コンサルの引き出し|和田創ブログ

だれの目の前にも可能性の地平は広がる。それを切り拓けるかどうかは自分次第である。「面白くないジョークの会」初代会長が解き明かす経営と人生の奥義とは?

新聞販売店

新聞販売店の収益源多角化支援サービス

購読者減少による存続危機を乗り越える
新聞販売店生き残り支援サービス
配達地域内の顧客獲得&事業開発代行

和田創研は、購読者の減少により深刻な存続危機に直面する「新聞販売店」の生き残りに特化した支援サービスをリリースします。
当社代表は新聞奨学生として住み込みで働いた経験を持ち、新聞販売店の内部事情に精通し、実態を理解しています。
本サービスは「新規開拓営業代行サービス」と「ビジネスモデル創造代行サービス」が2本柱です。

新規開拓営業代行サービスでは、配達やチラシ折り込みなどの本業収入への依存を脱却するために必須となる試行中の新事業の顧客獲得、新商品の販売・受注を後押しします。
当社は決定権者・キーマンとの面談をセッティングします。
BtoBが中心ですが、BtoCも一部可能です。

ビジネスモデル創造代行サービスでは、景気後退にも備えて収益源の多角化を急ぐうえで必須となる新聞販売店の地域とのつながり、住民の特性を生かしたニュービジネスの開発から成功まで寄り添います。
ICT革新の加速を乗り越えられる方策を具現化し、事業基盤を再構築します。

本サービスの対象は主として「法人向け営業」「店舗向け営業」「広告・販促・印刷」「求人・人材派遣」「宅配・運送」「教室・催事」「便利屋・代行屋」「取次店・代理店」「見守り・子育て」「管理・保守」の10のカテゴリーです。
ほかにも新聞販売店が初期費用を抑え、かつ軌道に乗せやすい新事業を追求していきます。
これらすべての事業や商品に関し、初回面談から継続面談、商談成立までを請け負う「新規開拓お任せコース」も用意しています。

《開発背景・趣旨》
新聞とその宅配制度は戦後長らく我が国の文化水準・生活水準の向上などに絶大な貢献を果たしてきました。
かつては一般紙と経済紙・スポーツ紙を併読する世帯が珍しくありませんでした。
しかし、ウェブなど情報接触手段の多様化と簡便化が進展した結果、紙媒体の購読者は減少の一途をたどっています。
さらに、新聞購読者の中心層が高齢になり、部数減少に歯止めがかかることは考えにくい状況です。
新聞販売店の経営環境が悪化して以降、新事業や新商品などの収益源の模索が続いていますが成果が乏しく、失敗も少なくありません。
この困難を打破する一助になればとの思いから開発したのが本サービスです。

原則として、1エリア1社限定でコンサルティングを請け負います。
本サービスは「戸別配達制度」の維持による新聞社そのものの勝ち残りにも有効です。

◇新聞社とのアライアンス

当社は将来的に全国の新聞販売店網と協力し、それぞれの配達地域内における「営業代行サービス」をスタートさせます。
オフィスやショップを巡回して注文を獲得する、商品を補充するなどの比較的簡易な業務から始めます。
これらは自動化が進んでいるとはいえ、品質や価格が同等の場合にはメーカーサイドからの働きかけが受注や販売に及ぼす影響は小さくありません。

事業開始時に当社が新聞販売店の営業教育を実施するとともに、受注・販売管理を効率化するモバイルツールとクラウドサービス(ソフトウェアロボット)を提供します。
新聞販売店は初期投資と本格準備をほとんど必要とせず、持ち味のフットワーク主体で新収益を上積みできます。
将来展望が開ける新事業を加えることにより人材の獲得にもつなげられます。

ついては、新聞社と連携し、企業から営業代行サービスを受託することも検討します。

新聞販売店生き残り支援サービス

◆開発者紹介

和田創研代表/経営コンサルタント
和田 創(わだ・そう)

1970年(昭和45年)、家庭の経済事情から日本経済新聞社の育英奨学制度を利用し、専売所に住み込みで働きながら明治大学への進学を叶えました。
また、長い職業人生でもっとも役立ったのが「新聞配達」の経験と考えており、昨今の新聞販売店の苦境に心を痛めています。
バブル経済崩壊後の危機的な状況では日経ビジネススクールや読売経営セミナーなどで講師として幾度も登壇するとともに、全国紙などの販売局や広告局の幹部と精鋭を対象とした教育指導に当たりました。
新聞販売店の生き残りに微力を捧げたいと願い、本サービスをリリースしました。

和田創プロフィール

◆会社紹介

事業は多岐にわたりますが、おもに営業の数字づくりの経営コンサルタントです。
業種や規模を問わず四半世紀を超えて教育指導に当たり、収益伸長・業績拡大に貢献してきました。
とりわけ「新規開拓」などの開発営業の推進による優良顧客の獲得・大口商談の成立を支援しています。
それと関連し、さまざまな営業代行サービスも提供しています。

和田創研ウェブサイト

営業代行・新規開拓代行サービス(ニューサイト)
本サイトは工事中の箇所があります。

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地獄の新聞奨学生制度へようこそ2

※文字数がブログの規定をオーバーし、2つに分割して掲載せざるをえなかった。
「地獄の新聞奨学生制度へようこそ1」に続いてアップする。


◆新聞配達の実際…新聞奨学生物語(2009年12月3日)

「新聞奨学生物語」第5回。
私が日経育英奨学会を通じて配属された「日本経済新聞高円寺専売所」。
先輩に教えられ、一人で新聞配達を行えるようになるまでの過程は第3回「いざ新聞配達!…新聞奨学生物語3」で述べた。
私は一度も経験がなかったので多少の不安があったが、1週間は要しなかった。
アルバイトの経験もゼロ。
正直、拍子抜け。
今回は新聞配達の実際について述べよう。
正直、苦労した。

【配達】
自分が配達する新聞をすべて自転車に積み込み、新聞販売店を出発する。
前のかごは交互に差し込んだ新聞であふれた。
前方の視界がふさがれ、また重みでハンドルがふらついた。
後ろの荷台は積み上げた新聞であふれた。
自転車はがっしりとした業務用であり、新聞の総重量と合わせ、ペダルが非常に重かった。
が、1カ月を過ぎた頃から慣れていった。
人の能力は凄い。

配達は、自転車を飛ばす。
団地やマンションなどでは自転車を降りて走る。
いずれも現在は社会的に許されない猛烈なスピードだ。
自転車については、夕刊時は人通りが多くても構わず飛ばした。
通行人の後ろで急ブレーキをかけると凄まじい金属音が出て、道を開けてくれた。
そうでなくては配達の時間が延びる。
「コンプライアンス」という言葉がなかった。
いまや宅配便でもかつてのように駆ける人は減ったはず。
例えば、佐川急便のドライバーは走らないのでなく、走られないのだ。
まして台車をガラガラ鳴らしたら、すぐにクレームが来る。
奨学生は良識のあるスピードで新聞を配っているのでないか。
様変わり。

私が最初に担当した区域はそれでも2時間半を要した。
夕刊は自転車が軽くなるのでいくらか楽だったが、なかなか2時間を切れなかった。
懸命に頑張り、朝夕刊で4時間半。
天候が悪かったり体調が悪かったりすると、5時間。
入店後しばらくして人の手当てがつき、所長の指示により先輩がときどき“中継”をやってくれた。
配達ルートの途中1〜2カ所にあらかじめ新聞をまとめて置いておいてくれる。
これは助かった。
ただし、新聞の重い朝刊時に限られた。
この中継は専売所の事情により、配達の面積や部数により、徒歩や自転車、バイクといった配達手段により、まちまち。
また、夕刊の中継をやってくれるところもある。

記憶が曖昧だが、新人(奨学生)が入店して人が入れ替わる1年後に、私は配達区域が変更になった。
恐らく所長にかけ合って変更してもらった。
受け持つ部数は5割増くらいか。
ところが、配達は朝夕刊で3時間〜3時間半に縮まった。
1時間半も一気に浮いた。
新聞販売店の近くの区域で、面積もぐっと狭まった。
大手企業のほかに独身寮などもあり、まとまった部数を一括で置くところが含まれていたためだ。
平たく言えば、配達区域が住宅街から繁華街へ。
それまでが地獄だったので、天国のよう。
1年間、耐え抜いたご褒美?

