コンサルの引き出し|和田創ブログ

だれの目の前にも可能性の地平は広がる。それを切り拓けるかどうかは自分次第である。

伊那中学校

恥ずかしながら木曽は岐阜かと・・・

インターネットで調べものをしているとき、たまたま木曽が長野ということを知りました。
なぜでしょう、ずっと岐阜と思い込んでいました。
お恥ずかしい。

私は長野県伊那市に1963年3月20日頃(うろ覚え)から1965年10月20頃まで暮らしました。
伊那市立伊那中学校に入学し、2年7か月近く在籍しています。
このときは長野県人だったわけです。

木曽路は中山道(中仙道)の一部を指すようです。
中山道が長野県を南西方向へ横断しているのはぼんやりと知っていましたが、この一部が木曽路と呼ばれるのは知りませんでした。

また、木曽川は長野県から岐阜県、愛知県、三重県を経て伊勢湾に注ぎます。
源流は長野県です。

となるともちろん、木曽谷は長野県にあり、木曽川と木曽路が寄り添うようにしているところがあるのでしょう。

ちなみに、私が暮らす港北ニュータウンの横浜市営地下鉄センター北駅のそばに「木曽路」という和食屋があります。
本社(東証一部上場企業)は岐阜県でなく愛知県(名古屋市)にありました。

「木曾路はすべて山の中である」で始まる島崎藤村の『夜明け前』は中山道の宿場町であった信州木曾谷の馬籠宿を舞台にしているそうです。

おかげでちょびっと賢くなりました。
66歳ですが、日々成長です。

◆書き加え(9月26日)

おのずと、木曽節は長野県の民謡になります。
私は岐阜県の民謡と思っていました。
「木曽のナー 中乗りさん 木曽の御岳(おんたけ)さんは ナンジャラホーイ 夏でも寒い ヨイヨイヨイ」。
中乗りさんに深くお詫びします。

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伊那市ストリートビュー…タイムスリップ

私は、グーグルマップストリートビューは東京とその周辺の大都市に限って見ることができると思い込んでいた。
先だって、中学時代の大半を過ごした長野県伊那市のグーグルマップを見ていた。

自分が暮らした、国鉄伊那市駅の裏手、呉羽紡績(後に東洋紡績)伊那出張所の場所を特定できない。
自宅兼オフォスだった。
地図を眺めているうちに記憶がいくらか蘇ってきて、「東町公民館」の斜め向かいだったことを思い出した。
しかし、自宅はここという確信を持てない。

また、近所に伊那中学校時代の親友の自宅、私が頻繁に出入りしたミシン店があった。
それも、ここという確信を持てない。

私がいらいらしながら地図を動かしていたとき、突然ストリートビューが現れた。
それはかつての自宅の前の道路だった。
通りには当時の建物がそのまま、もしくは手を入れられた状態でいくらか残っている。

結局、私は自宅を特定できなかったが、隣の建物に見覚えがある。
そうなると、おそらくこの建物がそうだと思った。
建て替えでなく、思い切ったリニューアルが施されているのでなかろうか。

近所の親友の自宅も特定できなかったが、やはりこの建物がそうだと思った。
いくらかリニューアルが施されているようだ。

私は伊那市のストリートビューを動かしながら、自宅から伊那中学校までの通学路をたどっていった。
在籍は1年生の春〜3年生の秋、1964年3月下旬〜1966年10月中旬。

道筋が単純なこともあり、こちらは迷わなかった。
そして、難なく高台の伊那中学校に着いた。
立派な校舎に建て替えられている。
むろん、通学路の周辺の様子はだいぶ変わっている。
それでも私は当時にタイムスリップし、20分前後の坂道をのぼっていった。
大感激だった。

伊那中学校は3年間、クラス替えが行われなかった。
担任も同じだったが、私のクラスは3年の進級時に先生が他の学校へ移った。
時間を忘れてストリートビューにのめり込むうち、当時の級友に会いたいとの思いがどんどん膨らんでいった。
皆、元気にしているだろうか・・・。

以下に、「心にぽっかり穴…直江津小学校卒業式」と題する2010年3月11日のブログをそのまま収める。

                      ◇◆◇

私は人生で一度も「卒業式」を経験していない。
直江津小学校では、卒業式の前日に長野県伊那市へ引っ越した。
私が愛してやまない生まれ故郷での最後は悲惨だった。
心にぽっかり穴が開き、それは半世紀近くを経たいまも埋まっていない。
呉羽紡績(現東洋紡績)は父親の転勤をなぜ遅らせてくれなかったのか?

