コンサルの引き出し|和田創ブログ

だれの目の前にも可能性の地平は広がる。それを切り拓けるかどうかは自分次第である。「面白くないジョークの会」初代会長が解き明かす経営と人生の奥義とは?

シルバータビー

模様替えの後にフウからダメ出しを食らう

おとといの「フウが息を引き取りました」に続きます。

⇒2014年7月12日「フウが息を引き取りました」はこちら。

◆書き加え4(7月13日)

我が家は二世帯住宅のマンションであり、玄関のなかに玄関があります。
私の書斎です。
フウはここで暮らしていましたが、うちのなかをときどき見て回りました。

このドアが半透明のガラスなので、とくに私の出張中は妻に出してほしいとせがみました。
むろん、さみしさや退屈も一因でしょう。

しかし、フウはつねに家族を気にかけ、一人ひとりの状況や様子をつかもうとしました。
コミュニケーションとふれあいに対する希求が際立って強かったです。
ほかの猫が餌ほしさに顔を出したり、体をすり寄せたりするのと対照的でした。
(フウはそうしたときでも、はっきりと意思で示しました。こびるとか、せかすことはありませんでした。)

父のクロは食欲が旺盛でしたが、やはり家族に関心を寄せていました。
母のモモは貪欲さがなく、食べることにも淡泊でした。
だから、かつては妻の部屋でフウと一緒に暮らせたのです。
フウは、両方の血を引いています。

家族に話すこと、話しかけられることを一番の喜びにしていました。

◆書き加え5(7月13日)

私は長く同室でしたので、どうしてもフウを探してしまいます。
居場所は夏場と冬場でそれぞれいくつかありました。
当日の天候(おもに気温)と空調により変わります。
そこに目がいくのです。

私は、体の小さいフウを踏んだり傷つけたりしないよう、書斎では細心の注意を払いながら動いていました。
その習慣というか習性が抜けません。

妻が餌と水の容器、マット、トイレ、ベッド、フウが好んだ私の隣の椅子に敷いたバスタオル、爪とぎなどを片づけてくれました。

また、掃除をしてくれ、部屋のあちこちからフウの体毛が綿のように出てきました。
アメショー(猫は皆そう?)は夏にかけて抜け毛が凄いのです。

妻が掃除の手を止めました。
フウの長くて黒いひげを1本見つけ、涙ぐんでいます。

私は、書斎の家具が高齢のフウに合わせて配置されていることに気づきました。
確かにフウの暮らしやすさと快適さを、私は第一に考えていました。
とりわけ机とベッドに飛び乗りやすく、双方を行き来しやすく工夫しています。
模様替えの後にフウからダメ出しを食らい、やり直したり、元に戻したりしたことを思い出しました。
OKをもらうまでが大変でした。

また、私の大きな机の上はフウの生活や動線を妨げないように小物が並べられていることに気づきました。
ぽっかりと空いた居場所や通路に、私はたばこやファイル、筆記具などを置きました。

出張が延期になった1週間、仕事にほとんど手をつけられませんでした。

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フウが息を引き取りました

《7月5日》

huu01私は6日間の出張からくたくたの状態で自宅に戻ってきました。

私が留守にしていた9日間と6日間の出張中に、高齢のアメショー「フウ(♀)」が一気に弱り、ほとんど食べられなくなりました。
がりがりで横たわり、心臓と肺が苦しそうです。
妻によれば、トイレにふらふら歩いていくくらいで、それも回数が極端に減ったとのこと。

私が呼びかけたら尻尾を盛んに振りましたが、顔をずらすことも顔を持ちあげることも難儀そうです。

実は、9日間の出張後、6日間の出張前、フウは「介護」が必要と考え、私の書斎から妻の部屋に移しました。
私は面倒を見られません。

フウは、今年に入って「老い」による衰えが目立ちはじめました。
2〜3カ月前から私にそれほどちょっかいを出さなくなり、いやな予感がありました。

フウはとくにその頃から、出張支度をする私を「行っちゃうの」といった表情でじっと見詰めるようになりました。
私はその目が切なくて、「大丈夫、すぐに戻ってくるから」と言葉をかけてきました。

