コンサルの引き出し|和田創ブログ

だれの目の前にも可能性の地平は広がる。それを切り拓けるかどうかは自分次第である。「面白くないジョークの会」初代会長が解き明かす経営と人生の奥義とは?

アメショー性格

アメショーはブラックスモークが最高

先週の「フウが息を引き取りました」に続きます。

⇒2014年7月12日「フウが息を引き取りました」はこちら。

⇒2014年7月14日「模様替えの後にフウからダメ出しを食らう」はこちら。

⇒2014年7月15日「フウの肉球…アメショー」はこちら。

⇒2014年7月16日「捨て猫が家までついてくるように・・・」はこちら。

フウはいろいろな呼び方をされることをおそらく楽しんでいました。
「フウ」「フウちゃん」「フウさん」「プウ」「プウちゃん」「プウさん」「プップー」「プップちゃん」・・・。
呼び方が変わろうと、「何ですか」と応えました。
人に働きかけられることを好むとともに、人に働きかけることを好みました。
アメショーは家族との交流志向が強いですが、フウは際立っていました。

フウは私に両手を差し出すように求めました。
そして、自分の手を私のそれぞれの手にかけて立ち上がりました。
クマが両手を開き加減で立ち上がったポーズになります。
アメショーのブラックスモークでしたので、クマそっくりです。
私は堂々たるたたずまいを絶賛してきました。
「おお〜、こわい。フウちゃん、クマさんだぁ〜。こわいねぇ〜」。

フウはとてもきれい好きで、全身や肉球から何とも香ばしい匂いがしました。
また、お尻は手入れが行き届き、汚れていた例(ためし)がありません。
毛並と同様に黒(濃いグレー)でした。
私はまばゆい光を放つ肛門を絶賛してきました。
「フウちゃん、すごいねぇ〜。ダイヤモンドヒップだよぉ〜。お尻がピカピカだねぇ〜」。
お尻がわずかに汚れたのは最後の数日でした。
気持ちが悪かろうと、死後に清浄面できれいにしました。
フウは自分でも許せなかったはずです。

名前と異なり、こうした賛辞はフレーズもトーンもお決まりでなければ納得しません。
フウは自分がほめられていると分かっており、1日に2〜3回おねだりすることもありました。

もう一つ、フウがやってくださいとお願いしたことがあります。
私が椅子の背もたれにのけぞります(身をそらします。)。
そして、フウを高く抱え上げて後ろ足を胸につけ、手(前足)を顎に置きます。
ひげのチクチク感がたまらないらしく、エリマキトカゲみたいに前足を交互に横に持ち上げました。

フウはこうしてほしいという意思をはっきりと伝えた猫でした。
たわいのないやり取りが、デスクワークに根を詰めたがる私にちょっとした休息と活性化をもたらしました。
フウの相手をすると、また頑張れるから不思議です。

どのような毛並みのアメショーもかわいいですが、なかでもブラックスモークは愛情が濃く、茶目っ気がたっぷりだと思います。
猫なのに柴犬の気質や性格をいくらか備えています。

愛猫とじっくりと会話を交わしたい人には、アメショーブラックスモークが最高なのでは?

なお、いま述べたことは私の狭い経験に根差しており、統計などの根拠に基づくものでありません。

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捨て猫が家までついてくるように・・・

先週の「フウが息を引き取りました」に続きます。

⇒2014年7月12日「フウが息を引き取りました」はこちら。

⇒2014年7月14日「模様替えの後にフウからダメ出しを食らう」はこちら。

⇒2014年7月15日「フウの肉球…アメショー」はこちら。

私は新潟・直江津生まれです。
小さい頃から野良猫に好かれました。
戦後十年ほどで、食生活が貧しかった時代です。
亡くなった両親によれば、私は家の外で野良猫と戯れていたようです。
2〜4匹に囲まれていた記憶がうっすらと残っています。
私が直江津小学校に通う頃から、捨て猫が家までついてくるようになりました。

