金沢駅と上野駅を結ぶ寝台特急「北陸」と急行「能登」は、2010年3月12日に定期運行を終える。
廃止。
そんな記事を一昨日の日本経済新聞の片隅に見つけた。
JR東日本は、車体の老朽化を理由に挙げている模様。
北陸に限らないが、地方と上野を結ぶ「夜行列車」はおおよそ姿を消したのか。
昔は編成がとても長かった。
列車がホームに入ってくるとき、そして自分が乗り込むときには、特有の気分になった。
さまざまな感情が入り交ざり、一言で表せない。
中高年の地方出身者なら、実感として分かってもらえるのでないか。
私は急に寂しくなり、遠い過去をぼんやりと思い浮かべた。
◇
東京・下町生まれの母は疎開先の富山・朝日(泊)で、入善出身の父と出会ったのか?
私は一度も確かめていない。
そうでないとしても、戦時疎開がなければ両親が結ばれることはなかった。
父は恐らく戦後、呉羽紡績の社員として新潟・直江津と長野・伊那で働き、吸収合併により東洋紡績の社員として徳島・小松島で働いた。
そして、職業人生の勝負をかけ、母の父が営む町工場を継ぐつもりで上京した。
しかし、祖父母とうまくやっていけず、追い出された。
私は8カ月足らず、少し遅れて上京した両親は数カ月の東京暮らし。
行き場を失った家族が父の生まれ故郷に戻ったとき、両親は心がすっかり壊れていた。
50歳手前の父は、吉田工業(現YKK。当時は黒部が本社)の嘱託として働いた。
給料は比べられないほど下がったはずだが、世界のYKKに潜り込めただけでも幸せだった。
恐らくわずかな中途退職金と貯蓄を投じて、1年後くらいに入善に建てた家は大失敗だった。
が、だいぶ後に建てた滑川の家はとても気に入っていた。
ごく普通の一軒家だが、両親にとり理想の住まいだった。
両親は、私が17歳から49歳まで30年以上、富山で暮らしたことになる。
私は親不幸の極みで、富山に帰省しなかった。
過ごした期間が短く、友人がいないことも理由の一つ。
最大の理由は、家庭崩壊の時期を思い出したくなかったこと。
私は、学生時代に働いた楽譜専門取次の松沢書店で、北陸地区を数カ月担当した。
月1回の出張の際に、おおよそ入善に立ち寄ったのでは…。
それ以外は3〜4回?
確かな記憶は3回であり、水彩画、痛飲、結婚の披露。
滑川に3〜4回?
確かな記憶は3回であり、妹の結婚、家族との接触、再婚の報告。
これが正しいとすれば、4〜5年に1回戻った。
実家に寄りつかなかったのだ。
まれな帰省の際にわりと利用したのが夜行列車だった。
出張時にも…。
いつ頃からか信越本線・長野経由から上越線・長岡経由に変わった?
何もかもあやふや。
しかし、私は間違いなく寝台特急「北陸」と急行「能登」に幾度か乗った。
このブログの「新聞奨学生物語(連載中)」で、日経育英奨学制度を利用して明治大学へ進学する際に、入善駅から夜行列車に乗り込む光景を書いた。
恐らく1970年3月。
特急は入善駅に止まらない?
となると、寝台特急「北陸」でなく急行「能登」。
これには寝台車両はないはずだから、私は普通の座席で上京したことになる。
驚いた…。
インターネットで少し調べたが、それは急行「能登」でなく急行「黒部」だった?
