私はこの一年、自分に課した仕事がさっぱり進んでいない。
それなりに頑張っているつもり・・・。
会社に勤める身分でないので、上司から「これをやれ」と具体的に命じられるわけでない。
何に挑むか、何に取り組むかは、自分で決める。
だれかが方針なり方向性なりを示してくれたらさぞかし楽だろうと、疲れ切った頭で思うことがある。
私の仕事が進まない原因はいろいろ考えられる。
が、最大の理由は、目標が高すぎること。
それは現状から手の届かないところに置かれている。
平たく言えば、能力をはるかに超える。
私は階段をずっとのぼっているのに、目標に近づいているという手応えが得られない。
月を追いかけると月が逃げる、あの感覚。
私は無謀だ。
若い頃ならいざ知らず、還暦目前になり、できもしない目標を掲げたがるのは病気といえよう。
以下に、「自分の仕事をどう評価するか…人生論」と題する2010年6月24日のブログを収める。
大幅に手を加えた。
◆◇◆
自分の「仕事」をどう評価するか?
結論を述べれば、仕事で評価しない。
「人生」に位置づけて評価する。
すなわち、長いスパンで眺め、いまが「幸せ」になっていると感じたら、自分の仕事を評価するのだ。
仕事のための人生でなく、人生のための仕事なのだから…。
私たちが仕事の評価を仕事で行うと、一喜一憂しやすい。
営業職を例に取ると、成績や順位がよければ舞い上がり、それが悪ければ落ち込む。
私たちは、成果を出したり、成果を出せなかったりする。
あるいは、昇給や昇進が叶ったり、減給や降格に合ったりする。
いまや働く期間は半世紀に及んでおり、それでは幾多の試練や荒波を乗り切れない。
私は原則として年中無休、しかも起きている時間のほとんどを仕事に費やしている。
そうしなければ食べていけなかった。
また、40歳まではプランナー、40歳からは著者や講師だったので、仕事に「これで完了」というピリオドを打ちにくかった。
知的生産は、手間をかけるほど品質が高まり、それは際限がない。
ゆえに、あまり苦痛を感じないで仕事にのめり込めた。
が、それがよかったかと問われれば、答に窮する。
私は働くことが好きだと、よく勘違いされる。
遊ぶほうが断然好きだ。
でも、「あぁ、遊んだ」という記憶がない。
遊んでいる自分を夢見て働いてきたと言えなくもない。
私は本質的に怠け者である。
それが一変したのは、前妻と結婚して家庭を持ってからだ。
別人になった。
私のような“仕事人間”でなくても、たいていは人生の大きな部分を仕事に割かざるをえない。
それを重視して当然だ。
それを楽しむのはもっと大切だ。
けれども、仕事は所詮、手段にすぎない。
私たちが仕事の評価を仕事で下すのは間違いだ。
「いい結果を出したから…」。
そうした判断は、社長や上司に任せておけばよい。
また、企業での評価がそうなるのは致し方ない面がある。
私は、社員に対して社長であり、顧客に対してコンサルタントである。
したがって、仕事の評価を仕事で下す。
社員から、顧客から、私は仕事の評価を仕事で下される。
私たちが現実に仕事で生活を支えている以上、仕事でいい評価が得られるのは望ましいが、それがすべてでない。
私は、人生の理想が明確だ。
幸せであること。
では、幸せとは何か?
むろん、そう感じられること。
実は、幸せという感情がもっともシンプルであり、正直である。
ゆえに、自分をごまかせない。
現代人は、仕事と切り離して人生を考えることが難しい。
だから、両者の距離をしっかりと保たなくてなるまい。
仕事で結果を残しながら人生に幸せを感じられないのは、仕事に捉われているからだ。
両者の同一視、人により両者の逆転現象が起こっている。
したがって、働き方を誤ってしまう。
年齢を重ねるにつれ、人生がおかしくなっていく。
よりよい仕事は確かに「豊かさ」をもたらしてくれる。
しかし、もっと大事なのは、心の豊かさをもたらしてくれることだ。
そう、人生に幸せを感じられる…。
そんなあなたは周りをなごませ、明るくする。
自分の仕事は人生に位置づけて評価せよ。
一喜一憂すべきでない。
その成果が人生の果実につながってこその仕事である。
たかが仕事で気分が浮いたり沈んだり…。
つまらん。
◇◆◇
幸せに関するブログは以下のとおり。
⇒2010年11月18日「倉本聰の名言『貧幸』…ゲゲゲの女房の教え」はこちら。
⇒2010年11月19日「松下奈緒が茶の間に届けた『ゲゲゲの貧幸』」はこちら。
⇒2010年11月26日「貧しさのなかに幸せが息づく…昭和30〜40年代」はこちら。
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それなりに頑張っているつもり・・・。
会社に勤める身分でないので、上司から「これをやれ」と具体的に命じられるわけでない。
何に挑むか、何に取り組むかは、自分で決める。
だれかが方針なり方向性なりを示してくれたらさぞかし楽だろうと、疲れ切った頭で思うことがある。
私の仕事が進まない原因はいろいろ考えられる。
が、最大の理由は、目標が高すぎること。
それは現状から手の届かないところに置かれている。
平たく言えば、能力をはるかに超える。
私は階段をずっとのぼっているのに、目標に近づいているという手応えが得られない。
月を追いかけると月が逃げる、あの感覚。
私は無謀だ。
若い頃ならいざ知らず、還暦目前になり、できもしない目標を掲げたがるのは病気といえよう。
以下に、「自分の仕事をどう評価するか…人生論」と題する2010年6月24日のブログを収める。
大幅に手を加えた。
◆◇◆
自分の「仕事」をどう評価するか?