私は来週も出張です。
福岡で大型台風の直撃を受けそうです。
最期を看取りたい気持ちはありますが…。

《7月6日》

フウはきょう何も食べず、水も飲みません。
マイペースを貫いた猫ですので、妻と話し合い、栄養剤の注射などによる延命を行わないことにしました。
医者に幾度も連れていくこと自体がフウに重い負担となります。

大好物のマグロの赤身を細かく砕きましたが、それでも受け付けません。
大好きな缶詰のスープを飲ませようとしましたが、やはり受け付けません。

私が声をかけると振る尻尾の動きが小さく鈍くなっています。
ときどき目を開けても、焦点が定まらないせいか、私のほうに目玉を動かそうとしません。
人間を含め、生き物はかならず寿命が尽きます。
私と妻はフウの「死」に直面しています。

《7月8日》

私も妻も6日は観念しました。
夜を越えられないと…。

しかし、フウはこの2日間、ちょっと食べ、ちょっと飲んでいます。
かろうじて命をつないでいます。

フウが少しうんちをしたと聞き、私はうれしくなりました。
いくらかでも腸が動き、踏ん張れたという証拠です。

《7月10日》

フウは食事のリズムがほかの猫とまったく違うため、書斎で飼っていました。
とはいえ、私が出張で不在がちで、実際の世話はすべて妻がやってくれました。

私は一緒に暮らしたという事情もあり、フウのかわいさは格別です。
私に張り付くようにしていました。
また再婚後の子と同じ年に、しかも我が家、それも自室で生まれたこともフウの印象を際立たせています。
17歳を、息子は4月に迎えました。
フウは9月に迎えられるでしょうか。

フウは人が付きっきりでないと生きられないほど衰弱し、6月27日に妻の部屋に移しました。
病気でなく老衰なので、治療の施しようがありません。
心臓と肺(呼吸)がとても苦しそうです。
私はフウの厳しい現実に接するのがつらく、ぼんやりと見守るくらいです。
無力で、自分の気持ちの整理をつけられません。

妻も同じはずなのに、献身的に介護しています。
愛情の深さがそうした気持ちに勝り、妻を突き動かしているのでしょう。
女性の強さに、私は打ちのめされます。

フウは寿命が尽きようとしています。
が、それは飼い主の未練がましい言い方であって、フウ自身は天授を全うすると考えているのかもしれません。

私はフウがスプーン一杯でも食べるとうれしくなります。
スポイト一滴でも飲むとうれしくなります。
フウはほんの一瞬ですが復活します。
ひょっとしたらまだ生きられるのではという期待をどうしても捨てられません。

「もう何もいりません」。
十分に生きたフウはそう伝えたいのでないでしょうか。

                 ◇

フウは人懐っこく、茶目っ気たっぷりでした。
私は自宅にいるときはおもにクライアントの受託業務と教育コンテンツの作成に取り組んでいます。
それは過酷で孤独な作業であり、たいてい深夜や早朝に及びます。
頭が悪いくせに最高品質にこだわった結果です。

フウは仕事に追い詰められている私の邪魔ばかりしました。
私とキーボードの間に転がったり、さらにキーボードとディスプレイの間に転がったり。
それでも私が仕事の手を緩めないとキーボードに頭を載せたり、手(前足)を載せたり。
ついに私に背を向けて座り、面白くもないディスプレイを見つづけました。
これで仕事は完全に止まります。

フウは、私がデスクワークや出張帰りで疲れ切って眠ろうとすると、胸の上にのぼります。
また、自分の目が覚めると、睡眠中の私の口の周りやほおを手で執拗にちょんちょんとやります。
どちらも「起きていてください」ということです。
極端に短い睡眠時間が一段と短くなりました。

私は、そうしたフウのすべてを受け入れてきました。
どれほど癒されたことでしょう。

私は50代後半に更年期障害で苦しみ、とくに58〜59歳がどん底でした。
フウは私の独り言にずっとつきあってくれました。
私は絶望的な時期を何とか乗り切ることができました。

