「新聞奨学生物語」第2回。
高校卒業後すぐに働いて家庭にカネを入れなければならない人は別として、親にカネがないという理由で大学進学を諦めなくてよい。
昔もそうだったが、今はなおさらだ。
私は大学進学が40年程前であり、当時は奨学生制度が貧弱だった。
「日本育英会(現在は日本学生支援機構)」のほかは地方自治体が細々と学生の経済支援を行っていたくらい。
月額は小さく、学業を続けていくには不足がかなり生じた。
しかも、成績がそれなりに優秀でないと、奨学金を受けられなかった。

しかし、現在は有利子(低利率)のものを含めると、希望者はだいたい奨学金を受けられる。
月額は幅が広く、学生の成績や経済状況、通学形態などで上限が大きくなる。
後は入学手続きに必要なカネを手当てすれば、大学進学を叶えられる。
当時との最大の違いは、この“一時金”を用立てる教育ローンが整ったこと。
上限は5百万円程。
大学生でも入学金と4年間の授業料など、学校納付金をすべて賄える。

ただし、教育ローンはもちろん奨学金も“借金”である。
学生は卒業後、長期にわたり返済を行わなければならず、それへの覚悟を欠かせない。
ちなみに、私の前妻は東京女子大学を日本育英会の奨学金に助けられながら卒業した。
がんを患い、完済直後に他界した。
どこまでも律儀な性格だった。
返還義務は重く、学ぶ意欲がないのに奨学金などに頼って大学へ入ってしまうと後悔するのでは…。

私は高校時代の通知表がひどかった。
申し込んだとしても、奨学金は貸与されなかったろう。
また、仮にそれが通ったとしても、入学時の一時金、それ以降の授業料などを準備できなかった。
家が貧しい。
どうにもならない状態なので、あれこれ悩みようがない。
私は東京の私立大学への進学を諦める気はなかった(本音は東京での暮らし)。
考えるまでもなく、結論は「独力」。
選択肢はなく、大手新聞社の「奨学生制度」を利用した。

                       ◇

私は明治大学経営学部に合格すると、富山県立魚津高校の卒業式を待たずに上京した。
新聞奨学生としての第一歩を早く踏み出したかった。
奨学会が学校納付金を全額負担してくれる。
勤めあげれば返済は不要であり、私はむろん4年間を覚悟していた。
また、新聞販売店が住居と食事(1日2食)を提供してくれる。
何も持たなくても、最低限の生活は困らない。
非常にありがたい制度だった。

私は寒さが残る3月初旬か前半、わずかなカネと普段着をカバンに詰め込んで東京にやってきた。
余談だが、旅費も出してもらったかもしれない。
そして、千代田区大手町の「日本経済新聞育英奨学会(日経育英奨学会)」に行った。
以下は、曖昧な記憶に基づいて記す。

日経新聞育英会のドアを入ると、カウンターを挟んでスーツを着た職員と、こわばった面持ちの学生1〜2人が向かい合っていた。
私が職員から待つように指示された後方の椅子に、ジャンパーなどを着た中年2〜3人が座っていた。
人相がよくない。
知的な雰囲気がまるでないので、新聞社の社員でないことは分かった。

すぐに私の順番になった。
書類は事前に郵送で提出していたのでないか。
なぜなら、その場で学校納付金を手にした記憶がない。
大金ゆえに忘れないはず。
すでに金銭処理は終わっていた?
だれが日経育英奨学会から学校納付金を受け取り、明治大学の入学手続きを行ってくれたのだろう。
前者は、本人以外は認められないのでは…。
親に尋ねたくても母は亡くなり、父はボケた。
キツネにつままれたよう。

私がその日に日経育英奨学会を訪ねたのは、入店先を決めるためだった。
だとすれば、私は2回目になるが…。
でも、初めてだったのは間違いない。
謎が残る。
悲しいほど、あやふや。

私は、確かその場でのやり取りがほどんどなかった。
職員は後方の椅子に座る中年の一人に「連れて行きますか」と声をかけた。
「明治大学の学生」と添えたかも…。
それに対し、中年男は無言でうなずいた。
私の配属が決定した瞬間である。
「日本経済新聞高円寺専売所」。
胡散臭く感じたのは、新聞販売店の所長たちだった。
挨拶もなく、「行こう」。
私はこれじゃ人買いだと思った。

所長はコロンとした体型。
背が低く、腹回りが出ていた。
そのわりにとっとと歩くので、私はついていくのが精一杯だった。
太くて短い首は、やけに赤黒かった。
新聞配達の日焼けか、それとも酒焼けか、気になって仕方がなかった。
私は、千代田区大手町の日経から杉並区高円寺南の専売所まで地下鉄丸ノ内線で行ったのだろうか。
その交通手段を覚えていない。
途中は沈黙が続いた?

所長はムスっとした表情。
話し方がぶっきら棒で、口数が少ない。
悲壮な決意で上京した私をリラックスさせるどころか緊張させた。
後日、先輩によれば、所長は最初のうちはだれにもそうした態度を取るとのこと。
新聞販売店には奨学生だけでなく専業も入ってくる。
そこに一癖も二癖もある輩が紛れ込む。
学生にも猛者がいる。
従業員になめられたら、新聞販売店の所長は務まらないのだそうだ。

なお、人は結構、どうでもよいことを覚えていたりする。
私は国電東京駅から日本経済新聞社へ向かいながら、日本最大のビジネス街、大手町のビル群を見あげて血が騒いだ。
活躍の舞台に対する憧れだったろう。
しかし、キョロキョロしてはまずいと戒めた。
周りはエリートばかり。
かたや私はやせ細り小汚い野良犬である。
みすぼらしい自分の姿が心に浮かんできた。

また、私は専売所の所長に荷受けされ、奨学会の部屋を出てエレベータで1階へ。
途中階で日本経済新聞社の社員がどんどん乗り込んできた。
そして、遠慮ない視線を注いだ。
私は癪に障り、睨み付けた。
見世物じゃない!

続きは、あした。

以下は、新聞配達(新聞奨学生制度)に関する私の一連のブログ。
⇒11月24日「日経BP社・日経ビジネスの行く手」はこちら。
⇒11月29日「親を捨てる口実…新聞奨学生物語1」はこちら。

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