3カ月以上前、このブログで「国母和宏(こくぼ・かずひろ)」に触れた。
バンクーバー冬季五輪で引き起こした一連の問題を取り上げたものでない。
私は彼を見て「アウトサイダー」という言葉を思い出し、それについて述べたかった。
⇒2010年3月2日「国母和宏…伝統の夏季、革新の冬季」はこちら。
⇒2010年3月8日「国母和宏…アウトサイダーの危うさ」はこちら。
しかし、当時、3名の読者から真剣なコメントが寄せられた。
この問題に対する世間の関心の大きさ、反響の凄まじさを感じた。
1名については「国母和宏…アウトサイダーの危うさ」で紹介した。
ずいぶん時間が経ってしまったが、2名について紹介したい。
なお、このブログは、数カ月から1年くらい前に書いた素材を仕上げてアップしていることがある。
そうでない記事についても、数日から1カ月ほどの書き溜めということが多い。
◇
「夢鳥@東京調布ジャンプ少年団」氏のコメントは以下のとおり。
ご自身はヤフーブログを用いている。
はじめまして。
一連のエントリーを拝読し、大変勉強になりました。
ありがとうございました。
國母選手に対して二宮清純氏が「だれに対する反骨心なのか?」と評していましたが、それにも同感です。
エベレストの鉄人、三浦雄一郎氏はスピードレースに出場したために五輪資格をはく奪されました。
しかし、その反骨心が冒険スキーを切り拓いたわけで、とても尊敬しております。
◇
三原淳氏のコメントは以下のとおり。
私が暮らす団地の近く、横浜市営地下鉄グリーンライン北山田駅のそばにオフィスを構える社長である。
国母君は前回のトリノ冬季五輪のときには、朴とつとしたかわいい少年だった。
この4年間で別人のように変わってしまったんです。
彼をこうしてしまった親を含めた大人が悪いのでしょう。
僕は彼を責めません。
きっと理解不能でしょう。
然るべき教育を子どものときから受けてないんですよ。
私の息子たちもアルペンスキーをやっています。
チームは先輩と後輩の上下関係もしっかりしています。
コーチやスタッフ、父兄を敬う教育も行っています。
リフトに乗るときは「お願いします!」。
降りるときは「ありがとうございました!」。
大声でリフト係員に挨拶します。
合宿にはDSなどのゲームは持ち込み禁止です。
また、宿題を持ち込み、その時間を設けて高学年は低学年に教えます。
朝・昼・晩の食事を残すことは禁止です。
息子たちは団体生活を営むことにより多くのことを学びます。
私は、スキーの腕を上げるには個人で取り組むほうが効率的だと分かっています。
例えば、親と二人三脚で行う、有名コーチにベタで付いてもらう。
でも、チームで練習を行うからこそ学べることがあるのもよく分かっています。
自分だけでなく仲間が勝ったときは一緒に喜び、負けたときは一緒に悔しがる。
相手を称えたり、相手をいたわったり、そういうところだって個人では学べませんね。
私の中学時代は“部活”に参加することが必須でした。
いまはそうではない。
その弊害は今回の件に留まらず、いたるところで感じられます。
私の考える「教育改革」はここからだとおもうのですが…。
◇
以上。
ナイスコメント、まことにありがとうございます。
私は、お二方に異論はない。
二宮清純は、信頼の置けるスポーツライター、切れ味の鋭いスポーツコメンテーターである。
「だれに対する反骨心なのか?」。
私は、彼の直感というか分析の的確さに感心する。
しかし、それが分かっていたら、国母和宏はあんな態度を取らない。
アウトサイダーはうまく気持ちをコントロールできず、考えを筋道立てられない。
胸の内、頭の内はもやもやしている。
自分があまり分かっていない。
また、チーム練習や団体生活の経験は、私たちの人間的な成長、社会的な成長を促すうえで非常に貴重だろう。
私は長らく企業研修の講師を務めてきたが、そこで感じるのは「組織風土」の違いの大きさである。
セミナールームに入る際、企業によっては深々と一礼する、大声で「入ります!」と挨拶する。
あるいは、開講時に社旗に一礼する、社歌を斉唱する、社訓を唱和する。
ほかにも、さまざまだ。
これまでの経験では、こうした会社は概して業績がよい。