そんな名前の夜行列車があったかもしれない。
やはり寝台車両はないようだ。
寝台特急「北陸」と急行「能登」はまもなく通常運行が打ち切られる。
それにつれ、私は若い頃の思い出まで奪われる感慨にとらわれた。
北陸や東北など、年配の地方出身者にとり、夜行列車は特別な存在だった。
我が身を振り返っても、人生の節目、節目に夜行列車が関わっている。
…廃止の知らせは、切ない。
Copyright (c)2009 by Sou Wada
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廃止。
そんな記事を一昨日の日本経済新聞の片隅に見つけた。
JR東日本は、車体の老朽化を理由に挙げている模様。
北陸に限らないが、地方と上野を結ぶ「夜行列車」はおおよそ姿を消したのか。
昔は編成がとても長かった。
列車がホームに入ってくるとき、そして自分が乗り込むときには、特有の気分になった。
さまざまな感情が入り交ざり、一言で表せない。
中高年の地方出身者なら、実感として分かってもらえるのでないか。
私は急に寂しくなり、遠い過去をぼんやりと思い浮かべた。
◇
東京・下町生まれの母は疎開先の富山・朝日(泊)で、入善出身の父と出会ったのか?
私は一度も確かめていない。
そうでないとしても、戦時疎開がなければ両親が結ばれることはなかった。
父は恐らく戦後、呉羽紡績の社員として新潟・直江津と長野・伊那で働き、吸収合併により東洋紡績の社員として徳島・小松島で働いた。
そして、職業人生の勝負をかけ、母の父が営む町工場を継ぐつもりで上京した。
しかし、祖父母とうまくやっていけず、追い出された。
私は8カ月足らず、少し遅れて上京した両親は数カ月の東京暮らし。
行き場を失った家族が父の生まれ故郷に戻ったとき、両親は心がすっかり壊れていた。
50歳手前の父は、吉田工業(現YKK。当時は黒部が本社)の嘱託として働いた。
給料は比べられないほど下がったはずだが、世界のYKKに潜り込めただけでも幸せだった。
恐らくわずかな中途退職金と貯蓄を投じて、1年後くらいに入善に建てた家は大失敗だった。
が、だいぶ後に建てた滑川の家はとても気に入っていた。
ごく普通の一軒家だが、両親にとり理想の住まいだった。
両親は、私が17歳から49歳まで30年以上、富山で暮らしたことになる。
私は親不幸の極みで、富山に帰省しなかった。
過ごした期間が短く、友人がいないことも理由の一つ。
最大の理由は、家庭崩壊の時期を思い出したくなかったこと。
私は、学生時代に働いた楽譜専門取次の松沢書店で、北陸地区を数カ月担当した。
月1回の出張の際に、おおよそ入善に立ち寄ったのでは…。
それ以外は3〜4回?
確かな記憶は3回であり、水彩画、痛飲、結婚の披露。
滑川に3〜4回?
確かな記憶は3回であり、妹の結婚、家族との接触、再婚の報告。
これが正しいとすれば、4〜5年に1回戻った。
実家に寄りつかなかったのだ。
まれな帰省の際にわりと利用したのが夜行列車だった。
出張時にも…。
いつ頃からか信越本線・長野経由から上越線・長岡経由に変わった?
何もかもあやふや。
しかし、私は間違いなく寝台特急「北陸」と急行「能登」に幾度か乗った。
このブログの「新聞奨学生物語(連載中)」で、日経育英奨学制度を利用して明治大学へ進学する際に、入善駅から夜行列車に乗り込む光景を書いた。
恐らく1970年3月。
特急は入善駅に止まらない?
となると、寝台特急「北陸」でなく急行「能登」。
これには寝台車両はないはずだから、私は普通の座席で上京したことになる。
驚いた…。
インターネットで少し調べたが、それは急行「能登」でなく急行「黒部」だった?
そんな名前の夜行列車があったかもしれない。
やはり寝台車両はないようだ。
寝台特急「北陸」と急行「能登」はまもなく通常運行が打ち切られる。
それにつれ、私は若い頃の思い出まで奪われる感慨にとらわれた。
北陸や東北など、年配の地方出身者にとり、夜行列車は特別な存在だった。
我が身を振り返っても、人生の節目、節目に夜行列車が関わっている。
…廃止の知らせは、切ない。
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