの「誇り」を台無しにすることがないように、心から祈ります。

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ツインバード工業GateCAFEイベント

第12回首都圏新潟県人会

私は「フェイスブック新潟県人会」のページをまれに覗いています。
交流会などの催事がとても活発です。

そこで目に留まったイベントがオープンしたばかりの「Gate CAFE」で行われる「第12回首都圏新潟県人会」でした。
日時は2018年2月3日(土) 17:00〜20:00です。

燕三条体感アンテナショップ

ここはツインバード工業のいわゆる「アンテナショップ」です。
が、それだけでなく、本社の上越新幹線の最寄駅「燕三条駅」に関わる燕市と三条市を体感できるそうです。
地域密着・地元貢献の一環でしょう。

私や家族、和田創研の社員がデスクワークで使ってきた照明器具はツインバードブランドですが、新潟県の会社ということを、恥ずかしながら初めて知りました。
確かめたら、和田創研の銀座のセミナールームも天井のLED照明器具がそうでした。
気づかないうちにずいぶんとお世話になっていたようです。

しかも、私が新潟県直江津市で生まれた昭和26年(1951年)が創業です。
現在は東証2部に上場していました。

また、燕三条駅の「中小企業大学校三条校」に社員を講師として幾度か派遣していました。
提案営業研修(コース)」を受け持ちました。

ツインバード工業に親しみ

結婚後に三鷹の自宅(借間)で仕事をしていたフリーランスのプランナーの私が30歳頃に勝負をかけて最初に都心に構えたオフィスがこの辺り(小伝馬町駅そば)でした。
約36年前。
記憶が曖昧ですが宮澤薬品ビルは当時もそれほど新しくなかったはずですが(失礼)、いまもあります。
私は小伝馬町から人形町にかけてよく歩いたものですが、この界隈の雰囲気が大好きです。

さらに、私が成長構想や中期経営計画を請け負ってきた会社が東証一部に上場しましたが、この近くにあります。

いずれも偶然の「」にすぎませんが、ツインバード工業に親しみが湧いてきました。

私は2月、クライアントからの制作物や企業研修の受託業務、リーダーシップセミナーの開催、ロボットビジネス勉強会の開催など、その準備を含めてスケジュールが詰まっています。
が、時間のやり繰りをつけられそうなら、ぜひとも伺いたいと考えています。

生まれ故郷の直江津市(現上越市)、そして新潟県に対する思いは薄れるどころか、年を重ねるごとに募っています。
(単に老いただけかもしれません。)

価値共創のGateCAFE

「Gate CAFE」は価値共創の場として3つのコンテンツを有します。
.フェとして、燕三条の「食」を体験できます。
▲▲鵐謄淵轡腑奪廚箸靴董燕三条の「モノ」を体験できます。
イベントとして、燕三条の「コト」を体験できます。

名称◆Gate CAFE
住所◆東京都中央区日本橋小伝馬町14-4 ツインバード日本橋ゲートオフィス
交通◆東京メトロ日比谷線小伝馬町駅歩2分ほか
HP◆http://www.twinbird.jp

ツインバード工業ホームページはこちら。

image余談。
私は四半世紀を超え、提案営業研修で「価値共創(バリュー・コラボレーション)」の重要性を説いてきました。
提案営業(ソリューション・セールス)は、「インプット(顧客理解)⇒コラボレーション(顧客共創)⇒アウトプット(顧客貢献)」の順で進めます。

⇒「提案営業研修標準講座」パンフレットはこちら。

⇒「営業精鋭学校」パンフレットはこちら。

eigyouseiei-gakkou提案営業の際立った特色はカスタマー・ファーストに基づく顧客価値の最大化の追求です。
ざっとお目通しくださるだけで、「本物の提案営業」のイメージをつかんでいただけます。

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「フェイスブック新潟県人会」の盛り上がり

東京新潟県人会、東京富山県人会・・・

きのう改めて知ったのが、フェイスブック(FB)に「**県人会」があるということでした。
私が生まれ育った「新潟県人会」が存在することはだいぶ前から知っていました。
が、かつて暮らしたことのある「長野県人会」「徳島県人会」「富山県人会」についてもフェイスブックで検索したところすべて存在しました。
それぞれのページからの推察ですが、それなりに活動を行っているようです。
おそらく出身者が多い「東京**県人会」が中心でしょう。

フェイスブックでもリアルの交流欲求

私がずっと気になりながら参加できなかった「フェイスブック新潟県人会」はとくに頻繁に催事が開かれているようです(他県もそうなのかもしれません)。
フェイスブックの友達同士でもリアルの交流欲求が強いことが見て取れます。
実際に接したり話したりしないと、人間関係はなかなか深められません。

まとめ役の頑張り次第で集まりに大差

こうした交流会のたぐいは主宰者や事務局などの「まとめ役」がどれくらい頑張るかで集まりがまるで違ってきます。
私はかつて「NPO法人 営業実践大学」の理事長として、トップセールスパーソンをゲストに招いた学習交流会を足かけ17年間・180回ほど行いましたが、気の遠くなる手間と費用がかかりました。

ロボットビジネス勉強会&交流会を盛り上げ

このときはもう懲り懲りだと思ったのですが、2017年66歳で「ロボットビジネス勉強会&交流会」を立ち上げてしまいました。
よせばいいのに、好きなのかな。
主宰者や事務局は大変な苦労を背負いますが、集まりが盛り上がると、やってよかったとつくづく思います。
「フェイスブック新潟県人会」の活発な取り組みに刺激され、「ロボットビジネス勉強会&交流会」を長く続けたいと思いました。

◆書き加え(12月30日)

このブログ(記事)はフェイスブックの和田創のページにも転載しています。

南雲克雅氏からコメント

「フェイスブック新潟県人会」を運営している南雲克雅氏からコメントが寄せられました。
主宰者か事務局か立場は分かりませんが、「まとめ役」を担っていることは確かでしょう。
だれかがぐいぐい引っ張っていかないと、こうした会(組織)は長続きしないし、盛んにならないからです。
大きな推進力が絶対不可欠です。
あくまでFBの記事へのコメントですが、私の場合にはすべてが公開されており、その趣旨やあらましを紹介することに問題はないでしょう・・・。



フェイスブックなどで拡大する新しい県人会を「ネオ県人会」と呼び、ほぼ各県が存在しています。

財団などが絡む昔からの東京**県人会は高齢化が進み、新規会員や若手会員の伸び悩みに直面しています。
平均年齢70歳という組織も珍しくありません。
また、役員の固定化や発想の硬直化も見られます。

私も以前は関わっていましたが、別で立ち上げたほうが若返りが進むと判断し、フェイスブック新潟県人会を立ち上げて独自路線を貫く道を選びました。
現時点で平均年齢40歳です。

ネオ県人会は集まる人をあまり選べないということにストレスを感じつつも「小さく産んで大きく育てよ」という精神で、結果1万人を超える会員数となっています。
(私:これはすごい!)

費用的にも初期の頃はほぼ赤字で運営しており、ここ一年でようやく県人会予算を口座で管理できるくらいになってきました。
(私:お金の苦労はめちゃくちゃ大変です。)
一部を糸魚川の大火災の義援金に充てたりしています。

これからは、よりリアルに新潟の企業団体に、とくに光の当たっていない組織に貢献できるような施策を積極的に柔軟に打っていければと思います。

以上。
それに対する私の返信はおおよそ以下・・・。



南雲克雅さん。ご苦労は痛いほど分かります。

私のダメなところは、「参加者を選びたがること」「交流だけでなく(学びと)実践にこだわること」です。

幸せ(幸福)はもとより何らかの具体的な豊かさ(繁栄)につながらないと、どうも自分の気持ちが満たされません。

おそらく職業病であり、私自身はプランナーとコンサルタントとして「黒子」に徹してきましたが、一貫して社業発展、とりわけ近年は中小企業の上場などを楽しみにして働いてきたからだと思います。

私は職業人生の先が長くなく、しかも年中無休で仕事をしていますので、せっかく関わるのなら中小・中堅企業の成長、産業・経済興隆にいくらかでも寄与したいという願いを持っています。

生まれ故郷の直江津(現上越市)がいまだに大好きです。
いや、年を重ねるほどその思いが募っています。
以前、ボランティアで社長など上層部向けの講演を行ったのもそのためです。

以上。
交流がきわめて尊いのは事実であり、そのなかから新しい取り組みが生まれることも珍しくありません。
それは重々承知していますが、自分としてはもう一歩踏み込みたい。
私がまとめ役となっている「ロボットビジネス勉強会&交流会」は参加者とともに新商品や新事業の導入、新会社の設立を目指しています。
苦しみながらも事を起こし、成し遂げる過程(プロセス)に誇りと醍醐味を感じます。
たとえささやかでも参加者と成果をつかみたいのです。

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恥ずかしながら木曽は岐阜かと・・・

インターネットで調べものをしているとき、たまたま木曽が長野ということを知りました。
なぜでしょう、ずっと岐阜と思い込んでいました。
お恥ずかしい。

私は長野県伊那市に1963年3月20日頃(うろ覚え)から1965年10月20頃まで暮らしました。
伊那市立伊那中学校に入学し、2年7か月近く在籍しています。
このときは長野県人だったわけです。

木曽路は中山道(中仙道)の一部を指すようです。
中山道が長野県を南西方向へ横断しているのはぼんやりと知っていましたが、この一部が木曽路と呼ばれるのは知りませんでした。

また、木曽川は長野県から岐阜県、愛知県、三重県を経て伊勢湾に注ぎます。
源流は長野県です。

となるともちろん、木曽谷は長野県にあり、木曽川と木曽路が寄り添うようにしているところがあるのでしょう。

ちなみに、私が暮らす港北ニュータウンの横浜市営地下鉄センター北駅のそばに「木曽路」という和食屋があります。
本社(東証一部上場企業)は岐阜県でなく愛知県(名古屋市)にありました。

「木曾路はすべて山の中である」で始まる島崎藤村の『夜明け前』は中山道の宿場町であった信州木曾谷の馬籠宿を舞台にしているそうです。

おかげでちょびっと賢くなりました。
66歳ですが、日々成長です。

◆書き加え(9月26日)

おのずと、木曽節は長野県の民謡になります。
私は岐阜県の民謡と思っていました。
「木曽のナー 中乗りさん 木曽の御岳(おんたけ)さんは ナンジャラホーイ 夏でも寒い ヨイヨイヨイ」。
中乗りさんに深くお詫びします。

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伊那中学校の親友・・・卒業50周年の同窓会

きょうのブログは伊那中学校時代のいまは亡き親友に捧げます。

1951年(昭和26年)生まれの私は来年2017年(平成29年)に66歳を迎えます。
1967年(昭和42年)、伊那中学校卒業50周年の節目となります。

私は父の転勤にともない、日本海を望む新潟県直江津市(現上越市)から、アルプス山脈に囲まれた長野県伊那市に引っ越してきました。
直江津小学校では卒業式の前日に移動したため、出席することが叶いませんでした。

伊那中学校ではクラス替えが行われず、友人がたくさんできました。
とりわけ仲がよかったのが4人であり、学校の帰りがしばしば一緒でした。
休日の遊びや遠出もまま・・・。
なかでも一人は互いの自宅が国鉄伊那市駅のすぐ裏手であり、歩1分の距離でしたので、夕食後に部屋を行き来しました。
くっついていた時間がとにかく長かった。

私は中学3年で卒業式を意識しはじめた10月中旬に徳島県小松島市(小松島中学校)に引っ越しました。
伊那は寒冷な盆地なので学校は冬季の休みが長く、登校日は3か月ほどを残すだけでした。
がっかり・・・。

というわけで、私は伊那中学校を卒業したわけでありませんが、半世紀ぶりの同窓会か同級会が開かれると信じ、2〜3年前から楽しみにしていました。
親友は面倒見がよく、幹事になるはずです。
彼に頼み込んで、仲間に混ぜてもらおう・・・。

私は6月頃から消息を追いかけ、お盆休み明けの8月30日にようやく近隣の方と電話で連絡を取ることができました。
(グーグルマップのストリートビューがなければ、手がかりをつかめませんでした。)
そして、彼がかなり前に亡くなったことを知らされました。
高齢のお母さんは存命のようですが、伊那(実家)に一人で置いておけないと弟さんがロシアに連れていったそうです。
きれいでやさしいお母さんでした。
私まで可愛がってくださいました。

「会っておけばよかった・・・」。
私は1週間、悔いに苦しみ、講師の仕事とクライアントの受託業務のほかは何も手につかなくなりました。
彼はさみしさと喪失感を悟ってか、昔の笑顔で夢にたびたび現れました。
仲がよすぎて距離を取った時期もありましたが、素晴らしくいい奴だった。
ありがとう!

私(富山県立魚津高校卒業)も彼(長野県立伊那北高校卒業)も大学進学で上京しました。
二人とも昼間の学生でありながら昼間の仕事についていました。
彼は有名デパートなどでお得な宝飾品の販売に携わっており、収入が多かったのでしょう。
私は新宿や銀座の盛り場に誘われ、酒をおごってもらいました。
すべてが女の子のいる店です。

やがて彼は札幌など遠隔地に転勤し、さらに私も彼も所帯を持って転々とし、連絡が取れなくなってしまいました。
おそらく音信が途絶えた最大の理由は、どちらも家族を養うのに精一杯だったことでしょう。
私自身は今日まで仕事漬けになりました。

先だって東京生まれの団塊の世代と話していたとき、「同窓会のたびに人が消えていく」と嘆きました。
どうしても会いたい人には早めに会っておくべきですね。
人間はかならず死にますから・・・。

私は直江津小学校の卒業50周年記念同窓会に参加できませんでした。
せめて魚津高校の卒業50周年記念同窓会には参加したいと思います。

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伊那市ストリートビュー…タイムスリップ

私は、グーグルマップストリートビューは東京とその周辺の大都市に限って見ることができると思い込んでいた。
先だって、中学時代の大半を過ごした長野県伊那市のグーグルマップを見ていた。

自分が暮らした、国鉄伊那市駅の裏手、呉羽紡績(後に東洋紡績)伊那出張所の場所を特定できない。
自宅兼オフォスだった。
地図を眺めているうちに記憶がいくらか蘇ってきて、「東町公民館」の斜め向かいだったことを思い出した。
しかし、自宅はここという確信を持てない。

また、近所に伊那中学校時代の親友の自宅、私が頻繁に出入りしたミシン店があった。
それも、ここという確信を持てない。

私がいらいらしながら地図を動かしていたとき、突然ストリートビューが現れた。
それはかつての自宅の前の道路だった。
通りには当時の建物がそのまま、もしくは手を入れられた状態でいくらか残っている。

結局、私は自宅を特定できなかったが、隣の建物に見覚えがある。
そうなると、おそらくこの建物がそうだと思った。
建て替えでなく、思い切ったリニューアルが施されているのでなかろうか。

近所の親友の自宅も特定できなかったが、やはりこの建物がそうだと思った。
いくらかリニューアルが施されているようだ。

私は伊那市のストリートビューを動かしながら、自宅から伊那中学校までの通学路をたどっていった。
在籍は1年生の春〜3年生の秋、1964年3月下旬〜1966年10月中旬。

道筋が単純なこともあり、こちらは迷わなかった。
そして、難なく高台の伊那中学校に着いた。
立派な校舎に建て替えられている。
むろん、通学路の周辺の様子はだいぶ変わっている。
それでも私は当時にタイムスリップし、20分前後の坂道をのぼっていった。
大感激だった。

伊那中学校は3年間、クラス替えが行われなかった。
担任も同じだったが、私のクラスは3年の進級時に先生が他の学校へ移った。
時間を忘れてストリートビューにのめり込むうち、当時の級友に会いたいとの思いがどんどん膨らんでいった。
皆、元気にしているだろうか・・・。

以下に、「心にぽっかり穴…直江津小学校卒業式」と題する2010年3月11日のブログをそのまま収める。

                      ◇◆◇

私は人生で一度も「卒業式」を経験していない。
直江津小学校では、卒業式の前日に長野県伊那市へ引っ越した。
私が愛してやまない生まれ故郷での最後は悲惨だった。
心にぽっかり穴が開き、それは半世紀近くを経たいまも埋まっていない。
呉羽紡績(現東洋紡績)は父親の転勤をなぜ遅らせてくれなかったのか?