直江津小学校には楽しくしかも誇らしい思い出しか残っていない。
私はこれ以降、輝きを放てなかった。
ささやかな栄光はこの時代に集中しているのだ。

私は6年生全員による投票を経て「児童会長」に選ばれた。
ほかに立候補者がいて、選挙演説を行った記憶がある。
当時、級長でもそうだったが、児童会長は成績が上位の子どもが就いた。
また、直江津小学校では「鼓笛隊」に力を入れており、私は先頭でバトン(指揮棒、指揮杖)を振った。
さらに中核の学校であったため、直江津市内の全小学校が集まるイベントでは、私が壇上に立って総指揮を執った。
それは壮観な眺めだった。

6年生は何度か全クラス揃って卒業式の練習。
松・竹・梅・桃の4クラス(学級名はひらがなだったかもしれない)。
おおよそ1クラス50人、計2百人。
私はその都度、教室にポツンと取り残された。
担任の先生が、卒業式に出席できない私に練習をやらせては可哀想と判断したのだろう。
教室の窓を開けると体育館から先生や児童のマイクの声、そして歌声などが聞こえてきた。
このときの寂しさを忘れられない。
仲のいい友だちが大勢いたのに、自分一人になった気分だった。
ただし、引っ越し前にクラスで別れの挨拶を行うことはできた。

私は卒業式で皆と一緒に6年間親しんだ校歌を力一杯歌いたかった。
無念…。

両親はこの件をどう考えていたのか。
一度聞いてみたいと思っているうちに、それも叶わなくなった。
現在では、仮にそうした命令を受け入れざるをえないにしても、私と母親は2日遅れで移動するのでないか。
しかし、そうした発想がまったくなかった。
家長に従う。
どちらかがホテルに泊まるなどとんでもない。
引越だって“お任せパック”はなく、家族の手で梱包も開梱も行うしかない。
記憶が曖昧だが、列車で移動した私たちと並行するようにトラックが走行していたのでないか。
あるいは、コンテナが貨物列車で輸送されていたか…。

私たちが伊那に着いて間もなく、荷物も届いたと思う。
疲れていたが、当日夜の生活に困らぬよう、一部は開梱を行ったのでないか。

日本海を眺めながら育った私にとり、2〜3千メートル級の山々に挟まれた伊那(盆地)は息苦しさを覚えた。
そして、西も東も分からない土地で伊那中学校に入学した。

入学式だったか始業式だったか、クラス分けが発表された。
3年間、担任も級友も変わらず。
同じクラスになった生徒が気さくに話しかけてきた。
人懐っこい顔をしている。
自宅がすぐそばと分かり、一緒に帰った。
私は不安が和らいだ。
互いにどれほど行き来しただろう。
やがて伊那が好きになった。

2009年10月16日のブログ「リニア中央新幹線は伊那谷ルート!」
むろん、私情にすぎず、その正当性を述べたものでない。
リニアの目的を考え、かつ特性を生かすなら、結論は議論するまでもない。
が、伊那中学校の卒業式に出席できなかった私は思うのだ。
リニア中央新幹線は伊那谷ルート!
これで決まり。
異議なし。

伊那中学校入学直後、私は人生の奥深さを教えられた。
大人の勉強…。
人はつまらないことを覚えていたりする。
級友がよそ者の私に「伊那盆地を反対から読め」と、偉そうに命じた。
けがれを知らない私は感動に身震いした。
それ以来、縮まったまま。
厚い氷に閉ざされた頂きは、ついに日の目を見ることがなかったとさ。
己の生涯と重なる。

                       ◇

余談。
高校以降はともかく、小学校や中学校の校舎は木造に尽きる。
人に優しく、味わいが深い。
直江津小学校も伊那中学校もそうだった。
古い建物を大切に使った。
雑巾掛け(ぞうきんがけ)をやったっけ。
木が乾いたのか、それともすり減ったのか、節目や木目が目立った。

校舎がコンクリート製だと愛着が湧きにくい。
とりわけ廊下や階段の印象が薄い。
不思議。

人間の基礎ができる年齢の学校生活は木造がマッチしているのでは…。
私は、どこかで教育の荒廃とつながっている気がしてならない。

                      ◇◆◇

長野と伊那、伊那中学校に関するブログ(おそらく一部)は以下のとおり。

⇒2013年7月1日「地銀取引先・業績立て直しセミナーが大人気」はこちら。

⇒2012年9月7日「自分に打ち克ち、困難を乗り越える…義務教育での登山」はこちら。

⇒2011年4月11日「おひさま陽子…伊那中・西駒登山、直小・妙高登山」はこちら。

⇒2010年3月11日「心にぽっかり穴…直江津小学校卒業式」はこちら。

⇒2009年10月16日「リニア中央新幹線は伊那谷ルート!」はこちら。

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自分に打ち克ち、困難を乗り越える…義務教育での登山

戦後の義務教育では「登山」が重んじられたせいか、私は直江津小学校(新潟県)と伊那中学校(長野県)で学校行事としての登山を経験した。
自分に打ち克ち、困難を乗り越える強さを身につけることが狙いだったのでないか。

