今年は曜日の並びがよく、Facebookを見ても盆休みをゆっくりと過ごした方が多かった。
私はクライアントの仕事を4本抱えて猛烈に働いた。
実は、わが家に不相応な、とても立派な仏壇がある。
両親が無理をして買い求めたものだ。
相当な値段(金額を聞かされたが、忘れた)。
私はその仏壇に手を合わせるのが精一杯だった。
せめてというわけでないが、盆の間、眠る前に前妻のことを振り返った。
すると、いまの妻のことも思い浮かんだ。
◇
前妻は末期がんの病床で、3人の子どもの食事がどうなるのかを気にかけていた。
家事のことも…。
賢い彼女は、家に戻れないと悟っていたのか。
考えたところで自分がどうにかできるわけでないが、それがモルヒネでぼんやりした頭を占めていた。
私が妻の立場でも同じだっただろう。
テレビドラマ「八日目の蝉」で、野々宮希和子が警察に逮捕・連行される際、「その子はまだ朝ごはん食べてないの」と叫んだ(不確か)。
このシーンはどこかで前妻と重なり、胸に迫った。
母が子どものもとを離れざるをえないとき、その世話をもっとも案じる。
私は40代前半、猛烈なせきから大量の喀血を起こした。
新宿・河田町の東京女子医大(東京女子医科大学病院)に緊急入院。
ここは呼吸器の疾患に定評があった。
血液が片側の肺に溢れ、それが片側の肺にかなり流れ込んだ。
両方の肺が血液に浸かっていたら助からなかったと、医師に後日言われた。
前妻を亡くした後だったので、私は医師に「ほんとうのことを教えてください。自分は片親なので、もし助からないなら、生きているうちに子どもをどうするかを決めなくてならないのです」と伝えた。
医師は「末期のがんか重度の結核か、どちらかです」と答えた。
私は死を覚悟した。
看護婦(看護師)の気配からも、生きられないと感じていた。
しかし、残される3人の子どものことで頭が一杯で、不思議と恐怖心はなかった。
前妻もそうだったのかもしれないと、ふと思った。
私が真っ先に案じたのは、子どもの養育費のことだった。
妻が子どもの世話のことだったように…。
子どもが食べていく、まして育っていくには、大きなカネがいる。
それを手当てするのは、私の役目だ。
が、まったく果たせないで、この世を去る。
子どもの面倒を老いた富山の両親に頼めない。
地元に留まってほしいとの父の懇願を振り切り、高校卒業と同時に上京したので、なおさら。
富山の妹夫婦も同じ。
妻の実家も同じ。
3人の子どもを引き取る余裕はどこにもない。
私はだれにも相談を持ちかけられなかった。
子どもを施設に入れるしかないのだが、それだけはどうしても避けたかった。
望ましい結論は出せないと分かっていたが、病床で考えつづけた。
幸い、医師が推察したがんも結核も該当せず、私は手術を経て回復を果たした。
人間の限界を超えた頑張りで体が壊れたとの診断だった。
たいてい先に心が壊れるが、私の場合はそれが頑丈だったために無理を重ねて体が壊れたらしい。
私は40代になり、転職に挑んだ。
「石の上にも三年」。
そう言い聞かせて狂ったように働いたが、能力が乏しいこともあり、3年を過ぎてもうまくいっていなかった。
目指していた教育指導の仕事(現在の職業)を軌道に乗せられなかったのだ。
私は大病の後で、調子が戻らない。
むろん、無理は禁物。
再発の恐怖に怯えていた。
コンサルタントや講師としての仕事を得ることができず、収入が途絶えがちになった。
すぐにどん底へ。
家政婦を雇うなどとんでもない。
食べものを買うカネがなくなった。
電話はまだしも電気が止まるようになった。
子どものぎりぎりの生活さえ支えられなくなった。
どうにもならない窮状を救ってくれたのが、いまの妻だった。
近所の店で難のある野菜を安く譲ってもらうなどし、私と子どもの命をつないでくれた。
ときに自分は食べなくても、最低限の食事をやり繰りした。
空腹で目まいを起こすこともあった。
前妻が最後まで気にかけていた子どもの食事をすべて担った。
この間、家賃の滞納で幾度か追い出されそうになったが、そのたびに大家と掛け合ってくれた。
また、一周忌か三回忌(2年目)か、前妻の父が途方に暮れていた私を救ってくれた。
「子どもたちに母親が必要だ」。
高崎弁だった。
伏し目がちで口にした言葉に、私はやさしさと配慮を感じた。
やがて、いまの妻は初婚で、難しい時期を迎える3人の子持ちに嫁ぐ覚悟を決めた。
壮絶な苦労が待ち受けているのに、驚きだった。
それを片親で育てた彼女の母が快く許した。
これも驚きだった。
自分が親の立場なら認めなかっただろう。
私は、入籍・挙式は前妻の七回忌を済ませてからと決めていた。
自分なりの区切りとしたかった。
が、45歳に達しており、いまの妻をすぐに家に迎え入れた。
彼女は子どもを望んでおり、私は自分の年齢を考えると、子どもを急ぎたかったからだ。
正直、育てられるのかという不安のほうが大きかった。
その苦労は3人の子どもで身に染みていた。
1年後にいまの子を授かった。
入籍・挙式を遅らせたことで妻と子、とくに女房の姓で生まれた子に申し訳なく思う。
◇
私は盆の間、仕事に忙殺されながらも、二人の妻に対する感謝の念がふつふつと湧いてきた。
もちろん、亡くなった母に対しても…。