直江津小学校には楽しくしかも誇らしい思い出しか残っていない。
私はこれ以降、輝きを放てなかった。
ささやかな栄光はこの時代に集中しているのだ。

私は6年生全員による投票を経て「児童会長」に選ばれた。
ほかに立候補者がいて、選挙演説を行った記憶がある。
当時、級長でもそうだったが、児童会長は成績が上位の子どもが就いた。
また、直江津小学校では「鼓笛隊」に力を入れており、私は先頭でバトン(指揮棒、指揮杖)を振った。
さらに中核の学校であったため、直江津市内の全小学校が集まるイベントでは、私が壇上に立って総指揮を執った。
それは壮観な眺めだった。

6年生は何度か全クラス揃って卒業式の練習。
松・竹・梅・桃の4クラス(学級名はひらがなだったかもしれない)。
おおよそ1クラス50人、計2百人。
私はその都度、教室にポツンと取り残された。
担任の先生が、卒業式に出席できない私に練習をやらせては可哀想と判断したのだろう。
教室の窓を開けると体育館から先生や児童のマイクの声、そして歌声などが聞こえてきた。
このときの寂しさを忘れられない。
仲のいい友だちが大勢いたのに、自分一人になった気分だった。
ただし、引っ越し前にクラスで別れの挨拶を行うことはできた。

私は卒業式で皆と一緒に6年間親しんだ校歌を力一杯歌いたかった。
無念…。

両親はこの件をどう考えていたのか。
一度聞いてみたいと思っているうちに、それも叶わなくなった。
現在では、仮にそうした命令を受け入れざるをえないにしても、私と母親は2日遅れで移動するのでないか。
しかし、そうした発想がまったくなかった。
家長に従う。
どちらかがホテルに泊まるなどとんでもない。
引越だって“お任せパック”はなく、家族の手で梱包も開梱も行うしかない。
記憶が曖昧だが、列車で移動した私たちと並行するようにトラックが走行していたのでないか。
あるいは、コンテナが貨物列車で輸送されていたか…。

私たちが伊那に着いて間もなく、荷物も届いたと思う。
疲れていたが、当日夜の生活に困らぬよう、一部は開梱を行ったのでないか。

日本海を眺めながら育った私にとり、2〜3千メートル級の山々に挟まれた伊那(盆地)は息苦しさを覚えた。
そして、西も東も分からない土地で伊那中学校に入学した。

入学式だったか始業式だったか、クラス分けが発表された。
3年間、担任も級友も変わらず。
同じクラスになった生徒が気さくに話しかけてきた。
人懐っこい顔をしている。
自宅がすぐそばと分かり、一緒に帰った。
私は不安が和らいだ。
互いにどれほど行き来しただろう。
やがて伊那が好きになった。

2009年10月16日のブログ「リニア中央新幹線は伊那谷ルート!」
むろん、私情にすぎず、その正当性を述べたものでない。
リニアの目的を考え、かつ特性を生かすなら、結論は議論するまでもない。
が、伊那中学校の卒業式に出席できなかった私は思うのだ。
リニア中央新幹線は伊那谷ルート!
これで決まり。
異議なし。

伊那中学校入学直後、私は人生の奥深さを教えられた。
大人の勉強…。
人はつまらないことを覚えていたりする。
級友がよそ者の私に「伊那盆地を反対から読め」と、偉そうに命じた。
けがれを知らない私は感動に身震いした。
それ以来、縮まったまま。
厚い氷に閉ざされた頂きは、ついに日の目を見ることがなかったとさ。
己の生涯と重なる。

                       ◇

余談。
高校以降はともかく、小学校や中学校の校舎は木造に尽きる。
人に優しく、味わいが深い。
直江津小学校も伊那中学校もそうだった。
古い建物を大切に使った。
雑巾掛け(ぞうきんがけ)をやったっけ。
木が乾いたのか、それともすり減ったのか、節目や木目が目立った。

校舎がコンクリート製だと愛着が湧きにくい。
とりわけ廊下や階段の印象が薄い。
不思議。

人間の基礎ができる年齢の学校生活は木造がマッチしているのでは…。
私は、どこかで教育の荒廃とつながっている気がしてならない。

                      ◇◆◇

長野と伊那、伊那中学校に関するブログ(おそらく一部)は以下のとおり。

⇒2013年7月1日「地銀取引先・業績立て直しセミナーが大人気」はこちら。

⇒2012年9月7日「自分に打ち克ち、困難を乗り越える…義務教育での登山」はこちら。

⇒2011年4月11日「おひさま陽子…伊那中・西駒登山、直小・妙高登山」はこちら。

⇒2010年3月11日「心にぽっかり穴…直江津小学校卒業式」はこちら。

⇒2009年10月16日「リニア中央新幹線は伊那谷ルート!」はこちら。

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冬の入口の風物詩…新潟・富山・石川

11月半ば頃から毎日のように気温が下がっている。
私は豪雪地帯の新潟県直江津市(現上越市)に小学6年生まで暮らした。
雪がいやと感じたことはあまりなかったと思う。
スキーやそり、かまくらや雪だるまといった楽しみがあった。

しかし、11月下旬から12月中旬まで(年により変動)の1か月ほどはつらかった。
天候は真冬に入ると落ち着くが、それまでは荒れ模様で不安定だった。
冷たい雨が降ったり、みぞれが混じったり、ときどきひょうが降ったり…。
しばしば激しい雷をともなう。
冬の入口の風物詩である。
本州の日本海側、つまり秋田、山形、新潟、富山、石川、福井、鳥取、島根などに共通するのでは・・・。

この時期、地元民は大変だ。

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日本三大夜景、新日本三大夜景、夜景100選

Facebookの友人が神戸の夜景の写真を載せていた。
島国の日本は街と海・港、丘・山が入り組み、当地ならではの夜景がつくられる。
私はインターネットで調べてみた。
すると、「日本三大夜景」「新日本三大夜景」「夜景 100選」などの言葉が見つかった。

⇒2008年2月26日「上越・高田の観桜会…日本三大夜桜」はこちら。

日本三大夜景とは、とくに美しいとされる3カ所の夜景。
“ヾ杙海ら望む、北海道函館市の夜景
∨猝躬概点餌罎ら望む、兵庫県神戸市や大阪府大阪市の夜景
0雕柑海ら望む、長崎県長崎市の夜景

新日本三大夜景とは、非営利団体「新日本三大夜景・夜景 100選事務局」がとくに美しいと認めた3カ所の夜景。
2003年4月に発表(制定)された。
〇倉山から望む、福岡県北九州市の夜景
⊆秡雹海ら望む、奈良県奈良市の夜景
山梨県笛吹川フルーツ公園から望む、山梨県甲府盆地の夜景

同事務局は2002年4月、日本初の夜景活動団体として発足した。
メンバーは、夜景愛好者の親睦と情報交換の場「夜景倶楽部(1997年9月発足)」の有志により構成される。
この夜景倶楽部は、全国主要都市で37回の交流会を開くほか、写真展を開催するなどの活動を行う。
同事務局代表は縄手真人。

「新日本三大夜景・夜景 100選」公式サイトはこちら。

同事務局は2004年8月に「夜景 100選」を発表(制定)した。

◆北海道・東北
◇北海道:函館山、藻岩山、JRタワー展望室T38、天狗山、測量山
◇青森県:釜臥山、ホテルヴィラシティ雲谷
◇岩手県:岩山公園
◇宮城県:住友生命仙台中央ビル(SS30)
◇秋田県:セリオン
◇山形県:舞鶴公園、眺海の森
◇福島県:信夫山

◆北関東
◇茨城県:筑波山・表筑波スカイライン
◇栃木県:太平山神社、織姫公園
◇群馬県:群馬県庁展望ホール、大パノラマ夜景展望台

◆関東
◇東京都:東京タワー、六本木ヒルズ大展望台 東京シティビュー、サンシャイン60、都庁、世界貿易センタービル
◇神奈川県:ランドマークタワー スカイガーデン、横浜港大さん橋国際客船ターミナル、湘南平、菜の花台
◇埼玉県:美の山公園
◇千葉県:飯岡刑部岬、きみさらずタワー、アイ・リンクタウン展望室

◆甲信越
◇山梨県:笛吹川フルーツ公園、新倉浅間神社、八代ふるさと公園
◇長野県:姨捨SA、城山公園、立石公園
◇新潟県:朱鷺メッセ展望室、弥彦山

◆北陸
◇富山県:富山市役所 展望塔、二上山
◇石川県:卯辰山、石川県庁、獅子吼高原
◇福井県:村国山

◆東海
◇愛知県:東山スカイタワー、蔵王山展望台
◇岐阜県:金華山、池田山
◇三重県:垂坂公園・羽津山緑地
◇静岡県:伊豆スカイライン、熱海城、富士川SA

◆関西
◇滋賀県:比叡山ドライブウエイ
◇京都府:将軍塚(東山山頂公園)、万灯呂山展望台、比叡山ドライブウエイ
◇大阪府:梅田スカイビル空中庭園、WTCコスモタワー、東大阪市総合庁舎、信貴生駒スカイライン、五月山、泉大津PA
◇兵庫県:摩耶山、六甲ガーデンテラス、ビーナスブリッジ、神戸ポートタワー、芦有ドライブウエイ、淡路SA
◇奈良県:若草山、信貴生駒スカイライン
◇和歌山県:紀ノ川SA、鷲ヶ峰コスモスパーク

◆中国
◇岡山県:鷲羽山スカイライン、遙照山総合公園
◇広島県:黄金山、灰ヶ峰、千光寺展望台
◇山口県:火の山公園、竜王山公園
◇鳥取県:なし
◇島根県:なし

◆四国
◇徳島県:眉山
◇香川県:屋島 獅子の霊巌、天使のすむ丘 サン・アンジェリーナ展望台
◇愛媛県:松山総合公園、具定展望台
◇高知県:五台山公園

◆九州
◇福岡県:皿倉山、福岡タワー、油山 片江展望台、米の山展望広場
◇佐賀県:道の駅 吉野ヶ里
◇長崎県:稲佐山、弓張岳展望台
◇熊本県:金峰山、花岡山
◇大分県:十文字原展望台
◇宮崎県:愛宕山公園、金御岳公園
◇鹿児島県:城山展望台、城山公園
◇沖縄県:浦添大公園

これらの夜景の「美しさ」「雰囲気」「アクセス」について★の数で評価を示し、コメントを添えている。
大変な労力だ。
夜景観賞に興味のある方はぜひ公式サイトを覗いてほしい。
写真が収められ、詳細な情報も得られる。

「新日本三大夜景・夜景 100選」公式サイトはこちら。

なお、改訂か追加がなされているようだ。
やがて東京スカイツリーが入るのだろうか?

私が気になったのは、9月と10月に初めて訪れた鳥取県と島根県から夜景が選出されなかったことだ。
実は、現地に午後8時頃に到着し、街が真っ暗で愕然とした。
県庁所在地のJR鳥取駅前でさえ…。
山陰地方は衰退が深刻だった。
夜景が美しいためには街の灯りが欠かせない。
選外となったのは、何となく分かる気がする。

⇒2009年4月4日「桜の名所、高田城址と高遠城址」はこちら。

私は夜景 100選に熱海(熱海城)が入っていてホッとした。
箱根と並び、大好きだ。
山と海に囲まれた観光都市・熱海はかつて東洋のナポリと呼ばれた(いまも?)。
限られた平坦地と緩傾斜地に宿泊施設や商店、住宅が密集しており、なおかつそれが山の中腹まで延びるため、夜景が立体的で美しい。

団体旅行が全盛だった頃の市街は観光客で溢れ返っていた。
その後、ホテルや旅館の閉鎖(廃業・倒産)が相次いだ。
また、跡地に立てられたリゾートマンションもほとんど利用されていない。
熱海全体がさびれてしまい、夜景もかつてのような輝きを放っていないだろう。

⇒2008年8月13日「安近短…熱海サンビーチの賑わい」はこちら。

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伊豆半島が本州とぶつかり、伊那中で西駒登山へ

8月に入ってからの「和田創ブログ」は、1〜3週間の書き溜め記事が中心である。
たいてい出張中の移動時間や宿泊先での空き時間を使っている。
しかも、かなり前の素材(メモ)を仕上げることもある。
話題が古いのはそのせいだ。

                       ◇

私は先だって、伊豆半島が本州と衝突し、大地の褶曲により南アルプスと中央アルプスが形成されたと知った。
その後の雨や氷、風による浸食が、いくつもの切り立った峰をつくった。
現在の険しい、しかし美しい山脈に変わっていった。

褶曲(しゅうきょく)とは、岩波書店・広辞苑によれば、「堆積当時水平であった地層が、地殻変動のため、波状に曲がる現象。また、それが曲がっている状態。」。

この2つのアルプスの誕生には気の遠くなる歳月を要しているが、地球の活動はダイナミックだ。
私はその事実に驚いた。

南アルプスと中央アルプスに挟まれているのが、「伊那谷」である。
私は伊那市立伊那中学校に2年7カ月在籍し、級友に「伊那盆地」を逆から読んでならないと教え込まれた。
日々見上げていたのが、両側のアルプスだった。
新潟・直江津で日本海を眺めながら育った私は圧迫感が強く、正直なところあまり好きになれなかった。
が、山脈の眺めは勇壮だった。

私は、伊豆半島が本州とぶつかり、伊那中で西駒登山へ出かけることになった。
本日の結論だ。

◆書き加え1(2012年8月24日)

やはり、インド亜大陸がユーラシア大陸と衝突した。
インド亜大陸の地殻はユーラシア大陸の地殻を押し縮めながら、その下にもぐり込んだ。
結果、「世界の屋根」と呼ばれるヒマラヤ山脈が形成された。
さらに、チベット高地の厚い地殻をつくり、天山山脈に影響を及ぼした。

インド亜大陸の北上はいまも続いており、ヒマラヤ山脈の成長も続いている。

以下に、「おひさま陽子…伊那中・西駒登山、直小・妙高登山」と題する2011年4月11日のブログを収める。

                      ◇◆◇

NHK朝の連続テレビ小説「おひさま」。
土曜日から井上真央がヒロイン・須藤陽子を演じている。
子役経験が豊富であり、若くても実力派なのだろう。

先週金曜日の放送で、陽子の母が亡くなった。
原田知世が心臓病に苦しむ紘子を切なく演じた。
須藤家が東京から空気の澄んだ安曇野に引っ越してきた理由が、最後のときを1日でも長くという父の考えだった。
あるいは、母の思いだったのかもしれない。

こうした事情を知らされたのは長男だけだった。
が、この頃には次男も、そして陽子も母の命が長くないことを察していた。
目に見えて病状が悪化していったからだ。

母は最後の日が近いと悟り、長男と次男を別々に呼び寄せた。
そして、力を振り絞って言葉をかけた。
どうしても言い残しておきたかったのだ。
二人の男の子はそれをしっかりと胸に刻んだ。

陽子は、母の病状が切迫し、小学校の登山をためらった。
それを母は送り出した。
太陽を近くで見てらっしゃいと・・・。
陽子はご来光に母の死を感じた。

私は思った。
当人に告知を行えば、親子で、夫婦で、最後の言葉を交わす時間を持つことができた。
相手が認めないかぎり、当人はそうした前提で話せない。
前の妻が亡くなってから長い歳月が流れたが、私はいまだに引きずっている。