私は、最初の捨て猫「太郎」に始まり、小鳥、多くの鳩、犬、猫と飼いつづけました。

私はいま横浜・港北ニュータウンの大規模団地に暮らしており、管理組合の取り決めで野良猫に餌をやることが禁じられています。
むろん、それを守っています。
しかし、母猫が2〜4匹の子猫を引き連れている姿を見てしまうと、心が揺れます。
豊かな時代といっても、親子が生き延びるのは大変です。
私はまれに団地の敷地外に野良猫を誘い、栄養価の高いドライタイプのキャットフードを与えています。
とくにやせ細っていると、放っておけなくなります。

40年ほど前に暮らしていた杉並・松庵の2階のアパートは1階が大家でした。
その屋根の上を野良猫が行き来し、やがて窓から部屋に入ってくるようになりました。
ペット禁止なので飼ったわけでありませんが、野良猫が無警戒でくつろいでいたことを思い出します。

私はこれまでに猫だけで11匹を飼いました。
そのなかでもフウは飛び切りの癒やしを与えてくれました。
深刻な更年期障害、そして書斎での過酷で孤独なデスクワークを乗り切れたのは、そのおかげです。
いつも手の届くところにいて、私の呼びかけや話しかけに応えてくれました。

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フウの肉球…アメショー

先週の「フウが息を引き取りました」に続きます。

⇒2014年7月12日「フウが息を引き取りました」はこちら。

⇒2014年7月14日「模様替えの後にフウからダメ出しを食らう」はこちら。

私は数日、心と体の状態がすぐれません。
不思議なくらい食欲を感じません。

フウを17年近く世話した妻がやつれていますので、自分がしっかりしなければという気持ちはあります。
しかし、私は長く同室でしたので「喪失感」に苦しめられています。
フウと同じ年に生まれた息子もあまり元気がありません。
家族が皆、沈んでいます。

私が夜眠ろうとすると、フウがフローリングの床を歩くときに当たる爪の音がかすかに聞こえてきます。
また、昼ふと机や低い家具にフウの足跡(肉球)が浮かびあがります。

私の書斎に対し、とても小さいフウが占める面積はごくわずかにすぎません。
しかし、フウが消え、フウのこまごまとした生活用品がなくなり、空間の広さばかりが気になります。
人(猫)の気配が失われてがらんとしています。

私は書斎に一人でこもるのがつらく、深夜に散歩に出かけたりしましたが、気が晴れません。
時間が必要なのかなと思います。

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模様替えの後にフウからダメ出しを食らう

おとといの「フウが息を引き取りました」に続きます。

⇒2014年7月12日「フウが息を引き取りました」はこちら。

◆書き加え4(7月13日)

我が家は二世帯住宅のマンションであり、玄関のなかに玄関があります。
私の書斎です。
フウはここで暮らしていましたが、うちのなかをときどき見て回りました。

このドアが半透明のガラスなので、とくに私の出張中は妻に出してほしいとせがみました。
むろん、さみしさや退屈も一因でしょう。

しかし、フウはつねに家族を気にかけ、一人ひとりの状況や様子をつかもうとしました。
コミュニケーションとふれあいに対する希求が際立って強かったです。
ほかの猫が餌ほしさに顔を出したり、体をすり寄せたりするのと対照的でした。
(フウはそうしたときでも、はっきりと意思で示しました。こびるとか、せかすことはありませんでした。)

父のクロは食欲が旺盛でしたが、やはり家族に関心を寄せていました。
母のモモは貪欲さがなく、食べることにも淡泊でした。
だから、かつては妻の部屋でフウと一緒に暮らせたのです。
フウは、両方の血を引いています。

家族に話すこと、話しかけられることを一番の喜びにしていました。

◆書き加え5(7月13日)

私は長く同室でしたので、どうしてもフウを探してしまいます。
居場所は夏場と冬場でそれぞれいくつかありました。
当日の天候(おもに気温)と空調により変わります。
そこに目がいくのです。

私は、体の小さいフウを踏んだり傷つけたりしないよう、書斎では細心の注意を払いながら動いていました。
その習慣というか習性が抜けません。

妻が餌と水の容器、マット、トイレ、ベッド、フウが好んだ私の隣の椅子に敷いたバスタオル、爪とぎなどを片づけてくれました。

また、掃除をしてくれ、部屋のあちこちからフウの体毛が綿のように出てきました。
アメショー(猫は皆そう?)は夏にかけて抜け毛が凄いのです。

妻が掃除の手を止めました。
フウの長くて黒いひげを1本見つけ、涙ぐんでいます。

私は、書斎の家具が高齢のフウに合わせて配置されていることに気づきました。
確かにフウの暮らしやすさと快適さを、私は第一に考えていました。
とりわけ机とベッドに飛び乗りやすく、双方を行き来しやすく工夫しています。
模様替えの後にフウからダメ出しを食らい、やり直したり、元に戻したりしたことを思い出しました。
OKをもらうまでが大変でした。