かたや、最低限の「躾(しつけ)」さえできていない職場が珍しくない。
躾は「身が美しい」と書く。
概して業績が悪い。
組織における規律や礼儀は依然として重要である。
ところで、国母和宏は3月に開催されたUSオープンで優勝した。
バンクーバー冬季五輪金メダリストのショーン・ホワイトは出場していなかった。
トリノ冬季五輪に続いて2連覇。
が、銀メダリストのぺートゥ・ピロイネンと銅メダリストのスコット・ラゴを抑え、本人はしてやったり。
例の問題を引きずっていたのか、「もっともほしい優勝だった」とマスコミに語った。
精一杯の強がり。
優勝賞金は2千万円らしい。
また、インターネット上では国母和宏の年収に関する憶測が流れている。
私に言わせれば、日本の第一人者、世界の一流プレイヤーに上り詰めて、その程度の金額かと思う。
しかも、選手生命は短い。
待遇の低さは、この競技に対する世間の評価の低さだろう。
社会から「スポーツ」と見なされたのは比較的最近でないか(不確か)。
大けがの危険性と隣り合わせの競技であり、反骨精神を持っていなくてはこの道に突き進めない。
スノーボード・ハーフパイプにのめり込んできた自分の地位の低さは、彼を失望させているのかもしれない。
実績を残しても、周囲から敬われないのでは…。
私は、突っ張りより“苛立ち”を感じる。
満たされない気持ちが表情や態度に出てしまっている。
努力が認められない、報われない人に特有だ。
続きはあした。
◇◆◇
以下に、「国母和宏…伝統の夏季、革新の冬季」と題する2010年3月2日のブログを収める。
バンクーバーオリンピックで印象に残ったのは…(私がこれまで気づかなかっただけの話かもしれない)。
古典的な競技が大部分を占める夏季五輪と比べ、冬季五輪はゲーム感覚の競技が次々と生まれていること。
全体に「遊び」の要素が横溢している。
それはユニフォームやギア(競技道具)などにも…。
ファッション性が断然高い。
冬季五輪には華やかさがあり、しかも年々増している。
選手の背景や舞台がたいてい白なので、とてもよく映える。
行き過ぎはいけないが、それはそれで楽しみの一つだ。
参加国の地理的特性や気候条件のハンディが少ない夏季五輪。
世界中から選手が集う。
国際レベルのスポーツイベントに関しては肥大化を懸念する声も聞こえるが、4年に1度の祭典である。
夏季五輪は保守一辺倒でなく、活性化が図られてよい。
競技人口ははるかに多いはずであり、出場のハードルがあまりに高い。
そのせいか、冬季五輪より連続出場が断然少ない(不確か)。
競技種目の拡大と会期の延長を考えてみてはどうか?
夏季五輪は、冬季五輪に「クリエイティビティ」の面で大きな後れを取りそうだ。
◇
あえて言えば、伝統の夏季に対し、革新の冬季。
スノーボード・ハーフパイプの国母和宏(こくぼ・かずひろ)が引き起こした問題は、こうした傾向の延長線上にある。
公式ユニフォーム(スーツ)の着こなしについては規定があり、それを乱した以上は本人に非があるが…。
また、態度は決して褒められたものでない。
しかし、新時代を切り開くのは、いつだってアウトサイダーだ。
うっせーな、文句あっか。
◇◆◇
以下に、「国母和宏…アウトサイダーの危うさ」と題する2010年3月8日のブログを収める。
先日のブログ「国母和宏…伝統の夏季、革新の冬季」に関して、マイミクのJK(加東仁)氏からコメントが寄せられた。
リアルの友人でもある。
スノボの国母和宏選手の件。
日本の代表選手としてはまことにお粗末な話だと思っています。
これは競技の歴史に違いがあるかもしれません。
小生が知っているレスリング・柔道・水泳などは学校の部活から始まり、いわば教育の一環としての側面が大切にされてきました。
もちろんいろいろな選手がいますが、自分が代表選手となったときにまず自覚するのは、ぎりぎりまで競ってきた国内のライバルたち。
彼らのことを考えると、本番の成果以外に余計なことで左右されまいと身を正します。
実際、レス協指導者で金メダリストだった強化委員長は、彼の態度に激怒しています。
国母選手は父君にスノボを伝授され、二人三脚で鍛錬してトップになったようです。