                       ◇

「ひまわり」の陽子の登山を見て、記憶がよみがえった。
戦後長らく、義務教育では「登山」が重んじられていた。

私は直江津小学校の5年生(曖昧)で「妙高山」に登った。
校歌は、「ながめとうとき 妙高山の まどにうつれる姿をあおぎ・・・」で始まる。
妙高山は標高2454メートル。
あいにく天候が思わしくなく、希望者だけが山頂まで登った。
私も…。
卒業文集にはその思い出を綴ったはずだ。
ところが、卒業証書や卒業アルバムの類は手元に残っていない。
引っ越しの連続で、私は半生の記録をすべて紛失してしまった。

伊那中学校の2年生(曖昧)で「西駒ケ岳」に登った。
校歌は、「山脈(やまなみ)は 青くめぐりて・・・」で始まる。
険しくてきつかったし、怖かった。
伊那谷は2つの駒ヶ岳に挟まれ、西側の木曽駒ヶ岳を「西駒ヶ岳(西駒)」、東側の甲斐駒ヶ岳を「東駒ヶ岳(東駒)」と呼んだ。
西駒ケ岳は標高2956m。
3千メートル級といってよい。
木曽山脈(中央アルプス)の最高峰だ。

ウィキペディアによれば、1913年(大正2年)、長野県中箕輪高等小学校(現在の長野県上伊那郡箕輪町立箕輪中学校)の集団登山において、将棊頭山付近で遭難事故が発生し、校長と生徒10人が死亡した。
現在の上伊那地区の中学校では、当時の教師たちの遺志を尊重し、また慰霊の意味も込めて、学校行事として集団登山を行っている。
私は登山前のオリエンテーションでこの話を先生から聞かされたことを覚えている。
いまなお伊那中学校では西駒登山を行っているのだろうか。

1967年(昭和42年)、駒ヶ岳ロープウェイ開通にともない、終点の千畳敷や木曽駒ヶ岳に多くの人が訪れるようになった。
登山はずいぶん楽になったのでないか・・・。

「おひさま」で子どもたちが歌う県歌「信濃の国」を久しぶりに聞き、懐かしくなった。
明治時代の作詞・作曲。
私もずいぶん歌った。

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第55回東京高円寺阿波おどり開催時間変更(午後3時〜6時)

きょう(8月27日)とあす(8月28日)の2日間、「東京高円寺阿波おどり」が催される。
正確には、「がんばろう日本!! 東日本大震災復興支援 第55回東京高円寺阿波おどり」。

「東京高円寺阿波おどり」は毎年8月の最終の土・日曜日に、JR高円寺駅前から東京メトロ新高円寺駅にかけての通りを舞台に繰り広げられる。
今日では知名度が上がり、人出(見物客)は本場徳島を超えるともされる(不確か)。
東京の代表的な夏祭りの一つ、東京の晩夏の風物詩になった。
私は昨年、初めて見にいった。
家族と一緒。
今年は「節電」に協力するためだろう、昼間(午後3時〜6時)に変更して行われる。

私は、本場徳島のそれを45年近く前に見た。
徳島県立城北高校1年生の夏休み。

体が動くうちにどうしても見たい祭は、「青森ねぶた」と「おわら風の盆」の2つ。

私は疲労の蓄積で、激しい腰痛に苦しむ。
「ぎっくり腰」の一歩手前の状態。
きょうからまた新たな闘いが始まる。

以下に、「高円寺阿波おどりの感想評価…見る阿呆になれず」と題する2010年9月2日のブログを収める。

                      ◇◆◇

私は富山から上京して20年近く、中野駅〜東小金井駅間の中央線沿線で暮らしたのに、高円寺の阿波おどりに一度も出かけたことがなかった。
その理由については、このブログで幾度か述べたとおり。

長年のわだかまりが消え、今年は行こうと思ったが、すでに約束が入っていた。
けれども、どうしてもという気持ちが強くなり、当日午前にミーティングをキャンセル(延期)した。

高円寺阿波おどりうちわついに妻と子どもを引き連れ、「第54回東京高円寺阿波おどり」へ。
開催時刻は午後6時〜9時(3時間)。

さて、JR代々木駅で乗り換えた総武線がたまたま中野駅止まりだった。
また、JR高円寺駅とその周辺が大混雑していて身動きが取れないと考え、あえてJR中野駅で降りて会場に徒歩で向かうことにした。

実は、約40年前に日経育成奨学制度を利用して明治大学へ進学した私が入店したのが「日経高円寺専売所」だった。
住所は杉並区高円寺南1丁目だが、高円寺駅よりも中野駅のほうがずっと近かった。
最寄駅は青梅街道沿いの地下鉄丸ノ内線・東高円寺駅。

私は新聞配達をやっていたので、この辺りの地理は詳しい。
中野駅を南下して大久保通りに入った。
予定では20分弱で環七通りを越え、JR高円寺駅南口と地下鉄丸ノ内線・新高円寺駅を結ぶ通りの中間点付近に30分弱で達する。
この通りが東京高円寺阿波おどりの会場である。

ところが、立派なマンションが立ち並ぶなど、大久保通りの雰囲気が変わってしまい、私は道を間違えたのでないかと不安が募ってきた。
妻と子どもは呆れ顔…。

そのとき、日経高円寺専売所が突如現れた。
当時は道路を挟んだ真正面に小学校(?)のグラウンドが広がっており、私はそれを目安にしていた。
が、大きなマンション(ライオンズマンション高円寺南)が通りに迫るように建てられていた。
それで、目前に来るまで気づかなかったのだ。

私が入店したときは新築間もないビルだった。
それが建て替えられている。
記憶が曖昧だが、当時は3階建てだった。
4階建てだったとしても、私が目撃したビルは5階建てである。
建て増すという芸当はできないはずだ。
ビルの奥行きも深いように感じた。
裏の土地を買い取ったのか…。
ずいぶん容積が大きい。

私の職業人生の出発点である。
しかも、その後に影響を及ぼした。
日経高円寺専売所での「新聞配達」の経験がなければ、いまの自分はなかった。
1畳半ほどの個室暮らし、苦しい仕事を思い出し、私は胸が熱くなった。
子どもにちょっと思い出を語ろうとしたが、妻は足も止めずに子どもとさっさと行ってしまった。
れれれ…。
ちなみに、店主(経営者)が代わり、私が知る人は一人もいない。
数年前に日本経済新聞の販売店組織で講演を行った際に、参加者から聞かされた。
ほんとうは高円寺専売所に顔を出したかった。

                       ◇

私たちが現地に到着したのは、午後7時半頃。
空が暗くなる7時を目標にしたが、30分遅れ。

で…。
肝心の阿波おどりは、まったく見られなかった。
凄まじい人出だった。
先に述べた「通り」は、全体でなく一部が会場である。
警備員や警察官に「立ち止まらないでください」と言われ、歩かされる。
私たちは会場から遠ざかるばかりで、諦めるしかなかった。
有料の桟敷席を予約すればよかったが、後の祭。
私たちは、出番を待って整列する踊り手(連)を眺めるのが精一杯だった。

見る阿呆(観覧者)に対して会場が少なすぎるし、小さすぎる。
高円寺に限らず、中央線沿線は下町である。
駅周辺は建物が密集しており、商店街も限られ、その通りも狭い。
阿波おどりにとり必須かつ最適な会場は「道」である。
それを確保できていない。

枝分かれする生活道路を利用すれば観覧者が分散するので、踊りを見られないという事態は解消する。
しかし、踊る阿呆も見る阿呆も住宅街になだれ込むことになり、時間を制限したとしても住民から大きなクレームが寄せられるだろう。
これは現実的に不可能。

むろん、私が甘く考えていたのがいけない。
人気のイベントを楽しもうと思えば、それなりの注意や努力を払わなくてならない。
妻は「こんなものよ」と達観。
私は突然行くことにしたので、下調べを欠いた。
子どもがかわいそうだった。

踊りを見にいった人は踊りを見られなかったら、二度と出かけない。
この祭の最大の問題(課題)である。
が、例年のことでは…。
怠慢!
主催者は早急に改善を図るべきだ。

私たちは「東京高円寺阿波おどり」の団扇(うちわ)をもらい、満たされない気持ちを慰めた。
路上の踊りは天空の花火と異なり、楽しめるのは前から2〜3列に限られる。
「ゲゲゲの女房」の松下奈緒や向井理のように長身の人は別だが…。
なぜ主催者は通りに大型モニターを設置しなかったのか。
それだけでも観覧者はイライラが和らぐ。
現状では“見る阿呆”にもなれない人が大勢出てしまう。

なお、帰りはJR高円寺駅に近づくのが難しそうで、反対方向、つまり青梅街道沿いの地下鉄丸ノ内線・新高円寺駅へ向かった。
8時半に引き上げて正解。
10〜20分ほど遅れていたら、おそらく切符売り場や改札口、ホームは大混雑になったろう。

                       ◇

この祭は、高円寺商店街の振興が目的である。
隣の駅の阿佐谷商店街では七夕まつりが行われ、それなりの人気を博していた。
このままでは客を奪われるという危機感が背景にあり、それに対抗する狙いが大きかった。
そこで、夏のイベントに「阿波おどりのようなもの」を導入することにした。

発端は一商店街の催事であり、現在も…。
しかし、2日間で百万人前後(以上?)を動員する東京の夏祭に定着した。
主催者は自らの利益にこだわらず、周辺を巻き込むべき時期に差しかかっている。
ここまで育てあげた関係者の努力と苦労は尊重するとして、エリアを拡大してほしい。
杉並区はもとより東京都の強力なバックアップが不可欠である。

私は、青梅街道を開放しない限り、今後の発展は困難だと断言する。
同街道の地下鉄丸ノ内線・東高円寺駅〜新高円寺駅〜南阿佐ヶ谷駅間を通行止めにする。
阿波おどりは、公道が舞台(ステージ)なのだ。
大動脈(幹線道路)だが、周知徹底により交通への影響は減らせる。

主催者は、観覧者の満足度を高めよ。
あれじゃ、踊り手のストレスも凄い。

以上、私の「東京高円寺阿波おどり」に関する感想を述べた。
締め括りとして評価を記す。
会場に近寄るのが、「ヤットサー、ヤットヤット」。
踊りを見るのが、「ムリサー、ムリムリ」。
踊りのレベルは年々向上しているはずだが、人気の上昇による人出の増加に主催者の運営が追い付いていない。

本場・徳島阿波おどりを凌ぐといった感想をネット上で目にしたが、私はすべての面において大きな差があると思う。

                      ◇◆◇

阿波おどり、夏祭、花火大会などに関するブログは以下のとおり。

⇒2010年8月25日「日本の祭2010徳島阿波おどり…NHKBShi」はこちら。

⇒2010年8月26日「徳島郷土料理『阿波おどり』食う阿呆…銀座名店」はこちら。

⇒2010年8月27日「東京高円寺阿波おどり…徳島有名連+江戸っ子連」はこちら。

⇒2010年8月28日「日本の祭・秋田大曲全国花火競技大会…BShi」はこちら。

◆書き加え1(8月30日)

東京高円寺阿波おどりは現在、「NPO法人東京高円寺阿波おどり振興協会」が主催者。
同協会は桟敷席を販売しているわけでない。
年会費1万2千円の賛助会員や1口5千円の協賛者に、礼として桟敷席を用意している。

本場・徳島阿波おどりでは桟敷席がS席2千円で販売されているらしい。

◆書き加え2(8月30日)

「阿佐谷七夕まつり」は、例年8月7日を中日として5日間行われる。
主催者は阿佐谷商店街組合。
場所はアーケード型商店街の「阿佐谷パールセンター」。
期間中はJR阿佐ヶ谷駅をはじめ、この地区全体が七夕をモチーフにした装飾で彩られる。
正式な表記は「阿佐ヶ谷」「七夕祭」でないようだ。

◆書き加え3(8月30日)

指折りの花火師が腕を競う秋田県大仙市の「全国花火競技大会(通称:大曲の花火)」が90万人の人出を記録したようだ(不確か)。
百周年を迎える今年は過去最多の観客が見込まれ、現地は準備と対策に追われた。
会場内外の仮設トイレは千台をゆうに超えるというから驚き。

ところが、皆が一斉に動く帰りに大混乱が起こった。
人がはけない。
鉄道などは増便を図ったらしいが、まったく不十分。
大行列ができた。
うんざりした人々の顔がテレビに映し出された。

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おひさま陽子…伊那中・西駒登山、直小・妙高登山

20070411-02NHK朝の連続テレビ小説「おひさま」。
土曜日から井上真央がヒロイン・須藤陽子を演じている。
子役経験が豊富であり、若くても実力派なのだろう。

先週金曜日の放送で、陽子の母が亡くなった。
原田知世が心臓病に苦しむ紘子を切なく演じた。
須藤家が東京から空気の澄んだ安曇野に引っ越してきた理由が、最後のときを1日でも長くという父の考えだった。
あるいは、母の思いだったのかもしれない。

こうした事情を知らされたのは長男だけだった。
が、この頃には次男も、そして陽子も母の命が長くないことを察していた。
目に見えて病状が悪化していったからだ。

母は最後の日が近いと悟り、長男と次男を別々に呼び寄せた。
そして、力を振り絞って言葉をかけた。
どうしても言い残しておきたかったのだ。
二人の男の子はそれをしっかりと胸に刻んだ。

陽子は、母の病状が切迫し、小学校の登山をためらった。
それを母は送り出した。
太陽を近くで見てらっしゃいと・・・。
陽子はご来光に母の死を感じた。

私は思った。
当人に告知を行えば、親子で、夫婦で、最後の言葉を交わす時間を持つことができた。
相手が認めないかぎり、当人はそうした前提で話せない。
前の妻が亡くなってから長い歳月が流れたが、私はいまだに引きずっている。

                       ◇

「ひまわり」の陽子の登山を見て、記憶がよみがえった。
戦後長らく、義務教育では「登山」が重んじられていた。

私は直江津小学校の5年生(曖昧)で「妙高山」に登った。
校歌は、「ながめとうとき 妙高山の まどにうつれる姿をあおぎ・・・」で始まる。
妙高山は標高2454メートル。
あいにく天候が思わしくなく、希望者だけが山頂まで登った。
私も…。
卒業文集にはその思い出を綴ったはずだ。
ところが、卒業証書や卒業アルバムの類は手元に残っていない。
引っ越しの連続で、私は半生の記録をすべて紛失してしまった。

伊那中学校の2年生(曖昧)で「西駒ケ岳」に登った。
校歌は、「山脈(やまなみ)は 青くめぐりて・・・」で始まる。
険しくてきつかったし、怖かった。
伊那谷は2つの駒ヶ岳に挟まれ、西側の木曽駒ヶ岳を「西駒ヶ岳(西駒)」、東側の甲斐駒ヶ岳を「東駒ヶ岳(東駒)」と呼んだ。
西駒ケ岳は標高2956m。
3千メートル級といってよい。
木曽山脈(中央アルプス)の最高峰だ。

ウィキペディアによれば、1913年(大正2年)、長野県中箕輪高等小学校(現在の長野県上伊那郡箕輪町立箕輪中学校)の集団登山において、将棊頭山付近で遭難事故が発生し、校長と生徒10人が死亡した。
現在の上伊那地区の中学校では、当時の教師たちの遺志を尊重し、また慰霊の意味も込めて、学校行事として集団登山を行っている。
私は登山前のオリエンテーションでこの話を先生から聞かされたことを覚えている。
いまなお伊那中学校では西駒登山を行っているのだろうか。

