※文字数がブログの規定をオーバーし、2つに分割して掲載せざるをえなかった。
「地獄の新聞奨学生制度へようこそ1」に続いてアップする。
◆新聞配達の実際…新聞奨学生物語(2009年12月3日)
「新聞奨学生物語」第5回。
私が日経育英奨学会を通じて配属された「日本経済新聞高円寺専売所」。
先輩に教えられ、一人で新聞配達を行えるようになるまでの過程は第3回「いざ新聞配達!…新聞奨学生物語3」で述べた。
私は一度も経験がなかったので多少の不安があったが、1週間は要しなかった。
アルバイトの経験もゼロ。
正直、拍子抜け。
今回は新聞配達の実際について述べよう。
正直、苦労した。
【配達】
自分が配達する新聞をすべて自転車に積み込み、新聞販売店を出発する。
前のかごは交互に差し込んだ新聞であふれた。
前方の視界がふさがれ、また重みでハンドルがふらついた。
後ろの荷台は積み上げた新聞であふれた。
自転車はがっしりとした業務用であり、新聞の総重量と合わせ、ペダルが非常に重かった。
が、1カ月を過ぎた頃から慣れていった。
人の能力は凄い。
配達は、自転車を飛ばす。
団地やマンションなどでは自転車を降りて走る。
いずれも現在は社会的に許されない猛烈なスピードだ。
自転車については、夕刊時は人通りが多くても構わず飛ばした。
通行人の後ろで急ブレーキをかけると凄まじい金属音が出て、道を開けてくれた。
そうでなくては配達の時間が延びる。
「コンプライアンス」という言葉がなかった。
いまや宅配便でもかつてのように駆ける人は減ったはず。
例えば、佐川急便のドライバーは走らないのでなく、走られないのだ。
まして台車をガラガラ鳴らしたら、すぐにクレームが来る。
奨学生は良識のあるスピードで新聞を配っているのでないか。
様変わり。
私が最初に担当した区域はそれでも2時間半を要した。
夕刊は自転車が軽くなるのでいくらか楽だったが、なかなか2時間を切れなかった。
懸命に頑張り、朝夕刊で4時間半。
天候が悪かったり体調が悪かったりすると、5時間。
入店後しばらくして人の手当てがつき、所長の指示により先輩がときどき“中継”をやってくれた。
配達ルートの途中1〜2カ所にあらかじめ新聞をまとめて置いておいてくれる。
これは助かった。
ただし、新聞の重い朝刊時に限られた。
この中継は専売所の事情により、配達の面積や部数により、徒歩や自転車、バイクといった配達手段により、まちまち。
また、夕刊の中継をやってくれるところもある。
記憶が曖昧だが、新人(奨学生)が入店して人が入れ替わる1年後に、私は配達区域が変更になった。
恐らく所長にかけ合って変更してもらった。
受け持つ部数は5割増くらいか。
ところが、配達は朝夕刊で3時間〜3時間半に縮まった。
1時間半も一気に浮いた。
新聞販売店の近くの区域で、面積もぐっと狭まった。
大手企業のほかに独身寮などもあり、まとまった部数を一括で置くところが含まれていたためだ。
平たく言えば、配達区域が住宅街から繁華街へ。
それまでが地獄だったので、天国のよう。
1年間、耐え抜いたご褒美?
当時、日本経済新聞高円寺専売所は計8区だった。
これは絶対に忘れない。
しかし、配達区域の線引きの仕方のせいで、奨学生の負担に極端な不公平が生じていた。
所長の問題だろう(感謝はしても、恨みはない)。
私は40年程を経た現在でも、「第7区」から「第2区」へ変わったことをはっきりと覚えている。
いかに嬉しかったか。
入店時は配達区域の運不運に左右される。
長く勤める奨学生ほど楽な区域へ回れる。
当然、顔つきも“主(ぬし)”になろう。
配達の大変さは、一人が受け持つ部数の多寡とあまり関係ない。
区域内の読者の密度が重大。
大部数の新聞ほど楽になる傾向が強い。
当時、日本経済新聞はようやく百万部に届いた?