そしてプロですね。
勝てばOKという考えは構いませんが、個人資格の大会ならいざ知らず、国費により代表として参加することは彼の頭のなかになかったのでしょう。
メダルを取っていたら評価も変わったかもしれませんけれど…。
今大会でアメリカの選手が銅メダルを下腹部にかけ、それをファンにキスさせるおふざけをしました。
しかし、直ちに協会からの怒りが伝わって自主帰国、反省しているそうです。
小生はオリンピックではありませんが、学生のナショナルチームを連れて海外試合に行ったことがあります。
彼らには「試合以外の場では、恥ずかしくない服装と態度に心がけること。日の丸をつけてバカやチンピラだと思われるな」と説きました。
以上。
私は同感。
◇
私は先日のブログで国母和宏に絡めて「アウトサイダー」という言葉を使った。
少し補いたい。
アウトサイダーをかっこいいと思うかどうかは、人それぞれの自由である。
が、アウトサイダーだから正しいというロジックは成り立たない。
その多くは、外しているのでないか。
例えば、傍流であり、異端であり、不良であり、野良猫であり、破壊者である。
私自身、アウトサイダーという自覚を持って生きてきた。
とりわけ30代前半まで…。
私は昔、社会に馴染めず、居場所を見つけられなかった。
一番困ったのは、職場を得られなかったこと。
フリーランスの走りにならざるをえなかった。
要は、世間とまったくかみ合わない。
恐らくアウトサイダーはみじめであり、孤独である。
ときに鼻つまみ。
私がそうだったように、大半は仕事につきにくく、経済的に恵まれない。
アウトサイダーのなかで活躍の場をつくり出せるのは、ほんの一握りの例外だろう。
したがって、ひねくれたりすさんだりしやすい。
それが、アウトサイダーの姿。
私は周りに合わせられるなら、出来合いの枠組みに収まれるなら、どんなに楽だろうと考えていた。
それが普通にできる人々がうらやましかった。
同世代の勤め人には負い目さえ感じた。
前妻は東京女子大学を卒業した。
仲間が、いわゆる一流大学を卒業して一流企業に就職した人と結婚するなかで、明治大学を中退して仕事にあぶれた私を選択した。
自身も職場に溶け込めず、私の気持ちは分かってくれていたのでは…。
アウトサイダーそのものは正義でも善でもない。
ただ、彼らのなかから新しい芽が生まれたり新しいうねりが出てきたりするのは確かだ。
時代を切り開くのはアウトサイダー、社会を変えるのはアウトサイダーだろう。
私がプランナーの道を歩んだのも、息が詰まりそうな世間や退屈極まりない日常を何とかしたかったのかもしれない。
目に触れる光景が面白くなかったのだ。
なお、私は、人の評価は結果によると思う。
だが、仮に国母和宏が今大会で日本唯一の金メダルを取り、絶大な称賛を浴びたとしても、彼に対する私の判断は変わらない。
非は非。
結果により、それが正当化されるなどありえない。
国母和宏は、出国時の身だしなみや記者会見での対応など、叱責を受けて当然だ。
しかし、それ以外のところで、彼に憎悪を募らせることもない。
スノーボードにのめり込み、才能を伸ばしてきた青年だ。
素晴らしいではないか。
また、先日のブログで述べたとおり、この競技(種目)の生い立ちも踏まえてあげるべきだろう。
アウトサイダーの自己表現であり自己主張なのだ。
美学と矜持!
国母和宏は社会的な制裁を十分に受けており、行き過ぎたバッシングはどうか。
彼が潰れなければよいが…。
私は、冬季五輪、あるいはスポーツ全般におけるゲームやファッション、遊びの要素など「クリエイティビティ」の高揚へ目を向けた延長で語った。
私が国母和宏問題でもっとも痛切に感じたのは、我が国の教育の衰退、そして貧困である。
それは学校に限らず、家庭や社会も…。
コーチを含めた周りは何の注意も与えなかったのか。
とても不思議だ。
◇◆◇
私が尊敬する三浦雄一郎に関するブログは以下のとおり。
言葉と生き様を取りあげた。
⇒2009年6月28日「三浦雄一郎(講演TV賢人編)」はこちら。
Copyright (c)2010 by Sou Wada
←応援、よろしく!