1967年(昭和42年)、駒ヶ岳ロープウェイ開通にともない、終点の千畳敷や木曽駒ヶ岳に多くの人が訪れるようになった。
登山はずいぶん楽になったのでないか・・・。

「おひさま」で子どもたちが歌う県歌「信濃の国」を久しぶりに聞き、懐かしくなった。
明治時代の作詞・作曲。
私もずいぶん歌った。

                      ◇◆◇

朝ドラ「おひさま」とヒロイン陽子役・井上真央などの出演者に関するブログは以下のとおり。

⇒2011年4月4日「井上真央・おひさま、日本を明るく照らす」はこちら。

⇒2011年4月5日「おひさまの舞台、安曇野の自然の美しさ」はこちら。

⇒2011年4月7日「八木優希のおかっぱ頭…おひさま陽子の子役」はこちら。

⇒2011年4月8日「瀧本美織がおひさまヒロインを演じたら・・・」はこちら。

⇒2011年4月8日「瀧本美織てっぱん続編は3年後に本放送か」はこちら。

⇒2011年4月9日「井上真央、謎めいた内面…おひさまヒロイン」はこちら。

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富山・滑川・魚津は記録的大雪…冬将軍猛威

新潟県、富山県、石川県、福井県の北陸地方が記録的な大雪に見舞われている。
実は、昨冬もかなり積もった。
今冬はそれを大きく上回る。
「雪国」とされる新潟県でさえ、私が直江津小学校時代の約半世紀前のような豪雪は珍しくなっていた。
最近では、津南町で4メートルを超える最深積雪を記録した「平成18年豪雪」。

妹夫婦が富山県滑川市天望町の両親のかつての実家に暮らしている。
隣が魚津市、さらに隣が黒部市。
その黒部市で住宅が積雪の重みに押し潰された。
古い木造家屋はとても危険な状態である。
が、休日はともかく平日に“ドカ雪”に襲われると、雪かきが追いつかない。
実家は築20年を超えている。
妹とうまく連絡が取れない。
義弟は富山市で営業活動を行っており、参っているのでないか。
NHK総合テレビなどで再三、雪に埋もれた市内の光景が映し出された。

北陸地方で交通網がもっとも深刻な影響を受けたのは福井県。
北陸自動車道や国道8号はクルマが走行不能になり、千台以上が立ち往生した。
福井県は陸上自衛隊に災害派遣を要請した。
ほぼ解消した模様・・・。

                       ◇

私は「昭和38年1月豪雪」を経験している。
「三八豪雪」「サンパチ豪雪」と呼ばれる。
階段の踊り場から出入りした。
2階の窓を玄関にする感じ…。
クリスマスから正月にかけ、小学5年生の私は連日、両親の雪かきを手伝った。
重労働で、体が熱くなる。
雪は案外、重い。

当時、降り注ぎ降り積もる雪で天も地も真っ白だった。
見るだけなら美しい雪も、そこで生活する人にはときに過酷である。

◆書き加え1(2月1日)

猛威を振るった寒波「冬将軍」はきょう弱まり、後ずさりした。
予想天気図のあちこちに見られた雪のマークが減った。
徐々に暖かくなっていくようだ。

北陸地方は大雪のピークが過ぎ、天候が回復する。
何よりだ。

                      ◇◆◇

富山県と魚津高校などに関するブログは以下のとおり。

⇒2010年11月24日「富山名物蒲鉾(かまぼこ)に舌鼓…魚津・河内屋」はこちら。

⇒2010年11月17日「富山ブラック2年連続日本一…東京ラーメンショー」はこちら。

⇒2010年11月5日「富山ブラック麺家いろは…東京ラーメンショー」はこちら。

⇒2010年6月7日「富山ダイチのスケート親父…田中実会長」はこちら。

⇒2010年5月18日「魚津の蜃気楼に壮大なロマンを感じる」はこちら。

⇒2010年4月29日「特急はくたか、強風で全面運休」はこちら。

⇒2010年4月15日「ダイチ・田畑真紀、メダルへの道のり」はこちら。

⇒2010年3月22日「魚津高校出身講師のセミナー」はこちら。

⇒2010年3月9日「五輪銀メダルのダイチは富山中小企業」はこちら。

⇒2010年2月11日「寝台特急北陸と北陸銀行セミナー」はこちら。

⇒2009年12月21日「寝台特急北陸、急行能登が消える」はこちら。

⇒2009年12月20日「巨大カボチャ風呂に入る…富山・入善」はこちら。

⇒2009年11月10日「地方紙危機、北日本新聞が夕刊廃止へ」はこちら。

⇒2008年2月19日「古里への屈折した思い」はこちら。

⇒2007年5月9日「月収1位、富山は富の山だった!」はこちら。

⇒2007年4月24日「親不孝、富山の実家に寄りつかず」はこちら。

                      ◇◆◇

生まれ故郷・直江津に関するブログは以下のとおり。

⇒2010年5月1日「鱈めしと磯の漁火は名作駅弁…直江津」はこちら。

⇒2010年4月30日「直江津マイミクとセピオーラで歓談」はこちら。

⇒2010年4月29日「特急はくたか、強風で全面運休」はこちら。

⇒2010年3月20日「校歌を歌ってみなさい…就活・面接」はこちら。

⇒2010年3月17日「卒業式シーズン…大人への通過儀礼」はこちら。

⇒2010年3月13日「駅弁甲子園ハイマート鱈めし(再録)」はこちら。

⇒2010年3月11日「心にぽっかり穴…直江津小学校卒業式」はこちら。

⇒2010年3月10日「直江津ホテルハイマートに宿泊予約」はこちら。

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⇒2007年3月11日「NHK・桜井洋子さんの活躍が励み」はこちら。

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富山名物蒲鉾(かまぼこ)に舌鼓…魚津・河内屋

「和田創 講演講師の引き出し」。
このブログの読者が徐々に、しかし確実に増えている。
ユニークユーザー(ケータイを含む)が1日1千人〜1千6百人になった。
ブログの左サイドに置いた「ありがとうカウンター」はページビューである。
こちらはユニークユーザーのおおよそ5割増で、1千5百〜2千4百人。
著名人でなく一般人のブログとしては決して少なくない。
何かのきっかけで1日のアクセスが数倍に達することもある。
熱心な読者に心より感謝したい。

                      ◇◆◇

さて、富山・滑川、かつての両親の自宅に暮らす妹が先頃、特別養護老人ホームに入所する父を見舞った。
アルツハイマーが進み、数年前から何も分からない。
このところ急激に体力が低下した。

誤嚥(ごえん)や衰弱、発熱…。
何かあったときに間に合わないはずだから顔を見ておいたほうがよいと、私が電話をかけた。
父は妹をかわいがった。
妹は父に感謝している。
田舎から横浜・港北ニュータウンに出てくるのは費用も時間もかかり大変だ。
が、私は妹に悔いを残させたくなかった。

                       ◇

ところで、妹が上京する際、魚津名物、蒲鉾(かまぼこ)を持ってきてくれた。
魚津は滑川の隣の市。
赤と青、それと昆布の3種類。
家族の大好物であり、すぐになくなった。
なかでも昆布で巻いたかまぼこが一番人気。

私は、たまたまいただいた日本酒「久保田千寿」のつまみとしても食べた。
冷酒と非常に合う。
通常のつまみにありがちな味の濃さや癖がなく、酒の邪魔をしない。
かまぼこも酒もおいしく楽しめた。

パッケージが残っておらず、インターネットで調べたが、製造元を断定できなかった。

以下は、ウィキペディアに基づいてまとめた(ほぼ転載)。
蒲鉾(かまぼこ)は、おもに白身魚のすり身を主原料とし、塩分を加えて加熱することにより、木の板の上にゲル化させて製造した魚肉練り製品。
板は、臭みのないモミ、シラベなどが好まれる。
が、魚津のかまぼこは板付きでない。

さらにウィキペディアを読み進めると、こんな記述が見つかった。
「巻かまぼこ」は、富山県で一般的な板なしかまぼこ。
板状にしたすり身をだし巻き卵のように巻いてつくる。
断面に鳴門巻きのような模様ができるのが特徴である。
これだ。

もともと昆布を巻き込んだ「昆布巻(こぶまき)」の製法。
昆布の代わりに焼き締めたかまぼこで巻く「赤巻」などもある。
富山県では定番の食材であり、地元でうどんなどを食べると、ラーメンの鳴門のように入っている。
ここでは板付きかまぼこはほとんどつくられない。
県外に出るまで、かまぼこ板を見たことがない人が珍しくない。

私は、最後の一文に噴き出した。

                       ◇

グーグルで「魚津 かまぼこ」で検索した際にトップに表示されたのが、「鮨蒲本舗 河内屋(かわちや)」。
私はクリックし、仰天した。
「鮨蒲(すしかま)」。
知らなかった…。

河内一雄(現代表取締役会長)が売れる商品開発に懸命に取り組んでいるとき、寿司屋でネタの付加価値の大切さに気づいて思いついた。
ホームページに寿司のように盛りつけられたかまぼこの写真が掲載されている。
実に鮮やか、うまそう。

河内屋は老舗で、とくに土産用や贈答用に力を注いでいる。
「細工かまぼこ」での受賞歴も豊富だ。
斬新なかまぼこづくりに情熱を注ぎ、創意工夫を重ねている。

ホームページでは小巻として「赤巻」「青巻」「昆布巻」が紹介されているが、私が食べたかまぼこかどうかは不明だ。
おそらく同一商品でなかろうか。

河内屋は本社・工場所在地がJR魚津駅前。
私は富山県立魚津高校の卒業であり、最寄りの魚津駅(当時は国鉄)を利用した。
通学路からわずかに外れていて気づかなかった。

続きは来週、「久保田千寿と浦霞禅、飲みやすくうまい淡麗辛口」のブログで…。

                      ◇◆◇

富山県と魚津高校に関するブログ(一部)は以下のとおり。

⇒2010年11月17日「富山ブラック2年連続日本一…東京ラーメンショー」はこちら。

⇒2010年11月5日「富山ブラック麺家いろは…東京ラーメンショー」はこちら。

⇒2010年6月7日「富山ダイチのスケート親父…田中実会長」はこちら。

⇒2010年5月18日「魚津の蜃気楼に壮大なロマンを感じる」はこちら。

⇒2010年4月29日「特急はくたか、強風で全面運休」はこちら。

⇒2010年4月15日「ダイチ・田畑真紀、メダルへの道のり」はこちら。

⇒2010年3月22日「魚津高校出身講師のセミナー」はこちら。

⇒2010年3月17日「卒業式シーズン…大人への通過儀礼」はこちら。

⇒2010年3月9日「五輪銀メダルのダイチは富山中小企業」はこちら。

⇒2010年2月11日「寝台特急北陸と北陸銀行セミナー」はこちら。

⇒2009年12月21日「寝台特急北陸、急行能登が消える」はこちら。

⇒2009年12月20日「巨大カボチャ風呂に入る…富山・入善」はこちら。

⇒2009年11月10日「地方紙危機、北日本新聞が夕刊廃止へ」はこちら。

⇒2008年2月19日「古里への屈折した思い」はこちら。

⇒2007年5月9日「月収1位、富山は富の山だった!」はこちら。

⇒2007年4月24日「親不孝、富山の実家に寄りつかず」はこちら。

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リニアルート伊那谷は苦戦、南アルプスで決着へ

リニア中央新幹線は、所要時間が最短、建設費が最小の「南アルプスルート」で決着する公算が強くなった。

JR東海(東海旅客鉄道)が2027年の開業を目指すリニア中央新幹線のルート選定が大詰めを迎えている。
国交省の審議会は、東京〜名古屋間をほぼ直線で結ぶ南アルプスルートの優位性を示す試算を盛り込んだ報告書を近々公表する。
これにより最高時速5百キロメートルで走行可能な区間を長く取れ、所要時間は40分。
建設費は5兆4千3百億円。

JR東海は「伊那谷ルート」「木曽谷ルート」と合わせ、3候補に関する報告書を提出していた。
が、いずれも迂回ルートになるため、建設費が数千億円増え、時間が数分遅くなる。

・・・慌てたのは、地域経済と観光の興隆に期待を寄せ、リニア中央新幹線の誘致活動に熱が入っていた長野県。
地元自治体の山田勝文諏訪市長と白鳥孝伊那市長が阿部守一県知事に対し、伊那谷ルートでの建設を国に求める要望書を手渡した。
意見交換も行われた模様。

とはいえ、リニア中央新幹線は事業主体のJR東海が建設費を全額自己負担する。
これで伊那谷ルートの苦戦、劣勢がはっきりした。
巻き返しはかなり困難だろう。
また、県北と県南ではおそらく温度差が大きい。
すでに長野新幹線が開業しているからだ(将来的に北陸新幹線)。

国交省の審議会は経済効果や需要予測、利便性などに関するデータを掘り下げて検討したうえで、早ければ年内におおよその方向性を固める。
壮大な構想の実現へ向け、まもなく巨大プロジェクトが動き出す。

以下に、「リニア中央新幹線は伊那谷ルート!」と題する2009年10月16日のブログを収める。
原稿にいくらか手を加えた。

                      ◇◆◇

リニア中央新幹線は、2045年に開業!
私はもう生きていない。
と思ったら、東京〜名古屋間は2025年(2010年現在の見込みでは2027年)の開業。
間に合う?
ならば冥土の土産になる。

JR東海は、いよいよルート選定に入る。
10兆円弱のプロジェクト。
鳩山内閣発足後、久々に明るい話題だ。
候補は、直線の南アルプスルート、中間の伊那谷ルート、最北の木曽谷ルートの3つ。

私は「伊那谷ルート」を望む。
理由にならないが、長野・伊那中学校に在籍したので…。
クラスメートと国鉄伊那市駅から飯田線の線路上をどこまでも歩いていくのが好きだった。
決して道に迷うことのない青春の放浪…。
その伊那谷を、リニアが駆け抜けていくのだ。
シルバー(?)の車体に、真っ赤に色付いた山々が映える、なんちて。

最短の南アルプスルートでは、東京(品川駅)〜大阪(新大阪駅)間を1時間7分(67分)で結ぶ。
最高時速は5百キロメートル。
夢のスピードで地上を走る(6百キロはムリ?)。
私はヒコーキ嫌いの結果、鉄道ファン。
陸路で北海道、四国、九州へ。
とりわけ東海道・山陽新幹線の利用頻度はきわめて高い。
ぜひともリニアの乗り心地を味わってみたい。

なお、リニア中央新幹線が営業すれば、東京、名古屋、大阪は通勤圏。
一握りの富裕層は“通勤電車”として使うはず。
毎朝同じ顔触れが軽く目配せや会釈を交わす。
でも、しゃべらない。
これが経済的ステイタスになっていそう。
また、経費削減の一環で3都市相互の出張は日帰りになりつつあるが、これにより宿泊付きはまったく消える。

昔は年中出張というビジネスマンがいた。
とくに営業系では長期出張が珍しくなかった。
毎月、北海道や九州などのテリトリー(担当区域)を数日から十数日かけて回る。
彼らのなかには、しょっちゅう訪れる都市に愛人をつくる兵(つわもの)がいた。
飲み屋でのボトルキープは当たり前。
時間距離が劇的に縮まって日帰り出張が浸透した今日、男どもの「武勇伝」はあまり聞かれなくなった。

私はふと思った。
リニア中央新幹線が完成する21世紀半ば、例えばクルマが空を飛んでいる可能性はないのか。
陸上のインフラが無用の長物になったりしないのか。
もしそうなると、現時点での需要予測は意味をなさない。
技術革新の急速な時代では、こうした長期事業の策定はとても難しい。

もう一つ。
東海道新幹線の営業は、東京オリンピックが開催された1964年。
JR東海は当然、大規模な補修を施すだろう。
しかし、2045年のリニア中央新幹線の全線開通(東京〜大阪間)まで、現在のインフラは持ち堪えられるのか。
約1世紀だ。
関東地震〜東海地震〜東南海地震〜南海地震など、マグニチュード8クラスの大地震の周期的な発生が迫っている。
私はいつもびくびくしながら「のぞみ」に乗っている。

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大杉漣プロフィール…小松島中学校・城北高校出身

NHK朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」。
このドラマでヒロイン・村井布美枝(武良布枝。松下奈緒)の実の父・飯田源兵衛(飯塚藤兵衛)を熱演しているのが、大杉漣(おおすぎ・れん)である。
私が好きな役者の一人だ。
ゲゲゲの女房でもっとも記憶に残った。

私はテレビでおもにビジネス系の番組をつけっ放しにしており、しかもほとんど見ていない。
また、映画はまったく見なくなった。

したがって、大杉漣についてもごくまれに目にするくらいだ。
それも主役でなく脇役を演じているところ。
が、しっかりとした存在感を示す。
プロ意識が強く、“役者魂”が際立つ。

大杉漣は数カ月前、NHKテレビ「スタジオパークからこんにちは」にゲストとして出演した。
私は例により“ながら視聴”で内容がろくに分かっていない。
しかし、人柄は伝わってきた。
記憶が曖昧だが、うまくいっていないときのほうが気持ちが落ち着くと語った。
私は順調なときは何だか自分でないようで、しっくりしない。
仕事を含め、人生はうまくいかないという気持ちが自分の根っこにある。
大杉漣が語ったのは、それに近い感懐だろう。

大杉漣はアドリブが多く、松下奈緒などゲゲゲの女房の出演者は大変だった。
撮影で気を抜けない。
彼が絡むシーンでは、厳格な父親(飯田源兵衛)と接する家族の緊張感が漂った。
幅広い役柄をこなし、幾多の修羅場をくぐってきたベテランならではの心憎い配慮である。



私はウィキペディアなどで大杉漣について調べてみた。
そして、飛び上がるくらい驚いた。
ピョン!