《7月11日》

午前2時に書斎でデスクワークをしていた私のケータイ(スマホ)に着信がありました。
妻からでした。
サイレントモードでノンバイブレーションの私は、日中でもケータイをほとんど見ません。
なのに、このときは気づきました。
私はすぐに妻の部屋に行きました。

フウは妻の部屋に移ってから、たいてい椅子に横たわっていました。
使っていない椅子が一つ、いつも妻の机(椅子)のそばに置かれています(猫用かな)。
そして、おそらく床ずれがつらくなると、床に寝ていました。
また、体調が厳しいときは、家具の影の暗い床に寝ていました。

フウは10日、食事(スープ)や水をスプーンやスポイトで何とか与えようとする妻に対し、自分の手で「もう何もいりません」という意思をはっきりと示したそうです。

死期が迫っていると感じた妻は深夜、床でフウに寄り添って寝ていました。
ところが、午前2時、フウが身を起こし、その位置から突然、妻のベッドに飛び移りました。
歩くのもやっとだったフウの大跳躍に妻は驚き、ベッドで寄り添いましたが、その様子からいよいよと悟り、私に電話をかけてきました。

私は思いました。
フウは妻のベッドで安らかになりたいと願っていたのです。
私が呼びかけても反応を示しません。
が、隣に横たわる妻に自分の手を延ばし、妻の手にかけました。
つながっていると安心できるのでしょう。
私は絆の深さと妻が流す涙の美しさに心を打たれました。

私は、熟睡していた息子を起こしました。
フウの最期をちょっとでも見てほしかったのです。

しばらくしてフウは呼吸を取り戻し、いくらか容体が落ち着きました。

午前10時20分過ぎ、フウは海で溺れるようにのたうちはじめました。
空気を吸おうともがき、見ていられません。
5分ほどで動かなくなり、おそらく肺を膨らませようとして両手を合わせて力を入れています。
祈っているようにも見えます。
午前10時30分過ぎ、フウは静かに息を引き取りました。
呼吸ができなかったので、目を開いたままです。
直後、閉じさせようとしましたが、無理でした。
目がチャーミングな猫でした。

私は幾度も「ありがとう」と伝えました。
フウと長い時間を過ごせたことは幸せでした。

私は5日間の福岡出張が台風で取り止めになりました。
全日程の延期は20年を超えるこの仕事で初めてです。
そのおかげでというとクライアントに失礼ですが、私はフウを看取ることができました。
フウが満17歳の誕生日を迎えるのは9月11日でした。
その2カ月前でした。

◆書き加え1(7月11日)

夕方5時にペットの葬儀屋にフウを運びました。
息子の帰りを待ちましたが、学校が長引いて最後のお別れをさせられませんでした。

私は、フウを改めて眺めて、何とかわいい猫なのだろうと思いました。
苦しみから解放されたおだやかな顔です。
目が開いており、生きているようでした。

私は何度か呼びかけ、話しかけました。

火葬は12日、納骨は先方の都合で月曜日以降です。
我が家のペットの墓には、フウの母のモモ(シルバータビー)、父のクロ(ブラックスモーク)、そしてトラ(ブラウンタビー)とチビ(ブラックスモーク)が眠っています。
これで、渋谷・松濤時代から飼っていたアメショー5匹はすべてこの世を去りました。
皆で仲良く暮らすことでしょう。

◆書き加え2(7月11日)

私は1996年のGWに皆で東京タワーのペットイベントに出かけ、クロを買い求めました。
再婚後、家族が一つになれる話題をつくりたいと考えたことがきっかけでした。
クロはその日から家族を虜にしました。
幸運にも、最初の一匹が大当たりでした。

私はかわいさに魅了され、アメショーを次々と買い求めました。
あっという間に4匹です。
1997年の残暑が厳しい9月11日、私が「日経ビジネススクール」で講師を務めて汗まみれで戻ると、モモが私の部屋で5匹の赤ちゃんを生んでいました。

