コンサルの引き出し|和田創ブログ

だれの目の前にも可能性の地平は広がる。それを切り拓けるかどうかは自分次第である。「面白くないジョークの会」初代会長が解き明かす経営と人生の奥義とは?

直江津小学校

昔の上京は鈍行での大変な長旅でした・・・

昔はそれはそれは大変な長旅でした。
1951年生まれの私にその記憶が残っているのは1950年代後半から1960年代初頭の数年です。
列車がSL(蒸気機関車)でのろく、移動にとんでもない時間を要しました。
暑い季節は窓を閉めておくわけにいかず、煙が石炭の灰とともに容赦なく入ってきました。

背面が垂直の座席は恐ろしく固く、座り心地が最悪でした。
(背板だったかもしれません。)
さらに、前の座席との間隔が狭く、大人だと膝がぶつかり、脚が窮屈でした。
体が痛くても疲れても、姿勢を崩しようがありません。
ほとんど身動きが取れない状態で、ひたすら耐えなければなりませんでした。
(こうした座席はわりと近年までありましたが、10時間に迫る乗車では珍しいはずです。)

記憶が曖昧ながら、信越本線の鈍行(各駅停車)で直江津駅から上野駅へと向かいました。
(やがて「急行」に乗るようになったはずです。)

山間地帯を抜け出して関東平野に出ると一気に視界が広がりました。
高崎駅(高崎市)は最初の都会、東京の入口という印象でした。
団塊の世代の方ならお分かりいただけるでしょう。

目的地(終着駅)にたどり着いたわけでもないのに、胸をなでおろしました。
小学生の私だけでなく、両親も同じだったと思います。

気が遠くなるような道中、横川駅で「峠の釜めし」を土瓶入りの緑茶と買い求めることが唯一の楽しみでした。
ウィキペディアによれば、「駅弁=折詰」という常識を打ち破った峠の釜めしが発売されたのが1958年でした。
直江津小学校の2年生に当たります。

手元に写真が残っていれば、当時をいくらか振り返れます。
例えば、上京が何回だったか、東京で何を楽しんだかなどです。
しかし、私は1990年代後半(40代後半)以前の記録を何一つ持っていません。
誕生、幼児、園児、小学生〜高校生、社会人、結婚・・・。
いつ頃か分かりませんが、卒業文集も卒業アルバムも卒業証書も失いました。
亡くなった両親の昔の写真もありません。

老いが深まるにつれて、過去を懐かしく感じる気持ちが膨らんでいます。
当時に戻れると思っていませんが、手がかりがないのはさみしいかぎりです。
死ぬ前に写真でもいいから会いたい人がたくさんおり、触りたい暮らしがたくさんあるのです。

生きた記録を大切にしなかったことを悔やんでいます。

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直江津小学校同窓会…半世紀振り

2014年の今年は東京五輪(第18回夏季オリンピック)開催から50年が経ったということで、テレビで特集番組が組まれたり、ちまたで記念イベントなどが催されたりしている。
それにより、1951年(昭和26年)生まれの私が直江津小学校(新潟県)を卒業したのは、その東京オリンピックが行われた1964年だったことに気づいた。
自分のなかで卒業と五輪開催の年が一致しなかったのだ。
あくまで伊那中学校1年の出来事だった。

私は前日に父の転勤にともなって伊那市(長野県)に引っ越したため、卒業式に出られなかった。
このときの無念はいまだに引きずっている。

⇒2010年8月13日「直江津小学校卒業式…半世紀の無念とは?」はこちら。

という事情もあり、かねてより同級会、それが無理なら同窓会に参加したいと思っていた。
今年が卒業半世紀の節目に当たることは早くから気づいており、ひそかに期待していた。

私は直江津小学校で1〜2年は加藤先生、3〜4年は渡辺先生、5年は高山先生、6年は小林先生が担任だった。
2年単位だが、6年になるときに高山先生が他校へ移られた。

私はその後、転校と引っ越しを繰り返し、すべての卒業証書や卒業文集、卒業アルバム、そしてすべての記念写真やスナップ写真などをなくしており、半生の記憶がかなり消えた。
にもかかわらず、直江津小学校の担任だけは名前を覚えている。
よほど学校生活が楽しかったのだろう。

