コンサルの引き出し|和田創ブログ

だれの目の前にも可能性の地平は広がる。それを切り拓けるかどうかは自分次第である。「面白くないジョークの会」初代会長が解き明かす経営と人生の奥義とは?

国鉄伊那市駅

伊那市ストリートビュー…タイムスリップ

私は、グーグルマップストリートビューは東京とその周辺の大都市に限って見ることができると思い込んでいた。
先だって、中学時代の大半を過ごした長野県伊那市のグーグルマップを見ていた。

自分が暮らした、国鉄伊那市駅の裏手、呉羽紡績(後に東洋紡績)伊那出張所の場所を特定できない。
自宅兼オフォスだった。
地図を眺めているうちに記憶がいくらか蘇ってきて、「東町公民館」の斜め向かいだったことを思い出した。
しかし、自宅はここという確信を持てない。

また、近所に伊那中学校時代の親友の自宅、私が頻繁に出入りしたミシン店があった。
それも、ここという確信を持てない。

私がいらいらしながら地図を動かしていたとき、突然ストリートビューが現れた。
それはかつての自宅の前の道路だった。
通りには当時の建物がそのまま、もしくは手を入れられた状態でいくらか残っている。

結局、私は自宅を特定できなかったが、隣の建物に見覚えがある。
そうなると、おそらくこの建物がそうだと思った。
建て替えでなく、思い切ったリニューアルが施されているのでなかろうか。

近所の親友の自宅も特定できなかったが、やはりこの建物がそうだと思った。
いくらかリニューアルが施されているようだ。

私は伊那市のストリートビューを動かしながら、自宅から伊那中学校までの通学路をたどっていった。
在籍は1年生の春〜3年生の秋、1964年3月下旬〜1966年10月中旬。

道筋が単純なこともあり、こちらは迷わなかった。
そして、難なく高台の伊那中学校に着いた。
立派な校舎に建て替えられている。
むろん、通学路の周辺の様子はだいぶ変わっている。
それでも私は当時にタイムスリップし、20分前後の坂道をのぼっていった。
大感激だった。

伊那中学校は3年間、クラス替えが行われなかった。
担任も同じだったが、私のクラスは3年の進級時に先生が他の学校へ移った。
時間を忘れてストリートビューにのめり込むうち、当時の級友に会いたいとの思いがどんどん膨らんでいった。
皆、元気にしているだろうか・・・。

以下に、「心にぽっかり穴…直江津小学校卒業式」と題する2010年3月11日のブログをそのまま収める。

                      ◇◆◇

私は人生で一度も「卒業式」を経験していない。
直江津小学校では、卒業式の前日に長野県伊那市へ引っ越した。
私が愛してやまない生まれ故郷での最後は悲惨だった。
心にぽっかり穴が開き、それは半世紀近くを経たいまも埋まっていない。
呉羽紡績(現東洋紡績)は父親の転勤をなぜ遅らせてくれなかったのか?

直江津小学校には楽しくしかも誇らしい思い出しか残っていない。
私はこれ以降、輝きを放てなかった。
ささやかな栄光はこの時代に集中しているのだ。

私は6年生全員による投票を経て「児童会長」に選ばれた。
ほかに立候補者がいて、選挙演説を行った記憶がある。
当時、級長でもそうだったが、児童会長は成績が上位の子どもが就いた。
また、直江津小学校では「鼓笛隊」に力を入れており、私は先頭でバトン(指揮棒、指揮杖)を振った。
さらに中核の学校であったため、直江津市内の全小学校が集まるイベントでは、私が壇上に立って総指揮を執った。
それは壮観な眺めだった。

6年生は何度か全クラス揃って卒業式の練習。
松・竹・梅・桃の4クラス(学級名はひらがなだったかもしれない)。
おおよそ1クラス50人、計2百人。
私はその都度、教室にポツンと取り残された。
担任の先生が、卒業式に出席できない私に練習をやらせては可哀想と判断したのだろう。
教室の窓を開けると体育館から先生や児童のマイクの声、そして歌声などが聞こえてきた。
このときの寂しさを忘れられない。
仲のいい友だちが大勢いたのに、自分一人になった気分だった。
ただし、引っ越し前にクラスで別れの挨拶を行うことはできた。

私は卒業式で皆と一緒に6年間親しんだ校歌を力一杯歌いたかった。
無念…。

両親はこの件をどう考えていたのか。
一度聞いてみたいと思っているうちに、それも叶わなくなった。
現在では、仮にそうした命令を受け入れざるをえないにしても、私と母親は2日遅れで移動するのでないか。
しかし、そうした発想がまったくなかった。
家長に従う。
どちらかがホテルに泊まるなどとんでもない。
引越だって“お任せパック”はなく、家族の手で梱包も開梱も行うしかない。
記憶が曖昧だが、列車で移動した私たちと並行するようにトラックが走行していたのでないか。
あるいは、コンテナが貨物列車で輸送されていたか…。