達成感なら長距離走でも得られる。
だが、人により得手・不得手という違いがある。
また、ややもすると順位に関心が向かいやすい。
つまり、競争。

登山は、それを行うのは銘々だが、皆で励まし合いながら成し遂げるという一体感が生まれる。

さらに、頂上を極めたときに見晴らしが得られる。
人は高みに立つことに快感を覚える。
敗戦から復興する、錦を飾る(地方出身者)など、右肩上がりの時代背景にも合っていたように思う。

もちろん、登山ならではの自然の雄大さに接するとか、マナーやルールを守る大切さを知るとかも狙いだっただろう。

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伊豆半島が本州とぶつかり、伊那中で西駒登山へ

8月に入ってからの「和田創ブログ」は、1〜3週間の書き溜め記事が中心である。
たいてい出張中の移動時間や宿泊先での空き時間を使っている。
しかも、かなり前の素材(メモ)を仕上げることもある。
話題が古いのはそのせいだ。

                       ◇

私は先だって、伊豆半島が本州と衝突し、大地の褶曲により南アルプスと中央アルプスが形成されたと知った。
その後の雨や氷、風による浸食が、いくつもの切り立った峰をつくった。
現在の険しい、しかし美しい山脈に変わっていった。

褶曲(しゅうきょく)とは、岩波書店・広辞苑によれば、「堆積当時水平であった地層が、地殻変動のため、波状に曲がる現象。また、それが曲がっている状態。」。

この2つのアルプスの誕生には気の遠くなる歳月を要しているが、地球の活動はダイナミックだ。
私はその事実に驚いた。

南アルプスと中央アルプスに挟まれているのが、「伊那谷」である。
私は伊那市立伊那中学校に2年7カ月在籍し、級友に「伊那盆地」を逆から読んでならないと教え込まれた。
日々見上げていたのが、両側のアルプスだった。
新潟・直江津で日本海を眺めながら育った私は圧迫感が強く、正直なところあまり好きになれなかった。
が、山脈の眺めは勇壮だった。

私は、伊豆半島が本州とぶつかり、伊那中で西駒登山へ出かけることになった。
本日の結論だ。

◆書き加え1(2012年8月24日)

やはり、インド亜大陸がユーラシア大陸と衝突した。
インド亜大陸の地殻はユーラシア大陸の地殻を押し縮めながら、その下にもぐり込んだ。
結果、「世界の屋根」と呼ばれるヒマラヤ山脈が形成された。
さらに、チベット高地の厚い地殻をつくり、天山山脈に影響を及ぼした。

インド亜大陸の北上はいまも続いており、ヒマラヤ山脈の成長も続いている。

以下に、「おひさま陽子…伊那中・西駒登山、直小・妙高登山」と題する2011年4月11日のブログを収める。

                      ◇◆◇

NHK朝の連続テレビ小説「おひさま」。
土曜日から井上真央がヒロイン・須藤陽子を演じている。
子役経験が豊富であり、若くても実力派なのだろう。

先週金曜日の放送で、陽子の母が亡くなった。
原田知世が心臓病に苦しむ紘子を切なく演じた。
須藤家が東京から空気の澄んだ安曇野に引っ越してきた理由が、最後のときを1日でも長くという父の考えだった。
あるいは、母の思いだったのかもしれない。

こうした事情を知らされたのは長男だけだった。
が、この頃には次男も、そして陽子も母の命が長くないことを察していた。
目に見えて病状が悪化していったからだ。

母は最後の日が近いと悟り、長男と次男を別々に呼び寄せた。
そして、力を振り絞って言葉をかけた。
どうしても言い残しておきたかったのだ。
二人の男の子はそれをしっかりと胸に刻んだ。

陽子は、母の病状が切迫し、小学校の登山をためらった。
それを母は送り出した。
太陽を近くで見てらっしゃいと・・・。
陽子はご来光に母の死を感じた。

私は思った。
当人に告知を行えば、親子で、夫婦で、最後の言葉を交わす時間を持つことができた。
相手が認めないかぎり、当人はそうした前提で話せない。
前の妻が亡くなってから長い歳月が流れたが、私はいまだに引きずっている。