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私はクライアントの仕事を4本抱えて猛烈に働いた。
実は、わが家に不相応な、とても立派な仏壇がある。
両親が無理をして買い求めたものだ。
相当な値段(金額を聞かされたが、忘れた)。
私はその仏壇に手を合わせるのが精一杯だった。
せめてというわけでないが、盆の間、眠る前に前妻のことを振り返った。
すると、いまの妻のことも思い浮かんだ。
◇
前妻は末期がんの病床で、3人の子どもの食事がどうなるのかを気にかけていた。
家事のことも…。
賢い彼女は、家に戻れないと悟っていたのか。
考えたところで自分がどうにかできるわけでないが、それがモルヒネでぼんやりした頭を占めていた。
私が妻の立場でも同じだっただろう。
テレビドラマ「八日目の蝉」で、野々宮希和子が警察に逮捕・連行される際、「その子はまだ朝ごはん食べてないの」と叫んだ(不確か)。
このシーンはどこかで前妻と重なり、胸に迫った。
母が子どものもとを離れざるをえないとき、その世話をもっとも案じる。
私は40代前半、猛烈なせきから大量の喀血を起こした。
新宿・河田町の東京女子医大(東京女子医科大学病院)に緊急入院。
ここは呼吸器の疾患に定評があった。
血液が片側の肺に溢れ、それが片側の肺にかなり流れ込んだ。
両方の肺が血液に浸かっていたら助からなかったと、医師に後日言われた。
前妻を亡くした後だったので、私は医師に「ほんとうのことを教えてください。自分は片親なので、もし助からないなら、生きているうちに子どもをどうするかを決めなくてならないのです」と伝えた。
医師は「末期のがんか重度の結核か、どちらかです」と答えた。
私は死を覚悟した。
看護婦(看護師)の気配からも、生きられないと感じていた。
しかし、残される3人の子どものことで頭が一杯で、不思議と恐怖心はなかった。
前妻もそうだったのかもしれないと、ふと思った。
私が真っ先に案じたのは、子どもの養育費のことだった。
妻が子どもの世話のことだったように…。
子どもが食べていく、まして育っていくには、大きなカネがいる。
それを手当てするのは、私の役目だ。
が、まったく果たせないで、この世を去る。
子どもの面倒を老いた富山の両親に頼めない。
地元に留まってほしいとの父の懇願を振り切り、高校卒業と同時に上京したので、なおさら。
富山の妹夫婦も同じ。
妻の実家も同じ。
3人の子どもを引き取る余裕はどこにもない。
私はだれにも相談を持ちかけられなかった。
子どもを施設に入れるしかないのだが、それだけはどうしても避けたかった。
望ましい結論は出せないと分かっていたが、病床で考えつづけた。
幸い、医師が推察したがんも結核も該当せず、私は手術を経て回復を果たした。
人間の限界を超えた頑張りで体が壊れたとの診断だった。
たいてい先に心が壊れるが、私の場合はそれが頑丈だったために無理を重ねて体が壊れたらしい。
私は40代になり、転職に挑んだ。
「石の上にも三年」。
そう言い聞かせて狂ったように働いたが、能力が乏しいこともあり、3年を過ぎてもうまくいっていなかった。
目指していた教育指導の仕事(現在の職業)を軌道に乗せられなかったのだ。
私は大病の後で、調子が戻らない。
むろん、無理は禁物。
再発の恐怖に怯えていた。
コンサルタントや講師としての仕事を得ることができず、収入が途絶えがちになった。
すぐにどん底へ。
家政婦を雇うなどとんでもない。
食べものを買うカネがなくなった。
電話はまだしも電気が止まるようになった。
子どものぎりぎりの生活さえ支えられなくなった。
どうにもならない窮状を救ってくれたのが、いまの妻だった。
近所の店で難のある野菜を安く譲ってもらうなどし、私と子どもの命をつないでくれた。
ときに自分は食べなくても、最低限の食事をやり繰りした。
空腹で目まいを起こすこともあった。
前妻が最後まで気にかけていた子どもの食事をすべて担った。
この間、家賃の滞納で幾度か追い出されそうになったが、そのたびに大家と掛け合ってくれた。
また、一周忌か三回忌(2年目)か、前妻の父が途方に暮れていた私を救ってくれた。
「子どもたちに母親が必要だ」。
高崎弁だった。
伏し目がちで口にした言葉に、私はやさしさと配慮を感じた。
やがて、いまの妻は初婚で、難しい時期を迎える3人の子持ちに嫁ぐ覚悟を決めた。
壮絶な苦労が待ち受けているのに、驚きだった。
それを片親で育てた彼女の母が快く許した。
これも驚きだった。
自分が親の立場なら認めなかっただろう。
私は、入籍・挙式は前妻の七回忌を済ませてからと決めていた。
自分なりの区切りとしたかった。
が、45歳に達しており、いまの妻をすぐに家に迎え入れた。
彼女は子どもを望んでおり、私は自分の年齢を考えると、子どもを急ぎたかったからだ。
正直、育てられるのかという不安のほうが大きかった。
その苦労は3人の子どもで身に染みていた。
1年後にいまの子を授かった。
入籍・挙式を遅らせたことで妻と子、とくに女房の姓で生まれた子に申し訳なく思う。
◇
私は盆の間、仕事に忙殺されながらも、二人の妻に対する感謝の念がふつふつと湧いてきた。
もちろん、亡くなった母に対しても…。
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