3月10日、コメディアン・坂上二郎(愛称は二郎さん)が脳梗塞で亡くなった。
享年76歳。
悼む間もなく、翌日に東北地方太平洋側で大地震が起こった。

1966年、坂上二郎は萩本欽一と「コント55号」を結成した。
私は都立墨田川高校1〜2年生の頃、確か「恩師」をテーマとしたコントに爆笑した記憶がある。

長年連れ添った萩本欽一(愛称は欽ちゃん)は、東北新幹線の全面運休により、12日の通夜に間に合わなかった。。
13日、JR在来線で宇都宮に着き、タクシーに乗り換えて午前11時過ぎに栃木県那須塩原市内の斎場に駆けつけた。
遺言(口頭)に従って「家族葬」が営まれた。
萩本欽一は最後の別れを行ったが、棺のなかの顔は見なかったらしい。
「二郎さんの足元にも及ばなかったよ」とつぶやきながら、足のほうに花を入れた。
出棺時に遺影を持ち、坂上二郎の代名詞のギャグで送り出した。

私は萩本欽一が69歳と知った。
二人は年齢が近いと思い込んでいたが、かなりの差があった。

                       ◇

「コント55号」はとにかく面白かった。
しかし、当時は萩本欽一が嫌いで、坂上二郎が好きだった。
私は、お気に入りのコンビについては、二人ともそれなりに好きなので、不思議な経験である。

萩本欽一がわざとらしく感じて白けてしまい、どうも苦手だった。
独特のしゃべり方も関係していたように思う。
いまは冷静に見られるし、好き嫌いの感情にあまり左右されなくなった。
萩本欽一の努力を受け入れることができる。
功績も凄い。

天才と天才が浅草で出会い、コンビを組んだ。
が、坂上二郎は萩本欽一よりも才能は上だったと思う。
が、萩本欽一が坂上二郎の才能を限界まで引き出したとも思う。
坂上二郎は、萩本欽一の無茶なエネルギーを吸収してしまう懐の広さがあった。
二人の絆は外部からうかがい知れない。

                       ◇

以下は、ウィキペディアから抜き書き。

1953年、「NHKのど自慢コンクール」で鹿児島県代表に選ばれ優勝した。
この記述は、日本一になったという意味なのか?

これをきっかけに、歌手を目指して上京する。
青木光一の付き人や島倉千代子の専属司会者など、さまざまな職業を経て、獅子てんや・瀬戸わんや門下へ。
やがてストリップ劇場「浅草フランス座」のコメディアンとなり、幕間コントで萩本欽一と共演した。

1966年、キャバレーの営業などで食いつないでいたとき、萩本欽一と再会したことが大ブレークにつながった。
マージャンのメンバーが足りず、たまたま呼び寄せたようだ。
坂上二郎は芸能界から足を洗うことをすでに決めていた。
奇跡的な縁・・・。
即席コンビのつもりが、浅草松竹演芸場、日本劇場などで人気を博した。
折からの演芸ブームに乗り、コント55号はすぐにテレビに引っ張りだこになった。

1974年、歌手として「学校の先生」がヒットした。
1976年、コンビの活動が中断し、それ以降はテレビドラマや映画、舞台で俳優として活躍した。

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