また、私の大きな机の上はフウの生活や動線を妨げないように小物が並べられていることに気づきました。
ぽっかりと空いた居場所や通路に、私はたばこやファイル、筆記具などを置きました。

出張が延期になった1週間、仕事にほとんど手をつけられませんでした。

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フウが息を引き取りました

《7月5日》

huu01私は6日間の出張からくたくたの状態で自宅に戻ってきました。

私が留守にしていた9日間と6日間の出張中に、高齢のアメショー「フウ(♀)」が一気に弱り、ほとんど食べられなくなりました。
がりがりで横たわり、心臓と肺が苦しそうです。
妻によれば、トイレにふらふら歩いていくくらいで、それも回数が極端に減ったとのこと。

私が呼びかけたら尻尾を盛んに振りましたが、顔をずらすことも顔を持ちあげることも難儀そうです。

実は、9日間の出張後、6日間の出張前、フウは「介護」が必要と考え、私の書斎から妻の部屋に移しました。
私は面倒を見られません。

フウは、今年に入って「老い」による衰えが目立ちはじめました。
2〜3カ月前から私にそれほどちょっかいを出さなくなり、いやな予感がありました。

フウはとくにその頃から、出張支度をする私を「行っちゃうの」といった表情でじっと見詰めるようになりました。
私はその目が切なくて、「大丈夫、すぐに戻ってくるから」と言葉をかけてきました。

私は来週も出張です。
福岡で大型台風の直撃を受けそうです。
最期を看取りたい気持ちはありますが…。

《7月6日》

フウはきょう何も食べず、水も飲みません。
マイペースを貫いた猫ですので、妻と話し合い、栄養剤の注射などによる延命を行わないことにしました。
医者に幾度も連れていくこと自体がフウに重い負担となります。

大好物のマグロの赤身を細かく砕きましたが、それでも受け付けません。
大好きな缶詰のスープを飲ませようとしましたが、やはり受け付けません。

私が声をかけると振る尻尾の動きが小さく鈍くなっています。
ときどき目を開けても、焦点が定まらないせいか、私のほうに目玉を動かそうとしません。
人間を含め、生き物はかならず寿命が尽きます。
私と妻はフウの「死」に直面しています。

《7月8日》

私も妻も6日は観念しました。
夜を越えられないと…。

しかし、フウはこの2日間、ちょっと食べ、ちょっと飲んでいます。
かろうじて命をつないでいます。

フウが少しうんちをしたと聞き、私はうれしくなりました。
いくらかでも腸が動き、踏ん張れたという証拠です。

《7月10日》

フウは食事のリズムがほかの猫とまったく違うため、書斎で飼っていました。
とはいえ、私が出張で不在がちで、実際の世話はすべて妻がやってくれました。

私は一緒に暮らしたという事情もあり、フウのかわいさは格別です。
私に張り付くようにしていました。
また再婚後の子と同じ年に、しかも我が家、それも自室で生まれたこともフウの印象を際立たせています。
17歳を、息子は4月に迎えました。
フウは9月に迎えられるでしょうか。

フウは人が付きっきりでないと生きられないほど衰弱し、6月27日に妻の部屋に移しました。
病気でなく老衰なので、治療の施しようがありません。
心臓と肺(呼吸)がとても苦しそうです。
私はフウの厳しい現実に接するのがつらく、ぼんやりと見守るくらいです。
無力で、自分の気持ちの整理をつけられません。

妻も同じはずなのに、献身的に介護しています。
愛情の深さがそうした気持ちに勝り、妻を突き動かしているのでしょう。
女性の強さに、私は打ちのめされます。

フウは寿命が尽きようとしています。
が、それは飼い主の未練がましい言い方であって、フウ自身は天授を全うすると考えているのかもしれません。

私はフウがスプーン一杯でも食べるとうれしくなります。
スポイト一滴でも飲むとうれしくなります。
フウはほんの一瞬ですが復活します。
ひょっとしたらまだ生きられるのではという期待をどうしても捨てられません。