バンクーバー冬季五輪で引き起こした一連の問題を取り上げたものでない。
私は彼を見て「アウトサイダー」という言葉を思い出し、それについて述べたかった。
⇒2010年3月2日「国母和宏…伝統の夏季、革新の冬季」はこちら。
⇒2010年3月8日「国母和宏…アウトサイダーの危うさ」はこちら。
しかし、当時、3名の読者から真剣なコメントが寄せられた。
この問題に対する世間の関心の大きさ、反響の凄まじさを感じた。
1名については「国母和宏…アウトサイダーの危うさ」で紹介した。
ずいぶん時間が経ってしまったが、2名について紹介したい。
なお、このブログは、数カ月から1年くらい前に書いた素材を仕上げてアップしていることがある。
そうでない記事についても、数日から1カ月ほどの書き溜めということが多い。
◇
「夢鳥@東京調布ジャンプ少年団」氏のコメントは以下のとおり。
ご自身はヤフーブログを用いている。
はじめまして。
一連のエントリーを拝読し、大変勉強になりました。
ありがとうございました。
國母選手に対して二宮清純氏が「だれに対する反骨心なのか?」と評していましたが、それにも同感です。
エベレストの鉄人、三浦雄一郎氏はスピードレースに出場したために五輪資格をはく奪されました。
しかし、その反骨心が冒険スキーを切り拓いたわけで、とても尊敬しております。
◇
三原淳氏のコメントは以下のとおり。
私が暮らす団地の近く、横浜市営地下鉄グリーンライン北山田駅のそばにオフィスを構える社長である。
国母君は前回のトリノ冬季五輪のときには、朴とつとしたかわいい少年だった。
この4年間で別人のように変わってしまったんです。
彼をこうしてしまった親を含めた大人が悪いのでしょう。
僕は彼を責めません。
きっと理解不能でしょう。
然るべき教育を子どものときから受けてないんですよ。
私の息子たちもアルペンスキーをやっています。
チームは先輩と後輩の上下関係もしっかりしています。
コーチやスタッフ、父兄を敬う教育も行っています。
リフトに乗るときは「お願いします!」。
降りるときは「ありがとうございました!」。
大声でリフト係員に挨拶します。
合宿にはDSなどのゲームは持ち込み禁止です。
また、宿題を持ち込み、その時間を設けて高学年は低学年に教えます。
朝・昼・晩の食事を残すことは禁止です。
息子たちは団体生活を営むことにより多くのことを学びます。
私は、スキーの腕を上げるには個人で取り組むほうが効率的だと分かっています。
例えば、親と二人三脚で行う、有名コーチにベタで付いてもらう。
でも、チームで練習を行うからこそ学べることがあるのもよく分かっています。
自分だけでなく仲間が勝ったときは一緒に喜び、負けたときは一緒に悔しがる。
相手を称えたり、相手をいたわったり、そういうところだって個人では学べませんね。
私の中学時代は“部活”に参加することが必須でした。
いまはそうではない。
その弊害は今回の件に留まらず、いたるところで感じられます。
私の考える「教育改革」はここからだとおもうのですが…。
◇
以上。
ナイスコメント、まことにありがとうございます。
私は、お二方に異論はない。
二宮清純は、信頼の置けるスポーツライター、切れ味の鋭いスポーツコメンテーターである。
「だれに対する反骨心なのか?」。
私は、彼の直感というか分析の的確さに感心する。
しかし、それが分かっていたら、国母和宏はあんな態度を取らない。
アウトサイダーはうまく気持ちをコントロールできず、考えを筋道立てられない。
胸の内、頭の内はもやもやしている。
自分があまり分かっていない。
また、チーム練習や団体生活の経験は、私たちの人間的な成長、社会的な成長を促すうえで非常に貴重だろう。
私は長らく企業研修の講師を務めてきたが、そこで感じるのは「組織風土」の違いの大きさである。
セミナールームに入る際、企業によっては深々と一礼する、大声で「入ります!」と挨拶する。
あるいは、開講時に社旗に一礼する、社歌を斉唱する、社訓を唱和する。
ほかにも、さまざまだ。
これまでの経験では、こうした会社は概して業績がよい。
かたや、最低限の「躾(しつけ)」さえできていない職場が珍しくない。