朝日新聞や読売新聞と比べると、配達部数はずっと少ないのに配達時間はだいぶ長かった。
彼らは繁華街や住宅密集街では自転車をポイントごとに停めて徒歩で配ることが多かった。
そのほうが効率がよいからだ。
日本経済新聞は発行部数が当時の4倍前後に達した。
首都圏、とくに東京地区では読者の密度が濃くなり、先の2紙と大きなハンディはないのでないか。
都心、それもオフィス街では逆転している可能性もある。
もう一つ。
日本経済新聞は読者が固定していた。
一般紙は出入りが激しく、配達先がかなり変わるようだ。
そうすると、「順路帳」をしょっちゅう手入れしなくてならない。
書き込みが増えてくると、新たにつくり直すことに…。
面倒だ。
ただし、日本経済新聞は部数の増加につれて“一般紙化”している。
読者の変動は、当時はほとんどなかったが、現在はいくらかあるのでは?
◆いい子にならない…新聞奨学生物語(2009年12月4日)
「新聞奨学生物語」第6回。
第5回で新聞配達の実際について述べた。
奨学生にとり一番の関心は、それがどれくらい大変かだろう。
学業にエネルギーを割かなくてならない。
奨学生の負担は、新聞社により違ってくる。
やはり大手の専売所で働くのが有利だ。
しかし、細かく見ていくと、「読者密度」が配達時間に重大な影響を及ぼす。
結局、それは配達の面積と部数の関係で決まる。
職業人生と同じで、新聞奨学生は入店先(入社先)と配達先(配属先)の運不運に左右される。
今回は新聞配達に関わる思い出を綴ろう。
新聞販売店(奨学会?)からユニフォームをあてがわれた。
ベージュのジャンパーと焦げ茶のスラックス。
私は、どうしたらこんなにセンスの悪いものをつくれるのかと呆れた。
地味で冴えない。
ところが、先輩はほとんど着用。
内心、みっともないと思った。
基本は自由なので、私は私服だった。同期の奨学生も…。
正直に言う。
私には専売所の“囚人服”に映った。
入店して半年くらい経って、私はユニフォームを着ることに抵抗感が薄れた。
どうでもよくなったのだ。
そういえば、真冬の氷点下の早朝でも汗をかくので、信じられない薄着だった。
私はこのペラペラのジャンパーを肌の上に直接。
専売所に風邪をひく奨学生などいなかった。
また、自転車がときどきパンクした。
その都度、配達区域から新聞販売店に戻ってくるしかない。
時間の大きなロス。
余っている自転車に新聞を積み替えて出かけた。
しかも、パンクの修理は配達が終わってから自分で行う。
寒い季節だと手がかじかんで、泣きたくなるのでは…。
しかし、私は2回程で、それ以外は専業か所長がやってくれた。
なぜなら、やがてパンクしても戻らずに配りつづけた。
自転車が壊れても知ったものかという気持ち。
そして、思い切り遅い時間に「あーあ、パンクした…」と大騒ぎしながら専売所に戻ってきた。
ふてくされた表情で食事を済ませ、自室に引きこもった。
自転車が重くなるために普段より疲れるのは確かだが、うんざりするほどでもない。
次の新聞配達のとき、なぜかパンクは直っていた。
奨学生として身につけるべきコツを早めに掴んだ。
現在、私は街のつくりがゆったりとした横浜・港北ニュータウンに暮らすせいか、この辺りはわりとバイクで配っている。
断然楽。
配達に自転車を使うところがいくらか減った?
都内(外れは除く)や首都圏の繁華街では、いまだに自転車なのかもしれない。
読者の密集地域などでは徒歩も…。
新聞社だから「エコロジー」への配慮が求められよう。
そのうち電動自転車も用いられるかもしれない。
実は、私は入店後4〜5カ月、新聞販売店とのつきあい方が分かった。
所長にとりもっとも困ることは何か?
