コンサルの引き出し|和田創ブログ

だれの目の前にも可能性の地平は広がる。それを切り拓けるかどうかは自分次第である。「面白くないジョークの会」初代会長が解き明かす経営と人生の奥義とは?

平山郁夫作品

月下シルクロードを行く…平山郁夫展の感動

新潟市美術館で平山郁夫展が行われている。
会期は、5月26日(土)〜7月22日(日)。
正式名称は、「佐川美術館所蔵 平山郁夫展 大唐西域画への道」。
Facebookの友達が近況に、大きな感動を綴っていた・・・。
2001年制作の「月下シルクロードを行く」は代表作の一つ。

この平山郁夫展は昨年、北海道立函館美術館、北海道立釧路芸術館、酒田市美術館、金沢21世紀美術館、大分県立芸術会館で行われた。
今年、高崎市タワー美術館、富山県水墨美術館で行われた。
新潟市美術館に次いで秋田県立近代美術館で行われる。

公式ウェブサイトによる。
平山郁夫は29歳で「仏教伝来」を発表した。
仏教が生涯のテーマになることに…。
古代インドに発生した仏教を日本まで伝えた仏教東漸の道、東西文化交流の道である「シルクロード」に旅を続けた。

そして、玄奘三蔵の旅を追体験した成果を、奈良・薬師寺の玄奘三蔵院大唐西域壁画殿の「大唐西域壁画」に結実させた。
本展出品の「大唐西域画」は、もっと大勢にそれを見てもらいたいとの強い願いで2007年に制作した。
本展は3百点を超える平山作品を所蔵する佐川美術館の全面的な協力により、「大唐西域画」「シルクロードシリーズ」「アンコールワットシリーズ」「南京城壁シリーズ」などのなかから76点を展示する。
平和を祈る心を描きつづけた平山郁夫の画業を振り返る。

私は琵琶湖近くの「財団法人佐川美術館」へ2度、足を運んだ。
日本画家・平山郁夫の作品のコレクションでつとに名高い。
以下に、2010年12月1日の和田創ブログの一部を収める。
ついては、手を加えた。

                      ◇◆◇

1回目の訪問は帰りの新幹線の時刻が迫っており、駆け足だった。
そうした理由もあったが、なぜ2回目の訪問を行ったか?
高名な画家なのに、作品の魅力がピンと来なかったからだ。
シルクロードの絵を見て、いいなあとは思う。
が、それ以上の感動が得られなかった。
なぜか心がときめかない。

私にとり、芸術とは魂を強く揺さぶってくれるものだ。
分かりやすい激しさを求めてしまう・・・。

平山郁夫の作品は、腕の確かな職人が丁寧に仕事をしたという印象に留まった。
真心と誠実さは伝わってくるのだが、通俗性が拭えなかった。
すでに画家としての評価が確立しており、自分に「見る目がない」に違いないと考えた。

平山郁夫は仏教、とくに仏教伝来の道となった「シルクロード」を題材にし、幻想的な画風を築いた。
京都や奈良などに取材した歴史的風景画も多い。
叙情的な文学性、物語性が漂う。

                       ◇

私は以前、インターネットの情報に当たった。
平山郁夫にとり被爆体験は深い傷を残した。
20年間、広島へ行けなかった。

仕事で訪れたシルクロード。
それは、画家としての将来を決定づける運命的な出合いだった。
平山郁夫はそこに救済と鎮魂を求めた。
以来、戦争により失われた多くの命を背負い、シルクロードシリーズ(作品群)に平和の祈りを込めた。
それは、日本文化の源流になった仏教を伝えた道を描くことでもあった。

平山郁夫の作品には、日本人の深部に流れる静かな川のような、抑制された簡素な美しさがあるのかもしれない。
私は還暦を目前にし、その魅力がいくらか分かるようになった。

平山郁夫は活躍の幅がきわめて広い。
「画家とは絵を描く人」という通念を大きくはみ出している。
思い込みの激しい私は、平山郁夫をどこかで胡散(うさん)臭く感じていた。

実は、耳を疑う言葉が残されている。
「絵描きは絵だけ描いていてもだめだ。世の中とつながりを持たなければいけない。」。
印象は穏やかだが、凄い勇気を持っている。
画家としての実績と社会活動家としての実績という裏づけがなければ、波紋を巻き起こしかねない発言である。
平山郁夫の生涯を貫いた信念だろう。

ところで、私の父は陸軍中野学校の出身だ。
山陰から広島へ徒歩(?)で向かう途中、キノコ雲を目撃したが、それを母のほかに語らなかった。
一足先に市内に入った戦友が命を落とした。
予定が変わり、父と順番が逆になったのだ。
そうでなければ母と巡り会わず、私も生まれなかった。
父は戦争について、また広島について、私に一度も口を開かなかった・・・。