当時、日本経済新聞高円寺専売所は計8区だった。
これは絶対に忘れない。
しかし、配達区域の線引きの仕方のせいで、奨学生の負担に極端な不公平が生じていた。
所長の問題だろう(感謝はしても、恨みはない)。
私は40年程を経た現在でも、「第7区」から「第2区」へ変わったことをはっきりと覚えている。
いかに嬉しかったか。
入店時は配達区域の運不運に左右される。
長く勤める奨学生ほど楽な区域へ回れる。
当然、顔つきも“主(ぬし)”になろう。

配達の大変さは、一人が受け持つ部数の多寡とあまり関係ない。
区域内の読者の密度が重大。
大部数の新聞ほど楽になる傾向が強い。
当時、日本経済新聞はようやく百万部に届いた?
朝日新聞や読売新聞と比べると、配達部数はずっと少ないのに配達時間はだいぶ長かった。
彼らは繁華街や住宅密集街では自転車をポイントごとに停めて徒歩で配ることが多かった。
そのほうが効率がよいからだ。
日本経済新聞は発行部数が当時の4倍前後に達した。
首都圏、とくに東京地区では読者の密度が濃くなり、先の2紙と大きなハンディはないのでないか。
都心、それもオフィス街では逆転している可能性もある。

もう一つ。
日本経済新聞は読者が固定していた。
一般紙は出入りが激しく、配達先がかなり変わるようだ。
そうすると、「順路帳」をしょっちゅう手入れしなくてならない。
書き込みが増えてくると、新たにつくり直すことに…。
面倒だ。
ただし、日本経済新聞は部数の増加につれて“一般紙化”している。
読者の変動は、当時はほとんどなかったが、現在はいくらかあるのでは?


◆いい子にならない…新聞奨学生物語(2009年12月4日)

「新聞奨学生物語」第6回。
第5回で新聞配達の実際について述べた。
奨学生にとり一番の関心は、それがどれくらい大変かだろう。
学業にエネルギーを割かなくてならない。
奨学生の負担は、新聞社により違ってくる。
やはり大手の専売所で働くのが有利だ。
しかし、細かく見ていくと、「読者密度」が配達時間に重大な影響を及ぼす。
結局、それは配達の面積と部数の関係で決まる。
職業人生と同じで、新聞奨学生は入店先(入社先)と配達先(配属先)の運不運に左右される。

今回は新聞配達に関わる思い出を綴ろう。

新聞販売店(奨学会?)からユニフォームをあてがわれた。
ベージュのジャンパーと焦げ茶のスラックス。
私は、どうしたらこんなにセンスの悪いものをつくれるのかと呆れた。
地味で冴えない。
ところが、先輩はほとんど着用。
内心、みっともないと思った。
基本は自由なので、私は私服だった。同期の奨学生も…。
正直に言う。
私には専売所の“囚人服”に映った。

入店して半年くらい経って、私はユニフォームを着ることに抵抗感が薄れた。
どうでもよくなったのだ。
そういえば、真冬の氷点下の早朝でも汗をかくので、信じられない薄着だった。
私はこのペラペラのジャンパーを肌の上に直接。
専売所に風邪をひく奨学生などいなかった。

また、自転車がときどきパンクした。
その都度、配達区域から新聞販売店に戻ってくるしかない。
時間の大きなロス。
余っている自転車に新聞を積み替えて出かけた。
しかも、パンクの修理は配達が終わってから自分で行う。
寒い季節だと手がかじかんで、泣きたくなるのでは…。
しかし、私は2回程で、それ以外は専業か所長がやってくれた。
なぜなら、やがてパンクしても戻らずに配りつづけた。
自転車が壊れても知ったものかという気持ち。
そして、思い切り遅い時間に「あーあ、パンクした…」と大騒ぎしながら専売所に戻ってきた。
ふてくされた表情で食事を済ませ、自室に引きこもった。
自転車が重くなるために普段より疲れるのは確かだが、うんざりするほどでもない。
次の新聞配達のとき、なぜかパンクは直っていた。
奨学生として身につけるべきコツを早めに掴んだ。

現在、私は街のつくりがゆったりとした横浜・港北ニュータウンに暮らすせいか、この辺りはわりとバイクで配っている。
断然楽。
配達に自転車を使うところがいくらか減った?
都内(外れは除く)や首都圏の繁華街では、いまだに自転車なのかもしれない。
読者の密集地域などでは徒歩も…。
新聞社だから「エコロジー」への配慮が求められよう。
そのうち電動自転車も用いられるかもしれない。

実は、私は入店後4〜5カ月、新聞販売店とのつきあい方が分かった。
所長にとりもっとも困ることは何か?
第1に、私が配達を放棄すること。
第2に、私が配達を遅延させること。
当時は専売所に代替要員や余分な人手がなかった(現在も?)。
第1はやらなかったが、第2は状況に応じて柔軟に取り入れた。
私は夏頃には心の余裕が得られ、マイペースを貫けるようになった。
肝に銘じたのは、“いい子”にならないこと。
所長に頼りにされてしまう。
奨学生は専業員と訳が違う。

第1と第2は、読者に迷惑をかける。
第1は、同僚に迷惑をかける。
私は、やってはならないことだと考えていた。
が、第2をときどき…。


◆読者へのお詫び(2009年12月8日)

私はバタバタの状態で、ブログのストックが底を突いた。
かなり先々まで書き溜めることが多いのだが…。
ラフな素材(メモ)は豊富だが、アップできる状態に仕上げる時間をまったく割けない。
今後のブログの更新が覚束ない。

私は「ライブドア」のブログを2007年2月半ばに始めた。
現在では「アメーバ」「FC2」「ヤフー」の3つのミラーサイトを含め、1日約3百人〜千人の方々にお読みいただいている。
ここ1カ月は平均5百人弱。
その過半〜大半はライブドア。
著名人ブログでも人気ブログでもないので人数は多くないが、わりと安定している。
固定した読者が訪れてくれる?
拙い内容ながら、楽しみにしてくれる方がいるのだ。

これまで、より多くの方々に読んでいただきたくて、眠る時間を削って書いてきた。
ときどきでなく、しばしば…。
文字どおり「ブログ三昧」。
とても辛く、とても楽しい経験だった。
心より感謝したい。

まことに申し訳ないが、1カ月くらい、ごく簡単な雑文しかアップできない。
数行か。
原則として休止…。
全20回前後を予定していた「新聞奨学生物語」も1カ月ほど中断する。

ついては、2007年に書いたライブドアブログのなかから、自分なりに力を入れたものをピックアップして載せることもある。
私のブログを早い段階から読んでいただいている方には、同じ内容になるため、お詫びしたい。

時間のゆとりが生まれたら、気合いを入れてブログを更新する。
幾多の困難に直面するだろう子どもにも残しておきたい。
だから、かならず再開する。

                       ◇

私は職業人生のリタイアを迎えようとしている。
また、アルツハイマー発症の恐怖と闘っている(両親とも家系)。

20年間続けてきた「和田創研」、16年間頑張ってきた「NPO法人営業実践大学」を、約15カ月後の2011年3月末日に閉鎖する。
予定どおり。
私は残り少ない人生に大きな変化を求めたい。

来年度はいわば“総仕上げ”の時期になる。
最後を飾るにふさわしい最良の1年にしたいと考えている。


◆連載再開のお知らせ(2010年3月6日)

長らく中断していた連載「新聞奨学生物語」を再開する。
週に1〜2本のペースでアップするつもり。

新聞奨学生だった私は意志が弱く、挫折を味わった。
締まりのない生活を続けた。
それ以前に、不良新聞少年だった。
朝刊の配達が遅れ、読者に迷惑をかけたりした。

が、かなりの人は仕事と学業を両立させ、4年制大学を無事に卒業する。
それが何割程度かは分からない。
私が配属された日本経済新聞高円寺専売所に、そして私が配達時に知り合った朝日新聞や読売新聞、毎日新聞、東京新聞の奨学生に、そうした先輩が少なくなかった。
立派の一言!

試練は最初の1年だ。
そこを乗り切ってしまうと続くようだ。
私の場合、1年目の地獄から2年目の天国へ、仕事が劇的に楽になった。
4年間は続けられるとの手応えも感じた。
日本経済新聞高円寺専売所では卒業まで頑張りそうな大学生のほうが多かった。

この「新聞奨学生物語」は、新聞配達を続けながら学校に通う多くの奨学生にぜひお読みいただきたい。
私からの渾身のエールだ。
頑張れ!

