私はキムタクがマスコミのインタビューに対し、さらりと返した言葉に感動した。
そこには彼の半生の生き様と実感が詰まっていた。
しびれる名言…。
ただし、“ながら視聴”なのでうろ覚え。
「チャンスのあるところを探さないと、生き残っていくことができなかった」。
凡人の私は、ほんとうにそのとおりだと思う。
しかし、こうしたことを強く自覚して働きとおせる人はいったいどれくらいいるだろう?
「キムタク」の愛称で親しまれた木村拓也は1991年に日本ハムファイターズに捕手として入団したが、まもなく限界を察し、出番を求めて外野手へ転向した。
とはいえ、レギュラー争いは熾烈を極める。
自分の能力では定位置は取れないと肝に銘じる。
球団はそのシーズンやそのときどきで、選手の不足や故障、不調などにより手薄なポジションが生じることがある。
木村拓也はそうしたポジションを見逃さず、全力で守るようになった。
「チャンスのあるところを探さないと、生き残っていくことができなかった」。
そのなりふり構わぬ実践が、ピッチャー以外の全ポジションにつくことにつながった。
アマチュア野球ならともかく、プロ野球では凄いこと。
木村拓也は「ユーティリティープレーヤー」として重宝がられた。
実際の試合では想定外のハプニングがまま起こる。
どこでも守れる選手が一人いれば、監督は心強い。
しかも打撃も走塁も肩もそれなり。
木村拓也は、自分の置かれたチーム内の立場を分かったうえで、働き場所を貪欲に追い求めた。
そして、つねに何らかの価値と存在感を示した。
結局、木村拓也は37歳まで現役を続けることができた。
最後は読売ジャイアンツ(読売巨人軍)で日本一を達成し、ユニフォームを脱いだ。
インタビューに答える晴れやかな笑顔に、自分の持ち味を生かし切ったという満足感が見て取れる。
素晴らしいではないか。
そのうちどこかの球団から守備コーチのお声がかかるかもしれない。
野球人生が終わったわけでなく、息は長そう…。
木村拓也の選手生活は、サラリーマンに限らず、社会人が幸せで豊かな職業人生を全うするヒントそのものだ。
いや、奥義に通じる。
先の監督は経営者や上司、チームは会社や職場、ポジションは地位や仕事と置き換えればよい。
誤解が生じるといけないので…。
木村拓也は凡人でない。
才能があり、だからプロ野球界に入れた。
その彼にして、「チャンスのあるところを探さないと、生き残っていくことができなかった」。
私のような凡人はなおさらという意味。
以下は、木村拓也(きむら・たくや)のプロフィール。
おもにウィキペディアによった。
1991年にドラフト外で日本ハムファイターズに入団した。
県立宮崎南高校時代には強肩捕手として鳴らし、5打席連続三塁打の珍しい記録も持つ。
だが、プロ野球界からはたいした注目を集めなかった。
1992年に俊足と強肩を生かせる外野手へ転向した。
1995年に交換トレードで移籍した広島東洋カープで内野手を兼ねるようになった。
1997年にスイッチヒッターへ転向した。
2000年に1番打者として規定打席に到達し、その後は3年連続でレギュラーとして好成績を記録した。
やがてコンパクトに構えてセンター返しを心がけるシュアな打撃に磨きをかけていった。
が、相次ぐ故障や若手の台頭などにより出場機会が減った。
2006年に交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍した。
そして守備だけでなく打撃でも活躍した。
また、代打として貴重な働きも多かった。
2008年に2番、二塁のレギュラーとして充実したシーズンを送った。
2009年に若手との競争が激しくなり、自身も調子を落として出場機会が減った。
以上。
なお、現役引退を伝える新聞は「木村拓也内野手」と記していた。
「日本一になってうれしい気持ちと、野球をやらなくていいというほっとした気持ちの両方がある」。
苦労人の率直な感慨だ。
…何だ、読売ジャイアンツでの仕事が待ち受けていた。
休む間もなく一軍内野守備走塁コーチを務める。
あれだけの闘志と経験、技術を、プロ野球界が放っておくはずがない。
実力のある人は引っ張り凧になるのが世の中だ。
還暦間近の私はこれまでの人生を悔いるばかり。
◇
元祖「キムタク」といえば、木村拓哉(きむら・たくや)。
