私は先々週から先週にかけ、息をつく暇もない状態でした。
おもに昼間は教育指導の仕事に当たり、夜間はホテルと書斎でクライアントからの受託業務の締め切りに追われました。
疲労が溜まり、背中の張りと腰の痛みに苦しみました。

途中、(2013年)9月11日、福岡でのセミナーの終了後、妻が「父が老衰で永眠した」と知らせてくれました。
昼頃に亡くなっていましたが、私に伏せていました。
10月に満94歳を迎えるところでしたので、大往生と呼べるでしょう。

私は40代後半に講師の道を本格的に歩みはじめた際、父母に「親の死に目に会えない仕事」と告げました。
両親はむしろそれを誇らしく思っているようでした。
なかでも父は、私の顔写真やセミナー(講演)内容などが記されたパンフレット、新聞・雑誌での案内(広告)を近所や職場の方々、親戚に見せて回ったようです。
つきあわされた人は興味を感じるはずもなく、さぞかし迷惑だったことでしょう。

父は、エリート意識が強く、プライドが高い人でした。
自分がボケることを何よりも恐れ、もっとも恥じていました。
昔、祖母が深夜に国道8号線を徘徊し、交通事故で痛ましい最期を遂げました。
父は痴呆の家系だということを自覚していました。

私は2000年夏(不確か)、老いた両親を富山・滑川から横浜・港北ニュータウンに呼び寄せました。
2年後(不確か)、私は父の様子に明らかな異変を感じました。
それでも父は母に対し、私に心配をかけるからそうした症状を話さないように命じていました。
周りはとうに気づいていましたが、父はボケをだれにも隠し通そうとしました。

しかし、痴呆が一気に深刻化しました。
体は元気で、力がみなぎっていましたので、家族の手に負えなくなりました。
父は施設に入所してほどなく、富山から見舞いに訪れる妹のことが分からなくなりました。
あんなに可愛がっていたのに…。
妹は落胆して帰っていきました。
まして、横浜で身の回りの世話をした妻のことは真っ先に分からなくなりました。
妻は私に代わり、骨を折ってくれました。
面倒なこと、大変なことは、一手に引き受けたのです。

私は妹と十歳、年齢が離れていましたので、施設で話しかけると、父はかすかに反応を示しました。
が、それも数年前まででした。
父は入所後に体力が衰え、動くこと、やがて立つことができなくなりました。
そして、食事の時間のほかは植物人間のように眠りこけていました。

私は父の訃報に接し、ほっとしました。
父は、本能に近い生命力だけで生きながらえている状態でした。
いつ亡くなっても不思議でないと、何年か前に医者から告げられていました。
私は、廃人となった父を見るたび、本人は非常に不本意だろうと、複雑な思いを抱いてきました。
頭が確かなときに「尊厳死」が選べるなら、父は迷わずにそうしたと断言できます。
ただし、私は、痴呆後の父を支えてくれた施設や病院の方々の尽力に感謝こそすれ、それを否定するわけでありません。
心よりお礼を申しあげます。

父は、痴呆を除き、悪いところがありませんでした。
人生で病気らしい病気を経験していません。
骨が丈夫で、自分の歯でした。虫歯も見つかりません。
私が仕事に相当な無理が利くのも、父親譲りの健康と体力のせいです。
父がボケなければ、優に百歳を超えて生きたと思います。

ところで、母は2005年9月7日に他界しました。
父を誇りにしていた母は、老いと痴呆がひどくなる父にいら立ち、声を荒げました。
ときに激しく罵りました。
人は長く生きるにつれ、不甲斐ない姿をさらすようになります。
自らのガンの進行に苦しんでいた母は、父の醜態に我慢がならなかったのでしょう。

母はもともと気性が激しく、冷静で淡々としたところのある父と一緒になったおかげで、自分をかろうじてコントロールできました。
対照的な性格は、夫婦の妙といえます。
その両親の最大の共通点は「子煩悩」でした。
家族の生活を守ろうと、必死に働きつづけました。
体が強くなかった母は病気や苦痛と闘いながらでした。
また、長男と長女の組み合わせであり、二人とも兄弟に負けたくないとの気持ちが大きかったのでないでしょうか。
私には過剰と思えるエリート意識やプライドは、育てられた環境が主因かもしれません。

この世ではいろいろありましたが、二人はとにかく仲がよかった・・・。
わがままな母は「来るのが遅い」と怒っていたはずです。
これでまた父と新しい暮らしを始められます。
そう思うと、私は喜ばずにいられません。

Copyright (c)2013 by Sou Wada

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