以上。

なお、私は日本経済新聞およびグループ企業に大変お世話になってきた。
私がささやかな実績を残せたのは、日経グループのお陰といってよい。
著者として雑誌で連載し、単行本を刊行した。
また、講師として公開セミナーや企業研修を実施した。

何より、私にとってもっとも有益な経験は「新聞配達」だった。
半世紀に及ぶであろう職業人生を支える、揺るぎない自信となった。
感謝の念に堪えない。

その日本経済新聞社が3月23日に「日本経済新聞電子版(日経電子版)」を創刊する。
隔世の感がある。
新聞(紙)の購読者は新聞代+1000円、非購読者は4000円。

日経は紙の販売部数を維持すると自信を見せるが、どうだろう。
私は日経電子版を併読するが、出来を見極めたうえで紙をやめるかもしれない。
紙の販売部数は激減する可能性がある(地球環境には非常に好ましい)。

となると、近い将来、新聞販売店(実際は新聞配達店)と新聞配達もなくなる?
宅配制度の崩壊により新聞奨学生制度は消滅するのか。

日経新聞電子版の発行は、新聞を読むものから「使う」ものへ変える画期的な転換点になる。
世界にもほとんど成功例のない取り組みだが、私はその成功を切に願う。
日経の勇気に拍手を送りたい。


◆日経BP社・日経ビジネスの行く手(2009年11月24日)

このブログで、21世紀に入って衰退の速度を増す「マスコミ業界」について幾度か触れた。
とくに昨秋来、雑誌など“紙媒体”の不振が相次いで表面化している。
出版社を取り巻く環境は一段と厳しさを増そう。
3年後、5年後、10年後、生き残れるところはそれほど多くないのでは…。

さて、私は「日本経済新聞」を購読しつづけている。
といっても、個々の記事を読むのでなく、紙面全体を眺めるくらい。
結局、私は“見出し”を拾うために毎月、新聞購読料を払ってきた。
後悔はない。
新聞はそうしたつきあい方で十分だと思う。

で、日経を眺めていて、いくつか気になることがある。
なかでも子会社の「日経BP社」の年間予約購読誌の広告が激減したこと。
いわゆる“全5段”で毎日のように載っていた時期がある。
だが、大きな部数を誇る「日経ビジネス」の広告さえほとんど見かけなくなった。
それ以前に、これでもかというほど送られてきた同社のダイレクトメールが消えてしまった。
勝ち組の日経BP社とて、出版業界に吹き荒れる構造不況の嵐にあおられているのだ。

私は以前、展示会やセールスプロモーション(販売促進)の情報誌「日経イベント」で2年弱、連載を行った。
毎月5ページ前後のスペースを割いてくれた。
連載は幸い読者から絶大な支持を受けたが、雑誌自体は残念ながら休刊(廃刊)に追い込まれた。
私が講師として同誌で行った企画力養成のための公開セミナーは高額にもかかわらず、北海道から九州まで大勢の読者などが押し寄せてくれた。
日経BP社の紀尾井町会場を埋め尽くす大盛況となり、雑誌の威力を思い知らされた。
終了後、当時の編集長に講義を褒められ、駆け出しだった私は自信を得ることができた。

私はすでに講師をときどき引き受けていたが、これが本格的な講師稼業につながっていく。
日本経済新聞社の「日経ビジネススクール」で企画と営業の分野を中心に講師を務めた。
多い年は数回の開催。
つきあいは恐らく7〜8年間に及んだ。
評価の厳しい受講者を前にし、さらに経験を積むことができた。
そして、「プレジデントセミナー」「読売経営セミナー」などの他社主催の公開セミナーへ広がった。

また、40年程前に日本経済新聞社の奨学生として、高円寺専売所で新聞配達の業務に携わっていた。
「日経ビジネス」が創刊されるということで、読者獲得のために頑張った。
所長に命じられたわけでも、報酬をもらったわけでもない。
タダ。
顧客との触れ合いが楽しく、進んで外へ飛び出した。
これが、私が初めて経験した「営業活動」。
今日の営業講師と営業コンサルタントの道を歩む第一歩となった。
とても懐かしい思い出だ。
当時は日経BP社でなく「日経マグロウヒル社」だった。

私は、職業人生を振り返り、日経グループに少なからずお世話になっている。
会社にも媒体にも素晴らしい勢いがあったから、私もその恩恵に浴することができた。
感謝の気持ちで一杯である。
しかし、いまや出版業界は地殻変動の真っ只中。
日経BP社にとっても行く手は険しいはずだが、どうか力強く勝ち残ってほしい。

                       ◇

新聞と宅配制度に関する私のブログは以下のとおり。

⇒2009年8月20日「新聞が消える、宅配がなくなる」はこちら。
⇒2009年8月21日「新聞販売店の生き残り」はこちら。
⇒2009年10月14日「溜まった新聞にうんざり…出張帰り」はこちら。
⇒2009年10月14日「凄い! 日経が電子版で読める!」はこちら。
⇒2009年11月20日「書籍・雑誌・新聞、紙媒体消滅へ」はこちら。
⇒2009年11月23日「新聞・テレビ・広告は構造不況業種」はこちら。

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2010年3月公開講座

地獄の新聞奨学生制度へようこそ1

おもに大手新聞社が提供する「新聞奨学生制度」。
経済的な事情などにより進学が困難な大学生、短大生、専門学校生などを支援することが目的だ。
今年も新聞奨学生が新聞販売店・専売所に入店・入所する時期に差しかかった。
皆、重大な決意と覚悟を固め、未知の世界に飛び込んだはずだ。
多くは地方出身者。
不慣れな都会で、はたして仕事と学業の両立は図れるのか。

私は約40年前、日本経済新聞社の「日経育英奨学制度」を利用して上京した。
その経験を踏まえ、曖昧な記憶を辿りながら「新聞奨学生物語」の連載を行っている(途中)。
これまでにこのブログに発表した原稿をまとめて掲載した。


◆親を捨てる口実…新聞奨学生物語(2009年11月29日)

「新聞奨学生物語」第1回。
私は両親がアルツハイマーの家系だ。
還暦間近で、いつ発症してもおかしくない。
父は私の年齢で痴呆が始まっていた。
私は頭がボケないうち、若い頃の自分を書き留めておきたいという気持ちが強くなっている。
また、再婚後の子どもが小学生であり、大人になったときに読んでもらえれば嬉しい。

先日のブログで「日経BP社・日経ビジネスの行く手」と題し、私と日本経済新聞社、日経マグロウヒル社、日経BP社など日経グループとのつながりについて触れた。
私は新聞社の「奨学生制度」にお世話になった一人。
ほかに選択肢がなかったから…。
一言で言えば、とてもつらい経験だった。
しかし、それがその後の職業人生、いや人生の基盤となったことは確かである。
私は20歳のときには食べていく自信を得ていた。
そこで「新聞奨学生物語」と題し、数回に分けて綴りたい。
それほど遠くない将来、紙面の電子化により、新聞配達そのものが消滅する可能性もある。
ささやかな記録にもなろう。

                       ◇

受験生は入試シーズンが迫り、志望校を最終決定しなくてならない。
しかし、世の中は景気が悪化し、所得格差も拡大している。
進学を望む、とくに東京圏の大学や短大、専門学校などへの進学を望むが、家庭の経済事情が許さない。
どうしたものか…。
悩んだ末に、大手新聞社の「奨学生制度」の利用を検討している若い人もいるだろう。
何せ入学金や授業料など学校への納付金を含め、学生時代に親の金銭的な援助を一切受けなくて済む。
毎月の仕送りもいらない。
奨学生制度が魅力的に映るのは確かだ。

私は40年程前、富山県立魚津高校に在籍していた。
父に示された条件は、家から通える富山大学(国立)への進学なら認めるというものだった。
「それなら何とか工面できる」。
だが、私は何が何でも上京すると心に決めていた。
東京へ行きたいのもさることながら、とにかく暗い家に留まるのが辛かった。

私は、高校が徳島、東京、富山の3都県にわたった。
2度の学年途中の転校により教科書がすべて変わり、習っていない箇所があちこちに生じた。
長野・伊那中学校時代は確か「オール5」を取ったこともあり、苦手はなかった。
この頃はぼんやりと「東大(東京大学)」に入るのかなと思っていた。
が、高校では勉強に穴が開いた状態。
当時の家庭環境もあり、それを補う努力をまったくしなかった。
成績が急降下。
父のサラリーマン人生の転落、両親の離婚話については、以前のブログ「離婚話」で述べた。
⇒2008年11月09日「離婚話」はこちら。

とくに数学など順序立てて学習する教科はひどかった。
したがって、入試が5教科となる国立大学の合格は早い段階に諦めていた。
転校のハンディを克服する人もいるわけで、もっぱら私の意欲の問題だ。
実際、高校時代に予復習も受験勉強もしていない。
無気力だった。

私は恐らく朝日新聞社と読売新聞社、日本経済新聞社の奨学生制度の資料を取り寄せた。
そうした制度があることをどこで知ったのか不思議。
私の執念?
たいした内容はないのに、何度も繰り返して読んだ。
そのうえで日本経済新聞社の奨学生制度に決めた。
これも不思議だが、日本経済新聞は見たことも聞いたこともなかった。
私の嗅覚(きゅうかく)?