躾は「身が美しい」と書く。
概して業績が悪い。
組織における規律や礼儀は依然として重要である。
ところで、国母和宏は3月に開催されたUSオープンで優勝した。
バンクーバー冬季五輪金メダリストのショーン・ホワイトは出場していなかった。
トリノ冬季五輪に続いて2連覇。
が、銀メダリストのぺートゥ・ピロイネンと銅メダリストのスコット・ラゴを抑え、本人はしてやったり。
例の問題を引きずっていたのか、「もっともほしい優勝だった」とマスコミに語った。
精一杯の強がり。
優勝賞金は2千万円らしい。
また、インターネット上では国母和宏の年収に関する憶測が流れている。
私に言わせれば、日本の第一人者、世界の一流プレイヤーに上り詰めて、その程度の金額かと思う。
しかも、選手生命は短い。
待遇の低さは、この競技に対する世間の評価の低さだろう。
社会から「スポーツ」と見なされたのは比較的最近でないか(不確か)。
大けがの危険性と隣り合わせの競技であり、反骨精神を持っていなくてはこの道に突き進めない。
スノーボード・ハーフパイプにのめり込んできた自分の地位の低さは、彼を失望させているのかもしれない。
実績を残しても、周囲から敬われないのでは…。
私は、突っ張りより“苛立ち”を感じる。
満たされない気持ちが表情や態度に出てしまっている。
努力が認められない、報われない人に特有だ。
続きはあした。
◇◆◇
以下に、「国母和宏…伝統の夏季、革新の冬季」と題する2010年3月2日のブログを収める。
バンクーバーオリンピックで印象に残ったのは…(私がこれまで気づかなかっただけの話かもしれない)。
古典的な競技が大部分を占める夏季五輪と比べ、冬季五輪はゲーム感覚の競技が次々と生まれていること。
全体に「遊び」の要素が横溢している。
それはユニフォームやギア(競技道具)などにも…。
ファッション性が断然高い。
冬季五輪には華やかさがあり、しかも年々増している。
選手の背景や舞台がたいてい白なので、とてもよく映える。
行き過ぎはいけないが、それはそれで楽しみの一つだ。
参加国の地理的特性や気候条件のハンディが少ない夏季五輪。
世界中から選手が集う。
国際レベルのスポーツイベントに関しては肥大化を懸念する声も聞こえるが、4年に1度の祭典である。
夏季五輪は保守一辺倒でなく、活性化が図られてよい。
競技人口ははるかに多いはずであり、出場のハードルがあまりに高い。
そのせいか、冬季五輪より連続出場が断然少ない(不確か)。
競技種目の拡大と会期の延長を考えてみてはどうか?
夏季五輪は、冬季五輪に「クリエイティビティ」の面で大きな後れを取りそうだ。
◇
あえて言えば、伝統の夏季に対し、革新の冬季。
スノーボード・ハーフパイプの国母和宏(こくぼ・かずひろ)が引き起こした問題は、こうした傾向の延長線上にある。
公式ユニフォーム(スーツ)の着こなしについては規定があり、それを乱した以上は本人に非があるが…。
また、態度は決して褒められたものでない。
しかし、新時代を切り開くのは、いつだってアウトサイダーだ。
うっせーな、文句あっか。
◇◆◇
以下に、「国母和宏…アウトサイダーの危うさ」と題する2010年3月8日のブログを収める。
先日のブログ「国母和宏…伝統の夏季、革新の冬季」に関して、マイミクのJK(加東仁)氏からコメントが寄せられた。
リアルの友人でもある。
スノボの国母和宏選手の件。
日本の代表選手としてはまことにお粗末な話だと思っています。
これは競技の歴史に違いがあるかもしれません。
小生が知っているレスリング・柔道・水泳などは学校の部活から始まり、いわば教育の一環としての側面が大切にされてきました。
もちろんいろいろな選手がいますが、自分が代表選手となったときにまず自覚するのは、ぎりぎりまで競ってきた国内のライバルたち。
彼らのことを考えると、本番の成果以外に余計なことで左右されまいと身を正します。
実際、レス協指導者で金メダリストだった強化委員長は、彼の態度に激怒しています。
国母選手は父君にスノボを伝授され、二人三脚で鍛錬してトップになったようです。
そしてプロですね。