第1に、私が配達を放棄すること。
第2に、私が配達を遅延させること。
当時は専売所に代替要員や余分な人手がなかった(現在も?)。
第1はやらなかったが、第2は状況に応じて柔軟に取り入れた。
私は夏頃には心の余裕が得られ、マイペースを貫けるようになった。
肝に銘じたのは、“いい子”にならないこと。
所長に頼りにされてしまう。
奨学生は専業員と訳が違う。
第1と第2は、読者に迷惑をかける。
第1は、同僚に迷惑をかける。
私は、やってはならないことだと考えていた。
が、第2をときどき…。
◆読者へのお詫び(2009年12月8日)
私はバタバタの状態で、ブログのストックが底を突いた。
かなり先々まで書き溜めることが多いのだが…。
ラフな素材(メモ)は豊富だが、アップできる状態に仕上げる時間をまったく割けない。
今後のブログの更新が覚束ない。
私は「ライブドア」のブログを2007年2月半ばに始めた。
現在では「アメーバ」「FC2」「ヤフー」の3つのミラーサイトを含め、1日約3百人〜千人の方々にお読みいただいている。
ここ1カ月は平均5百人弱。
その過半〜大半はライブドア。
著名人ブログでも人気ブログでもないので人数は多くないが、わりと安定している。
固定した読者が訪れてくれる?
拙い内容ながら、楽しみにしてくれる方がいるのだ。
これまで、より多くの方々に読んでいただきたくて、眠る時間を削って書いてきた。
ときどきでなく、しばしば…。
文字どおり「ブログ三昧」。
とても辛く、とても楽しい経験だった。
心より感謝したい。
まことに申し訳ないが、1カ月くらい、ごく簡単な雑文しかアップできない。
数行か。
原則として休止…。
全20回前後を予定していた「新聞奨学生物語」も1カ月ほど中断する。
ついては、2007年に書いたライブドアブログのなかから、自分なりに力を入れたものをピックアップして載せることもある。
私のブログを早い段階から読んでいただいている方には、同じ内容になるため、お詫びしたい。
時間のゆとりが生まれたら、気合いを入れてブログを更新する。
幾多の困難に直面するだろう子どもにも残しておきたい。
だから、かならず再開する。
◇
私は職業人生のリタイアを迎えようとしている。
また、アルツハイマー発症の恐怖と闘っている(両親とも家系)。
20年間続けてきた「和田創研」、16年間頑張ってきた「NPO法人営業実践大学」を、約15カ月後の2011年3月末日に閉鎖する。
予定どおり。
私は残り少ない人生に大きな変化を求めたい。
来年度はいわば“総仕上げ”の時期になる。
最後を飾るにふさわしい最良の1年にしたいと考えている。
◆連載再開のお知らせ(2010年3月6日)
長らく中断していた連載「新聞奨学生物語」を再開する。
週に1〜2本のペースでアップするつもり。
新聞奨学生だった私は意志が弱く、挫折を味わった。
締まりのない生活を続けた。
それ以前に、不良新聞少年だった。
朝刊の配達が遅れ、読者に迷惑をかけたりした。
が、かなりの人は仕事と学業を両立させ、4年制大学を無事に卒業する。
それが何割程度かは分からない。
私が配属された日本経済新聞高円寺専売所に、そして私が配達時に知り合った朝日新聞や読売新聞、毎日新聞、東京新聞の奨学生に、そうした先輩が少なくなかった。
立派の一言!
試練は最初の1年だ。
そこを乗り切ってしまうと続くようだ。
私の場合、1年目の地獄から2年目の天国へ、仕事が劇的に楽になった。
4年間は続けられるとの手応えも感じた。
日本経済新聞高円寺専売所では卒業まで頑張りそうな大学生のほうが多かった。
この「新聞奨学生物語」は、新聞配達を続けながら学校に通う多くの奨学生にぜひお読みいただきたい。
私からの渾身のエールだ。
頑張れ!
以上。
なお、私は日本経済新聞およびグループ企業に大変お世話になってきた。
私がささやかな実績を残せたのは、日経グループのお陰といってよい。
著者として雑誌で連載し、単行本を刊行した。
また、講師として公開セミナーや企業研修を実施した。
何より、私にとってもっとも有益な経験は「新聞配達」だった。
半世紀に及ぶであろう職業人生を支える、揺るぎない自信となった。
感謝の念に堪えない。
その日本経済新聞社が3月23日に「日本経済新聞電子版(日経電子版)」を創刊する。
隔世の感がある。
新聞(紙)の購読者は新聞代+1000円、非購読者は4000円。
日経は紙の販売部数を維持すると自信を見せるが、どうだろう。
私は日経電子版を併読するが、出来を見極めたうえで紙をやめるかもしれない。
紙の販売部数は激減する可能性がある(地球環境には非常に好ましい)。
となると、近い将来、新聞販売店(実際は新聞配達店)と新聞配達もなくなる?