私たちが伊那に着いて間もなく、荷物も届いたと思う。
疲れていたが、当日夜の生活に困らぬよう、一部は開梱を行ったのでないか。

日本海を眺めながら育った私にとり、2〜3千メートル級の山々に挟まれた伊那(盆地)は息苦しさを覚えた。
そして、西も東も分からない土地で伊那中学校に入学した。

入学式だったか始業式だったか、クラス分けが発表された。
3年間、担任も級友も変わらず。
同じクラスになった生徒が気さくに話しかけてきた。
人懐っこい顔をしている。
自宅がすぐそばと分かり、一緒に帰った。
私は不安が和らいだ。
互いにどれほど行き来しただろう。
やがて伊那が好きになった。

2009年10月16日のブログ「リニア中央新幹線は伊那谷ルート!」
むろん、私情にすぎず、その正当性を述べたものでない。
リニアの目的を考え、かつ特性を生かすなら、結論は議論するまでもない。
が、伊那中学校の卒業式に出席できなかった私は思うのだ。
リニア中央新幹線は伊那谷ルート!
これで決まり。
異議なし。

伊那中学校入学直後、私は人生の奥深さを教えられた。
大人の勉強…。
人はつまらないことを覚えていたりする。
級友がよそ者の私に「伊那盆地を反対から読め」と、偉そうに命じた。
けがれを知らない私は感動に身震いした。
それ以来、縮まったまま。
厚い氷に閉ざされた頂きは、ついに日の目を見ることがなかったとさ。
己の生涯と重なる。

                       ◇

余談。
高校以降はともかく、小学校や中学校の校舎は木造に尽きる。
人に優しく、味わいが深い。
直江津小学校も伊那中学校もそうだった。
古い建物を大切に使った。
雑巾掛け(ぞうきんがけ)をやったっけ。
木が乾いたのか、それともすり減ったのか、節目や木目が目立った。

校舎がコンクリート製だと愛着が湧きにくい。
とりわけ廊下や階段の印象が薄い。
不思議。

人間の基礎ができる年齢の学校生活は木造がマッチしているのでは…。
私は、どこかで教育の荒廃とつながっている気がしてならない。

                      ◇◆◇

長野と伊那、伊那中学校に関するブログ(おそらく一部)は以下のとおり。

⇒2013年7月1日「地銀取引先・業績立て直しセミナーが大人気」はこちら。

⇒2012年9月7日「自分に打ち克ち、困難を乗り越える…義務教育での登山」はこちら。

⇒2011年4月11日「おひさま陽子…伊那中・西駒登山、直小・妙高登山」はこちら。

⇒2010年3月11日「心にぽっかり穴…直江津小学校卒業式」はこちら。

⇒2009年10月16日「リニア中央新幹線は伊那谷ルート!」はこちら。

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八木優希のおかっぱ頭…おひさま陽子の子役

NHK朝の連続テレビ小説「おひさま」。
昭和7年(1932年)。
須藤陽子の少女時代を演じる八木優希が主役。
その父・須藤良一を演じるのは寺脇康文。
航空機開発に携わる研究者だったが、安曇野へ移住するにあたり製糸工場の工場長(?)に職を変えた。
内部の様子が映し出された。
家内工業よりいくらか大きな規模か。

私は父を思い出した。
昭和39年(1964年)、呉羽紡績(現東洋紡績)の直江津支所(新潟県)から伊那出張所(長野県)へ移った。
いわゆる栄転。
工場で働く従業員を確保する仕事だ。
中卒が「金の卵」ともてはやされた時代である。
彼女らが製造現場を支えた。
その労働の過酷さと悲惨さを綴った「女工哀史」が残されている。
この言葉はすでになくなっていた。

昭和41年(1966年)、呉羽紡績は突如、東洋紡績に吸収されて社名が消えた。
私は伊那中学校の3年生だった。
新聞などマスコミでの発表は対等合併(うろ覚え)。
父は何も知らされていなかった。

                       ◇

「おひさま」のヒロイン・八木優希は“おかっぱ頭”がとてもよく似合う。
戦後長らく女の子の髪形の主流として続いた。
私はとても懐かしい。
八木優希はかなりの訓練を積んできたのか、役柄を難なくこなしている。
子役の実績をそれなりに持っているのかもしれない。
かわいいし、演技もうまい。

