私は先だって、創業まもないベンチャー企業との打ち合わせで、生まれて初めて「東京大学」を訪れた。
入試の合格発表で有名な「赤門」から入った。
狭き門をくぐった気分である。

そして、本郷キャンパスの素晴らしさに驚いた。
最高学府は大学を指すが、この言葉の響きにふさわしい威容を備えていた。
私は、都心の文教地区の一角、ゆとりの敷地につくられた全体のたたずまいにため息をつき、歴史と風情を堪能した。
勉強嫌いの私が言うのもなんだが、東大生はこんなに恵まれた環境で学んでいるのかと、うらやましく思った。

私が富山県立魚津高校時代に一番仲のよかった友人が東大に現役で合格した。
例の「安田講堂事件」の影響で入試が中止された翌年だったので、よけいに大変だったはずだ。
彼は入学後、私に大教室での授業を受けにくるように奨めた。
その気がなかった私は応じなかった。
が、この日、彼があれほど熱心に誘ってくれた理由の一つが腑に落ちた気がした。

私は、ほかの国立大学のキャンパスも、主要な私立大学のキャンパスも知らない。
かつて在籍した明治大学(5年中退)の1〜2年生が通う明大前の和泉キャンパスをちょっと知っているくらいだ。
3〜4年生が通う御茶ノ水の駿河台キャンパスはあまり知らない。
通っていないというより大学に行っていないので当然だ。
私は当日、キャンパスのあまりの格差を目の当たりにし、私立大学の学生(私も…)がかわいそうになった。

私は長野県の伊那市立伊那中学校2年生までは成績が突出しており、「オール5」を取った(むろん、体育も音楽も美術も…)。
親を含めた周囲から、将来は東大へ進むのでないかと思われていた。
私自身もぼんやりと、そう思っていた。

ところが、中学3年生の10月下旬に父の転勤にともない、徳島県の小松島市立小松島中学校に転校してから、状況が一変した。
新しい教科書を受け取ったが、すでに授業はおおよそ終わっていた。
習わなかったところが出てきた。
ほどなく徳島県立城北高校に入学し、その後は東京都立墨田川高校、富山県立魚津高校と学年の途中で転校した。
その都度、教科書が変わり、習っていないところがあちこちに出てきた。
私はいわゆる理数系の科目がとくに強かった。
しかし、数学などはいったん分からなくなると、どんどん試験の点数が下がった。
高校2年生の2学期には、5教科の国立大学(旧一期校)の合格が困難な学力になっていた。
その後は坂を転げ落ちた。

私は、気になったら実際に足を運んでみることの大切さを痛感させられた。
中学2年生か3年生に東大のキャンパスを訪れていれば、おそらく人生が変わった。
それくらい惹きつけられるとともに、強い刺激を受けたのだった。
この大学に入りたいと本気で思ったはずだ。
私は根が怠け者だが、いったん明確な目標が定まると、猛烈に頑張れる性分。
ただし、高校時代に訪れても、学力の立て直しはとても間に合わなかった。

誤解が生じると困るので説明を補うと、私が東大に入れるということでない。
受験勉強に必死になれたという意味である。
入りたいと思って入れる大学でないのは承知している。

また、私の学力の低下を親の転勤のせいにしようということでもない。
私と同年齢の知人は、私よりもっと多くの転校を経て、なおかつ東大に合格している。
学校の授業で習っていないところが出てきたら、自己学習で補えば済む話である。
私はその努力をまったく放棄した。
やる気がなく、ろくに授業さえも聞いていなかった。
教科書は、唯一の楽しみの早弁の隠れ蓑だった。
成績がずたずた、ぼろぼろになったのは、もっぱら私の責任だと認識している。

なお、私は当日、安田講堂前の広場の地下の中央食堂で「中央カレー」という妙な名前のカレーを食べた。
とくにうまいということはない。
が、東大生がこれをいつも食べていると思うと、悔しさがこみ上げてきた。
なぜかは不明。

余談・・・。
東大キャンパスを視野に収められるところに暮らすと、子どもが合格する可能性が高まるのでなかろうか。
周囲のマンションを眺め、私はそう感じた。

◆書き加え1(10月9日)

世間が最高学府を東大に誤用するのも無理はないと思った。

正直に言う。
私は、半分感嘆し、半分あきれた。
カネをかけすぎだぞと憤慨しながら、中央カレーを口に放り込んでいた。
かなり怒っていたので、味が分からなかった。

Copyright (c)2013 by Sou Wada

人気ブログランキング←応援、よろしく!