近所に猫を大切にしてくださる方が大勢いましたので差しあげるつもりでした。
しかし、妻がせめて1匹を残さないとモモがかわいそうだと主張し、手元に置いたのがフウでした。
ついに5匹になり、私たちは1998年のGW直前に横浜・港北ニュータウンに引っ越してきました。
再婚後の子は満1歳に達し、フウは7カ月を超えていました。

猫は自分の面倒を見てくれるのがだれかをよく分かっています。
クロもモモもトラもチビもそうでした。
皆、最後は妻だけを頼りました。
しかも、安楽死のクロとトラを除き、妻の部屋で息を引き取りました。

フウが厳しくなったここ半月、とくに今週は、やれることをすべてやりました。
人から笑われそうなことを含め、とにかく試しました。
私は延命措置を取らないと誓いながら、9日に獣医で点滴を打ってもらいました。
また、10日深夜(正確には11日0時過ぎ)に自宅で妻が点滴を打つのを手伝いました。
すでにフウの反応は弱々しいものでした。

奇跡が起こることはありませんでした。

よくなついていたクロの死、そしてモモの死に、私がそれほど落ち込まなかったのはフウを残してくれたからです。
父をそのまま小柄の娘にした印象です。
クロは、とにかく人懐っこく、愛情が深かったです。
フウは、気質や性格、行動や仕草を含めて瓜二つでしたが、母の気立てと優しさも引き継いでいました。
私にとりフウを失うことは、クロとモモを失うことでもあります。

急にさみしくなりました。
心に穴が開いたようです。

◆書き加え3(7月12日)

写真は、私が書斎で2008年1月1日に撮影しました。
満10歳です。
私も妻も写真を撮る習慣がなく、ここでやらないとフウの写真が1枚も残らないと考えたのでないでしょうか。
何せ元旦です。

フウは、つねに身内を案じ、その思いを伝えようとする猫でした。
母のモモが網戸に爪が引っかかり、体が延びきったときには妻に助けを求めにいきました。
モモのガンが進み、いよいよというときには付きっきりでした。
フウは生涯一度も病気をしませんでしたが、モモの死後は精神的なショックから拒食症になり、命を落としかけました。
また、息子が病気をすると、心配そうに寄り添いました。

フウは私に対しても、自分の思いを伝えてきました。
それはたいてい相手をしてほしいという甘えでした。

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アメショーの火葬・納骨を行う…ペットは家族の一員

わが家のアメリカンショートヘア「チビ(♂)」が7月22日、金曜日朝6時半頃、妻のベッドで力尽きた。
チビ1997年2月16日生まれ。
14年5カ月強、生きた。
性格は至って穏やか。
犬みたいに人懐こい、ちょっと変わった猫だった。
人間に対する警戒心がまったくなく、初対面でもいきなり打ち解ける。
訪問客が戸惑うくらい・・・。

チビは立派な血統証明書付きのブラックスモーク。
毛が細かく柔らかく、全身真っ黒。
強い直射日光が当たったとき、アメリカンショートヘア特有の模様がいくらか浮かび上がる。
うちで飼った猫のなかでは一番高価だった。
渋谷・松涛の賃貸マンションに暮らしていた頃、信頼の置けるペットショップにわざわざブラックスモークと指定して探してもらった。
毛並みがいかにも高級だったが、足と尻尾が極端に短い。
どこかユーモラス。

チビは生後40日程で買ったときに小さかったのでチビ。
幼い猫という意味であり、他と比べて小さいということでない。
また、洋画に登場する黒人のチビッコギャングみたいな顔立ちだったことも名づけの理由。
すぐに、わりと大きく育った。