しかし、そこを選んだ理由を思い出せないくらいなので、16〜24ページくらいのカラーパンフレットの出来とかキャッチフレーズなどの表面的な印象に左右されたのでは…。
保存しておけばよかった。
正確な文言は思い出せないが、私が強く反応したのは2点。
第1に「完全個室」。
個室だけでもしびれるのに、“完全”の2文字にノックアウトされた。
マンション風の小奇麗な一室の写真が添えられていた。
私の空想は膨らんでいき、すぐに自分の部屋になった。

第2に「憧れの東京で、勉強と仕事の両立」。
“憧れの東京”は、私の心にピタッとはまった。
都立墨田川高校時代に、幼稚園や小学校や中学校時代とは異質の恋をした。
都会の中流家庭の多感な女の子。
明るくて優しいが、どことなくけだるく、小悪魔的な雰囲気を漂わせていた。
とてもチャーミング!
新潟、長野、徳島と、田舎育ちの私はとりこになった。
あまりに好きで、オナニーの対象にならなかった。
彼女に思いを打ち明ける前に、別れも告げずに魚津高校へ。
悔いの念をずっと引きずっていた。

“勉強と仕事の両立”はどうでもよかった。
両親が富山大学卒業後のYKK(吉田工業)への就職を含めて地元に留まることを望んでおり、私は大学進学を口実に上京したかっただけ。
そのためには、奨学生制度を利用せざるをえない私立大学が好都合だった。
東京六大学なら、親の面子も立つ。
“勉強と仕事の両立”は、むしろ親に対する説得材料。
インターネットで検索したところ「日本経済新聞育英奨学会(日経育英奨学会)」とある。
当時もそうした名称だったかもしれない。

私はついにパンフレットを見せ、両親を説き伏せた。
1円もかからないのだから、強く反対のしようがない。
私立大学3校を受験した。
高校時代は家で教科書も参考書も開かなかったくらいなので「過去問」は解かなかった。
志望校の下見もしていない。
投げやりだった。
明治大学経営学部と法政大学経済学部は合格。
新潟・直江津小学校、長野・伊那中学校までの成績の貯金で十分に入れた。
数回の模擬試験での判定はずっと安全圏。
私は勉強する気もなかったのに「経営学部」の“経営”の響きに惹かれていた。
当時は神戸大学(国立)を除いて唯一。
この段階でサラリーマン人生は眼中になかったのかもしれない。
東洋紡績による呉羽紡績の吸収合併をきっかけとした父の転落を目の当たりにし、嫌気が差していた。
会社を信用したらお仕舞いだと思っていた(いまだにそう思っている)。

早稲田大学政治経済学部は不合格。
模擬試験での判定は5割を切る辺り。
合格しても不思議はない。
入学試験は得意な問題が多く、上々の出来だった(推測)。
私は合格を疑わなかったが、「サクラチル」の電報。
当時は内申書の成績が重視され、比重は半々(うろ覚え。私立大学は無関係?)。
私は宿題もろくにやらなかったので、内申書がボロボロだった。
第1志望は明治大学経営学部だったが、早稲田大学に受かっていたらそちらを選んだかもしれない。
何といい加減な…。
一番の友人は早稲田大学が不合格、東京大学が合格。
私はやはり早稲田大学を選んだ。

が、悔しさはなく、私はむしろ明治大学でホッとした。
六大学のなかでもっとも勉強がゆるそうだった。
仕事に早く慣れたくて、卒業式を待たずに夜行列車で上京した。
荷物はほとんどなく、身一つ。
3月初旬か前半の寒い深夜、両親は入善駅までついてきた。
私は見送りを断ったと思う。
しかも入場券を買い、乗り場に入った。
家を出てから会話は少なめ。
吐く息は真っ白。

列車が滑り込んできた。
私はデッキ(昇降口)に立った。
母が切なそうに見つめ、声をかけた。
無口な父が、体に気をつけて頑張りなさいと言った。
両親は寂しそうだった。
が、それ以上に私を案じていたのでなかったか。
歳月が流れ、そう思うようになった。
当時は「苦学生」という言葉が生きていた。
両親は、私の行く手に“地獄”が待ち受けていることを分かっていたのだ。

入善町椚山の貧農に長男として生まれた父(大正生まれ)は向学心と成功欲に燃えて大阪に行き、書生暮らしを味わった。
それを母から聞かされたのは、2年後?
あるいは十年後?
大変な苦労だったろう。
父は昔、自分を見送ってくれた母(私の祖母)の光景とダブったのでは…。
父(私の祖父)は早く亡くなり、母が育ててくれた。
しかも大やけどで片手が溶けて団子みたいに縮まり、農作業が厳しかった。
にもかかわらず、跡を取らず、家を飛び出した。
その父を、祖母はいつも案じていたらしい。

私は、入善駅のホームでの両親の表情がいまだに脳裏に焼き付いている。
列車がゆっくりと動き出した・・・。
そのとき、私は親を捨てていくようで、申し訳ない感情が湧いてきた。
この思いは後々まで尾を引いた。
やがて、妹に両親を押し付けたという呵責が加わった。
これが約30年後に両親をこちら(横浜・港北ニュータウン)に呼び寄せることにつながった。

私は、いよいよ新聞販売店に入店し、新聞奨学生としての生活を始める。


◆奨学金の今と昔…新聞奨学生物語(2009年11月30日)

「新聞奨学生物語」第2回。
高校卒業後すぐに働いて家庭にカネを入れなければならない人は別として、親にカネがないという理由で大学進学を諦めなくてよい。
昔もそうだったが、今はなおさらだ。
私は大学進学が40年程前であり、当時は奨学生制度が貧弱だった。
「日本育英会(現在は日本学生支援機構)」のほかは地方自治体が細々と学生の経済支援を行っていたくらい。
月額は小さく、学業を続けていくには不足がかなり生じた。
しかも、成績がそれなりに優秀でないと、奨学金を受けられなかった。

しかし、現在は有利子(低利率)のものを含めると、希望者はだいたい奨学金を受けられる。
月額は幅が広く、学生の成績や経済状況、通学形態などで上限が大きくなる。
後は入学手続きに必要なカネを手当てすれば、大学進学を叶えられる。
当時との最大の違いは、この“一時金”を用立てる教育ローンが整ったこと。
上限は5百万円程。
大学生でも入学金と4年間の授業料など、学校納付金をすべて賄える。

ただし、教育ローンはもちろん奨学金も“借金”である。
学生は卒業後、長期にわたり返済を行わなければならず、それへの覚悟を欠かせない。
ちなみに、私の前妻は東京女子大学を日本育英会の奨学金に助けられながら卒業した。
がんを患い、完済直後に他界した。
どこまでも律儀な性格だった。
返還義務は重く、学ぶ意欲がないのに奨学金などに頼って大学へ入ってしまうと後悔するのでは…。

私は高校時代の通知表がひどかった。
申し込んだとしても、奨学金は貸与されなかったろう。
また、仮にそれが通ったとしても、入学時の一時金、それ以降の授業料などを準備できなかった。
家が貧しい。
どうにもならない状態なので、あれこれ悩みようがない。
私は東京の私立大学への進学を諦める気はなかった(本音は東京での暮らし)。
考えるまでもなく、結論は「独力」。
選択肢はなく、大手新聞社の「奨学生制度」を利用した。

                       ◇

私は明治大学経営学部に合格すると、富山県立魚津高校の卒業式を待たずに上京した。
新聞奨学生としての第一歩を早く踏み出したかった。
奨学会が学校納付金を全額負担してくれる。
勤めあげれば返済は不要であり、私はむろん4年間を覚悟していた。
また、新聞販売店が住居と食事(1日2食)を提供してくれる。
何も持たなくても、最低限の生活は困らない。
非常にありがたい制度だった。

私は寒さが残る3月初旬か前半、わずかなカネと普段着をカバンに詰め込んで東京にやってきた。
余談だが、旅費も出してもらったかもしれない。
そして、千代田区大手町の「日本経済新聞育英奨学会(日経育英奨学会)」に行った。
以下は、曖昧な記憶に基づいて記す。

日経新聞育英会のドアを入ると、カウンターを挟んでスーツを着た職員と、こわばった面持ちの学生1〜2人が向かい合っていた。
私が職員から待つように指示された後方の椅子に、ジャンパーなどを着た中年2〜3人が座っていた。
人相がよくない。
知的な雰囲気がまるでないので、新聞社の社員でないことは分かった。

すぐに私の順番になった。
書類は事前に郵送で提出していたのでないか。
なぜなら、その場で学校納付金を手にした記憶がない。
大金ゆえに忘れないはず。
すでに金銭処理は終わっていた?
だれが日経育英奨学会から学校納付金を受け取り、明治大学の入学手続きを行ってくれたのだろう。
前者は、本人以外は認められないのでは…。
親に尋ねたくても母は亡くなり、父はボケた。
キツネにつままれたよう。

私がその日に日経育英奨学会を訪ねたのは、入店先を決めるためだった。
だとすれば、私は2回目になるが…。
でも、初めてだったのは間違いない。
謎が残る。
悲しいほど、あやふや。

私は、確かその場でのやり取りがほどんどなかった。
職員は後方の椅子に座る中年の一人に「連れて行きますか」と声をかけた。
「明治大学の学生」と添えたかも…。
それに対し、中年男は無言でうなずいた。
私の配属が決定した瞬間である。
「日本経済新聞高円寺専売所」。
胡散臭く感じたのは、新聞販売店の所長たちだった。
挨拶もなく、「行こう」。
私はこれじゃ人買いだと思った。

所長はコロンとした体型。
背が低く、腹回りが出ていた。
そのわりにとっとと歩くので、私はついていくのが精一杯だった。
太くて短い首は、やけに赤黒かった。
新聞配達の日焼けか、それとも酒焼けか、気になって仕方がなかった。
私は、千代田区大手町の日経から杉並区高円寺南の専売所まで地下鉄丸ノ内線で行ったのだろうか。
その交通手段を覚えていない。
途中は沈黙が続いた?