勝てばOKという考えは構いませんが、個人資格の大会ならいざ知らず、国費により代表として参加することは彼の頭のなかになかったのでしょう。
メダルを取っていたら評価も変わったかもしれませんけれど…。
今大会でアメリカの選手が銅メダルを下腹部にかけ、それをファンにキスさせるおふざけをしました。
しかし、直ちに協会からの怒りが伝わって自主帰国、反省しているそうです。
小生はオリンピックではありませんが、学生のナショナルチームを連れて海外試合に行ったことがあります。
彼らには「試合以外の場では、恥ずかしくない服装と態度に心がけること。日の丸をつけてバカやチンピラだと思われるな」と説きました。
以上。
私は同感。
◇
私は先日のブログで国母和宏に絡めて「アウトサイダー」という言葉を使った。
少し補いたい。
アウトサイダーをかっこいいと思うかどうかは、人それぞれの自由である。
が、アウトサイダーだから正しいというロジックは成り立たない。
その多くは、外しているのでないか。
例えば、傍流であり、異端であり、不良であり、野良猫であり、破壊者である。
私自身、アウトサイダーという自覚を持って生きてきた。
とりわけ30代前半まで…。
私は昔、社会に馴染めず、居場所を見つけられなかった。
一番困ったのは、職場を得られなかったこと。
フリーランスの走りにならざるをえなかった。
要は、世間とまったくかみ合わない。
恐らくアウトサイダーはみじめであり、孤独である。
ときに鼻つまみ。
私がそうだったように、大半は仕事につきにくく、経済的に恵まれない。
アウトサイダーのなかで活躍の場をつくり出せるのは、ほんの一握りの例外だろう。
したがって、ひねくれたりすさんだりしやすい。
それが、アウトサイダーの姿。
私は周りに合わせられるなら、出来合いの枠組みに収まれるなら、どんなに楽だろうと考えていた。
それが普通にできる人々がうらやましかった。
同世代の勤め人には負い目さえ感じた。
前妻は東京女子大学を卒業した。
仲間が、いわゆる一流大学を卒業して一流企業に就職した人と結婚するなかで、明治大学を中退して仕事にあぶれた私を選択した。
自身も職場に溶け込めず、私の気持ちは分かってくれていたのでは…。
アウトサイダーそのものは正義でも善でもない。
ただ、彼らのなかから新しい芽が生まれたり新しいうねりが出てきたりするのは確かだ。
時代を切り開くのはアウトサイダー、社会を変えるのはアウトサイダーだろう。
私がプランナーの道を歩んだのも、息が詰まりそうな世間や退屈極まりない日常を何とかしたかったのかもしれない。
目に触れる光景が面白くなかったのだ。
なお、私は、人の評価は結果によると思う。
だが、仮に国母和宏が今大会で日本唯一の金メダルを取り、絶大な称賛を浴びたとしても、彼に対する私の判断は変わらない。
非は非。
結果により、それが正当化されるなどありえない。
国母和宏は、出国時の身だしなみや記者会見での対応など、叱責を受けて当然だ。
しかし、それ以外のところで、彼に憎悪を募らせることもない。
スノーボードにのめり込み、才能を伸ばしてきた青年だ。
素晴らしいではないか。
また、先日のブログで述べたとおり、この競技(種目)の生い立ちも踏まえてあげるべきだろう。
アウトサイダーの自己表現であり自己主張なのだ。
美学と矜持!
国母和宏は社会的な制裁を十分に受けており、行き過ぎたバッシングはどうか。
彼が潰れなければよいが…。
私は、冬季五輪、あるいはスポーツ全般におけるゲームやファッション、遊びの要素など「クリエイティビティ」の高揚へ目を向けた延長で語った。
私が国母和宏問題でもっとも痛切に感じたのは、我が国の教育の衰退、そして貧困である。
それは学校に限らず、家庭や社会も…。
コーチを含めた周りは何の注意も与えなかったのか。
とても不思議だ。
◇◆◇
私が尊敬する三浦雄一郎に関するブログは以下のとおり。
言葉と生き様を取りあげた。
⇒2009年6月28日「三浦雄一郎(講演TV賢人編)」はこちら。
Copyright (c)2010 by Sou Wada
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