                       ◇

「ひまわり」の陽子の登山を見て、記憶がよみがえった。
戦後長らく、義務教育では「登山」が重んじられていた。

私は直江津小学校の5年生(曖昧)で「妙高山」に登った。
校歌は、「ながめとうとき 妙高山の まどにうつれる姿をあおぎ・・・」で始まる。
妙高山は標高2454メートル。
あいにく天候が思わしくなく、希望者だけが山頂まで登った。
私も…。
卒業文集にはその思い出を綴ったはずだ。
ところが、卒業証書や卒業アルバムの類は手元に残っていない。
引っ越しの連続で、私は半生の記録をすべて紛失してしまった。

伊那中学校の2年生(曖昧)で「西駒ケ岳」に登った。
校歌は、「山脈(やまなみ)は 青くめぐりて・・・」で始まる。
険しくてきつかったし、怖かった。
伊那谷は2つの駒ヶ岳に挟まれ、西側の木曽駒ヶ岳を「西駒ヶ岳(西駒)」、東側の甲斐駒ヶ岳を「東駒ヶ岳(東駒)」と呼んだ。
西駒ケ岳は標高2956m。
3千メートル級といってよい。
木曽山脈(中央アルプス)の最高峰だ。

ウィキペディアによれば、1913年(大正2年)、長野県中箕輪高等小学校(現在の長野県上伊那郡箕輪町立箕輪中学校)の集団登山において、将棊頭山付近で遭難事故が発生し、校長と生徒10人が死亡した。
現在の上伊那地区の中学校では、当時の教師たちの遺志を尊重し、また慰霊の意味も込めて、学校行事として集団登山を行っている。
私は登山前のオリエンテーションでこの話を先生から聞かされたことを覚えている。
いまなお伊那中学校では西駒登山を行っているのだろうか。

1967年(昭和42年)、駒ヶ岳ロープウェイ開通にともない、終点の千畳敷や木曽駒ヶ岳に多くの人が訪れるようになった。
登山はずいぶん楽になったのでないか・・・。

「おひさま」で子どもたちが歌う県歌「信濃の国」を久しぶりに聞き、懐かしくなった。
明治時代の作詞・作曲。
私もずいぶん歌った。

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おひさま陽子…伊那中・西駒登山、直小・妙高登山

20070411-02NHK朝の連続テレビ小説「おひさま」。
土曜日から井上真央がヒロイン・須藤陽子を演じている。
子役経験が豊富であり、若くても実力派なのだろう。

先週金曜日の放送で、陽子の母が亡くなった。
原田知世が心臓病に苦しむ紘子を切なく演じた。
須藤家が東京から空気の澄んだ安曇野に引っ越してきた理由が、最後のときを1日でも長くという父の考えだった。
あるいは、母の思いだったのかもしれない。

こうした事情を知らされたのは長男だけだった。
が、この頃には次男も、そして陽子も母の命が長くないことを察していた。
目に見えて病状が悪化していったからだ。

母は最後の日が近いと悟り、長男と次男を別々に呼び寄せた。
そして、力を振り絞って言葉をかけた。
どうしても言い残しておきたかったのだ。
二人の男の子はそれをしっかりと胸に刻んだ。

陽子は、母の病状が切迫し、小学校の登山をためらった。
それを母は送り出した。
太陽を近くで見てらっしゃいと・・・。
陽子はご来光に母の死を感じた。

私は思った。
当人に告知を行えば、親子で、夫婦で、最後の言葉を交わす時間を持つことができた。
相手が認めないかぎり、当人はそうした前提で話せない。
前の妻が亡くなってから長い歳月が流れたが、私はいまだに引きずっている。

                       ◇

「ひまわり」の陽子の登山を見て、記憶がよみがえった。
戦後長らく、義務教育では「登山」が重んじられていた。

私は直江津小学校の5年生(曖昧)で「妙高山」に登った。
校歌は、「ながめとうとき 妙高山の まどにうつれる姿をあおぎ・・・」で始まる。
妙高山は標高2454メートル。
あいにく天候が思わしくなく、希望者だけが山頂まで登った。
私も…。
卒業文集にはその思い出を綴ったはずだ。
ところが、卒業証書や卒業アルバムの類は手元に残っていない。
引っ越しの連続で、私は半生の記録をすべて紛失してしまった。

伊那中学校の2年生(曖昧)で「西駒ケ岳」に登った。
校歌は、「山脈(やまなみ)は 青くめぐりて・・・」で始まる。
険しくてきつかったし、怖かった。
伊那谷は2つの駒ヶ岳に挟まれ、西側の木曽駒ヶ岳を「西駒ヶ岳(西駒)」、東側の甲斐駒ヶ岳を「東駒ヶ岳(東駒)」と呼んだ。
西駒ケ岳は標高2956m。
3千メートル級といってよい。
木曽山脈(中央アルプス)の最高峰だ。