宅配制度の崩壊により新聞奨学生制度は消滅するのか。
日経新聞電子版の発行は、新聞を読むものから「使う」ものへ変える画期的な転換点になる。
世界にもほとんど成功例のない取り組みだが、私はその成功を切に願う。
日経の勇気に拍手を送りたい。
◆日経BP社・日経ビジネスの行く手(2009年11月24日)
このブログで、21世紀に入って衰退の速度を増す「マスコミ業界」について幾度か触れた。
とくに昨秋来、雑誌など“紙媒体”の不振が相次いで表面化している。
出版社を取り巻く環境は一段と厳しさを増そう。
3年後、5年後、10年後、生き残れるところはそれほど多くないのでは…。
さて、私は「日本経済新聞」を購読しつづけている。
といっても、個々の記事を読むのでなく、紙面全体を眺めるくらい。
結局、私は“見出し”を拾うために毎月、新聞購読料を払ってきた。
後悔はない。
新聞はそうしたつきあい方で十分だと思う。
で、日経を眺めていて、いくつか気になることがある。
なかでも子会社の「日経BP社」の年間予約購読誌の広告が激減したこと。
いわゆる“全5段”で毎日のように載っていた時期がある。
だが、大きな部数を誇る「日経ビジネス」の広告さえほとんど見かけなくなった。
それ以前に、これでもかというほど送られてきた同社のダイレクトメールが消えてしまった。
勝ち組の日経BP社とて、出版業界に吹き荒れる構造不況の嵐にあおられているのだ。
私は以前、展示会やセールスプロモーション(販売促進)の情報誌「日経イベント」で2年弱、連載を行った。
毎月5ページ前後のスペースを割いてくれた。
連載は幸い読者から絶大な支持を受けたが、雑誌自体は残念ながら休刊(廃刊)に追い込まれた。
私が講師として同誌で行った企画力養成のための公開セミナーは高額にもかかわらず、北海道から九州まで大勢の読者などが押し寄せてくれた。
日経BP社の紀尾井町会場を埋め尽くす大盛況となり、雑誌の威力を思い知らされた。
終了後、当時の編集長に講義を褒められ、駆け出しだった私は自信を得ることができた。
私はすでに講師をときどき引き受けていたが、これが本格的な講師稼業につながっていく。
日本経済新聞社の「日経ビジネススクール」で企画と営業の分野を中心に講師を務めた。
多い年は数回の開催。
つきあいは恐らく7〜8年間に及んだ。
評価の厳しい受講者を前にし、さらに経験を積むことができた。
そして、「プレジデントセミナー」「読売経営セミナー」などの他社主催の公開セミナーへ広がった。
また、40年程前に日本経済新聞社の奨学生として、高円寺専売所で新聞配達の業務に携わっていた。
「日経ビジネス」が創刊されるということで、読者獲得のために頑張った。
所長に命じられたわけでも、報酬をもらったわけでもない。
タダ。
顧客との触れ合いが楽しく、進んで外へ飛び出した。
これが、私が初めて経験した「営業活動」。
今日の営業講師と営業コンサルタントの道を歩む第一歩となった。
とても懐かしい思い出だ。
当時は日経BP社でなく「日経マグロウヒル社」だった。
私は、職業人生を振り返り、日経グループに少なからずお世話になっている。
会社にも媒体にも素晴らしい勢いがあったから、私もその恩恵に浴することができた。
感謝の気持ちで一杯である。
しかし、いまや出版業界は地殻変動の真っ只中。
日経BP社にとっても行く手は険しいはずだが、どうか力強く勝ち残ってほしい。
◇
新聞と宅配制度に関する私のブログは以下のとおり。
⇒2009年8月20日「新聞が消える、宅配がなくなる」はこちら。
⇒2009年8月21日「新聞販売店の生き残り」はこちら。
⇒2009年10月14日「溜まった新聞にうんざり…出張帰り」はこちら。
⇒2009年10月14日「凄い! 日経が電子版で読める!」はこちら。
⇒2009年11月20日「書籍・雑誌・新聞、紙媒体消滅へ」はこちら。
⇒2009年11月23日「新聞・テレビ・広告は構造不況業種」はこちら。