本名は大杉孝。
1951年9月27日生まれ。
私と同い年。
よし、2カ月ほど勝った(先輩)。

へぇ、徳島県小松島市出身。
私は14カ月ほど暮らした。

えっ、小松島市立小松島中学校卒業。
私は長野県伊那市立伊那中学校3年生の10月下旬に小松島中学校へ転校した。
ということは、学年が同じ、卒業式も一緒だった。

あっ、徳島県立城北高等学校卒業。
私は同校に入学した。
ということは、学年が同じ、入学式も一緒だった。
ただし、1年生の12月下旬に東京都立墨田川高校へ転校した。
城北高校へは国鉄佐古駅で降りるしかなく、そのためには国鉄小松島駅(現在は廃止?)で列車に乗るしかない。
小松島中学校からそれほどたくさん城北高校に進学したはずがない。
しかも、列車の本数はきわめて限られる。
ということは、通学時は同じホームに立っていた。

うそ、明治大学入学。
現役か浪人か分からないが、同じ時期に在籍していた。
ただし、私は昼間働いており、通学していなかった。

くっ、明治大学中退。
何年生で去ったか分からないが、私と同じ
ただし、私は堕落の果てであり、明確な目的を持ってやめたわけでない。
中退というより「除籍」に近い(どちらの扱いか不明)。
彼はすでに人生の目標を見つけ、演劇に打ち込んでいたようだ。

私は大杉漣に畏敬の念と同時に親近感が湧いてきた。

公式ブログが存在する。
「風ちゃん(チワワ)と寅子(スコティッシュフォールド)と大杉漣(俳優)の日記」。
長い題名。
カッコ書きの親切のせいだ。
「風(ふう)」という犬と「寅子」という猫を飼っている。
これも恐ろしいほどの偶然である。
私はアメリカンショーヘア(猫)だが、「フウ(♀)」と「トラ(♂)」。
フウは高齢ながら、私の部屋で元気に暮らしている。
この2〜3年で、私はおじいちゃん、フウはおばあちゃんの顔に変わった。
ショボショボ。

大杉漣は2010年8月23日のブログで「『ゲゲゲの女房』クランクアップ!」と題し、「飯田源兵衛さんが いつも僕の中に棲みついているようでした ほぼ十カ月の撮影・・・ とても感慨深く楽しいものでした」と記している。

大杉漣は四方八方から見られる職業だから当然かもしれないが、しゃきっとしていて若い。
かっこいいから、滅茶苦茶もてそう。

◆書き加え1(9月17日)

きょう午前8時15分よりNHKテレビ「あさイチ・プレミアムトーク」に大杉漣がゲストとして出演したようだ。
私は見られなくて、非常に残念だった。

◆書き加え2(9月17日)

私は小松島中学校と城北高校で大杉漣と接したかもしれない。
確かめたくても不可能。

実は、幼稚園から大学までの資料が残っていない。
卒業証書、卒業アルバム、卒業文集、通知表、学級(クラス)名簿…。
何一つ。
30回くらい(不確か)引越しを行うなかで紛失したようだ。
記憶を辿る手がかりはゼロ。

生まれてからの写真も…。
両親は何かと写真を撮ってくれたというのに…。
頭の衰えも進み、自分のことがどんどん分からなくなっている。

◆書き加え3(9月19日)

大杉漣は、小松島市立小松島小学校でなく小松島市立千代小学校を卒業していた。
グーグルの地図で調べると、後者の近くに中田駅がある。
佐古駅(徳島方面)へ向かい、おそらく小松島駅の次だ。
千代小学校は所在地が小松島市中田町(当時の表記は不明)。
大杉漣は中田駅で乗り込んだ?

◇◆◇

人生の教科書「ゲゲゲの女房」に関するブログは以下のとおり。
ドラマの進行と私の半生を重ねたり照らしたりしながら、心の内を綴った。

⇒2010年5月8日「ゲゲゲの女房…蘇る前妻との初デート」はこちら。

⇒2010年5月19日「松下奈緒、ゲゲゲの女房を好演する」はこちら。

⇒2010年5月20日「ゲゲゲの女房、小銭入れが空っぽの極貧」はこちら。

⇒2010年5月30日「ふすま一枚の地獄…ゲゲゲの女房」はこちら。

⇒2010年6月6日「ゲゲゲ原稿料を払ってもらえない」はこちら。

⇒2010年6月8日「松下奈緒と向井理が好演…ゲゲゲの女房」はこちら。

⇒2010年6月12日「松下奈緒 ゲゲゲの女房 人気シーン」はこちら。

⇒2010年6月14日「ゲゲゲゲラが出た…私は初校で校了」はこちら。

⇒2010年6月17日「ゲゲゲ、人気ラーメン店の行列が消えた」はこちら。

⇒2010年7月5日「向井理の好演、村井茂の名言…ゲゲゲの女房」はこちら。

⇒2010年7月15日「ゲゲゲ水木しげる、少年マガジンデビュー」はこちら。

⇒2010年7月17日「ゲゲゲ水木しげる、テレビくん児童漫画賞受賞」はこちら。

⇒2010年7月24日「水木プロダクション旗揚げ…ゲゲゲの女房」はこちら。

⇒2010年7月31日「ボチェッリが歌う吉岡聖恵・ありがとう」はこちら。

⇒2010年8月5日「水木プロダクション異様な活気…ゲゲゲの女房」はこちら。

⇒2010年8月9日「ゲゲゲの鬼太郎へ題名変更…主題歌もヒット」はこちら。

⇒2010年8月11日「水木プロダクション…アシスタント人件費」はこちら。

⇒2010年8月12日「いじめ…有名人の子の苦悩(ゲゲゲの女房)」はこちら。

⇒2010年8月14日「妖怪いそがし、家庭を顧みない水木しげる」はこちら。

⇒2010年8月18日「漫画家・水木しげる、締め切りの地獄と天国」はこちら。

⇒2010年8月20日「職業人生に締め切りを設けよ…水木しげるの教え」はこちら。

⇒2010年8月20日「松下奈緒は号泣、向井理は手料理…ゲゲゲの女房」はこちら。

⇒2010年8月21日「芸術への憧れを捨て、フリーランスのプランナーへ」はこちら。

⇒2010年8月21日「松下奈緒の美しさ…思い出のメロディー司会&演奏」はこちら。

⇒2010年8月22日「苦労人・水木しげる、作品づくりの姿勢と執念」はこちら。

⇒2010年8月23日「松下奈緒、偏差値39の衝撃、バスト86の疑問」はこちら。

⇒2010年8月25日「人生の教科書・ゲゲゲの女房…仕事・夫婦・家族」はこちら。

⇒2010年8月26日「心の太鼓を打ち鳴らせ…ゲゲゲの女房」はこちら。

⇒2010年8月28日「松下奈緒・ゲゲゲの女房・撮影秘話…あさイチ」はこちら。

⇒2010年8月29日「松下奈緒&向井理、ゲゲゲの女房の平均視聴率」はこちら。

⇒2010年8月30日「松下奈緒・ゲゲゲの女房、大ヒットの立役者」はこちら。

⇒2010年8月30日「職業人生、それは長いデコボコ道を行くこと」はこちら。

⇒2010年8月31日「水木しげるプロダクション倒産危機…仕事激減」はこちら。

⇒2010年9月1日「水木しげる大スランプ、自信喪失…仕事がない」はこちら。

⇒2010年9月2日「水木しげるの異変、村井布美枝(武良布枝)の苦悩」はこちら。

⇒2010年9月3日「水木しげるスランプの原因…先生商売の落とし穴」はこちら。

⇒2010年9月3日「水木夫婦ゆかりの地巡り…清水ミチコ、松下奈緒」はこちら。

⇒2010年9月4日「水木しげる作品・自宅・プロダクション…調布名物」はこちら。

⇒2010年9月6日「水木しげる、復活へのノロシ…スランプ脱出」はこちら。

⇒2010年9月7日「水木しげるの漫画家魂、妖怪研究家の名声」はこちら。

⇒2010年9月8日「水木しげる渾身妖怪画、点々アシスタント万歳!」はこちら。

⇒2010年9月9日「水木プロダクション爆笑アシスタント募集広告」はこちら。

⇒2010年9月10日「調布・水木プロダクション社長…家族経営の幸せ」はこちら。

⇒2010年9月11日「鳥取境港と島根安来…ゲゲゲの女房観光ブーム」はこちら。

⇒2010年9月12日「水木しげる、フリーランスの恐怖…ゲゲゲの女房」はこちら。

⇒2010年9月14日「ありがとう…いきものがかりゲゲゲの女房主題歌」はこちら。

⇒2010年9月15日「竹下景子・イカルと風間杜夫・イトツ…ゲゲゲの女房」はこちら。

⇒2010年9月16日「村井藍子は教員、松下奈緒はスタジオパーク」はこちら。

⇒2010年9月17日「松下奈緒が向井理への思いを打ち明けた」はこちら。

⇒2010年9月18日「紅白司会は松下奈緒と福山雅治? 向井理?」はこちら。

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高円寺阿波おどりの感想評価…見る阿呆になれず

私は富山から上京して20年近く、中野駅〜東小金井駅間の中央線沿線で暮らしたのに、高円寺の阿波おどりに一度も出かけたことがなかった。
その理由については、このブログで幾度か述べたとおり。

長年のわだかまりが消え、今年は行こうと思ったが、すでに約束が入っていた。
けれども、どうしてもという気持ちが強くなり、当日午前にミーティングをキャンセル(延期)した。

高円寺阿波おどりうちわついに妻と子どもを引き連れ、「第54回東京高円寺阿波おどり」へ。
開催時刻は午後6時〜9時(3時間)。

さて、JR代々木駅で乗り換えた総武線がたまたま中野駅止まりだった。
また、JR高円寺駅とその周辺が大混雑していて身動きが取れないと考え、あえてJR中野駅で降りて会場に徒歩で向かうことにした。

実は、約40年前に日経育成奨学制度を利用して明治大学へ進学した私が入店したのが「日経高円寺専売所」だった。
住所は杉並区高円寺南1丁目だが、高円寺駅よりも中野駅のほうがずっと近かった。
最寄駅は青梅街道沿いの地下鉄丸ノ内線・東高円寺駅。

私は新聞配達をやっていたので、この辺りの地理は詳しい。
中野駅を南下して大久保通りに入った。
予定では20分弱で環七通りを越え、JR高円寺駅南口と地下鉄丸ノ内線・新高円寺駅を結ぶ通りの中間点付近に30分弱で達する。
この通りが東京高円寺阿波おどりの会場である。

ところが、立派なマンションが立ち並ぶなど、大久保通りの雰囲気が変わってしまい、私は道を間違えたのでないかと不安が募ってきた。
妻と子どもは呆れ顔…。

そのとき、日経高円寺専売所が突如現れた。
当時は道路を挟んだ真正面に小学校(?)のグラウンドが広がっており、私はそれを目安にしていた。
が、大きなマンション(ライオンズマンション高円寺南)が通りに迫るように建てられていた。
それで、目前に来るまで気づかなかったのだ。

私が入店したときは新築間もないビルだった。
それが建て替えられている。
記憶が曖昧だが、当時は3階建てだった。
4階建てだったとしても、私が目撃したビルは5階建てである。
建て増すという芸当はできないはずだ。
ビルの奥行きも深いように感じた。
裏の土地を買い取ったのか…。
ずいぶん容積が大きい。

私の職業人生の出発点である。
しかも、その後に影響を及ぼした。
日経高円寺専売所での「新聞配達」の経験がなければ、いまの自分はなかった。
1畳半ほどの個室暮らし、苦しい仕事を思い出し、私は胸が熱くなった。
子どもにちょっと思い出を語ろうとしたが、妻は足も止めずに子どもとさっさと行ってしまった。
れれれ…。
ちなみに、店主(経営者)が代わり、私が知る人は一人もいない。
数年前に日本経済新聞の販売店組織で講演を行った際に、参加者から聞かされた。
ほんとうは高円寺専売所に顔を出したかった。

                       ◇

私たちが現地に到着したのは、午後7時半頃。
空が暗くなる7時を目標にしたが、30分遅れ。

で…。
肝心の阿波おどりは、まったく見られなかった。
凄まじい人出だった。
先に述べた「通り」は、全体でなく一部が会場である。
警備員や警察官に「立ち止まらないでください」と言われ、歩かされる。
私たちは会場から遠ざかるばかりで、諦めるしかなかった。
有料の桟敷席を予約すればよかったが、後の祭。
私たちは、出番を待って整列する踊り手(連)を眺めるのが精一杯だった。

見る阿呆(観覧者)に対して会場が少なすぎるし、小さすぎる。
高円寺に限らず、中央線沿線は下町である。
駅周辺は建物が密集しており、商店街も限られ、その通りも狭い。
阿波おどりにとり必須かつ最適な会場は「道」である。
それを確保できていない。

枝分かれする生活道路を利用すれば観覧者が分散するので、踊りを見られないという事態は解消する。
しかし、踊る阿呆も見る阿呆も住宅街になだれ込むことになり、時間を制限したとしても住民から大きなクレームが寄せられるだろう。
これは現実的に不可能。

むろん、私が甘く考えていたのがいけない。
人気のイベントを楽しもうと思えば、それなりの注意や努力を払わなくてならない。
妻は「こんなものよ」と達観。
私は突然行くことにしたので、下調べを欠いた。
子どもがかわいそうだった。

踊りを見にいった人は踊りを見られなかったら、二度と出かけない。
この祭の最大の問題(課題)である。
が、例年のことでは…。
怠慢!
主催者は早急に改善を図るべきだ。

私たちは「東京高円寺阿波おどり」の団扇(うちわ)をもらい、満たされない気持ちを慰めた。
路上の踊りは天空の花火と異なり、楽しめるのは前から2〜3列に限られる。
「ゲゲゲの女房」の松下奈緒や向井理のように長身の人は別だが…。
なぜ主催者は通りに大型モニターを設置しなかったのか。
それだけでも観覧者はイライラが和らぐ。
現状では“見る阿呆”にもなれない人が大勢出てしまう。