ジャニーズ事務所に所属、男性アイドルグループSMAPのメンバー、そして俳優。
やはり名言がある。
「手を抜くほうが疲れる」。
こんな言葉を気負いもなく口にするとは、木村拓哉は最初から成功が約束されていたのかもしれない。
凡人には遠く及ばない人生観、職業観である。
私などは疲労や体調を自分への言い訳にし、簡単にセーブしてしまう。
つねに全力を傾けるのは、プロの証だ。
「俺は、惜しいっていう言葉が世界で一番嫌いなんだよ」。
これも名言である。
できることをこなしていたら、惜しいという事態は起こらない。
木村拓哉の生き方や働き方の根っこには、“挑戦”の精神が横たわっている。
しかも、それをやり遂げないと気が済まない。
惜しいという言葉を自分への慰めにしたくないのだ。
成功者の共通点、“負けず嫌い”を木村拓哉は持つ。
かたや、「ヤバイ」という言葉をしばしば発する。
危機意識が強い。
「手を抜くほうが疲れる」。
「俺は、惜しいっていう言葉が世界で一番嫌いなんだよ」。
「ヤバイ」。
これらは木村拓哉のなかで一点につながっている。
そう、目的遂行への強烈な希求。
木村拓哉は、主演ドラマのほとんどが20パーセントを超える高視聴率をマークしているらしい。
「スーパーアイドル」という呼称がぴったり。
テレビドラマを見ない私は、木村拓哉のCMでの演技が印象に残っている。
女性だけでなく、男にも好かれそう。
また、幅広い年齢層に好かれそう。
CMに引っ張り凧になるわけだ。
浮き沈みの激しい芸能界で、長期にわたりトップクラスの人気を保つ。
甘いマスクの向こう側に努力する意志がきらりと光る。
もっともSMAPのメンバー全員が凄いのだが…。
単なるアイドルを超え、それぞれが自分の持ち味を尖らせながら活躍の場を切り開いていった。
切磋琢磨。
「チャンスのあるところを探さないと、生き残っていくことができなかった」。
将来、白髪のメンバーが穏やかに芸能生活を振り返る日がやってくるのだろうか…。
⇒和田創講演TV人生編「名言好きなあなたへ」はこちら。
4分41秒の講話映像、ユーチューブの動画。
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そこには彼の半生の生き様と実感が詰まっていた。
しびれる名言…。
ただし、“ながら視聴”なのでうろ覚え。
「チャンスのあるところを探さないと、生き残っていくことができなかった」。
凡人の私は、ほんとうにそのとおりだと思う。
しかし、こうしたことを強く自覚して働きとおせる人はいったいどれくらいいるだろう?
「キムタク」の愛称で親しまれた木村拓也は1991年に日本ハムファイターズに捕手として入団したが、まもなく限界を察し、出番を求めて外野手へ転向した。
とはいえ、レギュラー争いは熾烈を極める。
自分の能力では定位置は取れないと肝に銘じる。
球団はそのシーズンやそのときどきで、選手の不足や故障、不調などにより手薄なポジションが生じることがある。
木村拓也はそうしたポジションを見逃さず、全力で守るようになった。
「チャンスのあるところを探さないと、生き残っていくことができなかった」。
そのなりふり構わぬ実践が、ピッチャー以外の全ポジションにつくことにつながった。
アマチュア野球ならともかく、プロ野球では凄いこと。
木村拓也は「ユーティリティープレーヤー」として重宝がられた。
実際の試合では想定外のハプニングがまま起こる。
どこでも守れる選手が一人いれば、監督は心強い。
しかも打撃も走塁も肩もそれなり。
木村拓也は、自分の置かれたチーム内の立場を分かったうえで、働き場所を貪欲に追い求めた。
そして、つねに何らかの価値と存在感を示した。
結局、木村拓也は37歳まで現役を続けることができた。
最後は読売ジャイアンツ(読売巨人軍)で日本一を達成し、ユニフォームを脱いだ。
インタビューに答える晴れやかな笑顔に、自分の持ち味を生かし切ったという満足感が見て取れる。
素晴らしいではないか。
そのうちどこかの球団から守備コーチのお声がかかるかもしれない。
野球人生が終わったわけでなく、息は長そう…。
木村拓也の選手生活は、サラリーマンに限らず、社会人が幸せで豊かな職業人生を全うするヒントそのものだ。
いや、奥義に通じる。
