コンサルの引き出し|和田創ブログ

だれの目の前にも可能性の地平は広がる。それを切り拓けるかどうかは自分次第である。「面白くないジョークの会」初代会長が解き明かす経営と人生の奥義とは?

団塊の世代

66歳起業の理由

66歳起業の理由

高齢者が早々に老け込んで表舞台から姿を消すのはいかがか。
そんな疑問をずっと感じてきた。

人生を11年刻みで捉えてきた私は2017年に職業人生のラストステージとなる「66歳〜77歳」に差しかかる。
その4月1日に総括の挑戦として、文系・アナログの自分が苦手とする最先端技術分野の新会社を立ちあげる。
日本が迎えつつある超高齢化社会で「団塊の世代」を含めた同世代に勇気を与えることができればとの思いも強い。

人は、この世に生まれてきたからには役立ちたいと願っている。
社会と関わることにより、心身ともに張りのある毎日を保てる。
高齢者は次世代に負担をかけるネガティブな存在でなく、次世代に価値を与えられるポジティブな存在である。

私は高齢者でも起業に踏み切れるというところを示したいのだ。
体力的に衰えたが、自分のなかにまだ働きたいとの気持ちが残っており、それを燃焼し尽くしたい。

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クリスマス・イブのエッチは真正の恋人の証明…松任谷由実

たまたまBS2にチャンネルを合わせたら、「日本のフォーク&ロック大全集」という、視聴者のリクエストに応えて昔のVTRを流すナマ番組をやっていた。
一部、生演奏も…。

私は音楽に興味が乏しく、したがって知識を持たない。
そのジャンルさえ、ろくに分かっていない。
歌手もメロディも歌詞も知らない私は、カラオケをやらないのでなく、やれない。
顧客とのつきあいが必須の“営業”としては失格といえる。
ただ、私にも「青春時代」はあったわけで、街をうろついていても、酒に溺れていても、音楽が流れてきた。
シャワーのように全身に降り注いだ。

さて、1951年(昭和26年)生まれの私が、音楽以前に存在自体に衝撃を受けたミュージシャンがいる。
過去最大のインパクト!

それは「荒井由実」という不可解なシンガーソングライター。
「こんな曲をつくってしまっていいのか。まして歌ってしまっていいのか・・・」。
勇気?
それとも、鈍感?
私は、荒井由実のあっけらかんとした図太さに仰天した。

当時、地方出身者がフォークを引っ張っていた。
「東京で一旗揚げる」。
「故郷に錦を飾る」。
そんな高揚した気分がまだいくらか残っていた。
実際には、若者が大学に入ったり仕事に就いたりするため、つまりサラリーマンになるため、続々と上京した。
都会に反発しながら、都会に吸い寄せられるという矛盾がせめぎ合っていた。

私は狭い意味の「団塊の世代(1947年〜1949年)」を2年外れている。
それでも高校までは1クラス50名くらいで、教室の後ろに空きスペースがなかった。
東大入試が中止になった翌年、私は明治大学に入学した。
明大前の泉キャンパスでは学生運動に冷ややかな視線が注がれ、ほどなく無関心の風が吹いた。
若者のエネルギーが新たなはけ口を求めた結果が、フォークの隆盛でなかったか・・・。

とはいえ、フォークは時代の空気を敏感に察知し、既成社会との「距離感」にこっけいなほどこだわっていた。
それが主張(メッセージ)となり、装い(ポーズ)となって、“かっこよさ”につながったのだから当然である。
どの歌手も「アイデンティティ」を打ち出そうと必死だった。
当時の規範や幸福観を拒む、極私的な楽曲まで現れる。
また、音楽を聞く側も、メッセージやポーズといった拠りどころを欲していた。

荒井由実の楽曲が耳に入ると、私は冷や冷やした。
「時代の空気が許さない…」。
居心地が悪いのでなく、居心地がない楽曲!
社会に収まり場所を見つけられない。

アルバイト先での同世代の雑談で、だれかが彼女の名前を出した。
しかし、一人も呼応せず、完全に無視されたことを覚えている。
私を含め、男は肝っ玉が小さい。
バカにされるのが怖いのだ。
荒井由実は存在がいまわしく、話題がはばかられた。

彼女は能天気なのか自信家なのか、イデオロギーに対して“無防備”であり、まるで気負いがなかった。
都会の思春期の子女のたわいない生活のシーンやエポックを、「絵日記」みたいに切り取っただけの音楽・・・。