なお、帰りはJR高円寺駅に近づくのが難しそうで、反対方向、つまり青梅街道沿いの地下鉄丸ノ内線・新高円寺駅へ向かった。
8時半に引き上げて正解。
10〜20分ほど遅れていたら、おそらく切符売り場や改札口、ホームは大混雑になったろう。

                       ◇

この祭は、高円寺商店街の振興が目的である。
隣の駅の阿佐谷商店街では七夕まつりが行われ、それなりの人気を博していた。
このままでは客を奪われるという危機感が背景にあり、それに対抗する狙いが大きかった。
そこで、夏のイベントに「阿波おどりのようなもの」を導入することにした。

発端は一商店街の催事であり、現在も…。
しかし、2日間で百万人前後(以上?)を動員する東京の夏祭に定着した。
主催者は自らの利益にこだわらず、周辺を巻き込むべき時期に差しかかっている。
ここまで育てあげた関係者の努力と苦労は尊重するとして、エリアを拡大してほしい。
杉並区はもとより東京都の強力なバックアップが不可欠である。

私は、青梅街道を開放しない限り、今後の発展は困難だと断言する。
同街道の地下鉄丸ノ内線・東高円寺駅〜新高円寺駅〜南阿佐ヶ谷駅間を通行止めにする。
阿波おどりは、公道が舞台(ステージ)なのだ。
大動脈(幹線道路)だが、周知徹底により交通への影響は減らせる。

主催者は、観覧者の満足度を高めよ。
あれじゃ、踊り手のストレスも凄い。

以上、私の「東京高円寺阿波おどり」に関する感想を述べた。
締め括りとして評価を記す。
会場に近寄るのが、「ヤットサー、ヤットヤット」。
踊りを見るのが、「ムリサー、ムリムリ」。
踊りのレベルは年々向上しているはずだが、人気の上昇による人出の増加に主催者の運営が追い付いていない。

本場・徳島阿波おどりを凌ぐといった感想をネット上で目にしたが、私はすべての面において大きな差があると思う。

                      ◇◆◇

阿波おどり、夏祭、花火大会などに関するブログは以下のとおり。

⇒2010年8月25日「日本の祭2010徳島阿波おどり…NHKBShi」はこちら。

⇒2010年8月26日「徳島郷土料理『阿波おどり』食う阿呆…銀座名店」はこちら。

⇒2010年8月27日「東京高円寺阿波おどり…徳島有名連+江戸っ子連」はこちら。

⇒2010年8月28日「日本の祭・秋田大曲全国花火競技大会…BShi」はこちら。

◆書き加え1(8月30日)

東京高円寺阿波おどりは現在、「NPO法人東京高円寺阿波おどり振興協会」が主催者。
同協会は桟敷席を販売しているわけでない。
年会費1万2千円の賛助会員や1口5千円の協賛者に、礼として桟敷席を用意している。

本場・徳島阿波おどりでは桟敷席がS席2千円で販売されているらしい。

◆書き加え2(8月30日)

「阿佐谷七夕まつり」は、例年8月7日を中日として5日間行われる。
主催者は阿佐谷商店街組合。
場所はアーケード型商店街の「阿佐谷パールセンター」。
期間中はJR阿佐ヶ谷駅をはじめ、この地区全体が七夕をモチーフにした装飾で彩られる。
正式な表記は「阿佐ヶ谷」「七夕祭」でないようだ。

◆書き加え3(8月30日)

指折りの花火師が腕を競う秋田県大仙市の「全国花火競技大会(通称:大曲の花火)」が90万人の人出を記録したようだ(不確か)。
百周年を迎える今年は過去最多の観客が見込まれ、現地は準備と対策に追われた。
会場内外の仮設トイレは千台をゆうに超えるというから驚き。

ところが、皆が一斉に動く帰りに大混乱が起こった。
人がはけない。
鉄道などは増便を図ったらしいが、まったく不十分。
大行列ができた。
うんざりした人々の顔がテレビに映し出された。

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2010年9月公開講座

東京高円寺阿波おどり…徳島有名連+江戸っ子連

今週の土・日曜日に「東京高円寺阿波おどり」が行われる。
第54回。
昨年は90万人ほどの人出だから、いまや東京の夏祭と呼んでいい。
関係者の多大な苦労が報われ、すっかり定着した。

踊り手は徳島の有名連。
2日間で計1万人弱(延べ1万人弱?)。
高円寺の商店街の方々や住民で構成される「江戸っ子連」なども含まれる。
こちらは本場の指導を受けたそうだ。
徳島の出身者も踊りに加わる?

私は今年出かけてみようという気持ちになったが、あいにく都合が悪い。
なかなかうまくいかない。

ところで、本場の阿波おどり連に入るには、厳しいオーディションをくぐり抜けなくてならない。
徳島には3百近くあるが、それでも容易でないとのこと。
狭き門…。

晴れの舞台に立とうと思えば、猛練習が欠かせないのだ。
ユーモラスな踊りの裏側に、地元の人々の情熱的な努力が隠されている。
たかが踊り、されど踊り。
遊びと片づけられない。

以下に、「徳島郷土料理・阿波おどり・食う阿呆…銀座名店」と題する2010年8月26日のブログを収める。

                      ◇◆◇

ワイドショーによれば、銀座の徳島郷土料理の名店「阿波おどり」が連日盛況である。
徳島の海の幸、山の幸が豊富に揃う。

店員(スタッフ)のハッピは、エリにそれぞれ「踊る阿呆」「食う阿呆」の文字が刷り込まれている。
そして、うまい料理と酒を楽しんだところで、本場の有名連が店内の通路で阿波おどりを披露する(期間限定?)。
女踊り、男踊り…。
むろん、店員も…。
それにつられ、客が席を立って踊り出す。
「見る阿呆」では満足できないのか、大変な賑わいだ。
「阿波おどりショー付き飲み放題コース」が設定されている。

同店は、徳島の地鶏を用いた「阿波尾鶏」などが人気だとか…。
メニューはもとより、その名前にも工夫が施されている。
東京のど真ん中でも徳島気分に浸れるのだ。
ホームページで内容を確かめたうえで足を運んでほしい。

                       ◇

本場阿波おどりに関するブログは以下のとおり。

⇒2010年8月25日「日本の祭2010徳島阿波おどり…NHKBShi」はこちら。

◆書き加え1(8月29日)

ブログを補いたい。

東京高円寺阿波おどりの人出は百二十万人くらいという情報が見つかった。

徳島阿波おどりに参加する連は千くらいという情報が見つかった。

これが正しいか、私は判断を下せない。

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徳島郷土料理「阿波おどり」食う阿呆…銀座名店

ワイドショーによれば、銀座の徳島郷土料理の名店「阿波おどり」が連日盛況である。
徳島の海の幸、山の幸が豊富に揃う。

店員(スタッフ)のハッピは、エリにそれぞれ「踊る阿呆」「食う阿呆」の文字が刷り込まれている。
そして、うまい料理と酒を楽しんだところで、本場の有名連が店内の通路で阿波おどりを披露する(期間限定?)。
女踊り、男踊り…。
むろん、店員も…。
それにつられ、客が席を立って踊り出す。
「見る阿呆」では満足できないのか、大変な賑わいだ。
「阿波おどりショー付き飲み放題コース」が設定されている。

同店は、徳島の地鶏を用いた「阿波尾鶏」などが人気だとか…。
メニューはもとより、その名前にも工夫が施されている。
東京のど真ん中でも徳島気分に浸れるのだ。
ホームページで内容を確かめたうえで足を運んでほしい。

                       ◇

本場阿波おどりに関するブログは以下のとおり。

⇒2010年8月25日「日本の祭2010徳島阿波おどり…NHKBShi」はこちら。

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日本の祭2010徳島阿波おどり…NHKBShi

きょうNHKのBShiで「日本の祭2010 徳島 阿波おどり」が放送される。
時間は午後8時〜9時半(90分間)。
ゲストは、朝の連続テレビ小説「ウェルかめ」出演者から3人、ヒロインの倉科カナ、嶋大輔、室井滋。
ハイビジョン放送により臨場感いっぱいの踊りを堪能できる。

本場・徳島市で8月12日〜16日まで4日間にわたり開催された阿波おどり。
街全体が踊る阿呆の狂騒と見る阿呆の沸騰に包まれた。
多彩な連が藍場浜演舞場に次々となだれ込む様子は圧巻である。
番組ではおもに有名連の熟練・洗練の踊りを分かりやすい解説を交えながら紹介する。

昨年も「日本の祭2009 こころ踊る天水の夏 徳島阿波おどり」と題して放送された。
毎年恒例なのだろうか。
ちなみに「天水」とは、天からの水と踊りさえあればいいという踊り好きのこと。
倉科カナは昨年もゲスト出演。

以下に、「日本の祭『阿波おどり』の天水たち」と題する2009年11月14日のブログを収める。
ついては、かなり手を入れた。

                      ◇◆◇

「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…」。
三味線、太鼓、鉦、横笛などの2拍子の伴奏に乗り、踊り手の集団である「連」が踊り歩く。
女は優雅に、男は腰を落として豪快に…。

私は40年以上前を思い出した。
高校1年生の夏に1度だけ家族で阿波おどりを見たことがある。
東洋紡績の桟敷席だった(うろ覚え)。
目の前で踊りが延々と繰り広げられた。
額の汗が見えるのはもちろん、激しい息づかいが聞こえる。
男踊りは体力の消耗が凄まじい。
非常に過酷だ。

                       ◇

私は徳島県小松島市で14カ月暮らした。
小松島市立小松島中学校が5カ月強。徳島県立城北高校が9カ月弱。
実は印象が悪い。
それは徳島のせいでなく、私、正確に言えば家族の問題だった。
呉羽紡績が東洋紡績に吸収され、出世街道を着実に歩んでいた父は肩書を奪われ、徳島へ飛ばされた(徳島が辺ぴという意味でない)。

降格にともない、住環境が一戸建てから、東洋紡績小松島工場の従業員が暮らす4軒長屋へ。
生活が一変した。
両親は愚痴をこぼさなかったが、つらかったろう。
家から笑い声が消えた。
何もかもつまらなかった私は、滑稽な踊りも表情もむなしく思えた。

後に富山県から上京し、若い頃は中野(杉並区高円寺南)、東小金井、西荻窪、三鷹と一貫して中央線沿線に暮らした。
にもかかわらず、高円寺の商店街(?)で催される「東京高円寺阿波おどり」に一度も行っていない。
いまや百万人程が繰り出す、東京の代表的な夏祭の一つ。
私のなかで阿波おどりは徳島時代の苦しい記憶とつながっていたのだ。

40年以上の歳月を経て、当時のわだかまりから解き放たれ、私は阿波おどりを心から楽しむことができた。
番組の進行につれ、懐かしい感情がじんわりと広がってきた。

                       ◇

ところで、当時もそうだったのだが、改めて徳島の経済的な貧しさを感じた(私の印象であり、データは確かめていない)。
阿波おどりは、道があり、人がいれば、たいしたカネがかからない。
地元の人たちは長らく情熱を注ぎ、大切に祭を育てあげた。
約4百年の歴史があり、「日本三大盆踊り」に数えられる。

番組では、阿波おどりに自分の人生を重ね合わせる人が大勢いることが紹介された。
一年が祭を中心に回っている!
まさしく阿呆…。
また、私には変わらないように見えるが、天水たちはつねに新しい阿波おどりを創造しようと努力を惜しまない。
当時はとても思い至らなかった。

…父はこの後、何もかもうまくいかなくなっていく。
人生の歯車が完全に狂った。
それをすぐそばで見るのは嫌だった。
両親は経済面でも大変だったが、精神面でも地獄の状態が十年ほど続くことになる。

私は富山の実家を飛び出したい一心で、日本経済新聞社の奨学制度(日経育英奨学会)を利用し、明治大学への進学を強行した。
地元に残ってほしいとの両親の希望、とくに父の願いを振り払って…。
暗く重い雰囲気に覆われた家庭に息が詰まりそうだった。
妹に申し訳なく思う。

                       ◇

私はナマで阿波おどりに触れたいと思った。
徳島を訪れる機会が得られるだろうか。
それが難しいなら高円寺へ出かけたい。

◆書き加え1(2010年8月22日)

アルツハイマーの父がお世話になる港北ニュータウンの特別養護老人ホームで盆踊りが開かれた。
大勢のボランティが駆け付け、懸命に催しを盛り上げてくれる。
私は頭が下がる。

夕方とはいえ、猛烈な暑さのせいか父は機嫌が悪く、担当者を怒鳴り散らしている。
途中で屋内に戻された。
テントの下でも1時間が限界のようだ。

私と妻が話しかけても、何の反応も示さない。
だいぶ前から、実の子どもさえ忘れてしまった。

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阿波踊りの狂騒と沸騰…踊る阿呆と見る阿呆

阿波踊りの本場といえば、徳島市。
あすから4日間にわたり開催される(8月12日〜16日)。
ついては、きょう「選抜阿波おどり大会 前夜祭」が「アスティとくしま(徳島県立産業観光交流センター)」で行われる。
阿波おどり振興協会と徳島県阿波踊り協会所属連による合同演舞である。

また、会期中「選抜阿波おどり大会」が「徳島市立文化センター」と「あわぎんホール(徳島県郷土文化会館)」で行われる。
有名連などの熟練・洗練の踊りがステージで楽しめる。
ショーとしての演出が施されており、演舞場とは違った趣を味わえる。
日程と時間、会場により出演連が異なるので注意のこと。

                       ◇

大多数の人が阿波踊りを楽しむのが、演舞場だろう。
多彩な連が市内の有料演舞場(4箇所)、無料演舞場(3箇所)に次々に踊り込んでくる様は壮観である。

さらに、阿波踊りを体験したい人は、にわか連で踊ってよい。
有名連の手ほどきが受けられるので、素人でも大丈夫。
事前申込は不要、料金は無料、服装は自由。
写真に収めれば、徳島観光の最高の思い出になろう。

徳島はあすから4日間、街全体が踊る阿呆の狂騒と見る阿呆の沸騰に包まれる。
なお、表記が地元でも「阿波おどり」と「阿波踊り」が混在する。
ちなみに、ウィキペディアでは「阿波踊り」。

以下に、「日本の祭『阿波おどり』の天水たち」と題する2009年11月14日のブログを収める。
ついては、いくらか手を入れた。

                      ◇◆◇

以前、NHKで「日本の祭2009 こころ踊る天水の夏 徳島阿波おどり」を見た。
徳島がもっとも燃えるのが阿波おどり。
「天水」とは、天からの水と踊りさえあればいいという踊り好きのこと。
番組は、天水たちが熱狂する阿波おどりの世界を伝えた。
ゲストは、倉科カナ(連続テレビ小説「ウェルかめ」ヒロイン)、羽田美智子、星野知子。
解説は、岡秀昭(娯茶平連長)、山田実(天水連連長)。
場所は、藍場浜演舞場。

「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…」。
三味線、太鼓、鉦、横笛などの2拍子の伴奏に乗り、踊り手の集団である「連」が踊り歩く。
女は優雅に、男は腰を落として豪快に…。

私は40年以上前を思い出した。
高校1年生の夏に1度だけ家族で阿波おどりを見たことがある。
東洋紡績の桟敷席だった(うろ覚え)。
目の前で踊りが延々と繰り広げられた。
額の汗が見えるのはもちろん、激しい息づかいが聞こえる。
男踊りは体力の消耗が凄まじい。
非常に過酷だ。