ウィキペディアによれば、1913年(大正2年)、長野県中箕輪高等小学校(現在の長野県上伊那郡箕輪町立箕輪中学校)の集団登山において、将棊頭山付近で遭難事故が発生し、校長と生徒10人が死亡した。
現在の上伊那地区の中学校では、当時の教師たちの遺志を尊重し、また慰霊の意味も込めて、学校行事として集団登山を行っている。
私は登山前のオリエンテーションでこの話を先生から聞かされたことを覚えている。
いまなお伊那中学校では西駒登山を行っているのだろうか。

1967年(昭和42年)、駒ヶ岳ロープウェイ開通にともない、終点の千畳敷や木曽駒ヶ岳に多くの人が訪れるようになった。
登山はずいぶん楽になったのでないか・・・。

「おひさま」で子どもたちが歌う県歌「信濃の国」を久しぶりに聞き、懐かしくなった。
明治時代の作詞・作曲。
私もずいぶん歌った。

                      ◇◆◇

朝ドラ「おひさま」とヒロイン陽子役・井上真央などの出演者に関するブログは以下のとおり。

⇒2011年4月4日「井上真央・おひさま、日本を明るく照らす」はこちら。

⇒2011年4月5日「おひさまの舞台、安曇野の自然の美しさ」はこちら。

⇒2011年4月7日「八木優希のおかっぱ頭…おひさま陽子の子役」はこちら。

⇒2011年4月8日「瀧本美織がおひさまヒロインを演じたら・・・」はこちら。

⇒2011年4月8日「瀧本美織てっぱん続編は3年後に本放送か」はこちら。

⇒2011年4月9日「井上真央、謎めいた内面…おひさまヒロイン」はこちら。

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守護神・川島永嗣の目力と映画・大魔神の睨み

サッカー・アジアカップの決勝戦。
日本代表は延長戦前半に得点し、単独最多となる4度目の優勝を果たした。

堅守が光ったが、私が驚嘆したのはGK川島永嗣の神がかりのファインセーブである。
オーストラリア代表からすれば、決定的なチャンスを2度封じられたことになる。

川島永嗣は、ペナルティキックやPK戦で自分のポジションを確認するかのように足を踏ん張り両手を広げる仕草をする。
あるいは、敵を威圧するかのように…。
彼に限らず、ゴールキーパーはたいていそうかもしれない。

が、川島永嗣はその際の眼光がとくに鋭い。
試合直後のインタビューでは興奮しているせいか、目をいっぱいに開き、目玉をギョロつかせる。
私は、その表情をどこかで見た記憶があるが、どうしても思い出せなかった。

それがようやく判明した。
長野県・伊那中学校時代に見た大映映画「大魔神」だった。
特撮時代劇。
大魔神はそこに登場する“守護神”の名称である。
戦国時代、穏やかな表情の石像が悪事に怒り、恐ろしい相貌にに一変する。
大魔神は目をいっぱいに開き、まばたきをしない。
そして、血走った目玉をギョロつかせ、悪人を追い詰める。

守護神・川島永嗣の目力(めぢから)は、映画・大魔神の睨み(にらみ)にそっくりだ。
1対1に持ち込んだキューウェルが決められなかったのは、川島永嗣の気迫に圧倒されたからか・・・。

日本代表の勝因は、ザッケローニ監督の采配、チームのまとまり、控えを含めた選手個々の頑張り。
決勝戦に関しては、とくにDF長友佑都の突破力とGK川島永嗣の防御力が大きく貢献した。
素晴らしい戦いぶりだった。

ところで、サッカーアジア杯日豪決勝戦の平均視聴率は33.1パーセント、瞬間最高視聴率は37.5パーセントだった(ビデオリサーチ調べ。関東地区)。
関西地区は若干高い。
これはテレビ朝日系列の数字。
私の書斎のテレビでは映らないが、NHKBS1も生中継したはずだ・・・。

日本代表は1月31日、ドーハから成田空港着と関西空港着の2便に分かれ、凱旋帰国した。
おめでとう。
お疲れさま。

◆書き加え1(2月1日)

長友佑都がイタリア1部リーグ(セリエA)の名門・強豪クラブチーム、インテル・ミラノに移籍することが電撃発表された。
インテルは昨季、イタリア勢として初のセリエA(国内リーグ)、コッパ・イタリア(国内カップ)、欧州チャンピオンズリーグをすべて制し、3冠を達成した。
セリエAでは5連覇中。
2010年12月に行われたFIFAクラブ・ワールドカップでは、アフリカ王者マゼンベを破って世界一の栄冠に輝いた。