所長はムスっとした表情。
話し方がぶっきら棒で、口数が少ない。
悲壮な決意で上京した私をリラックスさせるどころか緊張させた。
後日、先輩によれば、所長は最初のうちはだれにもそうした態度を取るとのこと。
新聞販売店には奨学生だけでなく専業も入ってくる。
そこに一癖も二癖もある輩が紛れ込む。
学生にも猛者がいる。
従業員になめられたら、新聞販売店の所長は務まらないのだそうだ。

なお、人は結構、どうでもよいことを覚えていたりする。
私は国電東京駅から日本経済新聞社へ向かいながら、日本最大のビジネス街、大手町のビル群を見あげて血が騒いだ。
活躍の舞台に対する憧れだったろう。
しかし、キョロキョロしてはまずいと戒めた。
周りはエリートばかり。
かたや私はやせ細り小汚い野良犬である。
みすぼらしい自分の姿が心に浮かんできた。

また、私は専売所の所長に荷受けされ、奨学会の部屋を出てエレベータで1階へ。
途中階で日本経済新聞社の社員がどんどん乗り込んできた。
そして、遠慮ない視線を注いだ。
私は癪に障り、睨み付けた。
見世物じゃない!


◆いざ新聞配達!…新聞奨学生物語(2009年12月1日)

「新聞奨学生物語」第3回。
私は、日経育英奨学会で無愛想な所長に引き取られ、「日本経済新聞高円寺専売所」に入店した。
所在地は杉並区高円寺南1丁目。
中野区と杉並区の境界辺り、大久保通り沿いに立地する4階建てビル。
新築後それほど年月が経っていないのでは…。

最寄り駅は国電中央線「中野駅」、徒歩で8分程。
隣の「高円寺駅」、12分程。
私は高円寺駅に出たことがない。
地下鉄丸ノ内線「東高円寺駅」、5分程。
なお、高円寺専売所はいわゆる「新聞販売店」。
とはいえ、おもな業務は販売でなく配達である。
長らく新聞の宅配制度を支えてきた。

また、「専売所(専売店)」とは、1社の新聞しか扱わないという意味。
かならずしも1紙でない。
私が日経高円寺専売所で配ったのは「日本経済新聞」。
日本経済新聞社(本社)が配達請負の契約でも結んでいたのか、ほかにスポーツ紙1紙と業界紙数紙。
こちらは、合計10部に届かなかった。
やがて「日経流通新聞(現在は日経MJ)」が創刊された。
週3回の発行で、こちらも負担になる部数でなかった。
「併売店」は2社以上の新聞を扱う。
東京地区の繁華街やオフィス街、開けた住宅街は、大手新聞社については「専売所」が中心だろう。

しかし、昨今では「専売所」という言葉が消え、カタカナの名称に置き換えられた。
それにともない、「専売」「併売」の区分けもぼやけてきているのかもしれない。
新聞社は実売部数が落ち込めば、配達についても思い切った合理化を推し進めなくてなるまい。
将来、電子化の流れが加速すると、全紙を扱う新聞販売店が登場するのでなかろうか?

                       ◇

私は専売所に到着し、所長から大雑把な説明を受けた。
日経育英奨学会のパンフレットに担当業務は記されていたが、いささか乱暴だった。
まあ、単純な肉体労働だから…。
私はすぐに「新聞配達」に携わった。
それが翌日の朝だったか、翌々日の朝だったか記憶がない。
配達時の運動靴や汗拭きタオル、自室で茶を飲むための湯沸かし(ポット)など雑貨は欲しいはずで、その買い物に中野駅方面に出かけたのでないか。
1日の猶予が与えられた?

最初、私が先輩(前任者)につく。
互いに自転車。
新聞を積むのも配るのも先輩。
冷え込みの厳しい日の朝刊だったことを覚えている。
1軒目の塀の投函口がありありと目に浮かぶ。
その部分だけを忘れない。
もちろん、辺りは真っ暗。
私は、実際の道筋と配達先を「順路帳」に記されたそれと照らし合わせる。
街灯や玄関の明かりが頼り。
しばらくして空が少しずつ白んできた。
このときは先輩に遅れないようにするのが精一杯で、順路帳はまともに見られなかった。
夕刊は明るいので、順路帳を見やすく、周囲の光景などを覚えやすかった。
朝刊と夕刊では人通りがまったく違う。
徐々に新聞を積むのも配るのも私。
最後、先輩が黙って私につく。

多くの配達先を覚えられるか不安に感じる人がいるかもしれない。
しかし、「順路記号」はきわめてシンプルでありながら、とてもよく考えられている。
私は4〜5日間かかった(不確か)。
早いといえないが、とくに遅くもない。
皆がこれくらいの日数で覚えるらしい。
私は方向音痴だが、新聞配達に影響はない。
記憶力の良し悪しもあまり関係がない。
ベテランだと、1日どころか朝刊か夕刊のいずれかにつくと大丈夫。
配達に不可欠の情報は順路帳に記されているからだ。
なお、前任者のつくったそれに自分なりのワンコメントなどを添えると完璧だろう。

先輩は入店し、一人で配達するようになったばかりで退店した。
理由は聞かされなかったし、聞かなかった。
だから、本人に余裕がなく、指導される側は大変だった。
私が覚えたら即座に辞めるとプレッシャーをかけられた。
気性の激しい人だったが、幾度か軽く叱られたくらい。
新聞販売店で働く人はだいたいが穏やかで優しい。
そうでない人もそうなってしまうようだ。

私は初めて一人で配ったとき、3時間半はかかった?
ふらふらになって専売所に戻ってきた。
所長と奥さんが温かく出迎えてくれた。
皆は朝食が済んでおり、一人で食べた。
そのときの味噌汁のおいしさは忘れられない。
大げさと笑われそうだが、感動!
後日、仲間に尋ねたら、全員がそうだった。

私は自室に戻り、ベッドに横たわった。
そして、ささやかな充実感を味わった。
同時に、これが毎日続くのかとも思った。
4年間。
いまは大学が始まっていないから苦にならない。
社会人として仕事をやっているにすぎない。
まもなく学生を兼ねることになる。
しかも、そちらがあくまで「主」。
う〜ん。
それと、生活のリズムをつくっていくのは容易でないと感じた。

実際に引き返せないし、また新聞奨学生になったことに後悔の念はこれっぽっちも持たなかった。
私にとり第一の目的は「上京」。
それがこうして叶ったわけだから…。
しかし、前途は多難だ。


◆チラシ折り込み…新聞奨学生物語(2009年12月2日)

「新聞奨学生物語」第4回。
新聞奨学生は苦労が大きい。
中途半端な覚悟でやり通せるものでない。
私の頃は文字どおり“地獄”だった。
今の奨学生に叱られるかもしれないが、昔の奨学生は肉体的にも精神的にも数倍は過酷だったと思う。

家庭の経済事情から新聞奨学生制度を利用し、大学や短大、専門学校などへの進学に踏み切ろうとする高校生は少なくない。
私は向学心に燃えて頑張る人を尊敬するし、応援したい。
そこで、40年程前の実情や実態を紹介しながら、奨学生が経験するであろう業務や環境などについて述べてみたい。
ただし、私は現在の状況や様子を正確に把握しているわけでない。

【折り込み】
別刷(本紙以外)とチラシがあるときには、配る前に朝刊に折り込まなくてならない。
真面目な奨学生は、その分早めに起きていた。
私は、偉いなぁと感心したものだ。
当時はすべて手作業。
日本経済新聞はチラシがないのが普通だった。
現在もそれほど多くない(ただし、併売店では一般紙のチラシが日本経済新聞にも割り当てられることがある)。
日本経済新聞ではチラシよりも別刷のほうに時間を奪われた。
週に1〜2回だった(うろ覚え)。
別刷はおもに8〜16ページだが、折り込む手間はチラシ1枚分とそれほど変わらない。
あっという間に片づけられる。
ごくまれにチラシが多いことがあり、いやになった。
それでも数枚止まり。
あ、夕刊にチラシが入ることは例外で、まずない。

東京圏では朝日新聞や読売新聞などの全国紙にチラシが膨大に入る(他地域は不明)。
数枚以上、金・土・日曜日、祝日には優に十枚以上。
現在は平日でも十枚を超えたりする。
それ以外の日は30〜50枚に達したりする。
昔も今も一般紙はチラシが多い。