Copyright (c)2010 by Sou Wada
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「地獄の新聞奨学生制度へようこそ1」に続いてアップする。
◆新聞配達の実際…新聞奨学生物語(2009年12月3日)
「新聞奨学生物語」第5回。
私が日経育英奨学会を通じて配属された「日本経済新聞高円寺専売所」。
先輩に教えられ、一人で新聞配達を行えるようになるまでの過程は第3回「いざ新聞配達!…新聞奨学生物語3」で述べた。
私は一度も経験がなかったので多少の不安があったが、1週間は要しなかった。
アルバイトの経験もゼロ。
正直、拍子抜け。
今回は新聞配達の実際について述べよう。
正直、苦労した。
【配達】
自分が配達する新聞をすべて自転車に積み込み、新聞販売店を出発する。
前のかごは交互に差し込んだ新聞であふれた。
前方の視界がふさがれ、また重みでハンドルがふらついた。
後ろの荷台は積み上げた新聞であふれた。
自転車はがっしりとした業務用であり、新聞の総重量と合わせ、ペダルが非常に重かった。
が、1カ月を過ぎた頃から慣れていった。
人の能力は凄い。
配達は、自転車を飛ばす。
団地やマンションなどでは自転車を降りて走る。
いずれも現在は社会的に許されない猛烈なスピードだ。
自転車については、夕刊時は人通りが多くても構わず飛ばした。
通行人の後ろで急ブレーキをかけると凄まじい金属音が出て、道を開けてくれた。
そうでなくては配達の時間が延びる。
「コンプライアンス」という言葉がなかった。
いまや宅配便でもかつてのように駆ける人は減ったはず。
例えば、佐川急便のドライバーは走らないのでなく、走られないのだ。
まして台車をガラガラ鳴らしたら、すぐにクレームが来る。
奨学生は良識のあるスピードで新聞を配っているのでないか。
様変わり。
私が最初に担当した区域はそれでも2時間半を要した。
夕刊は自転車が軽くなるのでいくらか楽だったが、なかなか2時間を切れなかった。
懸命に頑張り、朝夕刊で4時間半。
天候が悪かったり体調が悪かったりすると、5時間。
入店後しばらくして人の手当てがつき、所長の指示により先輩がときどき“中継”をやってくれた。
配達ルートの途中1〜2カ所にあらかじめ新聞をまとめて置いておいてくれる。
これは助かった。
ただし、新聞の重い朝刊時に限られた。
この中継は専売所の事情により、配達の面積や部数により、徒歩や自転車、バイクといった配達手段により、まちまち。
また、夕刊の中継をやってくれるところもある。
記憶が曖昧だが、新人(奨学生)が入店して人が入れ替わる1年後に、私は配達区域が変更になった。
恐らく所長にかけ合って変更してもらった。
受け持つ部数は5割増くらいか。
ところが、配達は朝夕刊で3時間〜3時間半に縮まった。
1時間半も一気に浮いた。
新聞販売店の近くの区域で、面積もぐっと狭まった。
大手企業のほかに独身寮などもあり、まとまった部数を一括で置くところが含まれていたためだ。
平たく言えば、配達区域が住宅街から繁華街へ。
それまでが地獄だったので、天国のよう。
1年間、耐え抜いたご褒美?
当時、日本経済新聞高円寺専売所は計8区だった。
これは絶対に忘れない。
しかし、配達区域の線引きの仕方のせいで、奨学生の負担に極端な不公平が生じていた。
所長の問題だろう(感謝はしても、恨みはない)。
私は40年程を経た現在でも、「第7区」から「第2区」へ変わったことをはっきりと覚えている。
いかに嬉しかったか。
入店時は配達区域の運不運に左右される。
長く勤める奨学生ほど楽な区域へ回れる。
当然、顔つきも“主(ぬし)”になろう。
配達の大変さは、一人が受け持つ部数の多寡とあまり関係ない。
区域内の読者の密度が重大。
大部数の新聞ほど楽になる傾向が強い。
当時、日本経済新聞はようやく百万部に届いた?