長友佑都は昨夏、FC東京からセリエAに昇格したチェゼーナにレンタル移籍された。
チーム自体は低迷したが、抜群の運動量と献身的なプレーが注目され、争奪戦が起こっていた。
アジアカップでも日本の4度目の優勝の原動力になった。
欧州に挑戦、わずか半年後の大出世である。

アルベルト・ザッケローニ監督は、かつてインテルの指揮官を務めた。

                      ◇◆◇

サッカー・アジアカップ決勝戦に関するブログは以下のとおり。

⇒2011年1月29日「本田圭佑は攻撃の要になれるのか…アジアカップ日豪戦」はこちら。

⇒2011年1月30日「GK川島永嗣、キューウェルを止める…奇跡のセーブ」はこちら。

                      ◇◆◇

岡田ジャパン、サムライブルーの戦い振りなどに関するブログは以下のとおり。

⇒2010年6月15日「W杯日本初戦勝利! ウェルカメルーン!」はこちら。

⇒2010年6月27日「W杯日本決勝T進出、前評判を吹き飛ばす」はこちら。

⇒2010年6月28日「W杯人気、デニーズ世界のカレーツアー」はこちら。

⇒2010年6月28日「マラドーナとメッシの関係…W杯記者会見」はこちら。

⇒2010年6月29日「本田圭佑侍ジャパン進化…W杯パラグアイ戦」はこちら。

⇒2010年6月30日「W杯岡田ジャパンの死闘…評価と次期監督」はこちら。

⇒2010年7月2日「岡田監督の進退、遠藤保仁の挑戦…2014W杯」はこちら。

⇒2010年7月4日「W杯日本代表次期監督候補にマラドーナ?」はこちら。

⇒2010年10月18日「岡田武史W杯日本代表監督の名言…カンブリア宮殿」はこちら。

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リニアルート伊那谷は苦戦、南アルプスで決着へ

リニア中央新幹線は、所要時間が最短、建設費が最小の「南アルプスルート」で決着する公算が強くなった。

JR東海(東海旅客鉄道)が2027年の開業を目指すリニア中央新幹線のルート選定が大詰めを迎えている。
国交省の審議会は、東京〜名古屋間をほぼ直線で結ぶ南アルプスルートの優位性を示す試算を盛り込んだ報告書を近々公表する。
これにより最高時速5百キロメートルで走行可能な区間を長く取れ、所要時間は40分。
建設費は5兆4千3百億円。

JR東海は「伊那谷ルート」「木曽谷ルート」と合わせ、3候補に関する報告書を提出していた。
が、いずれも迂回ルートになるため、建設費が数千億円増え、時間が数分遅くなる。

・・・慌てたのは、地域経済と観光の興隆に期待を寄せ、リニア中央新幹線の誘致活動に熱が入っていた長野県。
地元自治体の山田勝文諏訪市長と白鳥孝伊那市長が阿部守一県知事に対し、伊那谷ルートでの建設を国に求める要望書を手渡した。
意見交換も行われた模様。

とはいえ、リニア中央新幹線は事業主体のJR東海が建設費を全額自己負担する。
これで伊那谷ルートの苦戦、劣勢がはっきりした。
巻き返しはかなり困難だろう。
また、県北と県南ではおそらく温度差が大きい。
すでに長野新幹線が開業しているからだ(将来的に北陸新幹線)。

国交省の審議会は経済効果や需要予測、利便性などに関するデータを掘り下げて検討したうえで、早ければ年内におおよその方向性を固める。
壮大な構想の実現へ向け、まもなく巨大プロジェクトが動き出す。

以下に、「リニア中央新幹線は伊那谷ルート!」と題する2009年10月16日のブログを収める。
原稿にいくらか手を加えた。

                      ◇◆◇

リニア中央新幹線は、2045年に開業!
私はもう生きていない。
と思ったら、東京〜名古屋間は2025年(2010年現在の見込みでは2027年)の開業。
間に合う?
ならば冥土の土産になる。

JR東海は、いよいよルート選定に入る。
10兆円弱のプロジェクト。
鳩山内閣発足後、久々に明るい話題だ。
候補は、直線の南アルプスルート、中間の伊那谷ルート、最北の木曽谷ルートの3つ。

私は「伊那谷ルート」を望む。
理由にならないが、長野・伊那中学校に在籍したので…。
クラスメートと国鉄伊那市駅から飯田線の線路上をどこまでも歩いていくのが好きだった。
決して道に迷うことのない青春の放浪…。
その伊那谷を、リニアが駆け抜けていくのだ。
シルバー(?)の車体に、真っ赤に色付いた山々が映える、なんちて。