当時はこれを手作業で折り込んでいた(一部の先進的な専売所では機械作業だった可能性がある)。
私の推測にすぎないが、新聞配達より時間がかかった。
ゆえに、前日の夕食後にチラシのなかにチラシを折り込んでおく。
ならば、朝刊にチラシセットを折り込むだけなので、あっという間。
ただし、チラシは折り込み手当てがついた。
新聞販売店がスポンサーから折り込み料を受け取っているのだから当然である。
そうでなくては、奨学生はやっていられない。

新聞を配っているうちに一般紙の奨学生と顔見知りになり、会話を交わす機会が増えてきた。
折り込み手当てがかなりの金額にのぼり、給料のとてもよい専売所があった。
かたや、雀の涙ほどの金額しかもらえない専売所があった。
しかし、不満が募ったとしても、大学の入学金や授業料などの“一時金”を負担してもらった奨学生は、他の専売所や新聞社へ移ることができない。
なぜなら、途中で退店する場合には、勤続年数に応じた一定の割合の金額を一括で返還しなくてならない。
要は、やめられないような制度設計がなされている。

チラシの多寡により奨学生の生活が変わってくる。
手当てが大事か、時間が大事か。
勉強を重視すれば後者だ。
私は呑気に過ごすために後者が欲しかった。
日経の専売所で働いていた私はチラシの苦労をほとんど知らない。
それと、チラシは良質な紙を用いているものも少なくない。
30〜50枚に及ぶと、新聞をポストに投函する際に新聞を折り曲げるのも苦労でないか。
それ以前に、新聞がかなり重くなる。

現在、問題は自分が配属される新聞販売店が手作業か機械作業かだろう。
後者だとチラシが何枚あろうと、折り込みはなし(チラシセットを新聞に折り込むのは奨学生か)。
ゆえに、折り込み手当ては見込めない。
ただし、折り込みが機械作業だとして、だれかがついていなくてならない(恐らく)。
奨学生が行うのか、それとも専業が担うのか。
なお、チラシの少ない日経の専売所では機械を置いていないかもしれない。

大手新聞社の奨学生制度を通じて専売所に入店した奨学生は、奨学会が約束した労働条件や待遇はおおよそ順守される。
当時もそれなりだったが、現在はさらに…。
しかし、零細な新聞販売店のなかには労働条件や待遇が悪いところがあるはず。
昔、奨学生が折り込み手当てがつかないと嘆いていた。
新聞販売店の経営状態、そして所長(経営者)のモラルにより奨学生の運不運が決まったりする。
これは会社にも通じよう。


◆直江津のマイミク…新聞奨学生物語(2009年12月2日)

マイミクの「げらっち」氏。
私の生まれ故郷・新潟県直江津市(現上越市)に暮らす。
「げら」はあの辺りの方言で、「〜したらしい」。

きのうのブログ「いざ新聞配達!…新聞奨学生物語」にメッセージを寄せてくださった。
本人の許可を得られたので、以下に転載する。

ブログの更新、お疲れさまです。
最新のブログ、新聞奨学生の記事は、とても身につまされました。
私の同級生にもおり、これまでに何度も話を聞かされてきました。

昔は国全体がそれほど裕福でなく、そのために進学を諦めたり、働きながら学校に通ったりという話はそこらじゅうにありましたね。

私も決して裕福でない家庭にありながら、親が苦労して大学を出させてくれたことを感謝しております。

カネもモノもない時代の苦労を思えば、いまの不況や円高なども気構えで乗り越えていける力を、我々日本人は持っているのではないでしょうか。

以上。
メッセージ、まことにありがとうございます。

私は「新聞奨学生」と「新聞配達」について、自分の体験を土台にブログを書いている。
若い頃の生活を振り返ることのほかに、もう一つ社会的な意味がある。
実は、新聞の「宅配制度」はそれほど長く続かないだろうと考えている。
それを記録に残しておきたい。

※文字数がブログの規定をオーバーし、2つに分割して掲載せざるをえなかった。
「地獄の新聞奨学生制度へようこそ2」は夕方にアップする。

Copyright (c)2010 by Sou Wada

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いい子にならない…新聞奨学生物語

「新聞奨学生物語」第6回。
第5回で新聞配達の実際について述べた。
奨学生にとり一番の関心は、それがどれくらい大変かだろう。
学業にエネルギーを割かなくてならない。
奨学生の負担は、新聞社により違ってくる。
やはり大手の専売所で働くのが有利だ。
しかし、細かく見ていくと、「読者密度」が配達時間に重大な影響を及ぼす。
結局、それは配達の面積と部数の関係で決まる。
職業人生と同じで、新聞奨学生は入店先(入社先)と配達先(配属先)の運不運に左右される。

今回は新聞配達に関わる思い出を綴ろう。

新聞販売店(奨学会?)からユニフォームをあてがわれた。
ベージュのジャンパーと焦げ茶のスラックス。
私は、どうしたらこんなにセンスの悪いものをつくれるのかと呆れた。
地味で冴えない。
ところが、先輩はほとんど着用。
内心、みっともないと思った。
基本は自由なので、私は私服だった。同期の奨学生も…。
正直に言う。
私には専売所の“囚人服”に映った。

入店して半年くらい経って、私はユニフォームを着ることに抵抗感が薄れた。
どうでもよくなったのだ。
そういえば、真冬の氷点下の早朝でも汗をかくので、信じられない薄着だった。
私はこのペラペラのジャンパーを肌の上に直接。
専売所に風邪をひく奨学生などいなかった。

また、自転車がときどきパンクした。
その都度、配達区域から新聞販売店に戻ってくるしかない。
時間の大きなロス。
余っている自転車に新聞を積み替えて出かけた。
しかも、パンクの修理は配達が終わってから自分で行う。
寒い季節だと手がかじかんで、泣きたくなるのでは…。
しかし、私は2回程で、それ以外は専業か所長がやってくれた。
なぜなら、やがてパンクしても戻らずに配りつづけた。
自転車が壊れても知ったものかという気持ち。
そして、思い切り遅い時間に「あーあ、パンクした…」と大騒ぎしながら専売所に戻ってきた。
ふてくされた表情で食事を済ませ、自室に引きこもった。
自転車が重くなるために普段より疲れるのは確かだが、うんざりするほどでもない。
次の新聞配達のとき、なぜかパンクは直っていた。
奨学生として身につけるべきコツを早めに掴んだ。

現在、私は街のつくりがゆったりとした横浜・港北ニュータウンに暮らすせいか、この辺りはわりとバイクで配っている。
断然楽。
配達に自転車を使うところがいくらか減った?
都内(外れは除く)や首都圏の繁華街では、いまだに自転車なのかもしれない。
読者の密集地域などでは徒歩も…。
新聞社だから「エコロジー」への配慮が求められよう。
そのうち電動自転車も用いられるかもしれない。

実は、私は入店後4〜5カ月、新聞販売店とのつきあい方が分かった。
所長にとりもっとも困ることは何か?
第1に、私が配達を放棄すること。
第2に、私が配達を遅延させること。
当時は専売所に代替要員や余分な人手がなかった(現在も?)。
第1はやらなかったが、第2は状況に応じて柔軟に取り入れた。
私は夏頃には心の余裕が得られ、マイペースを貫けるようになった。
肝に銘じたのは、“いい子”にならないこと。
所長に頼りにされてしまう。
奨学生は専業員と訳が違う。

第1と第2は、読者に迷惑をかける。
第1は、同僚に迷惑をかける。
私は、やってはならないことだと考えていた。
が、第2をときどき…。

続きは、3日後。

以下は、新聞配達(新聞奨学生制度)に関する私の一連のブログ。
⇒11月24日「日経BP社・日経ビジネスの行く手」はこちら。
⇒11月29日「親を捨てる口実…新聞奨学生物語1」はこちら。
⇒11月30日「奨学金の今と昔…新聞奨学生物語2」はこちら。
⇒12月1日「いざ新聞配達!…新聞奨学生物語3」はこちら。
⇒12月2日「チラシ折り込み…新聞奨学生物語4」はこちら。
⇒12月3日「新聞配達の実際…新聞奨学生物語5」はこちら。

Copyright (c)2009 by Sou Wada

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奨学金の今と昔…新聞奨学生物語

「新聞奨学生物語」第2回。
高校卒業後すぐに働いて家庭にカネを入れなければならない人は別として、親にカネがないという理由で大学進学を諦めなくてよい。
昔もそうだったが、今はなおさらだ。
私は大学進学が40年程前であり、当時は奨学生制度が貧弱だった。
「日本育英会(現在は日本学生支援機構)」のほかは地方自治体が細々と学生の経済支援を行っていたくらい。
月額は小さく、学業を続けていくには不足がかなり生じた。
しかも、成績がそれなりに優秀でないと、奨学金を受けられなかった。

しかし、現在は有利子(低利率)のものを含めると、希望者はだいたい奨学金を受けられる。
月額は幅が広く、学生の成績や経済状況、通学形態などで上限が大きくなる。
後は入学手続きに必要なカネを手当てすれば、大学進学を叶えられる。
当時との最大の違いは、この“一時金”を用立てる教育ローンが整ったこと。
上限は5百万円程。
大学生でも入学金と4年間の授業料など、学校納付金をすべて賄える。