朝日新聞や読売新聞と比べると、配達部数はずっと少ないのに配達時間はだいぶ長かった。
彼らは繁華街や住宅密集街では自転車をポイントごとに停めて徒歩で配ることが多かった。
そのほうが効率がよいからだ。
日本経済新聞は発行部数が当時の4倍前後に達した。
首都圏、とくに東京地区では読者の密度が濃くなり、先の2紙と大きなハンディはないのでないか。
都心、それもオフィス街では逆転している可能性もある。
もう一つ。
日本経済新聞は読者が固定していた。
一般紙は出入りが激しく、配達先がかなり変わるようだ。
そうすると、「順路帳」をしょっちゅう手入れしなくてならない。
書き込みが増えてくると、新たにつくり直すことに…。
面倒だ。
ただし、日本経済新聞は部数の増加につれて“一般紙化”している。
読者の変動は、当時はほとんどなかったが、現在はいくらかあるのでは?
◆いい子にならない…新聞奨学生物語(2009年12月4日)
「新聞奨学生物語」第6回。
第5回で新聞配達の実際について述べた。
奨学生にとり一番の関心は、それがどれくらい大変かだろう。
学業にエネルギーを割かなくてならない。
奨学生の負担は、新聞社により違ってくる。
やはり大手の専売所で働くのが有利だ。
しかし、細かく見ていくと、「読者密度」が配達時間に重大な影響を及ぼす。
結局、それは配達の面積と部数の関係で決まる。
職業人生と同じで、新聞奨学生は入店先(入社先)と配達先(配属先)の運不運に左右される。
今回は新聞配達に関わる思い出を綴ろう。
新聞販売店(奨学会?)からユニフォームをあてがわれた。
ベージュのジャンパーと焦げ茶のスラックス。
私は、どうしたらこんなにセンスの悪いものをつくれるのかと呆れた。
地味で冴えない。
ところが、先輩はほとんど着用。
内心、みっともないと思った。
基本は自由なので、私は私服だった。同期の奨学生も…。
正直に言う。
私には専売所の“囚人服”に映った。
入店して半年くらい経って、私はユニフォームを着ることに抵抗感が薄れた。
どうでもよくなったのだ。
そういえば、真冬の氷点下の早朝でも汗をかくので、信じられない薄着だった。
私はこのペラペラのジャンパーを肌の上に直接。
専売所に風邪をひく奨学生などいなかった。
また、自転車がときどきパンクした。
その都度、配達区域から新聞販売店に戻ってくるしかない。
時間の大きなロス。
余っている自転車に新聞を積み替えて出かけた。
しかも、パンクの修理は配達が終わってから自分で行う。
寒い季節だと手がかじかんで、泣きたくなるのでは…。
しかし、私は2回程で、それ以外は専業か所長がやってくれた。
なぜなら、やがてパンクしても戻らずに配りつづけた。
自転車が壊れても知ったものかという気持ち。
そして、思い切り遅い時間に「あーあ、パンクした…」と大騒ぎしながら専売所に戻ってきた。
ふてくされた表情で食事を済ませ、自室に引きこもった。
自転車が重くなるために普段より疲れるのは確かだが、うんざりするほどでもない。
次の新聞配達のとき、なぜかパンクは直っていた。
奨学生として身につけるべきコツを早めに掴んだ。
現在、私は街のつくりがゆったりとした横浜・港北ニュータウンに暮らすせいか、この辺りはわりとバイクで配っている。
断然楽。
配達に自転車を使うところがいくらか減った?
都内(外れは除く)や首都圏の繁華街では、いまだに自転車なのかもしれない。
読者の密集地域などでは徒歩も…。
新聞社だから「エコロジー」への配慮が求められよう。
そのうち電動自転車も用いられるかもしれない。
実は、私は入店後4〜5カ月、新聞販売店とのつきあい方が分かった。
所長にとりもっとも困ることは何か?