最短の南アルプスルートでは、東京(品川駅)〜大阪(新大阪駅)間を1時間7分(67分)で結ぶ。
最高時速は5百キロメートル。
夢のスピードで地上を走る(6百キロはムリ?)。
私はヒコーキ嫌いの結果、鉄道ファン。
陸路で北海道、四国、九州へ。
とりわけ東海道・山陽新幹線の利用頻度はきわめて高い。
ぜひともリニアの乗り心地を味わってみたい。

なお、リニア中央新幹線が営業すれば、東京、名古屋、大阪は通勤圏。
一握りの富裕層は“通勤電車”として使うはず。
毎朝同じ顔触れが軽く目配せや会釈を交わす。
でも、しゃべらない。
これが経済的ステイタスになっていそう。
また、経費削減の一環で3都市相互の出張は日帰りになりつつあるが、これにより宿泊付きはまったく消える。

昔は年中出張というビジネスマンがいた。
とくに営業系では長期出張が珍しくなかった。
毎月、北海道や九州などのテリトリー(担当区域)を数日から十数日かけて回る。
彼らのなかには、しょっちゅう訪れる都市に愛人をつくる兵(つわもの)がいた。
飲み屋でのボトルキープは当たり前。
時間距離が劇的に縮まって日帰り出張が浸透した今日、男どもの「武勇伝」はあまり聞かれなくなった。

私はふと思った。
リニア中央新幹線が完成する21世紀半ば、例えばクルマが空を飛んでいる可能性はないのか。
陸上のインフラが無用の長物になったりしないのか。
もしそうなると、現時点での需要予測は意味をなさない。
技術革新の急速な時代では、こうした長期事業の策定はとても難しい。

もう一つ。
東海道新幹線の営業は、東京オリンピックが開催された1964年。
JR東海は当然、大規模な補修を施すだろう。
しかし、2045年のリニア中央新幹線の全線開通(東京〜大阪間)まで、現在のインフラは持ち堪えられるのか。
約1世紀だ。
関東地震〜東海地震〜東南海地震〜南海地震など、マグニチュード8クラスの大地震の周期的な発生が迫っている。
私はいつもびくびくしながら「のぞみ」に乗っている。

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卒業式シーズン…大人への通過儀礼

卒業式シーズンは今週がピーク?
還暦間近の私はこれまでに「卒業式」を経験していない。

直江津小学校(新潟県)では、卒業式の前日に伊那市へ引っ越した。
信じられない・・・。
いまだに引きずる無念については、先日のブログ「心にぽっかり穴…直江津小学校卒業式」で詳しく述べた。
しかも無念は年とともに募る。

伊那中学校(長野県)では3年間クラスが同じだった。
級友に恵まれて卒業式を迎えられると喜んだら、10月下旬に小松島市(徳島県)へ引っ越した。

生まれて初めての丸刈り(坊主頭)。
小松島中学校で卒業式を経験したはずなのに…。
高校受験を目前にした時期であり、皆心の余裕がなかった。
教科書が変わり、しかも転入時にはそれを用いた授業がほぼ済んでいた。
成績が落ちた。
私は徳島の言葉に親しめなかったこともあり、クラスメイトと満足に会話を交わしていない。
一人の名前も思い出せない。
友だちがいてこその卒業式だ。
記憶が抜け落ちているのは、感動を味わえなかったからか。
恐らく校歌も覚えないうちに小松島での中学生活は終わった。

高校に至っては、徳島県立城北高校、東京都立墨田川高校、富山県立魚津高校と3校を渡り歩いた。
ことごとく学年途中。
そのたびに教科書が変わり、勉強が滅茶苦茶になった。
城北高校は1クラス50人、1年生12クラスのマンモス校だった。
私は6百人中7番目の成績で入学したが、魚津高校を卒業する頃には急降下。
明治大学に合格してまもなく、日本経済新聞社の高円寺専売所に入店したので、魚津高校の卒業式に出席していない。
家に金がなく、新聞奨学生制度を利用して進学するしか選択肢がなかったのだ。

そして、明治大学では4年制の経営学部を5年で“中退”することになる。
世界の「北野武(きたの・たけし)」は明治大学を4年で中退したので、私は1年分勝った。
私のささやかな誇りだ。
だが、北野武の母親は本人がその気になったら復学できるように5年目の学費を払い込んでいた。
北野武は後年それを知ったらしい。
うーん、イーブン(ドロー)になってしまった。