荒井由実は、当時のいかなる異端よりも異端だった。

反社会でぶつかるにしろ、非社会で背を向けるにしろ、それは時代への思い入れがあればこそ。
戦後の高度成長により、国民の多くが経済的な豊かさを手に入れた。
都市部で中産階級が膨張する。
同時に、社会への関心が急速に失われていく。
力んだメッセージや気取ったポーズが敬遠されはじめた。
やがて荒井由実は大衆に支持され、時代の先端を疾走するように…。
文字どおり、音楽界の頂点にのぼり詰めた。

彼女は1976年、松任谷正隆と結ばれ、「松任谷由実」にあっさり変えてしまった。
世間に認知された荒井由実という名前を捨てることに、何の躊躇も未練もなかったのだろうか。
あまりの潔さに、私は愕然とした。

「恋人がサンタクロース」と歌ったのも彼女。
この頃から「彼氏や彼女がいないクリスマスはありえない」とされ、皆がイブに向けて仕込む風潮が生まれた。
また、真正の恋人同士なら、イブにホテルやマンションでエッチするルールが固まった。
若者のライフスタイルに、これほど大きな影響を与えた歌手はほかにいない。

なお、「明日へのヒント」で、松任谷由実の信じられない言葉(歌詞)を取りあげ、コメントを加えている。

「和田創 明日へのヒント 第17号 松任谷由実」はこちら。

「日本のフォーク&ロック大全集」では、番組の終わりにリクエストが一番多かった楽曲が披露された。
吉田拓郎の「落陽」。
初めて聞いたなぁ…。

ちなみに、私が衝撃を覚えた歌手の順番。
荒井由実、美空ひばり、山下達郎。
知ったとき、いずれも容認できなかった。
私の体というか、生理が受け付けなかったのだ。

いまはどうかって?
恥ずかしいから言わない。
うふっ。

                       ◇

きょうのブログは、2011年6月4日「松任谷由実の無防備、能天気なのか自信家なのか・・・」にいくらか手を加えたものである。

⇒2011年6月4日「松任谷由実の無防備、能天気なのか自信家なのか・・・」はこちら。

                      ◇◆◇

クリスマスに関するブログは以下のとおり。

⇒2011年12月20日「名作CM…深津絵里JR東海クリスマス・エクスプレスの逢瀬」はこちら。

⇒2011年12月21日「山下達郎と竹内まりや…夫婦のクリスマス・イブの鳥肌」はこちら。

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間寛平アースマラソン、万感のゴール…大阪城

年末にパソコンが破損し、データが消滅した。
私はそれによる仕事の遅れをなかなか取り戻せない。
書き溜め記事が中心のこのブログは実質休止。

以下に、「間寛平、がんに打ち克ちゴールへ…アースマラソン」と題する2011年1月5日のブログを収める。

                      ◇◆◇

マラソンとヨットによる地球一周「アースマラソン」に挑戦中の間寛平がきのう、約2年ぶりに日本の地を踏んだ。
2008年12月17日に大阪・難波を出発し、2009年元日に千葉・鴨川から出航した。
太平洋、北米大陸、大西洋、ユーラシア大陸を自らの足とヨットで突き進んだ。
昨年1月に「前立腺がん」が見つかり、2カ月ほど米国で治療に専念した。
行く手に多くの苦難が待ち受けていたが、間寛平はそれをすべて乗り越えて帰国した。
とりわけ病魔に打ち克ったのは凄い。
スタートからの総距離は約4万キロメートル(海路を含む)。

間寛平は今後、福岡から大阪まで 620キロメートルを走り、1月21日に大阪城音楽堂にゴールする予定。
途中、複数の映画館で凱旋トークイベントを行う。

以下に、「間寛平、人生の地平線をどこまでも走れ」と題する2010年4月25日のブログを収める。
いくらか手を加えた。

                      ◇◆◇

マラソンとヨットで世界一周に挑戦しているお笑いタレントの間寛平。
今年1月に前立腺がんと診断され、経口と注射によるホルモン治療を行いながらマラソンを続けていた。
しかし、体調が思わしくなく、トルクメニスタンで一時中断し、米国サンフランシスコで放射線治療を受けている。
もちろん“完走”するため。
担当医師によると、腫瘍の程度は5段階の4と高いが、2カ月ほどで完治しそう。
再スタートの時期は様子を見て判断する。