《略歴・作品》
1930年、広島県瀬戸田町で生まれた。
1945年、中学3年生のときに勤労動員先の広島で被爆した。
この体験が画家としての、人間としての原点となった。
1952年、東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科を卒業し、そこで後進を指導しながら前田青邨に師事した。
その後も教鞭を執りながら創作にいそしんだ。
教え子には人格を磨くことの大切さを説いた。
おもな活動の舞台となった日本美術院展で、1953年に「家路」が初入選した。1959年に「仏教伝来」が評価され、1961年に「入涅槃幻想」が大観賞を受賞した。
1966年、東京芸術大学からオリエント遺跡調査団の模写班の一員としてトルコに派遣された。
これをきっかけにシルクロードへの取材旅行を重ねた。
1968以降、「平和の祈り」を重ね合わせたシルクロードシリーズを40年以上描きつづけた。
1976年にこの東西交流の道を描いた作品群で、日本芸術大賞を受賞した。
1989年から東京芸術大学学長を2度務めた。
1996年から日本美術院理事長。
1998年、文化勲章を受章した。
2000年、奈良・薬師寺の「大唐西域壁画」を完成させた。
この間、法隆寺金堂壁画の再現模写、高松塚古墳壁画の現状模写に従事した。

平山郁夫は、世界の文化遺産の保存に関わった。
また、中国人を招いて敦煌の石窟群の修復技術を伝授するなど、日中の文化交流を深めた。
日本人初のユネスコ親善大使、アフガニスタンの支援など活動は多方面に及んだ。
ほかに、広島県名誉県民、広島市名誉市民、東京国立博物館特任館長、日中友好協会会長など。
社会的にもこれほどの功績を残した画家は珍しい(おそらくいない)。
人格者だった。

平山郁夫は、故郷の生口島の自然や人々を深く愛し、講演や著書で「古里が私を育てた」と感謝の気持ちを述べた。
「平山郁夫美術館」が造られている。
1998年に海道沿線の島や橋を描いた「しまなみ海道五十三次」を約1年がかりで制作した。

画家として生前の早い時期から高い評価を得た人はそれほど多くない。
平山郁夫は2009年12月2日に79歳で亡くなった。
自宅は神奈川県鎌倉市。

                       ◇

・・・私は、平山郁夫の画業は偉大だと思う。
足跡(職業人生)は文句なし。
しかし、個々の作品はどうなのだろうという疑問がすっかり消えたわけでない。
そもそも、偉大というのは画家に対する形容でないような・・・。

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平山郁夫シルクロード、日本人の深部に流れる川

以前のブログ「平山郁夫を偲ぶ…略歴と作品」において、私が琵琶湖近くの「佐川美術館」へ2度、足を運んだと記した。

私は、絵の勉強は中学校の授業まで。
したがって、好き嫌いは言えても、評価は行えない。
絵の良し悪しが分からないのだ。

世界的な画家の展覧会でも出向いたのは数えるほど。
行列も混雑も避けたいという気持ちが先に立つ。

ただ、これまでに百数十冊は画集を買い求め、ベッドに横たわって眺めたりした。
20代前半、生活費が尽きて、お気に入りの絵画全集を古本屋に引き取ってもらった。
絵は嫌いでない。

                       ◇

さて、1回目の訪問は駆け足だった。
そうした理由もあったが、なぜ2回目の訪問を行ったか?
高名な画家なのに、作品の魅力がピンと来なかったからだ。
シルクロードの絵を見て、いいなあとは思うが、それ以上の感動が得られなかった。
心がときめかない。

私にとり芸術とは魂を強く揺さぶってくれるもの。
明白な激しさをほしがる。

平山郁夫の作品は、技巧の確かな職人が丁寧に仕事をしたという印象に留まった。
真心のようなものは伝わってくるが、私は通俗性を拭えなかった。
画家としては珍しく生前に評価が確立していたので、自分に「見る目がない」に違いないと考えた。

                       ◇

私は以前、インターネットの情報に当たった。
平山郁夫にとり被爆体験は深い傷を残した。
20年間、広島へ行けなかった。

仕事で訪れたシルクロード。
それは、画家としての将来を決定づける運命的な出合いだった。
平山郁夫はそこに救済と鎮魂を求めた。
以来、戦争により失われた多くの命を背負い、シルクロードシリーズ(作品群)に平和の祈りを込めた。
それは、日本文化の源になった仏教を伝えた道を描くことでもあった。

平山郁夫の作品には、抑制された簡素な美しさがあるのかもしれない。
日本人の深部に流れる静かな川。
私は還暦を目前にし、その魅力がいくらか分かるようになってきたところ…。

平山郁夫は活躍の幅があまりに広い。
画家とは絵を描く人。
そうした通念をはるかに超えている。
思い込みの強い私は、平山郁夫をどこかで胡散(うさん)臭く感じていた。