母の須藤紘子・原田知世は日常生活で和服を着ている。
当時の都会では、そうした女性が珍しくなかったのかもしれない。
安曇野の田舎ではとにかく目立つ。
昭和37年(1962年)、私が直江津小学校の5年生の授業参観、和服を着た女性が現れた。
垢抜けていて、地元の人でないことはすぐに分かった。
クラスのなかでとびきり愛くるしい女の子の母親だった。
私は、この子は普段の洋服が周りと違うと感じていた。
特別の存在で、男の子はもちろん女の子もあまり話しかけなかった。
母親は際立って美しかった。
いまでいうオーラを発するほど・・・。

おふくろが自宅で話題にした。
自分は東京育ち、深川女学院(校名は不確か)卒業という気持ちがあった。
ほめはしたが、悔しさがにじんでいると、子ども心に思った。
懐かしい記憶がよみがえった。

この子はすぐに新潟市へ引っ越していった。
6年生の修学旅行が新潟市であり、その際に宿に訪ねてきてくれた。
私たちの目の前に現れた彼女はちょっと大人びていて、どきどきした。
都会人といった趣・・・。
庶民と、住む世界が別だったのか。

                       ◇

私は直江津小学校の卒業式が行われている時間、伊那市へ引っ越した。
国鉄伊那市駅に降り立ち、真っ先に「盆地」だと思い知らされた。
ショック!
東と西を高い山脈で囲まれていて、日本海を眺めて育った私にとり閉塞感が強かった。
救いだったのは、自宅が駅のすぐ裏手、天竜川から1〜2分の場所にあり、南北は視界が開けていたことだ。

次いで感じたのは、水道水のうまさだった。
直江津のそれがまずいと思ったことはなかったが、地域で水道水が異なることに驚いた。

先日の「おひさま」に、アルプスの雪解け水が流れる音に、母・紘子と陽子が岩に耳を押し当てて聞き入るシーンがあった(不確か)。
紘子は「命ってすごい(台詞は不確か)」と・・・。

伊那市の水道水はどこから取っていたのだろう。
案外、天竜川だったりして…。

                       ◇

紘子は重い心臓病を患っており、夫の良一に3人の子ども、なかでも小さな陽子の将来を託した。
上2人は男の子。
陽子がいとおしくて仕方がないのだ。

私の前の妻も同じ思いだったろう。
告知を行わなかったが、末期がんで覚悟はしていたか。
「3人の子どもを残して、死んでも死にきれない」と、たった一度だけ「死」という言葉を使ったことがある。
泣き言をこぼさず、亡くなった。

「ひまわり」は土曜日に早くも井上真央が登場するらしい。
そうなると、八木優希と原田知世の二人は“御役御免”になるのだろうか。
もうちょっと見たい気がするが・・・。

◆書き加え1(4月6日)

小学校の友人・田中ユキとの別れのシーンはつらかった。
演じたのは、子役・荒川ちか。

当時、米をつくっている農家でも米を食べられないことは珍しくなかった。
私の祖母は、入善・椚山(富山県)の貧農だった。
大正生まれの父を女手一つで育てた。
ほかに男1人、女2人。
もう一人いて、小さい頃に亡くなったという話を聞いた気もするが…。
大正から戦中にかけて4人の子どもを養うのは、想像を絶する苦労だったろう。
しかも、祖母は子どもみたいに体が小さかった。
そのうえ、大やけどで片方の手が溶け、肉の棒と化していた。
これで過酷な農作業をこなさなければならなかった。

長男だった父は家を飛び出した。
後を継がないということは当時ありえない。
どうにもならない貧しさが耐えられなかったのでないか。
大阪へ出て、書生暮らし。
それとて“地獄”に違いない。
向学心と向上心が非常に強かったようだ。
父は自分の苦労を私にも妹にも語らなかった。

昔、極貧の家庭では子どもは小学校にろくに行けず、遠くへ働きに出された。
稼ぎを当てにするというより、口が減るだけでも助かったのでないか・・・。
「おひさま」のシーンは、それだった。
ユキは一番の親友・陽子にさえ事情を明かさずに去らなくてならない・・・。

⇒2011年4月4日「井上真央・おひさま、日本を明るく照らす」はこちら。

⇒2011年4月5日「おひさまの舞台、安曇野の自然の美しさ」はこちら。

Copyright (c)2011 by Sou Wada

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プロフィール
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和田創

和田創研代表
日本ロボコム代表
ロボットビジネス勉強会&交流会主宰
シニア起業家
和田 創(わだ・そう)

数字立て直し(伸長)一筋の経営コンサルタント。
教育と指導の年間実績は約百回。対象は社長から役員、管理者、社員まで、テーマは経営から管理、採用、事業、商品、企画まで広範。著書や教材は多数。
2017年、66歳以降はAIやロボット関連の起業に挑むとともに、おもに内需・地場企業から先端分野・成長分野の事業・商品開発を請け負う。クライアントとともに77歳までに百社の設立を目指す(内、自ら11社)。

その他の役職
面白くないジョークの会会長 

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