アースマラソンは「山あり谷あり」。
間寛平は治療とトレーニングを並行し、一日も早く日本に着けるように頑張りたいと語った。
本人のブログには連日、激励のメッセージが届いている。
間寛平が病魔と闘いながらゴールを目指す姿は、ファンに大きな勇気と感動を与えよう。

人はだれしも“老い”を迎える。
行く末を考えれば不安が膨らみ、来た道を振り返れば悔いが残る。
さまざまな思いが交錯し、心が揺れ動く。
それでも間寛平はひょうひょうとして生きる。

私がやりたくてできないことを、間寛平は代わりにやってくれている。
セカンドライフに誇りと喜びを見出せなくて元気を失いがちな団塊の世代や60代の憧れでもあろう。

「地球を走って一周する」。
ここまで壮大でなくても、一生のうちにこれといった目標を掲げられ、なおかつ実行へ移せる人はどれだけいるだろう。
私たちは何となく歳月を過ごし、気づけば夕暮れにたたずみ、すぐに朽ちていく。

間寛平のチャレンジは、困難そのもの。
入念な準備は当然として、それまでの不断の鍛錬、それに基づく実績の積み重ねがあってこそ可能性が芽生えるし、支援者も現れる。
私には絶対に無理と承知しつつ、うらやましいと思う気持ちがどこかにある。

自然は美しい。
そして厳しい。
吹きすさぶ砂漠、荒れ狂う海原、降り注ぐ太陽…。
行程の大半は過酷極まりないのかもしれない。

間寛平は、人生の地平線をどこまでも走っている。
胸に時折去来する思いは何なのだろう。

還暦間近の私は思う。
垢で汚れてしまった心を空っぽにできたら…。
広辞苑によれば、還暦とは「60年で再び生まれた年の干支に還るからいう、数え年の61歳の称」とある。

私は以前、たまたま見た報道番組で深いため息をついてしまった。
自分の境遇とのあまりに大きな隔たり…。
そこには大海原を背景に、こぼれるような笑顔の間寛平が映し出されていた。

⇒2011年1月4日「間寛平、愛妻と涙の抱擁…アースマラソン日本帰還」はこちら。

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間寛平、がんに打ち克ちゴールへ…アースマラソン

マラソンとヨットによる地球一周「アースマラソン」に挑戦中の間寛平がきのう、約2年ぶりに日本の地を踏んだ。
2008年12月17日に大阪・難波を出発し、2009年元日に千葉・鴨川から出航した。
太平洋、北米大陸、大西洋、ユーラシア大陸を自らの足とヨットで突き進んだ。
昨年1月に「前立腺がん」が見つかり、2カ月ほど米国で治療に専念した。
行く手に多くの苦難が待ち受けていたが、間寛平はそれをすべて乗り越えて帰国した。
とりわけ病魔に打ち克ったのは凄い。
スタートからの総距離は約4万キロメートル(海路を含む)。

間寛平は今後、福岡から大阪まで 620キロメートルを走り、1月21日に大阪城音楽堂にゴールする予定。
途中、複数の映画館で凱旋トークイベントを行う。

以下に、「間寛平、人生の地平線をどこまでも走れ」と題する2010年4月25日のブログを収める。
いくらか手を加えた。

                      ◇◆◇

マラソンとヨットで世界一周に挑戦しているお笑いタレントの間寛平。
今年1月に前立腺がんと診断され、経口と注射によるホルモン治療を行いながらマラソンを続けていた。
しかし、体調が思わしくなく、トルクメニスタンで一時中断し、米国サンフランシスコで放射線治療を受けている。
もちろん“完走”するため。
担当医師によると、腫瘍の程度は5段階の4と高いが、2カ月ほどで完治しそう。
再スタートの時期は様子を見て判断する。

アースマラソンは「山あり谷あり」。
間寛平は治療とトレーニングを並行し、一日も早く日本に着けるように頑張りたいと語った。
本人のブログには連日、激励のメッセージが届いている。
間寛平が病魔と闘いながらゴールを目指す姿は、ファンに大きな勇気と感動を与えよう。

人はだれしも“老い”を迎える。
行く末を考えれば不安が膨らみ、来た道を振り返れば悔いが残る。
さまざまな思いが交錯し、心が揺れ動く。
それでも間寛平はひょうひょうとして生きる。

私がやりたくてできないことを、間寛平は代わりにやってくれている。
セカンドライフに誇りと喜びを見出せなくて元気を失いがちな団塊の世代や60代の憧れでもあろう。

「地球を走って一周する」。
ここまで壮大でなくても、一生のうちにこれといった目標を掲げられ、なおかつ実行へ移せる人はどれだけいるだろう。
私たちは何となく歳月を過ごし、気づけば夕暮れにたたずみ、すぐに朽ちていく。