結論を述べれば、仕事で評価しない。
「人生」に位置づけて評価する。
すなわち、長いスパンで眺め、いまが「幸せ」になっていると感じたら、自分の仕事を評価するのだ。
仕事のための人生でなく、人生のための仕事なのだから…。
私たちが仕事の評価を仕事で行うと、一喜一憂しやすい。
営業職を例に取ると、成績や順位がよければ舞い上がり、それが悪ければ落ち込む。
私たちは、成果を出したり、成果を出せなかったりする。
あるいは、昇給や昇進が叶ったり、減給や降格に合ったりする。
いまや働く期間は半世紀に及んでおり、それでは幾多の試練や荒波を乗り切れない。
私は原則として年中無休、しかも起きている時間のほとんどを仕事に費やしている。
そうしなければ食べていけなかった。
また、40歳まではプランナー、40歳からは著者や講師だったので、仕事に「これで完了」というピリオドを打ちにくかった。
知的生産は、手間をかけるほど品質が高まり、それは際限がない。
ゆえに、あまり苦痛を感じないで仕事にのめり込めた。
が、それがよかったかと問われれば、答に窮する。
私は働くことが好きだと、よく勘違いされる。
遊ぶほうが断然好きだ。
でも、「あぁ、遊んだ」という記憶がない。
遊んでいる自分を夢見て働いてきたと言えなくもない。
私は本質的に怠け者である。
それが一変したのは、前妻と結婚して家庭を持ってからだ。
別人になった。
私のような“仕事人間”でなくても、たいていは人生の大きな部分を仕事に割かざるをえない。
それを重視して当然だ。
それを楽しむのはもっと大切だ。
けれども、仕事は所詮、手段にすぎない。
私たちが仕事の評価を仕事で下すのは間違いだ。
「いい結果を出したから…」。
そうした判断は、社長や上司に任せておけばよい。
また、企業での評価がそうなるのは致し方ない面がある。
私は、社員に対して社長であり、顧客に対してコンサルタントである。
したがって、仕事の評価を仕事で下す。
社員から、顧客から、私は仕事の評価を仕事で下される。
私たちが現実に仕事で生活を支えている以上、仕事でいい評価が得られるのは望ましいが、それがすべてでない。
私は、人生の理想が明確だ。
幸せであること。
では、幸せとは何か?
むろん、そう感じられること。
実は、幸せという感情がもっともシンプルであり、正直である。
ゆえに、自分をごまかせない。
現代人は、仕事と切り離して人生を考えることが難しい。
だから、両者の距離をしっかりと保たなくてなるまい。
仕事で結果を残しながら人生に幸せを感じられないのは、仕事に捉われているからだ。
両者の同一視、人により両者の逆転現象が起こっている。
したがって、働き方を誤ってしまう。
年齢を重ねるにつれ、人生がおかしくなっていく。
よりよい仕事は確かに「豊かさ」をもたらしてくれる。
しかし、もっと大事なのは、心の豊かさをもたらしてくれることだ。
そう、人生に幸せを感じられる…。
そんなあなたは周りをなごませ、明るくする。
自分の仕事は人生に位置づけて評価せよ。
一喜一憂すべきでない。
その成果が人生の果実につながってこその仕事である。
たかが仕事で気分が浮いたり沈んだり…。
つまらん。
◇◆◇
幸せに関するブログは以下のとおり。
⇒2010年11月18日「倉本聰の名言『貧幸』…ゲゲゲの女房の教え」はこちら。
⇒2010年11月19日「松下奈緒が茶の間に届けた『ゲゲゲの貧幸』」はこちら。
⇒2010年11月26日「貧しさのなかに幸せが息づく…昭和30〜40年代」はこちら。
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