ただし、教育ローンはもちろん奨学金も“借金”である。
学生は卒業後、長期にわたり返済を行わなければならず、それへの覚悟を欠かせない。
ちなみに、私の前妻は東京女子大学を日本育英会の奨学金に助けられながら卒業した。
がんを患い、完済直後に他界した。
どこまでも律儀な性格だった。
返還義務は重く、学ぶ意欲がないのに奨学金などに頼って大学へ入ってしまうと後悔するのでは…。

私は高校時代の通知表がひどかった。
申し込んだとしても、奨学金は貸与されなかったろう。
また、仮にそれが通ったとしても、入学時の一時金、それ以降の授業料などを準備できなかった。
家が貧しい。
どうにもならない状態なので、あれこれ悩みようがない。
私は東京の私立大学への進学を諦める気はなかった(本音は東京での暮らし)。
考えるまでもなく、結論は「独力」。
選択肢はなく、大手新聞社の「奨学生制度」を利用した。

                       ◇

私は明治大学経営学部に合格すると、富山県立魚津高校の卒業式を待たずに上京した。
新聞奨学生としての第一歩を早く踏み出したかった。
奨学会が学校納付金を全額負担してくれる。
勤めあげれば返済は不要であり、私はむろん4年間を覚悟していた。
また、新聞販売店が住居と食事(1日2食)を提供してくれる。
何も持たなくても、最低限の生活は困らない。
非常にありがたい制度だった。

私は寒さが残る3月初旬か前半、わずかなカネと普段着をカバンに詰め込んで東京にやってきた。
余談だが、旅費も出してもらったかもしれない。
そして、千代田区大手町の「日本経済新聞育英奨学会(日経育英奨学会)」に行った。
以下は、曖昧な記憶に基づいて記す。

日経新聞育英会のドアを入ると、カウンターを挟んでスーツを着た職員と、こわばった面持ちの学生1〜2人が向かい合っていた。
私が職員から待つように指示された後方の椅子に、ジャンパーなどを着た中年2〜3人が座っていた。
人相がよくない。
知的な雰囲気がまるでないので、新聞社の社員でないことは分かった。

すぐに私の順番になった。
書類は事前に郵送で提出していたのでないか。
なぜなら、その場で学校納付金を手にした記憶がない。
大金ゆえに忘れないはず。
すでに金銭処理は終わっていた?
だれが日経育英奨学会から学校納付金を受け取り、明治大学の入学手続きを行ってくれたのだろう。
前者は、本人以外は認められないのでは…。
親に尋ねたくても母は亡くなり、父はボケた。
キツネにつままれたよう。

私がその日に日経育英奨学会を訪ねたのは、入店先を決めるためだった。
だとすれば、私は2回目になるが…。
でも、初めてだったのは間違いない。
謎が残る。
悲しいほど、あやふや。

私は、確かその場でのやり取りがほどんどなかった。
職員は後方の椅子に座る中年の一人に「連れて行きますか」と声をかけた。
「明治大学の学生」と添えたかも…。
それに対し、中年男は無言でうなずいた。
私の配属が決定した瞬間である。
「日本経済新聞高円寺専売所」。
胡散臭く感じたのは、新聞販売店の所長たちだった。
挨拶もなく、「行こう」。
私はこれじゃ人買いだと思った。

所長はコロンとした体型。
背が低く、腹回りが出ていた。
そのわりにとっとと歩くので、私はついていくのが精一杯だった。
太くて短い首は、やけに赤黒かった。
新聞配達の日焼けか、それとも酒焼けか、気になって仕方がなかった。
私は、千代田区大手町の日経から杉並区高円寺南の専売所まで地下鉄丸ノ内線で行ったのだろうか。
その交通手段を覚えていない。
途中は沈黙が続いた?

所長はムスっとした表情。
話し方がぶっきら棒で、口数が少ない。
悲壮な決意で上京した私をリラックスさせるどころか緊張させた。
後日、先輩によれば、所長は最初のうちはだれにもそうした態度を取るとのこと。
新聞販売店には奨学生だけでなく専業も入ってくる。
そこに一癖も二癖もある輩が紛れ込む。
学生にも猛者がいる。
従業員になめられたら、新聞販売店の所長は務まらないのだそうだ。

なお、人は結構、どうでもよいことを覚えていたりする。
私は国電東京駅から日本経済新聞社へ向かいながら、日本最大のビジネス街、大手町のビル群を見あげて血が騒いだ。
活躍の舞台に対する憧れだったろう。
しかし、キョロキョロしてはまずいと戒めた。
周りはエリートばかり。
かたや私はやせ細り小汚い野良犬である。
みすぼらしい自分の姿が心に浮かんできた。

また、私は専売所の所長に荷受けされ、奨学会の部屋を出てエレベータで1階へ。
途中階で日本経済新聞社の社員がどんどん乗り込んできた。
そして、遠慮ない視線を注いだ。
私は癪に障り、睨み付けた。
見世物じゃない!

続きは、あした。

以下は、新聞配達(新聞奨学生制度)に関する私の一連のブログ。
⇒11月24日「日経BP社・日経ビジネスの行く手」はこちら。
⇒11月29日「親を捨てる口実…新聞奨学生物語1」はこちら。

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2009年12月公開講座

親を捨てる口実…新聞奨学生物語

「新聞奨学生物語」第1回。
私は両親がアルツハイマーの家系だ。
還暦間近で、いつ発症してもおかしくない。
父は私の年齢で痴呆が始まっていた。
私は頭がボケないうち、若い頃の自分を書き留めておきたいという気持ちが強くなっている。
また、再婚後の子どもが小学生であり、大人になったときに読んでもらえれば嬉しい。

先日のブログで「日経BP社・日経ビジネスの行く手」と題し、私と日本経済新聞社、日経マグロウヒル社、日経BP社など日経グループとのつながりについて触れた。
私は新聞社の「奨学生制度」にお世話になった一人。
ほかに選択肢がなかったから…。
一言で言えば、とてもつらい経験だった。
しかし、それがその後の職業人生、いや人生の基盤となったことは確かである。
私は20歳のときには食べていく自信を得ていた。
そこで「新聞奨学生物語」と題し、数回に分けて綴りたい。
それほど遠くない将来、紙面の電子化により、新聞配達そのものが消滅する可能性もある。
ささやかな記録にもなろう。

                       ◇

受験生は入試シーズンが迫り、志望校を最終決定しなくてならない。
しかし、世の中は景気が悪化し、所得格差も拡大している。
進学を望む、とくに東京圏の大学や短大、専門学校などへの進学を望むが、家庭の経済事情が許さない。
どうしたものか…。
悩んだ末に、大手新聞社の「奨学生制度」の利用を検討している若い人もいるだろう。
何せ入学金や授業料など学校への納付金を含め、学生時代に親の金銭的な援助を一切受けなくて済む。
毎月の仕送りもいらない。
奨学生制度が魅力的に映るのは確かだ。

私は40年程前、富山県立魚津高校に在籍していた。
父に示された条件は、家から通える富山大学(国立)への進学なら認めるというものだった。
「それなら何とか工面できる」。
だが、私は何が何でも上京すると心に決めていた。
東京へ行きたいのもさることながら、とにかく暗い家に留まるのが辛かった。

私は、高校が徳島、東京、富山の3都県にわたった。
2度の学年途中の転校により教科書がすべて変わり、習っていない箇所があちこちに生じた。
長野・伊那中学校時代は確か「オール5」を取ったこともあり、苦手はなかった。
この頃はぼんやりと「東大(東京大学)」に入るのかなと思っていた。
が、高校では勉強に穴が開いた状態。
当時の家庭環境もあり、それを補う努力をまったくしなかった。
成績が急降下。
父のサラリーマン人生の転落、両親の離婚話については、以前のブログ「離婚話」で述べた。
⇒2008年11月09日「離婚話」はこちら。

とくに数学など順序立てて学習する教科はひどかった。
したがって、入試が5教科となる国立大学の合格は早い段階に諦めていた。
転校のハンディを克服する人もいるわけで、もっぱら私の意欲の問題だ。
実際、高校時代に予復習も受験勉強もしていない。
無気力だった。

私は恐らく朝日新聞社と読売新聞社、日本経済新聞社の奨学生制度の資料を取り寄せた。
そうした制度があることをどこで知ったのか不思議。
私の執念?
たいした内容はないのに、何度も繰り返して読んだ。
そのうえで日本経済新聞社の奨学生制度に決めた。
これも不思議だが、日本経済新聞は見たことも聞いたこともなかった。
私の嗅覚(きゅうかく)?