やがて、わが家は横浜・港北ニュータウンに引っ越してきた。
7〜8歳の頃だったか、チビは具合が悪くなり、妻が動物病院に連れていった。
そして、肥大化した脾臓の緊急手術を勧められた。
開腹したら爆発寸前の状態で手術を施せず、同時に風船のように膨らみ、何とか腹を縫い合わせた。
獣医はさじを投げた。
だが、諦められない妻は、ガンなどによく効くとされる高価な水を与えつづけ、チビは一命を取り留めた。
後日、獣医がどうしても信じられないと首を傾げた。
いつしか脾臓は周囲の内臓に取り込まれたのか、フィルム(?)上で消えていた。
とはいえ、チビは重病だったので体調が完全に戻ることはなかった。

しかし、それなりに元気に生きていた。
2年程前だったか、妻はチビが飲む水の量が急に増えたことを不審に思った。
動物病院で腎不全と判明し、寿命が短いと診断された。
妻がずっと気にかけてきた。
こまめな世話を決して怠らなかった。
が、6月下旬、容体が急変した。
私は一晩持てばと思った。

しかし、妻が付きっ切りで面倒を見た。
1日中自分のそばに置き、スプーンで幾度も流動食を与え、しばしば水分を取らせ、ときどきトイレに連れていく。
1カ月近くずっと看病・・・。
妻がグロッキー。
私はチビもつらいのでないかと思い、妻に安楽死を勧めた。
が、それを決めるのはもちろん私でない。
だれよりも深い愛情を注いできた人間だと考えていた。
妻は、チビは生きようと頑張っており、命が尽きるまで生きてほしいと言った。
ならば、私が口を挟むべきでない。

チビ2チビはこの1カ月弱の闘病期間、たいてい横たわっていた。
幾度か人間のボケに近い状態になった。
ほとんど歩けないはずなのに、よたよたしながら部屋や廊下を歩き回った。
徘徊に当たる。
また、幻覚や幻聴だったのだろう、驚いた表情で目を開け、空中の一点をずっと見ていた。
こうしたときは、家族が話しかけても聞こえないみたいだった。

チビはもうダメかなと思うとわずかに回復するという繰り返しだった。

死ぬ2〜3日前から水さえ取れなくなった。
流動食はまったく・・・。
妻もさすがに観念した。
限界の闘病生活でやせ細り汚れきった全身を優しく拭いてやり、きれいにしてやった。

チビは毎日かならず妻のベッドで眠った。
布団のなか、そして妻の頭や顔、体に張り付くように…。
妻は暑い暑いと、満更でもなさそうだった。
猫の体温は高い。

金曜日朝6時半頃、チビは妻に付き添われ、見守られて息を引き取った。
何という幸せ者。
最後まで懸命に生きた。
私はチビを褒めてやりたい。

                       ◇

ところで、チビと一緒に暮らしていたのが、アメリカンショートヘア「キイ(♀)」である。
シルバータビー。
こちらは横浜・港北ニュータウンのペットショップで購入した。
2005年3月14日生まれ。
キイは若くて活発であり、チビが反撃しないのをいいことによく襲いかかった。
チビがいくらか元気なときは、まれに本気で怒った。

しかし、チビが明らかに衰弱し、生命がぎりぎりになってから、キイは急に静かになった。
チビとともに妻の部屋で暮らし、妻のベッドで眠っていたのに、廊下、そして玄関や洗面所の前に独りいる時間が長くなった。
元気も失った。
チビと妻に遠慮しているようだった。

私の部屋(書斎)で暮らすアメリカンショートヘア「フウ(♀)」。
チビの約7カ月後、1997年9月11日生まれ。
まもなく14歳を迎える。
ブラックスモークに近い。
生活のリズムがチビやキイと異なり、なかでも食事がごく少量で非常に高頻度なため、一緒に置いておけない。

幸い、わが家は二世帯用の広いマンションであり、チビとキイは妻と子どもがいる母屋(?)に暮らし、フウは私がいる離れ(?)に暮らす。
生活のエリアは区切られているが、曇りガラスの玄関ドアを挟んで、チビの異変を何となく感じているようだった。
この子は心が優しく、しかも繊細・敏感である。

私は講演やセミナー、研修などで長期出張が珍しくない。
この間、書斎(部屋)に閉じ込めておくのはかわいそうなので、妻がときどきフウを行き来させてやっていた。
フウは穏やかなチビと気が合った。