第1に、私が配達を放棄すること。
第2に、私が配達を遅延させること。
当時は専売所に代替要員や余分な人手がなかった(現在も?)。
第1はやらなかったが、第2は状況に応じて柔軟に取り入れた。
私は夏頃には心の余裕が得られ、マイペースを貫けるようになった。
肝に銘じたのは、“いい子”にならないこと。
所長に頼りにされてしまう。
奨学生は専業員と訳が違う。
第1と第2は、読者に迷惑をかける。
第1は、同僚に迷惑をかける。
私は、やってはならないことだと考えていた。
が、第2をときどき…。
◆読者へのお詫び(2009年12月8日)
私はバタバタの状態で、ブログのストックが底を突いた。
かなり先々まで書き溜めることが多いのだが…。
ラフな素材(メモ)は豊富だが、アップできる状態に仕上げる時間をまったく割けない。
今後のブログの更新が覚束ない。
私は「ライブドア」のブログを2007年2月半ばに始めた。
現在では「アメーバ」「FC2」「ヤフー」の3つのミラーサイトを含め、1日約3百人〜千人の方々にお読みいただいている。
ここ1カ月は平均5百人弱。
その過半〜大半はライブドア。
著名人ブログでも人気ブログでもないので人数は多くないが、わりと安定している。
固定した読者が訪れてくれる?
拙い内容ながら、楽しみにしてくれる方がいるのだ。
これまで、より多くの方々に読んでいただきたくて、眠る時間を削って書いてきた。
ときどきでなく、しばしば…。
文字どおり「ブログ三昧」。
とても辛く、とても楽しい経験だった。
心より感謝したい。
まことに申し訳ないが、1カ月くらい、ごく簡単な雑文しかアップできない。
数行か。
原則として休止…。
全20回前後を予定していた「新聞奨学生物語」も1カ月ほど中断する。
ついては、2007年に書いたライブドアブログのなかから、自分なりに力を入れたものをピックアップして載せることもある。
私のブログを早い段階から読んでいただいている方には、同じ内容になるため、お詫びしたい。
時間のゆとりが生まれたら、気合いを入れてブログを更新する。
幾多の困難に直面するだろう子どもにも残しておきたい。
だから、かならず再開する。
◇
私は職業人生のリタイアを迎えようとしている。
また、アルツハイマー発症の恐怖と闘っている(両親とも家系)。
20年間続けてきた「和田創研」、16年間頑張ってきた「NPO法人営業実践大学」を、約15カ月後の2011年3月末日に閉鎖する。
予定どおり。
私は残り少ない人生に大きな変化を求めたい。
来年度はいわば“総仕上げ”の時期になる。
最後を飾るにふさわしい最良の1年にしたいと考えている。
◆連載再開のお知らせ(2010年3月6日)
長らく中断していた連載「新聞奨学生物語」を再開する。
週に1〜2本のペースでアップするつもり。
新聞奨学生だった私は意志が弱く、挫折を味わった。
締まりのない生活を続けた。
それ以前に、不良新聞少年だった。
朝刊の配達が遅れ、読者に迷惑をかけたりした。
が、かなりの人は仕事と学業を両立させ、4年制大学を無事に卒業する。
それが何割程度かは分からない。
私が配属された日本経済新聞高円寺専売所に、そして私が配達時に知り合った朝日新聞や読売新聞、毎日新聞、東京新聞の奨学生に、そうした先輩が少なくなかった。
立派の一言!
試練は最初の1年だ。
そこを乗り切ってしまうと続くようだ。
私の場合、1年目の地獄から2年目の天国へ、仕事が劇的に楽になった。
4年間は続けられるとの手応えも感じた。
日本経済新聞高円寺専売所では卒業まで頑張りそうな大学生のほうが多かった。
この「新聞奨学生物語」は、新聞配達を続けながら学校に通う多くの奨学生にぜひお読みいただきたい。
私からの渾身のエールだ。
頑張れ!
以上。
なお、私は日本経済新聞およびグループ企業に大変お世話になってきた。
私がささやかな実績を残せたのは、日経グループのお陰といってよい。
著者として雑誌で連載し、単行本を刊行した。
また、講師として公開セミナーや企業研修を実施した。
何より、私にとってもっとも有益な経験は「新聞配達」だった。
半世紀に及ぶであろう職業人生を支える、揺るぎない自信となった。
感謝の念に堪えない。
その日本経済新聞社が3月23日に「日本経済新聞電子版(日経電子版)」を創刊する。
隔世の感がある。
新聞(紙)の購読者は新聞代+1000円、非購読者は4000円。
日経は紙の販売部数を維持すると自信を見せるが、どうだろう。
私は日経電子版を併読するが、出来を見極めたうえで紙をやめるかもしれない。
紙の販売部数は激減する可能性がある(地球環境には非常に好ましい)。
となると、近い将来、新聞販売店(実際は新聞配達店)と新聞配達もなくなる?