実は、耳を疑う言葉が残されている。
「絵描きは絵だけ描いていてもだめだ。世の中とつながりを持たなければいけない。」。
印象は穏やかだが、凄い勇気を持っている。
画家としての実績と社会活動家としての実績という背景がなければ、波紋を巻き起こしかねない発言である。
平山郁夫の生涯を貫いた信念だろう。

                       ◇

私の父は陸軍中野学校の出身だ。
山陰から広島へ徒歩(?)で向かう途中、キノコ雲を目撃したが、それを母以外に語らなかった。
一足先に市内に入った戦友が命を落とした。
予定が変わり、順番が逆になったのだ。
そうでなければ母と巡り会わず、私も生まれなかった。

父は戦争について、また広島について、私に一度も口を開かなかった。

以下に、「平山郁夫を偲ぶ…略歴と作品」と題する2009年12月5日のブログを収める。
わずかに手を入れた。

                      ◇◆◇

佐川急便は琵琶湖の湖畔に保養所とそれに付随する体育館と広大な運動場(グラウンド)を有する。
ゴールデンウィークに恒例の社内行事があり、私は家族で招待されたことがある。
申し訳ないが、運動会に興味があったわけでなく、観光気分でご好意に甘えた。
感謝。

そして、近くの「財団法人佐川美術館」を訪ねた。
日本画家・平山郁夫の作品のコレクションでつとに名高い。
また、彫刻家・佐藤忠良の作品のコレクションも充実する。
佐藤忠良は、人が平凡な日常のなかで垣間見せる一瞬の美を作品に昇華させ、世界的に高い評価を得ている。
帽子をかぶった若い女性の彫像といえば、あれかと思う方も少なくないだろう。

私は佐川美術館が楽しみだった。
実は、以前に私一人で立ち寄ったことがある。
このときは帰りの新幹線の時間に追われていたので、慌てて見て回った。
そこで、平山郁夫の作品を中心に家族でじっくりと味わった。

                       ◇

先日、平山郁夫(ひらやま・いくお)が亡くなった。
79歳。自宅は神奈川県鎌倉市。
仏教、とくに仏教伝来の道となった「シルクロード」を題材にし、幻想的な画風を築いた。
それは日本文化の源流を探ることでもあった。
京都や奈良などに取材した歴史的風景画も多い。
叙情的な文学性、物語性が漂う。

《略歴・作品》
1930年、広島県瀬戸田町で生まれた。
1945年、中学3年生のときに勤労動員先の広島で被爆した。
この体験が画家としての、人間としての原点となった。
1952年、東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科を卒業し、そこで後進を指導しながら前田青邨に師事した。
その後も教鞭を執りながら創作にいそしんだ。
教え子には人格を磨くことの大切さを説いた。
おもな活動の舞台となった日本美術院展で、1953年に「家路」が初入選した。1959年に「仏教伝来」が評価され、1961年に「入涅槃幻想」が大観賞を受賞した。
1966年、東京芸術大学からオリエント遺跡調査団の模写班の一員としてトルコに派遣された。
これをきっかけにシルクロードへの取材旅行を重ねた。
1968以降、「平和の祈り」を重ね合わせたシルクロードシリーズを40年以上描きつづけた。
1976年にこの東西交流の道を描いた作品群で、日本芸術大賞を受賞した。
1989年から東京芸術大学学長を2度務めた。
1996年から日本美術院理事長。
1998年、文化勲章を受章した。
2000年、奈良・薬師寺の「大唐西域壁画」を完成させた。
この間、法隆寺金堂壁画の再現模写、高松塚古墳壁画の現状模写に従事した。

平山郁夫は、世界の文化遺産の保存に関わった。
また、中国人を招いて敦煌の石窟群の修復技術を伝授するなど、日中の文化交流を深めた。
日本人初のユネスコ親善大使、アフガニスタンの支援など活動は多方面に及んだ。
ほかに、広島県名誉県民、広島市名誉市民、東京国立博物館特任館長、日中友好協会会長など。
社会的にもこれほどの功績を残した画家は珍しい。
人格者だった。

平山郁夫は、故郷の生口島の自然や人々を深く愛し、講演や著書で「古里が私を育てた」と感謝の気持ちを述べた。
「平山郁夫美術館」が造られている。
1998年に海道沿線の島や橋を描いた「しまなみ海道五十三次」を約1年がかりで制作した。

画家として早い時期から高い評価を得た人はそれほど多くない。
入院先の病床でも創作意欲は衰えなかった。
ご冥福をお祈りする。

Copyright (c)2010 by Sou Wada

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和田創研代表
シニア起業家
和田 創(わだ・そう)

数字立て直し(伸長)一筋の経営コンサルタント。
教育と指導の年間実績は約百回。対象は社長から役員、管理者、社員まで、テーマは経営から管理、採用、事業、商品、企画まで広範。著書や教材は多数。
2017年、66歳以降はAIやロボット関連の起業に挑むとともに、おもに内需・地場企業から先端分野・成長分野の事業・商品開発を請け負う。

その他の役職
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