闘病期間、これが見納めと思い、私はフウを抱いてチビのもとに連れていったことが2度程ある。
しかし、フウはすぐに離れた。
何か耐えられないといった様子だった。

チビが死んだ後の日曜日(きのう)、フウが行き来できるように曇りガラスの玄関ドアをしばらく開放していたが、大好きな妻の部屋へ行こうとしない。
私が抱いて連れていくと、フウはきょろきょろして落ち着かない。
あぁ、懸命にチビを探しているのだ。
私はフウにショックを与えていけないと思った。
臭いが残っており、頭のいいフウはチビを覚えている・・・。
気の毒なことをした。

残ったフウはいまのところ病気一つ見つからない。
高齢だが、1日でも長く生きてほしい。

チビの火葬は金曜日、納骨は土曜日。
妻と子どもがきちんとやってくれた。

ペットは家族の一員。
わが家では横浜・港北ニュータウンにささやかなペットの墓を構えている。
アメリカンショートヘアのモモ(シルバータビー♀)とクロ(ブラックスモーク♂)、トラ(ブラウンタビー♂)が眠り、そこにチビが加わった。
4匹はあの世で思い出話に花を咲かせているのでないか・・・。

モモとクロの間に、私の渋谷・松濤の部屋で生まれた5匹の1匹がフウである。
気立ての優しさは母親譲り、顔を含めた姿格好は父親譲り。

ちなみに、妻はすべての猫の誕生日と死亡日を覚えている。

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アメショーは愛嬌たっぷり、家族の話に耳を傾ける

私は疲労困憊の状態で福岡から戻った。
出張中に気になるのが、私の部屋で暮らすアメリカンショートヘア、♀の「フウ」。

huu01渋谷・松涛に暮らしていた頃、賃貸マンションの私の部屋で生まれた。
当時「日経ビジネススクール」の講師の仕事を終え、ヘロヘロになって戻ってきたら、里芋(さといも)みたいな5匹がおっぱいを吸っていた。
父はブラックスモークの「クロ」、母はシルバータビーの「モモ」。
子猫だと油断して“去勢”が遅れたのだった。
わが家は一気にアメリカンショートヘアが9匹になった。

フウは、体毛がクロとモモの中間。
今秋14歳を迎え、猫としてはかなり高齢だ。
顔も体も頭も心も父親に瓜二つだが、優しい気立ては母親譲り。
アメショーらしく愛嬌もたっぷり。
また、家族の話に熱心に耳を傾ける。
言葉がいくらか分かるようだ。

huu02私が長く留守にすると、フウはストレスから自分の体毛を抜くことがある。
むろん、妻が愛情を注ぎ、世話をしている。
それでも以前、体のあちこちにハゲができた。

私が戻ってきて名前を呼んでも、すねて家具に身を隠していることが多い。
「フウ」「フウちゃん」「フウさん」などと呼び方を変えているうちに姿を現す。
フウはほっとした表情を見せた。

                       ◇

私は名古屋・錦でクルマ部品メーカーなど地場企業の社長を対象とした講演が迫る。
主催は三菱UFJリサーチ&コンサルティング(三菱東京UFJ銀行系列)。
その先に、東京・半蔵門で新テーマの講演が控える。
主催はSMBCコンサルティング(三井住友銀行系列)。

私はこのコンテンツの作成に取り組んできたが、終了はまだだいぶ先になる。
連日、時間との闘いである。
というわけで、ブログに手間をかけられない。

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プロフィール
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和田創

和田創研代表
シニア起業家
和田 創(わだ・そう)

数字立て直し(伸長)一筋の経営コンサルタント。
教育と指導の年間実績は約百回。対象は社長から役員、管理者、社員まで、テーマは経営から管理、採用、事業、商品、企画まで広範。著書や教材は多数。
2017年、66歳以降はAIやロボット関連の起業に挑むとともに、おもに内需・地場企業から先端分野・成長分野の事業・商品開発を請け負う。

その他の役職
面白くないジョークの会会長 

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