間寛平のチャレンジは、困難そのもの。
入念な準備は当然として、それまでの不断の鍛錬、それに基づく実績の積み重ねがあってこそ可能性が芽生えるし、支援者も現れる。
私には絶対に無理と承知しつつ、うらやましいと思う気持ちがどこかにある。

自然は美しい。
そして厳しい。
吹きすさぶ砂漠、荒れ狂う海原、降り注ぐ太陽…。
行程の大半は過酷極まりないのかもしれない。

間寛平は、人生の地平線をどこまでも走っている。
胸に時折去来する思いは何なのだろう。

還暦間近の私は思う。
垢で汚れてしまった心を空っぽにできたら…。
広辞苑によれば、還暦とは「60年で再び生まれた年の干支に還るからいう、数え年の61歳の称」とある。

私は以前、たまたま見た報道番組で深いため息をついてしまった。
自分の境遇とのあまりに大きな隔たり…。
そこには大海原を背景に、こぼれるような笑顔の間寛平が映し出されていた。

⇒2011年1月4日「間寛平、愛妻と涙の抱擁…アースマラソン日本帰還」はこちら。

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定年団塊の世代、アルコール依存症へ

きょうは「勤労感謝の日」。
いまや共働きが普通。
相手へのねぎらいは?
再建屋雑記帳0998子どもからのねぎらいは?
親へのねぎらいは?
ちょっとした一言でもかけたりかけられたりするとうれしいものだ。
働く方、お疲れさまです。

団塊の世代が続々と職業人生のリタイアを迎えている。
定年による退職、高齢による離職が理由(いずれも不況が影を落としている可能性がある)。
団塊の世代とは、敗戦直後の1947年から1949年までの「ベビーブーム」に生まれた人たちを指す。
再建屋雑記帳0999その圧倒的なボリュームゆえに社会形成に大きな影響を及ぼし、人生が戦後日本の歩みと重なる。
私は1951年生まれ、58歳。
団塊の世代に属さないが、それでもベビーブームの余波が続いており、学校ではクラス数も一クラスの人数も多かった。

さて、団塊の世代はとりわけ体を張って「高度経済成長」を支えた。
貧しい時代、家族を食べさせるために、しゃにむに働いた。
仕事にどっぷり漬かり、家庭をほとんど顧みない。
再建屋雑記帳1000当時の先進国からは、働きすぎと批判され、「エコノミックアニマル」と揶揄された。
“仕事人間”だったのは間違いないが、仕事が好きというより、そうしないとやっていけなかった。

私はふと思った。
仕事人間とは「残業人間」のことでないか。
平日は深夜に帰宅し、休日や祝日はしばしば出勤する。
したがって、家族との触れ合いの時間が減ったりなくなったりする。
再建屋雑記帳1001団塊の世代から2年遅れて生まれた私でも仕事人間。
社会への適応性が低く、貧しい時代に会社勤めができなかったため、貧しさでは図抜けていた。
狂ったように働くことに何の疑問も迷いも感じなかった。
そんなことを考えていたら、家族が食いっぱぐれる。

仕事に半生を捧げてきた団塊の世代が仕事から離れてしまったら、腑抜け状態になっても不思議でない。
1社で勤めあげた方が少なくない。
大手企業ならグループ会社で勤め終えた。
再建屋雑記帳1002仕事から離れることもそうだが、慣れ親しんだ会社や職場から去ることはつらい。
私は容易に想像がつく。
心にぽっかりと穴が空いたかのような喪失感。
まして、パートナーを失っていたとしたら…。

その寂しさを埋めたくて、酒を飲む。
徐々に飲む量が増えていく。
さらに飲む頻度が増えていく。
再建屋雑記帳1003毎日、やがて1日中…。
団塊の世代にアルコール依存症が急増している。
いわゆるアル中(アルコール中毒)だ。

仕事を辞めたらのんびりしよう。好きなことをしよう。
現役時代は、そんな気持ちがなかったわけでない。
しかし、実際に毎日が日曜日になってみると、それは孤独、人により地獄だった。
再建屋雑記帳1004小遣い銭稼ぎにしかならなくても、セカンドキャリアなど新たな勤め先を得られた人は救われる。
そうでない人は途方に暮れる。
仕事一筋だったので、近所にも地域社会にも友人がいない。
趣味もやりたいこともない。
会社や職場で生きてきたのだから当然といえる。