「もう何もいりません」。
十分に生きたフウはそう伝えたいのでないでしょうか。

                 ◇

フウは人懐っこく、茶目っ気たっぷりでした。
私は自宅にいるときはおもにクライアントの受託業務と教育コンテンツの作成に取り組んでいます。
それは過酷で孤独な作業であり、たいてい深夜や早朝に及びます。
頭が悪いくせに最高品質にこだわった結果です。

フウは仕事に追い詰められている私の邪魔ばかりしました。
私とキーボードの間に転がったり、さらにキーボードとディスプレイの間に転がったり。
それでも私が仕事の手を緩めないとキーボードに頭を載せたり、手(前足)を載せたり。
ついに私に背を向けて座り、面白くもないディスプレイを見つづけました。
これで仕事は完全に止まります。

フウは、私がデスクワークや出張帰りで疲れ切って眠ろうとすると、胸の上にのぼります。
また、自分の目が覚めると、睡眠中の私の口の周りやほおを手で執拗にちょんちょんとやります。
どちらも「起きていてください」ということです。
極端に短い睡眠時間が一段と短くなりました。

私は、そうしたフウのすべてを受け入れてきました。
どれほど癒されたことでしょう。

私は50代後半に更年期障害で苦しみ、とくに58〜59歳がどん底でした。
フウは私の独り言にずっとつきあってくれました。
私は絶望的な時期を何とか乗り切ることができました。

《7月11日》

午前2時に書斎でデスクワークをしていた私のケータイ(スマホ)に着信がありました。
妻からでした。
サイレントモードでノンバイブレーションの私は、日中でもケータイをほとんど見ません。
なのに、このときは気づきました。
私はすぐに妻の部屋に行きました。

フウは妻の部屋に移ってから、たいてい椅子に横たわっていました。
使っていない椅子が一つ、いつも妻の机(椅子)のそばに置かれています(猫用かな)。
そして、おそらく床ずれがつらくなると、床に寝ていました。
また、体調が厳しいときは、家具の影の暗い床に寝ていました。

フウは10日、食事(スープ)や水をスプーンやスポイトで何とか与えようとする妻に対し、自分の手で「もう何もいりません」という意思をはっきりと示したそうです。

死期が迫っていると感じた妻は深夜、床でフウに寄り添って寝ていました。
ところが、午前2時、フウが身を起こし、その位置から突然、妻のベッドに飛び移りました。
歩くのもやっとだったフウの大跳躍に妻は驚き、ベッドで寄り添いましたが、その様子からいよいよと悟り、私に電話をかけてきました。

私は思いました。
フウは妻のベッドで安らかになりたいと願っていたのです。
私が呼びかけても反応を示しません。
が、隣に横たわる妻に自分の手を延ばし、妻の手にかけました。
つながっていると安心できるのでしょう。
私は絆の深さと妻が流す涙の美しさに心を打たれました。

私は、熟睡していた息子を起こしました。
フウの最期をちょっとでも見てほしかったのです。

しばらくしてフウは呼吸を取り戻し、いくらか容体が落ち着きました。

午前10時20分過ぎ、フウは海で溺れるようにのたうちはじめました。
空気を吸おうともがき、見ていられません。
5分ほどで動かなくなり、おそらく肺を膨らませようとして両手を合わせて力を入れています。
祈っているようにも見えます。
午前10時30分過ぎ、フウは静かに息を引き取りました。
呼吸ができなかったので、目を開いたままです。
直後、閉じさせようとしましたが、無理でした。
目がチャーミングな猫でした。

私は幾度も「ありがとう」と伝えました。
フウと長い時間を過ごせたことは幸せでした。

私は5日間の福岡出張が台風で取り止めになりました。
全日程の延期は20年を超えるこの仕事で初めてです。
そのおかげでというとクライアントに失礼ですが、私はフウを看取ることができました。
フウが満17歳の誕生日を迎えるのは9月11日でした。
その2カ月前でした。

◆書き加え1(7月11日)