                       ◇

私は徳島県小松島市で14カ月暮らした。
小松島市立小松島中学校が5カ月強。徳島県立城北高校が9カ月弱。
実は印象が悪い。
それは徳島のせいでなく、私、正確に言えば家族の問題だった。
呉羽紡績が東洋紡績に吸収され、出世街道を着実に歩んでいた父は肩書を奪われ、徳島へ飛ばされた(徳島が辺ぴという意味でない)。

降格にともない、住環境が一戸建てから、東洋紡績小松島工場の従業員が暮らす長屋へ。
生活が一変した。
両親は愚痴をこぼさなかったが、つらかったろう。
家庭から笑い声が消えた。
何もかもつまらなかった私は、滑稽な踊りも表情もむなしく思えた。

後に富山県から上京し、若い頃は中野(杉並区高円寺南)、東小金井、西荻窪、三鷹と一貫して中央線沿線に暮らした。
にもかかわらず、高円寺の商店街(?)で催される「東京高円寺阿波おどり」に一度も行っていない。
いまや百万人程が繰り出す、東京の代表的な夏祭の一つ。
私のなかで阿波おどりは徳島時代の苦しい記憶とつながっていたのだ。

40年以上の歳月を経て、当時のわだかまりから解き放たれ、阿波おどりを心から楽しむことができた。
番組の進行につれ、懐かしい感情が広がってきた。

                       ◇

ところで、当時もそうだったのだが、改めて徳島の経済的な貧しさを感じた(私の印象であり、データは確かめていない)。
阿波おどりは、道路と人力があれば、たいしたカネがかからない。
地元の人たちは長らく情熱を注ぎ、大切に祭を育てあげた。
約4百年の歴史があり、日本三大盆踊りに数えられる。

番組では、阿波おどりに自分の人生を重ね合わせる人が大勢いることが紹介された。
1年が祭を中心に回っているのだ。
まさしく阿呆…。
また、私には変わらないように見えるが、天水たちはつねに新しい阿波おどりを創造しようと努力を惜しまないらしい。
当時はとても思い至らなかった。

父は、この後何もかもうまくいかなくなっていく。
それをすぐそばで見るのは嫌だった。
両親は経済面でも大変だったが、精神面でも地獄の状態が十年ほど続くことになる。

私は富山の実家を飛び出したい一心で、日本経済新聞社の奨学制度(日経育英奨学会)を利用し、明治大学への進学を強行した。
地元に残ってほしいとの両親の希望、とくに父の願いを振り払って…。

                       ◇

私はナマで阿波おどりに触れたいと思った。
徳島を訪れる機会が得られるだろうか。
それが難しいなら高円寺へ出かけたい。

⇒2009年11月14日「日本の祭『阿波おどり』の天水たち」はこちら。

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徳島阿波おどりの熱狂と感動…日本三大盆踊り

今年もまた徳島阿波おどりの夏が近づいてきた。
地元では本番前の練習がピークに達しているのでないか。
蒸し暑い徳島の蒸し暑い盆休みに催される。
街中が踊る阿呆の熱狂と見る阿呆の感動に包まれる。
8月12日〜15日の4日間、すべてが沸き立つ・・・。

私にとり徳島での生活、そして阿波おどりは特別の感懐がある。
父が職業人生を転落しはじめた時期と重なるからだ。

以下に、「日本の祭『阿波おどり』の天水たち」と題する2009年11月14日のブログを収める。
ついては、いくらか手を入れた。

                      ◇◆◇

以前、NHKで「日本の祭2009 こころ踊る天水の夏 徳島阿波おどり」を見た。
徳島がもっとも燃えるのが阿波おどり。
「天水」とは、天からの水と踊りさえあればいいという踊り好きのこと。
番組は、天水たちが熱狂する阿波おどりの世界を伝えた。
ゲストは、倉科カナ(連続テレビ小説「ウェルかめ」ヒロイン)、羽田美智子、星野知子。
解説は、岡秀昭(娯茶平連長)、山田実(天水連連長)。
場所は、藍場浜演舞場。

「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…」。
三味線、太鼓、鉦、横笛などの2拍子の伴奏に乗り、踊り手の集団である「連」が踊り歩く。
女は優雅に、男は腰を落として豪快に…。

私は40年以上前を思い出した。
高校1年生の夏に1度だけ家族で阿波おどりを見たことがある。
東洋紡績の桟敷席だった(うろ覚え)。
目の前で踊りが延々と繰り広げられた。
額の汗が見えるのはもちろん、激しい息づかいが聞こえる。
男踊りは体力の消耗が凄まじい。
非常に過酷だ。

                       ◇

私は徳島県小松島市で14カ月暮らした。
小松島市立小松島中学校が5カ月強。徳島県立城北高校が9カ月弱。
実は印象が悪い。
それは徳島のせいでなく、私、正確に言えば家族の問題だった。
呉羽紡績が東洋紡績に吸収され、出世街道を着実に歩んでいた父は肩書を奪われ、徳島へ飛ばされた(徳島が辺ぴという意味でない)。

降格にともない、住環境が一戸建てから、東洋紡績小松島工場の従業員が暮らす長屋へ。
生活が一変した。
両親は愚痴をこぼさなかったが、つらかったろう。
家庭から笑い声が消えた。
何もかもつまらなかった私は、滑稽な踊りも表情もむなしく思えた。

後に富山県から上京し、若い頃は中野(杉並区高円寺南)、東小金井、西荻窪、三鷹と一貫して中央線沿線に暮らした。
にもかかわらず、高円寺の商店街(?)で催される「東京高円寺阿波おどり」に一度も行っていない。
いまや百万人程が繰り出す、東京の代表的な夏祭の一つ。
私のなかで阿波おどりは徳島時代の苦しい記憶とつながっていたのだ。

40年以上の歳月を経て、当時のわだかまりから解き放たれ、阿波おどりを心から楽しむことができた。
番組の進行につれ、懐かしい感情が広がってきた。

                       ◇

ところで、当時もそうだったのだが、改めて徳島の経済的な貧しさを感じた(私の印象であり、データは確かめていない)。
阿波おどりは、道路と人力があれば、たいしたカネがかからない。
地元の人たちは長らく情熱を注ぎ、大切に祭を育てあげた。
約4百年の歴史があり、日本三大盆踊りに数えられる。

番組では、阿波おどりに自分の人生を重ね合わせる人が大勢いることが紹介された。
1年が祭を中心に回っているのだ。
まさしく阿呆…。
また、私には変わらないように見えるが、天水たちはつねに新しい阿波おどりを創造しようと努力を惜しまないらしい。
当時はとても思い至らなかった。

父は、この後何もかもうまくいかなくなっていく。
それをすぐそばで見るのは嫌だった。
両親は経済面でも大変だったが、精神面でも地獄の状態が十年ほど続くことになる。

私は富山の実家を飛び出したい一心で、日本経済新聞社の奨学制度(日経育英奨学会)を利用し、明治大学への進学を強行した。
地元に残ってほしいとの両親の希望、とくに父の願いを振り払って…。

                       ◇

私はナマで阿波おどりに触れたいと思った。
徳島を訪れる機会が得られるだろうか。
それが難しいなら高円寺へ出かけたい。

⇒2009年11月14日「日本の祭『阿波おどり』の天水たち」はこちら。

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魚津の蜃気楼に壮大なロマンを感じる

魚津の蜃気楼が連日凄い。
大勢のカメラマンが海岸に押し寄せている。
地元の人だけでない。
海上に富山市の街並みがくっきりと映し出される。
その様子がNHKの昼の番組で大きく報道された。
実は、NHKの昨夜のニュースでも報道されていた。
テレビ画面を通しても素晴らしい眺めだ。

富山県魚津市は「蜃気楼(しんきろう)」で町興しを行っている。
市役所だろうか、蜃気楼を見た人に証明書を発行している。
また、蜃気楼が出た合図に花火を打ち上げている。
蜃気楼の発生は、桜の開花と異なり、予測が非常に困難なはず。
魚津市商工観光課では「蜃気楼情報」というサイトを開設している。
そして、「蜃気楼出現予測」として7日先までの確率を掲載している。
どれくらい的中するのか。

蜃気楼は、上暖下冷の空気層の間で光が屈折して私たちの目に届く現象なのだとか…。
実像が伸びたり反転したりする。
魚津では春から初夏、3月下旬から6月初旬に短いと数分、長いと数時間にわたり、海上に幻想的な姿が立ち上る。
しかし、魚津に蜃気楼が発生するメカニズムは完全に解明されたわけでないようだ。
私が昔たまたま読んだ井上靖の小説に、魚津の蜃気楼に触れた件(くだり)があったと記憶している。
壮大なロマンだ。

私は3週間前に富山市で社長など経営層向けの講演会を行い、帰路にJR魚津駅のホームに降り立った。
富山県立魚津高校の出身であり、同校に1年半ほど通った。
当時は国鉄魚津駅だった。
その私は蜃気楼を一度も目撃したことがない。
級友も知らないと言っていた。
当時はそれほど騒いでいなかったのでは?



このブログがアップする頃、私は都心で夜間セミナーの真っ最中。
お陰さまで大盛況。
社長スクールで「超ルーティンを後押しせよ」の講演を行う。
新規開拓・既存深耕の取り組みの活発化は、飽和市場での収益伸長に欠かせない。
それを、営業担当者をサポートする「ユニーク名刺」の観点から述べる。
超ルーティンにまつわる彼らのストレスを和らげてやるのだ。

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特急はくたか、強風で全面運休

私は火曜日に富山第一ホテルで北陸経済研究所が主催する「北経研経営セミナー」の2010年度の皮切りの講師を仰せつかった。
光栄の至り。
演題は、「営業変革勝ち残りセミナー」。
対象は、富山県を中心に北陸4県の地場企業の経営トップと営業幹部。
上層部に限定したため、参加者は多くなかった。
しかし、現状に強い危機感、次世代へ深い愛情を持つ方々の集まりだったため、互いに濃密な時間を共有することができた。
受講態度は非常に真剣であり、講師として一段と熱が入った。
主催者と参加者に対し、心より感謝したい。

私は普段、講師紹介で「明治大学中退」と名乗っている。
学歴とは学業に関する経歴であり、明治大学は学び遂げられなかったので中退になった。
したがって、最終学歴は「富山県立魚津高校卒業」。
当日は地元でのセミナー。
私はいつも厳しい口調で講義を進めているが、どうしてもリラックスしてしまう。

ところで、宿泊ホテルがセミナー会場と同一であり、朝はゆっくりできる。
そこで前夜、富山駅の近くで、かつての両親の実家、滑川市天望町に暮らす妹と久し振りに食事をともにした。
ホタルイカほか海鮮を用いたメニューが中心の、地元の居酒屋。
妹は3人の子どもが大学進学で次々と親元を離れた。
寂しかろう。
2時間、会話が弾み、私は一安心。

                       ◇

北経研経営セミナーは夕方に終わった。
私は富山駅で帰りの切符を求めようとして、糸魚川付近の強風のためにダイヤが大幅に乱れていると告げられた。
「特急はくたか」は運休状態。
参ったなぁ…。

私はやむをえず、行けるところまで行こうと各駅停車に乗った。
一駅ずつ長い停車。
途中、魚津駅(うろ覚え)で、まもなく入線する特急列車が先に出発するとアナウンスがあった。
私はほとんど信じておらず、そのまま各駅停車に残った。
乗客の大半がホームに降り立って、反対側に入線する特急列車をずっと待っている。

出張の多い私は過去に幾度かトラブルを味わっており、長期戦を覚悟していた。
各駅停車はがらがら。
このチャンスしかないと思い、Tシャツとジーンズ、皮ジャンにささっと着替えた。
何と大胆な…。
が、手慣れたもの。
実は、丸1日のセミナーで汗まみれになり、体調を崩しそうだった。
先週から風邪気味だった。

かなり遅れて到着した特急列車に乗り換えたが、隣の黒部駅で長らく停車した挙げ句、運転打ち切り。
やっぱりな…。
JRが直江津駅まで振り替え輸送のバス便を用意してくれたが、私は疲労がピークに達しており、この上の長時間移動に耐えられない。
幸いにも黒部駅前の「ホテルアクア黒部」に空室があり、宿泊することにした。

私が黒部に降り立ったのは三十数年振り。
楽譜取次の松沢書店の一員として、北陸出張でレコード楽器店を毎月訪ねていた。
その駅前にこんな立派なホテルができていたことに驚いた。
至って快適。

黒部はYKK(旧吉田工業)のお膝下である。
不遇の父は同社に拾ってもらい、嘱託として女子寮の寮長を長年務めた(不確か)。
隣の生地駅か。

ふと思った。
昔、地元の人は吉田工業を「チャック」と呼んでいた(不確か)。
あちこちの家庭で内職をやっていた。
富山県民の真面目かつ豊富で安価な労働力に恵まれたから、同社の基盤が築かれたのでなかったか。

私が黒部駅に降り立った頃は暗闇に包まれ、街を見通せなかったが、とても懐かしい気持ちに浸れた。
自分の思い出より、父の姿が浮かんできた。

家族を支えるため、どん底の境遇で頑張りつづけた父に感謝したい。

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校歌を歌ってみなさい…就活・面接

私はこのところ肉体は疲れているのに神経が高ぶっていて、睡眠がうまく取れない状態が続いている。
眠りに入るまでに時間がかかる。
ようやく眠れたと思ったら1〜2時間で目が覚める。
後頭部や側頭部に熱がこもっている。
日中がつらい・・・。

私は先日、変な夢を見た。
パジャマ(といってもTシャツ)のエリが汗でびっしょり濡れていた。

恐らく懸命に“就活”をやっていたのだろう、入社試験。
意地悪そうな面接官が校歌を歌ってみなさいと命じた。
予想外。
私は高校が3校にまたがっており、校歌を覚えていないことを伝えた。
すると、小中学校の校歌でよい。

私は6年間在籍した直江津小学校の校歌を歌い出した。
「ながめとうとき 妙高山の〜」。
ところが、この後の歌詞が出てこない。
ただし、メロディは覚えているので、鼻歌で続ける。
「〜この庭なつかし この庭たのし」。
初めと終わりしか歌えなかった。

私は焦る。
次いで、2年半在籍した伊那中学校の校歌を歌い出した。
「山脈は 青くめぐりて
川遠く 南に流る
見晴らしの木深き丘べ
古きより 学びの地たり」。
山脈は「やまなみ」と読む。
無事に歌い終えられた。

私は、日本海に面した直江津市から2〜3千メートル級の山々に挟まれた盆地の伊那市に引っ越してきた。
呉羽紡績(現東洋紡績)の出張所兼自宅は国鉄「伊那市駅」の真裏にあり、すぐそばに天竜川が流れていた。
それは遠く太平洋へ注ぐ。
そして、伊那中学校までは丘へ続く道を20〜30分登る(うろ覚え)。
それなりの距離。
伊那中学校の校歌は、私が抱いた実感そのもの。

私はほっとした。
ここで目が覚めた。
午前5時前。
2時間も眠っていない。
やれやれ・・・。

それだけの話だ。
夢はたいてい他愛ない。

専門家は、この夢をどう分析するのか?
私は人生で卒業式を経験しておらず、毎年この時期がやって来るたびに無念の思いが募る。
また、就職を経験しておらず、会社員(サラリーマン)にコンプレックスを感じている。
それと関係しているのだろうか…。

なお、歌詞については、それぞれの学校のホームページで漢字とひらがなの表記、改行などを確かめたうえで記した。

                       ◇

私は、直江津小学校の卒業式前日に伊那市に引っ越してきた。
当初は盆地特有の眺めが息苦しかった。
が、伊那中学校ですぐに親友ができた。
さらに2人の親友ができ、休日や休暇に伊那谷を長時間歩いた。
あてもなく…。
この土地が次第に好きになっていった。