宅配制度の崩壊により新聞奨学生制度は消滅するのか。
日経新聞電子版の発行は、新聞を読むものから「使う」ものへ変える画期的な転換点になる。
世界にもほとんど成功例のない取り組みだが、私はその成功を切に願う。
日経の勇気に拍手を送りたい。
◆日経BP社・日経ビジネスの行く手(2009年11月24日)
このブログで、21世紀に入って衰退の速度を増す「マスコミ業界」について幾度か触れた。
とくに昨秋来、雑誌など“紙媒体”の不振が相次いで表面化している。
出版社を取り巻く環境は一段と厳しさを増そう。
3年後、5年後、10年後、生き残れるところはそれほど多くないのでは…。
さて、私は「日本経済新聞」を購読しつづけている。
といっても、個々の記事を読むのでなく、紙面全体を眺めるくらい。
結局、私は“見出し”を拾うために毎月、新聞購読料を払ってきた。
後悔はない。
新聞はそうしたつきあい方で十分だと思う。
で、日経を眺めていて、いくつか気になることがある。
なかでも子会社の「日経BP社」の年間予約購読誌の広告が激減したこと。
いわゆる“全5段”で毎日のように載っていた時期がある。
だが、大きな部数を誇る「日経ビジネス」の広告さえほとんど見かけなくなった。
それ以前に、これでもかというほど送られてきた同社のダイレクトメールが消えてしまった。
勝ち組の日経BP社とて、出版業界に吹き荒れる構造不況の嵐にあおられているのだ。
私は以前、展示会やセールスプロモーション(販売促進)の情報誌「日経イベント」で2年弱、連載を行った。
毎月5ページ前後のスペースを割いてくれた。
連載は幸い読者から絶大な支持を受けたが、雑誌自体は残念ながら休刊(廃刊)に追い込まれた。
私が講師として同誌で行った企画力養成のための公開セミナーは高額にもかかわらず、北海道から九州まで大勢の読者などが押し寄せてくれた。
日経BP社の紀尾井町会場を埋め尽くす大盛況となり、雑誌の威力を思い知らされた。
終了後、当時の編集長に講義を褒められ、駆け出しだった私は自信を得ることができた。
私はすでに講師をときどき引き受けていたが、これが本格的な講師稼業につながっていく。
日本経済新聞社の「日経ビジネススクール」で企画と営業の分野を中心に講師を務めた。
多い年は数回の開催。
つきあいは恐らく7〜8年間に及んだ。
評価の厳しい受講者を前にし、さらに経験を積むことができた。
そして、「プレジデントセミナー」「読売経営セミナー」などの他社主催の公開セミナーへ広がった。
また、40年程前に日本経済新聞社の奨学生として、高円寺専売所で新聞配達の業務に携わっていた。
「日経ビジネス」が創刊されるということで、読者獲得のために頑張った。
所長に命じられたわけでも、報酬をもらったわけでもない。
タダ。
顧客との触れ合いが楽しく、進んで外へ飛び出した。
これが、私が初めて経験した「営業活動」。
今日の営業講師と営業コンサルタントの道を歩む第一歩となった。
とても懐かしい思い出だ。
当時は日経BP社でなく「日経マグロウヒル社」だった。
私は、職業人生を振り返り、日経グループに少なからずお世話になっている。
会社にも媒体にも素晴らしい勢いがあったから、私もその恩恵に浴することができた。
感謝の気持ちで一杯である。
しかし、いまや出版業界は地殻変動の真っ只中。
日経BP社にとっても行く手は険しいはずだが、どうか力強く勝ち残ってほしい。
◇
新聞と宅配制度に関する私のブログは以下のとおり。
⇒2009年8月20日「新聞が消える、宅配がなくなる」はこちら。
⇒2009年8月21日「新聞販売店の生き残り」はこちら。
⇒2009年10月14日「溜まった新聞にうんざり…出張帰り」はこちら。
⇒2009年10月14日「凄い! 日経が電子版で読める!」はこちら。
⇒2009年11月20日「書籍・雑誌・新聞、紙媒体消滅へ」はこちら。
⇒2009年11月23日「新聞・テレビ・広告は構造不況業種」はこちら。
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