夕方5時にペットの葬儀屋にフウを運びました。
息子の帰りを待ちましたが、学校が長引いて最後のお別れをさせられませんでした。

私は、フウを改めて眺めて、何とかわいい猫なのだろうと思いました。
苦しみから解放されたおだやかな顔です。
目が開いており、生きているようでした。

私は何度か呼びかけ、話しかけました。

火葬は12日、納骨は先方の都合で月曜日以降です。
我が家のペットの墓には、フウの母のモモ(シルバータビー)、父のクロ(ブラックスモーク)、そしてトラ(ブラウンタビー)とチビ(ブラックスモーク)が眠っています。
これで、渋谷・松濤時代から飼っていたアメショー5匹はすべてこの世を去りました。
皆で仲良く暮らすことでしょう。

◆書き加え2(7月11日)

私は1996年のGWに皆で東京タワーのペットイベントに出かけ、クロを買い求めました。
再婚後、家族が一つになれる話題をつくりたいと考えたことがきっかけでした。
クロはその日から家族を虜にしました。
幸運にも、最初の一匹が大当たりでした。

私はかわいさに魅了され、アメショーを次々と買い求めました。
あっという間に4匹です。
1997年の残暑が厳しい9月11日、私が「日経ビジネススクール」で講師を務めて汗まみれで戻ると、モモが私の部屋で5匹の赤ちゃんを生んでいました。

近所に猫を大切にしてくださる方が大勢いましたので差しあげるつもりでした。
しかし、妻がせめて1匹を残さないとモモがかわいそうだと主張し、手元に置いたのがフウでした。
ついに5匹になり、私たちは1998年のGW直前に横浜・港北ニュータウンに引っ越してきました。
再婚後の子は満1歳に達し、フウは7カ月を超えていました。

猫は自分の面倒を見てくれるのがだれかをよく分かっています。
クロもモモもトラもチビもそうでした。
皆、最後は妻だけを頼りました。
しかも、安楽死のクロとトラを除き、妻の部屋で息を引き取りました。

フウが厳しくなったここ半月、とくに今週は、やれることをすべてやりました。
人から笑われそうなことを含め、とにかく試しました。
私は延命措置を取らないと誓いながら、9日に獣医で点滴を打ってもらいました。
また、10日深夜(正確には11日0時過ぎ)に自宅で妻が点滴を打つのを手伝いました。
すでにフウの反応は弱々しいものでした。

奇跡が起こることはありませんでした。

よくなついていたクロの死、そしてモモの死に、私がそれほど落ち込まなかったのはフウを残してくれたからです。
父をそのまま小柄の娘にした印象です。
クロは、とにかく人懐っこく、愛情が深かったです。
フウは、気質や性格、行動や仕草を含めて瓜二つでしたが、母の気立てと優しさも引き継いでいました。
私にとりフウを失うことは、クロとモモを失うことでもあります。

急にさみしくなりました。
心に穴が開いたようです。

◆書き加え3(7月12日)

写真は、私が書斎で2008年1月1日に撮影しました。
満10歳です。
私も妻も写真を撮る習慣がなく、ここでやらないとフウの写真が1枚も残らないと考えたのでないでしょうか。
何せ元旦です。

フウは、つねに身内を案じ、その思いを伝えようとする猫でした。
母のモモが網戸に爪が引っかかり、体が延びきったときには妻に助けを求めにいきました。
モモのガンが進み、いよいよというときには付きっきりでした。
フウは生涯一度も病気をしませんでしたが、モモの死後は精神的なショックから拒食症になり、命を落としかけました。
また、息子が病気をすると、心配そうに寄り添いました。

フウは私に対しても、自分の思いを伝えてきました。
それはたいてい相手をしてほしいという甘えでした。

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和田創

和田創研代表
シニア起業家
和田 創(わだ・そう)

数字立て直し(伸長)一筋の経営コンサルタント。
教育と指導の年間実績は約百回。対象は社長から役員、管理者、社員まで、テーマは経営から管理、採用、事業、商品、企画まで広範。著書や教材は多数。
2017年、66歳以降はAIやロボット関連の起業に挑むとともに、おもに内需・地場企業から先端分野・成長分野の事業・商品開発を請け負う。

その他の役職
面白くないジョークの会会長 

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