先の監督は経営者や上司、チームは会社や職場、ポジションは地位や仕事と置き換えればよい。
誤解が生じるといけないので…。
木村拓也は凡人でない。
才能があり、だからプロ野球界に入れた。
その彼にして、「チャンスのあるところを探さないと、生き残っていくことができなかった」。
私のような凡人はなおさらという意味。
以下は、木村拓也(きむら・たくや)のプロフィール。
おもにウィキペディアによった。
1991年にドラフト外で日本ハムファイターズに入団した。
県立宮崎南高校時代には強肩捕手として鳴らし、5打席連続三塁打の珍しい記録も持つ。
だが、プロ野球界からはたいした注目を集めなかった。
1992年に俊足と強肩を生かせる外野手へ転向した。
1995年に交換トレードで移籍した広島東洋カープで内野手を兼ねるようになった。
1997年にスイッチヒッターへ転向した。
2000年に1番打者として規定打席に到達し、その後は3年連続でレギュラーとして好成績を記録した。
やがてコンパクトに構えてセンター返しを心がけるシュアな打撃に磨きをかけていった。
が、相次ぐ故障や若手の台頭などにより出場機会が減った。
2006年に交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍した。
そして守備だけでなく打撃でも活躍した。
また、代打として貴重な働きも多かった。
2008年に2番、二塁のレギュラーとして充実したシーズンを送った。
2009年に若手との競争が激しくなり、自身も調子を落として出場機会が減った。
以上。
なお、現役引退を伝える新聞は「木村拓也内野手」と記していた。
「日本一になってうれしい気持ちと、野球をやらなくていいというほっとした気持ちの両方がある」。
苦労人の率直な感慨だ。
…何だ、読売ジャイアンツでの仕事が待ち受けていた。
休む間もなく一軍内野守備走塁コーチを務める。
あれだけの闘志と経験、技術を、プロ野球界が放っておくはずがない。
実力のある人は引っ張り凧になるのが世の中だ。
還暦間近の私はこれまでの人生を悔いるばかり。
◇
元祖「キムタク」といえば、木村拓哉(きむら・たくや)。
ジャニーズ事務所に所属、男性アイドルグループSMAPのメンバー、そして俳優。
やはり名言がある。
「手を抜くほうが疲れる」。
こんな言葉を気負いもなく口にするとは、木村拓哉は最初から成功が約束されていたのかもしれない。
凡人には遠く及ばない人生観、職業観である。
私などは疲労や体調を自分への言い訳にし、簡単にセーブしてしまう。
つねに全力を傾けるのは、プロの証だ。
「俺は、惜しいっていう言葉が世界で一番嫌いなんだよ」。
これも名言である。
できることをこなしていたら、惜しいという事態は起こらない。
木村拓哉の生き方や働き方の根っこには、“挑戦”の精神が横たわっている。
しかも、それをやり遂げないと気が済まない。
惜しいという言葉を自分への慰めにしたくないのだ。
成功者の共通点、“負けず嫌い”を木村拓哉は持つ。
かたや、「ヤバイ」という言葉をしばしば発する。
危機意識が強い。
「手を抜くほうが疲れる」。
「俺は、惜しいっていう言葉が世界で一番嫌いなんだよ」。
「ヤバイ」。
これらは木村拓哉のなかで一点につながっている。
そう、目的遂行への強烈な希求。
木村拓哉は、主演ドラマのほとんどが20パーセントを超える高視聴率をマークしているらしい。
「スーパーアイドル」という呼称がぴったり。
テレビドラマを見ない私は、木村拓哉のCMでの演技が印象に残っている。
女性だけでなく、男にも好かれそう。
また、幅広い年齢層に好かれそう。
CMに引っ張り凧になるわけだ。
浮き沈みの激しい芸能界で、長期にわたりトップクラスの人気を保つ。
甘いマスクの向こう側に努力する意志がきらりと光る。
もっともSMAPのメンバー全員が凄いのだが…。
単なるアイドルを超え、それぞれが自分の持ち味を尖らせながら活躍の場を切り開いていった。
切磋琢磨。
「チャンスのあるところを探さないと、生き残っていくことができなかった」。
将来、白髪のメンバーが穏やかに芸能生活を振り返る日がやってくるのだろうか…。
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