当然、「中退式」はない。
ところが、私はこの中退さえ怪しくなった。
十年程前に公開セミナーの受講者だったか、退学手続きを取らないと“除籍”扱いになると聞かされた。
どうだったか?
迂闊に「明治大学中退」とも名乗れないとは…。

私は結局、一度も卒業式を経験してこなかった。
古い自分と決別し、新しい自分へ脱皮する節目のイベントだというのに…。

さらに、だらしなさの延長でフリーランスの道に迷い込んだため、「就職活動」を経験することもなかった。
フリーランスといえば聞こえはいいが、企業社会からのドロップアウトにほかならない。
そう、「成人式」も。

私は、社会の正門をくぐる努力と苦労、そして精神の高揚を知らない。
裏口から世間に紛れ込んでしまった。
40代になり講師の仕事を始めるまで、スーツもワイシャツもネクタイもベルトもクツもろくに持っていなかった。
腕時計はいまだに持っていない。

出口と入口というケジメを欠いた人生…。

我ながら思う。
この齢になっても子どもっぽさが抜けない。
というより、「幼児性」が色濃く残っている。
それは、大人になるための「社会儀礼」を通過しなかったことと無関係であるまい。

ちなみに、会社に関わる式典や旅行、忘年会や新年会、結婚式や葬儀、接待などで揉まれていない。
組織に溶け込んだり集団に同化したりするのが苦手だ。

私は来年、還暦を迎える。
もはや手遅れだ。
できそこないの大人として残りわずかな人生を生きていこう。

このブログは2007年5月13日「私にいまだに残る幼児性…」に手を加えたものである。

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歩くということ。

私は年齢のせいか、各国や各地の自然と風土、風物と暮らしなどに触れられる番組が好きになってきた。
観光地などの旅番組に限らず、ドキュメンタリーに近い番組も気になる。

昨秋以降、世界を紹介する番組を何本か見た(ながら視聴)。
それぞれ美しさに満ちていた。
しかし、せっかく地球に生まれながら、どこにも行っていないことに気づいた。
私はまったく知らない。

それだけでない。
日本に住んでいながら、日本をほとんど知らない。
私は出張や講演などで主要都市をおおよそ訪ねたが、現地の印象が残っていないのだ。
駅とホテル、ホテルと講演会場、講演会場と駅の間をたいていはタクシーで、ときどき徒歩で移動しただけ。
そういえば、12年近く暮らす横浜もほとんど知らない。

ふと思った。
その土地を知るとは、自分の足で歩くということでないか。
なるべく幾度も…。

私がとことん歩いたのは、生まれ故郷の新潟・直江津。
直江津小学校6年生まで暮らした。
かなり歩いたのは、長野・伊那。
伊那中学校3年生の10月中旬まで暮らした。
いずれも、これといった目的もなく…。
直江津に対する愛着は格別、伊那に対する愛着もそれなり。

それ以降、私はほとんど歩かなくなった。
土地の思い出が薄く、したがって土地への思い入れがない。
歩いたとしても、移動が目的だった。

交通手段を用いることで活動範囲を広げられるが、それにより失うものも大きい。
人はゆっくりゆったり歩くことで、周囲と向き合える。
そして、周囲にそのときどきの考えや気持ち、ときに人生を投影しているのでないか。
それが自分と土地との“一体感”を育む。

自然や風土、風物や暮らしについて、私の心に深く刻まれている感動は、かならずといっていいほど歩きをともなう。

思い出した。
しばらく歩かなかった私が再び歩くようになったのは、20代前半だ。
東小金井〜武蔵境、吉祥寺〜西荻窪の界隈。
前の妻とどれくらい歩いたことか。
歩いてばかりいた。

20代半ばで結婚してからというもの、生活に追われた私は仕事で走っていた。
もしくは、タクシーで動いていた。
私は長い間、まったく歩いていない。

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しかも、私がときどき新しい記事を割り込ませています。
内容が古かったり、順序が変だったりするのはそのためです。

なお、ブログによりぎりぎりのジョーク、成人向けの内容が含まれます。
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私は執筆に当たり全人格を投影したいと考えます。
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和田創

和田創研代表
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シニア起業家
和田 創(わだ・そう)

数字立て直し(伸長)一筋の経営コンサルタント。
教育と指導の年間実績は約百回。対象は社長から役員、管理者、社員まで、テーマは経営から管理、採用、事業、商品、企画まで広範。著書や教材は多数。
2017年、66歳以降はAIやロボット関連の起業に挑むとともに、おもに内需・地場企業から先端分野・成長分野の事業・商品開発を請け負う。クライアントとともに77歳までに百社の設立を目指す(内、自ら11社)。

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