2025年、私は約60年振りに伊那中学校を訪れた。
74歳。
思ったより長生きできた。
昔、この坂道を難なく登れたことが不思議。

私はすっかり不自由になった目で伊那谷を見下ろしていた。

そのときだ。
鋭い光を放つ鉛筆のような物体が走り抜けた気がした。

3人の旧友が「リニア中央新幹線」と教えてくれた。

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2010年4月公開講座

北経研セミナー:営業強化・収益伸長

私は来月、北陸銀行のシンクタンクで「営業変革セミナー」の講師を務める。
3年前、1年前に次いで3回目の開催。
過去2回は「提案営業セミナー」。
県民性も関係するのか、非常に真面目に受講していただいた。

概要は以下のとおり。

日程◆2010年4月27日(火)
時間◆午前10時〜午後5時
会場◆富山第一ホテル(富山市桜木町10−10)
名称◆北経研経営セミナー
演題◆これでいいのか、うちの営業!?
社長・幹部のための『営業変革・勝ち残りセミナー』
〜“売れる営業”“儲かる営業”へのテコ入れと再生を渾身解説〜
講師◆和田創(わだ・そう)
対象◆経営層、管理職(約40名)
主催◆財団法人北陸経済研究所

私が長らく講師を務める「みずほ総合研究所(みずほ総研)」の教育事業部「みずほセミナー」事務局の紹介。

受講者は、北陸の地場企業、それも中堅・中小企業のおもに社長や取締役、営業幹部クラスになるはず。
富山県だけでなく、石川県や福井県からも参加されるのでは…。
過去2回はお陰さまで大盛況。
しかも受講者の満足度が突出。
が、今回は対象を管理職以上に限定しているので、集客がやや心配だ。
大勢の方々にご参加いただきたい。
私は、営業強化・再建の確たる指針と方策を示す。
どうか収益伸長・業績拡大のヒントを持ち返っていただきたい。

余談ながら、私は富山県立魚津高校の卒業。
父は入善町の出身。
滑川市のかつての両親の実家で暮らす妹夫婦はそれぞれ富山市の会社で働く。
素晴らしいセミナーにしたいと、いまから張り切っている。

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寝台特急北陸と北陸銀行セミナー

私が出張に出かけている間に、昨年に引き続いて北陸銀行のシンクタンク「北陸経済研究所」での公開セミナーが決まっていた。
日程は4月27日火曜日。
場所は富山か金沢。
過去2回は4月に富山で「提案営業セミナー」を開催した。
が、今回は「営業変革トップセミナー」。
地場企業の社長や取締役、営業幹部を対象とした内容。

私は富山県立魚津高校の卒業であり、妹夫婦が富山県滑川市の両親のかつての実家に暮らしている。
北経研から講師の仕事をいただくと、富山に行くのに、富山に帰る気分になる。
帰省のワクワク感…。
北陸銀行は当然、両親も利用していた。
私にとり北陸でのセミナーは格別。
いま知ったのだが、北陸銀行は北海道銀行と「ほくほくフィナンシャルグループ」を形成し、横浜銀行に次いで地方銀行第2位。

過去2回は帰路で生まれ故郷の直江津(新潟県上越市)に途中下車し、駅前の「ホテルセンチュリーイカヤ」に宿泊した。
そして、マイミクと歓談したり、生家や直江津小学校の周辺を散策したりした。

ところで、「寝台特急北陸」が3月12日で廃止になる。
北陸から上京した人には忘れられない夜行列車だろう。
私の場合、ホームで見送ってくれた両親の姿と重なる。

私は若くて貧しい頃に数回乗っただけであり、一度もA寝台を使っていない。
同列車が消滅すると聞き、がっかり。
言い訳がましいが、昨年、直江津に立ち寄るか、セミナー終了後に富山で夕食を楽しんで時間を潰し、寝台特急北陸A寝台で東京(上野駅)に戻ってくるか迷った。
廃止になると分かっていたら、かならずそうした。

というわけで、今回も直江津に一泊するつもり。
ただし、ホテルセンチュリーイカヤの隣「ホテルハイマート」に宿泊してみたい。
社長は、個性的な駅弁づくりに情熱を傾ける名物男・山崎邦夫氏。
ホテルセンチュリーイカヤはリストラの一環で駅弁事業から撤退し、直江津駅の駅弁を手がけるのはホテルハイマート1社になった。
以前、妻と子どもが同ホテルの「鱈めし(たらめし)」を食べ、そのうまさに感嘆の声を上げた。
私は食べていない。
今回は直江津駅で買い求め、北越急行ほくほく線の「特急はくたか」の車内で味わってみたい。
余談ながら、はくたかは日本最速の特急であり、時速 160キロメートルを誇る(ほくほく線区間)。

それと、直江津の土産に、かなざわ総本舗(新潟県上越市)が製造する「出陣餅」。
よく似た商品に「信玄餅」「筑紫もち」がある。
私個人の好みを述べれば、「出陣餅」が一番おいしい。
妻は、くさのやの「謙信笹だんご」にも目がない。
2つ、3つはペロッと食べる。

                       ◇

寝台特急北陸に関するブログは以下のとおり。
⇒2009年12月21日「寝台特急北陸、急行能登が消える」はこちら。

ホテルハイマートの駅弁「鱈めし」に関するブログは以下のとおり。
⇒2009年8月15日「絶品駅弁! 直江津ハイマート鱈めし」はこちら。

過去2回の直江津途中下車に関するブログは以下のとおり。
⇒2007年4月25日「生まれ故郷・直江津へ自分探しの旅」はこちら。
⇒2008年2月17日「故郷・直江津にマイミク」はこちら。
⇒2009年8月30日「関川と荒川…直江津を流れる川」はこちら。

かなざわ総本舗「出陣餅」に関するブログは以下のとおり。
⇒2009年8月4日「上杉謙信・出陣餅と武田信玄・信玄餅」はこちら。
⇒2009年8月29日「筑紫もち、信玄餅、出陣餅、三つ巴」はこちら。

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SMBCコンサルティング20100218

北陸は記録的大雪…新潟・富山など

新潟・富山・石川・福井の北陸4県が近年ではまれな記録的大雪に見舞われた。
地球温暖化の影響なのか、年々降雪量が減りつづけてきた。
新潟生まれの私が、直江津小学校に在籍した半世紀程前に経験した豪雪は昔話になった。
また、富山県立魚津高校に在籍した40年程前に経験した雪は驚くほどでないが、体育の授業にグラウンドで膝近くまで埋もれながらラグビーの試合を行った。

先ほど滑川市天望町に暮らす妹に電話をかけたら、この辺りでこれだけの積雪は記憶にないという。
駐車車両が雪に覆われている。
幹線道路はともかく生活道路は除雪作業が間に合っていない。
ハンドルを取られながらくたくたになって自宅に戻ったら、道路から玄関まで数メートルは雪掻きをしないと歩いていけない。
それと、屋根の雪下ろしをしないと家が潰れかねない。
しかし、妹夫婦はフルで働いており、しかも帰宅が遅いために雪下ろしの時間を取れない。

北陸は大雪に泣かされる冬となった。
確か8月下旬か9月上旬に気象庁から発表された長期予報によれば「暖冬」だった。
が、実際は正反対。
まったく当てにならない。

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雪に埋もれるクルマ…どか雪の怖さ

先日、テレビの報道番組で雪に埋もれたクルマが映し出された。
うろ覚えだが、北海道釧路市の国道を走っていた十数台?

今冬、東日本と日本海側が大雪に見舞われている。
年々、降雪が少なくなっていると思っていたが…。

私は新潟県直江津市(現上越市)生まれ。
日本有数の豪雪地帯であり、小学校高学年のときに1階が雪に埋まり、階段の踊り場の窓から出入りした記憶が残っている。
半世紀近く前のことで、それは凄かった。
両親は家がつぶれると、本気で心配した。

「どか雪」。
短時間で“どかん”と積もる。

私は悲しい出来事を思い出した。
昔、岐阜の山奥に暮らす父方の叔父がクルマの運転中にドカ雪に襲われ、身動きが取れなくなった。
周りに民家もなく、むろんケータイもない。
だれにも助けを求められない。
氷点下の極寒。
排気ガスによる一酸化炭素中毒で亡くなった。
子どもが幼く、叔父は無念だったろう。
残された家族は大変な苦労を味わった。

降り積もる雪に美しさや楽しさを感じる方もいるはず。
が、自然は厳しい。
怖い雪もある。

                       ◇

いまや、富山、石川、福井はあまり降らない。
新潟もそれほど降らなくなった。
むろん、山間部を除いて…。

ところが、北陸地方は天気予報で連日のように「雪だるま」のマークがついている。
近年では珍しい。

生まれ故郷の直江津に暮らすテオリアの池田秀敏氏にきのう電話をかけて尋ねたら、平野部の積雪は限られるとのこと。
それでも場所により30〜40センチに達しているらしい。

富山県滑川市に暮らす妹夫婦は屋根の雪下ろし、玄関や道路の雪掻きに追われているのか?
天望町は海から少し引っ込んだ高台なので、かなり積もっているかもしれない。

雪国の住人にとり、雪はかならずしも歓迎すべき存在でない。
生活に多大な影響が出る。

それと、今冬は雷が多いようだ。
こういうときは日本海が猛烈な季節風で荒れ狂っている。
夏の穏やかな表情と一変。
母方の叔父が子どもの頃にこれを見て激しいショックを受けた。
その印象をいまだに引きずっていて、日本海が好きになれないと語っていた。

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寝台特急北陸、急行能登が消える

金沢駅と上野駅を結ぶ寝台特急「北陸」と急行「能登」は、2010年3月12日に定期運行を終える。
廃止。
そんな記事を一昨日の日本経済新聞の片隅に見つけた。
JR東日本は、車体の老朽化を理由に挙げている模様。

わが人生0699北陸に限らないが、地方と上野を結ぶ「夜行列車」はおおよそ姿を消したのか。
昔は編成がとても長かった。
列車がホームに入ってくるとき、そして自分が乗り込むときには、特有の気分になった。
さまざまな感情が入り交ざり、一言で表せない。
中高年の地方出身者なら、実感として分かってもらえるのでないか。
私は急に寂しくなり、遠い過去をぼんやりと思い浮かべた。

                       ◇

東京・下町生まれの母は疎開先の富山・朝日(泊)で、入善出身の父と出会ったのか?
私は一度も確かめていない。
そうでないとしても、戦時疎開がなければ両親が結ばれることはなかった。

わが人生0700父は恐らく戦後、呉羽紡績の社員として新潟・直江津と長野・伊那で働き、吸収合併により東洋紡績の社員として徳島・小松島で働いた。
そして、職業人生の勝負をかけ、母の父が営む町工場を継ぐつもりで上京した。
しかし、祖父母とうまくやっていけず、追い出された。
私は8カ月足らず、少し遅れて上京した両親は数カ月の東京暮らし。
行き場を失った家族が父の生まれ故郷に戻ったとき、両親は心がすっかり壊れていた。

50歳手前の父は、吉田工業(現YKK。当時は黒部が本社)の嘱託として働いた。
給料は比べられないほど下がったはずだが、世界のYKKに潜り込めただけでも幸せだった。
恐らくわずかな中途退職金と貯蓄を投じて、1年後くらいに入善に建てた家は大失敗だった。
わが人生0701が、だいぶ後に建てた滑川の家はとても気に入っていた。
ごく普通の一軒家だが、両親にとり理想の住まいだった。
両親は、私が17歳から49歳まで30年以上、富山で暮らしたことになる。

私は親不幸の極みで、富山に帰省しなかった。
過ごした期間が短く、友人がいないことも理由の一つ。
最大の理由は、家庭崩壊の時期を思い出したくなかったこと。
私は、学生時代に働いた楽譜専門取次の松沢書店で、北陸地区を数カ月担当した。
月1回の出張の際に、おおよそ入善に立ち寄ったのでは…。
わが人生0702それ以外は3〜4回?
確かな記憶は3回であり、水彩画、痛飲、結婚の披露。
滑川に3〜4回?
確かな記憶は3回であり、妹の結婚、家族との接触、再婚の報告。
これが正しいとすれば、4〜5年に1回戻った。
実家に寄りつかなかったのだ。

まれな帰省の際にわりと利用したのが夜行列車だった。
出張時にも…。
いつ頃からか信越本線・長野経由から上越線・長岡経由に変わった?
何もかもあやふや。
しかし、私は間違いなく寝台特急「北陸」と急行「能登」に幾度か乗った。

わが人生0703このブログの「新聞奨学生物語(連載中)」で、日経育英奨学制度を利用して明治大学へ進学する際に、入善駅から夜行列車に乗り込む光景を書いた。
恐らく1970年3月。
特急は入善駅に止まらない?
となると、寝台特急「北陸」でなく急行「能登」。
これには寝台車両はないはずだから、私は普通の座席で上京したことになる。
驚いた…。

インターネットで少し調べたが、それは急行「能登」でなく急行「黒部」だった?
そんな名前の夜行列車があったかもしれない。
やはり寝台車両はないようだ。

わが人生0704寝台特急「北陸」と急行「能登」はまもなく通常運行が打ち切られる。
それにつれ、私は若い頃の思い出まで奪われる感慨にとらわれた。
北陸や東北など、年配の地方出身者にとり、夜行列車は特別な存在だった。
我が身を振り返っても、人生の節目、節目に夜行列車が関わっている。
…廃止の知らせは、切ない。

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巨大カボチャ風呂に入る…富山・入善

きょう、巨大カボチャ風呂に入る。
富山県下新川郡入善町では冬至前のこの時期に、お化けみたいなカボチャをくり抜いた「巨大カボチャ風呂」に浸かる。
風邪を引かないとの“言い伝え”らしい。

わが人生0697私は40年程前、富山・魚津高校時代、入善に15〜16カ月暮らしたが、まったく知らなかった。
それとも当時はそうした風習がなかった?
あれ、2百キログラムを超えるジャンボカボチャは入善町の特産品?
町興しの一環としてユニークな行事がつくられた?

私は、新潟・直江津小学校を卒業し、長野・伊那中学校へ転校した。
住環境における最大の変化は「五右衛門風呂」だったこと。
釜の底に木の板を沈めて浸かるのだ。
入浴のコツがつかめるまで、熱いところに触れて飛びあがったりした。
基本は大人一人、無理をすれば小さな子どもが浸かれる。

わが人生0698先ほどの報道番組で、バスタオルを巻いた若い女性が入浴する映像が流された。
当時の五右衛門風呂と同じ大きさ。
決定的な違いは、直火でないこと。

こんな巨大カボチャが実際に取れるとは驚き。
そこに小さなカボチャが幾つも浮かんでいる。
体の芯から温まりそうだ。
それ以前に、楽しそうだ。

入善で、小学校から短大まで過ごした妹は知っているだろうか。

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このブログは、おもに長期出張の移動時や宿泊時などに数日分〜1月分の記事を書き溜め、それを家族に更新してもらっています。
しかも、私がときどき新しい記事を割り込ませています。
内容が古かったり、順序が変だったりするのはそのためです。

なお、ブログによりぎりぎりのジョーク、成人向けの内容が含まれます。
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私は執筆に当たり全人格を投影したいと考えます。
著作権について
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プロフィール
wada01











和田創

和田創研代表
日本ロボコム代表
ロボットビジネス勉強会&交流会主宰
シニア起業家
和田 創(わだ・そう)

数字立て直し(伸長)一筋の経営コンサルタント。
教育と指導の年間実績は約百回。対象は社長から役員、管理者、社員まで、テーマは経営から管理、採用、事業、商品、企画まで広範。著書や教材は多数。
2017年、66歳以降はAIやロボット関連の起業に挑むとともに、おもに内需・地場企業から先端分野・成長分野の事業・商品開発を請け負う。クライアントとともに77歳までに百社の設立を目指す(内、自ら11社)。

その他の役職
面白くないジョークの会会長 

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