私が昨秋来とくに感じるのは、ネットをさまよう団塊の世代が増えたこと。
気の遠くなる時間を持て余すとともに、だれかとの関わりを求めている証だろう。
再建屋雑記帳1005リアルの世界で他者とのつながりをつくれず、自分の生き甲斐を見つけられないのか。
彼らが発する、助けてのサイン…。

こうした情勢を踏まえ、社会が団塊の世代など中高年へのメンタルケアを考えはじめた。
アル中になった中高年が駆け込む「断酒会」があるらしい。
同じ悩みや苦しみを分かち合うことで、自分の心と生活の立て直しを図っていく。
再建屋雑記帳1006ボランティア組織などが運営しており、私は頭が下がる。
だが、もっと大事なのは、中高年がそうした状態に陥らないようにするリタイア直後の取り組みだ。
広い意味での教育、そして新たに身を置くコミュニティが必要なのではないか。
さらに大事なのは、中高年の自助努力を含めたリタイア前の準備だ。

私たちは皆、仕事を離れる時期を迎える。
還暦目前の私も間もなく。
再建屋雑記帳1007実は、その後が思ったよりはるかに長い。
イマジネーションを働かせ、早めに備えを行おう。

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唯一の工場を中国へ移す

私が昔とてもお世話になった顧客からメールをいただいた。
差出人の名前を見た瞬間、懐かしい気持ちが込みあげてきた。
どれほど事業開発や商品開発の仕事をいただいただろう。
経営と人生の名言0206大きな金額である。
かつて私と家族が食べさせていただいた。
言葉で表現できないくらい感謝している。

何と中国から。
十数年前に生き残りをかけ、唯一の工場を中国へ移したとのこと。大決断。
そうだったのか…。
和田創の企画力養成講座―販売促進のための企画の立て方・企画書のまとめ方私の企画関連の図書を購入したくて連絡をくれたのだ。
しかし、非常に古い本なので、著者の手元にも残っていなかった。
この手のものとしては売れたので、アマゾンの古本で探せば冊数も揃うだろう。

2度目にいただいたメールの一部を以下に紹介しよう。
                       ◇
書籍の件、残念ですが仕方ないでしょう。
中国で企画の研修?
中小企業のチャイナ・サバイバル 第7回とてもその段階ではありません。
言葉の違いだけでなく、文化やものの考え方、環境の違いに驚くばかりです。
これに関しては日本の20〜30年前、いや私が入社した頃(40年前)を思い出すほどです。
まさしく戦場そのもの。

NPO法人営業実践大学「中小企業のチャイナ・サバイバル」を読みました。
私どもの会社も事務所は香港に、工場は中国広東省に構えています。
入門講座 企画の愉しみ―おもしろく覚える企画書作法同じような苦労をされていて、おおいに共感しました。

私はすでに定年を過ぎており、今年で任期が終了しますので日本に帰るつもりでいます。
ですから、少しでもこちらの人に教育を施したいのです。
                       ◇
以上。

確か、私より少し上の団塊の世代。
主要営業図書1度目のメールに「最後のご奉公」という言葉があった。
自社に対する愛情はどこまでも深く、それと背中合わせで危機感もとびきり強い。
「会社をよくしたい」。
そうした執念を持ちつづけ、仕事に打ち込んできた方なので、私は「最後のご奉公」に説得力を感じた。

…今年、再会が叶うかもしれない。
しかし、仕事から離れると一気に老け込まないか、私は心配である。
お互いに年を取った。

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しかも、私がときどき新しい記事を割り込ませています。
内容が古かったり、順序が変だったりするのはそのためです。

なお、ブログによりぎりぎりのジョーク、成人向けの内容が含まれます。
ご承知おきください。
私は執筆に当たり全人格を投影したいと考えます。
著作権について
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プロフィール
wada01











和田創

和田創研代表
シニア起業家
和田 創(わだ・そう)

数字立て直し(伸長)一筋の経営コンサルタント。
教育と指導の年間実績は約百回。対象は社長から役員、管理者、社員まで、テーマは経営から管理、採用、事業、商品、企画まで広範。著書や教材は多数。
2017年、66歳以降はAIやロボット関連の起業に挑むとともに、おもに内需・地場企業から先端分野・成長分野の事業・商品開発を請け負う。

その他の役職
面白くないジョークの会会長 

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