しかし、そこを選んだ理由を思い出せないくらいなので、16〜24ページくらいのカラーパンフレットの出来とかキャッチフレーズなどの表面的な印象に左右されたのでは…。
保存しておけばよかった。
正確な文言は思い出せないが、私が強く反応したのは2点。
第1に「完全個室」。
個室だけでもしびれるのに、“完全”の2文字にノックアウトされた。
マンション風の小奇麗な一室の写真が添えられていた。
私の空想は膨らんでいき、すぐに自分の部屋になった。

第2に「憧れの東京で、勉強と仕事の両立」。
“憧れの東京”は、私の心にピタッとはまった。
都立墨田川高校時代に、幼稚園や小学校や中学校時代とは異質の恋をした。
都会の中流家庭の多感な女の子。
明るくて優しいが、どことなくけだるく、小悪魔的な雰囲気を漂わせていた。
とてもチャーミング!
新潟、長野、徳島と、田舎育ちの私はとりこになった。
あまりに好きで、オナニーの対象にならなかった。
彼女に思いを打ち明ける前に、別れも告げずに魚津高校へ。
悔いの念をずっと引きずっていた。

“勉強と仕事の両立”はどうでもよかった。
両親が富山大学卒業後のYKK(吉田工業)への就職を含めて地元に留まることを望んでおり、私は大学進学を口実に上京したかっただけ。
そのためには、奨学生制度を利用せざるをえない私立大学が好都合だった。
東京六大学なら、親の面子も立つ。
“勉強と仕事の両立”は、むしろ親に対する説得材料。
インターネットで検索したところ「日本経済新聞育英奨学会(日経育英奨学会)」とある。
当時もそうした名称だったかもしれない。

私はついにパンフレットを見せ、両親を説き伏せた。
1円もかからないのだから、強く反対のしようがない。
私立大学3校を受験した。
高校時代は家で教科書も参考書も開かなかったくらいなので「過去問」は解かなかった。
志望校の下見もしていない。
投げやりだった。
明治大学経営学部と法政大学経済学部は合格。
新潟・直江津小学校、長野・伊那中学校までの成績の貯金で十分に入れた。
数回の模擬試験での判定はずっと安全圏。
私は勉強する気もなかったのに「経営学部」の“経営”の響きに惹かれていた。
当時は神戸大学(国立)を除いて唯一。
この段階でサラリーマン人生は眼中になかったのかもしれない。
東洋紡績による呉羽紡績の吸収合併をきっかけとした父の転落を目の当たりにし、嫌気が差していた。
会社を信用したらお仕舞いだと思っていた(いまだにそう思っている)。

早稲田大学政治経済学部は不合格。
模擬試験での判定は5割を切る辺り。
合格しても不思議はない。
入学試験は得意な問題が多く、上々の出来だった(推測)。
私は合格を疑わなかったが、「サクラチル」の電報。
当時は内申書の成績が重視され、比重は半々(うろ覚え。私立大学は無関係?)。
私は宿題もろくにやらなかったので、内申書がボロボロだった。
第1志望は明治大学経営学部だったが、早稲田大学に受かっていたらそちらを選んだかもしれない。
何といい加減な…。
一番の友人は早稲田大学が不合格、東京大学が合格。
私はやはり早稲田大学を選んだ。

が、悔しさはなく、私はむしろ明治大学でホッとした。
六大学のなかでもっとも勉強がゆるそうだった。
仕事に早く慣れたくて、卒業式を待たずに夜行列車で上京した。
荷物はほとんどなく、身一つ。
3月初旬か前半の寒い深夜、両親は入善駅までついてきた。
私は見送りを断ったと思う。
しかも入場券を買い、乗り場に入った。
家を出てから会話は少なめ。
吐く息は真っ白。

列車が滑り込んできた。
私はデッキ(昇降口)に立った。
母が切なそうに見つめ、声をかけた。
無口な父が、体に気をつけて頑張りなさいと言った。
両親は寂しそうだった。
が、それ以上に私を案じていたのでなかったか。
歳月が流れ、そう思うようになった。
当時は「苦学生」という言葉が生きていた。
両親は、私の行く手に“地獄”が待ち受けていることを分かっていたのだ。

入善町椚山の貧農に長男として生まれた父(大正生まれ)は向学心と成功欲に燃えて大阪に行き、書生暮らしを味わった。
それを母から聞かされたのは、2年後?
あるいは十年後?
大変な苦労だったろう。
父は昔、自分を見送ってくれた母(私の祖母)の光景とダブったのでは…。
父(私の祖父)は早く亡くなり、母が育ててくれた。
しかも大やけどで片手が溶けて団子みたいに縮まり、農作業が厳しかった。
にもかかわらず、跡を取らず、家を飛び出した。
その父を、祖母はいつも案じていたらしい。

私は、入善駅のホームでの両親の表情がいまだに脳裏に焼き付いている。
列車がゆっくりと動き出した・・・。
そのとき、私は親を捨てていくようで、申し訳ない感情が湧いてきた。
この思いは後々まで尾を引いた。
やがて、妹に両親を押し付けたという呵責が加わった。
これが約30年後に両親をこちら(横浜・港北ニュータウン)に呼び寄せることにつながった。

私は、いよいよ新聞販売店に入店し、新聞奨学生としての生活を始める。

続きは、あした。

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新聞が消える、宅配がなくなる

私たちがいつでもどこでもインターネットから情報を瞬時に的確に無料で手に入れられるようになり、マスメディアは苦境に立たされている。
その代表格が「新聞」。
長らく習慣となっていた“世帯購読”が崩壊の一歩手前。
例えば、アパートが密集するエリアで購読率は極端に低い。
ここ数年、部数の減少が加速し、購読料と広告料の2大収入が深刻なダメージを受けている。
新たな収益源の開拓を先延ばししてきた新聞社のなかには、経営が行き詰まるところが出てこよう。

本格的なインターネット新聞が登場してもおかしくない環境が整ってきた。
新聞社が“紙”にこだわる根拠はすっかり薄れた。
例えば、夕刊。ときに、地方紙では4ページ。
内容を見ても、読む時刻を考えても、わざわざ戸別配達する必要性がまったく感じられない。
また、激減しているとはいえ、全体での発行部数は依然として大変なボリュームである。
用紙、印刷、梱包、輸送、配達…。
一連の環境負荷は恐ろしく大きい。
私は紙面に「地球温暖化」の文字を見つけると悲しくなる。

いまや、家庭はもとより個室にまで大画面・薄型テレビが普及しはじめた。
新聞社はビッグチャンスととらえ、インターネット新聞の実現、つまりビジネス化を急ぐべきだ。
ならば、記事の使い勝手も格段に高まるので、新聞は不安的な購読者でなく根強い利用者を増やせよう。
生産者も消費者もいいこと尽くめ?

かく言う私は日本経済新聞社の奨学制度を利用して明治大学に進学し、その配達に2年ほど携わった。
授業にまったく出なかった怠け者の私がビジネスに関わる勉強をいくらか行えたのは、日本経済新聞に取り囲まれていたからだ。
日々ぼんやり眺めるくらいだったが…。
人は、環境の子。
さらに、私がその後の職業人生で勇気と自信を持てたのは、あのときの過酷な経験のせいだ。
滅茶苦茶きつかった。
感謝!

新聞は戦後の社会に多大な貢献を果たした。
日本人の知的水準も押し上げた。
そして、それを縁の下で支えたのが「宅配制度」であったことは確か。
だが、時代は変わり、宅配制度は意義を失いつつある。
まして、それを維持するために“紙”にしがみつこうとすると、弊害のほうが目立つ。
私たちは「新聞販売店」という呼称にごまかされやすいが、あれは「新聞配達店」なのだ。
宅配を担ってきた新聞販売店が近い将来、一気に姿を消す?

ところで、今回の衆議院議員選挙の前哨戦で、インターネットの活用がだいぶ進んだ。
例えば、立候補予定者が有権者のおもな質問に応えるユーチューブの動画が公開されたらしい(私は視聴していない)。
公開討論会の動画なども…。
一方的で形式的な「政見放送」はやがてすたれる運命なのかもしれない。

何も政治に限らない。
ユーチューブの動画はテレビより有益な情報が得られることもある。
また、面白さという点でも退屈なお笑い芸人よりはるかに勝っていたりする。
これで、画質・音質がよくなり時間も長くなると、テレビ離れが劇的に進みかねない。

テレビ会社は広告収入が揺らぎ、番組の制作費、タレントのギャランティーなどを思い切って切り詰めている。
現場ではコンビニエンスストアの弁当を食べるようになっているという。
コンテンツの劣悪化は目を覆うばかり。
テレビの近い将来についてもきわめて悲観的にならざるをえない。

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和田創

和田創研代表
シニア起業家
和田 創(わだ・そう)

数字立て直し(伸長)一筋の経営コンサルタント。
教育と指導の年間実績は約百回。対象は社長から役員、管理者、社員まで、テーマは経営から管理、採用、事業、商品、企画まで広範。著書や教材は多数。
2017年、66歳以降はAIやロボット関連の起業に挑むとともに、おもに内需・地場企業から先端分野・成長分野の事業・商品開発を請け負う。

その他の役職
面白くないジョークの会会長 

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