高等学校(高校)は同窓会や同級会が行われるところもある。
しかし、中学校はほとんど行われない。
まして、小学校は行われるところはないのか。

私は、半世紀振りの同級会でクラスメイトと再会を果たすという願いが叶わなかった。
薄情で申し訳ないが、名前を思い出せるのは1人になっている。

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自分に打ち克ち、困難を乗り越える…義務教育での登山

戦後の義務教育では「登山」が重んじられたせいか、私は直江津小学校(新潟県)と伊那中学校(長野県)で学校行事としての登山を経験した。
自分に打ち克ち、困難を乗り越える強さを身につけることが狙いだったのでないか。

達成感なら長距離走でも得られる。
だが、人により得手・不得手という違いがある。
また、ややもすると順位に関心が向かいやすい。
つまり、競争。

登山は、それを行うのは銘々だが、皆で励まし合いながら成し遂げるという一体感が生まれる。

さらに、頂上を極めたときに見晴らしが得られる。
人は高みに立つことに快感を覚える。
敗戦から復興する、錦を飾る(地方出身者)など、右肩上がりの時代背景にも合っていたように思う。

もちろん、登山ならではの自然の雄大さに接するとか、マナーやルールを守る大切さを知るとかも狙いだっただろう。

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新潟・富山は猛吹雪…大雪と暴風で視界が真っ白

ニュース報道によれば日本海側、とくに北陸4県は大雪に加えて暴風。
となると、猛吹雪。
視界が真っ白の状態でしょう。
豪雪地帯の暮らしは大変です。
新潟県妙高市は市街でも3〜4メートルの積雪です。
通学路の確保も困難・・・。

私は、半世紀前の新潟・直江津(現上越市)での冬の厳しさを思い出しました。
直江津小学校のおそらく2〜3年生頃、自宅から遠く離れた医者へ足を運んだ帰り、凄まじい雪と風と寒さに遭難しかかったことがあります。
往路は荒れ模様だった天候が、帰路は大荒れに変わりました。
まともな向かい風になり、前へ進めません。
体が1〜2度吹き飛ばされました。
体温がどんどん奪われていきました。
引き返すには遠すぎます。
必死でした。
しばらく凍傷が残りました。
また、昭和38年1月豪雪では自宅の1階が雪に埋もれ、2階もしくは階段の踊り場から出入りしました。

昔、奥飛騨に住む叔父が軽自動車で山道を走行中に立ち往生し、クルマの周辺に雪が降り積もって一酸化炭素中毒で亡くなりました。
短時間で記録的な降雪(積雪)となる「ドカ雪」です。
3人の小さい姉妹を残して・・・。
叔母によれば、一番近くの民家まで数キロの距離があったとのこと。
一酸化炭素ガスは空気より重いので、周りの雪の壁にはばまれて溜まりました。
山奥はかなりの氷点下であり、エンジンを切れなかったのでしょう。
昨年亡くなった叔母が子どもを立派に育てあげました。
親子が味わった苦労は想像を絶するものだったはずです。

雪も風も小康状態になることを祈ります。

◆書き加え1(2月1日)

富山県滑川市のかつての両親の実家に住む妹夫婦と連絡が取れました。
建物が古いので、雪の重みに耐えられるか気がかりです。
連日のように玄関から道路まで雪かきをやっており、積もり方を見て週末に屋根の雪下ろしをやるかもしれないと言っていました。
富山では当たり前の共働きなので、今冬の記録的な豪雪は重い負担になります。

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直江津駅から上野駅まで各駅停車の旅…直江津に関するブログ

私は先週金曜日から土曜日にかけ、書斎で延々と仕事…。
数本の締め切りがほぼ同時期に重なり、間に合わせられるか綱渡りの状態・・・。
朝方ベッドにそのまま横たわり、20分程の仮眠を取った。
そして、ルーシー・ヘンシャルの「I Dreamed A Dream(夢やぶれて)」を聴いて眠気を吹き飛ばし、仕事を再開。
かのスーザン・ボイルが歌い、一躍世界中に広まったミュージカル「レ・ミゼラブル」の挿入歌だ。

ところが、簡素な昼食を取って腹が満たされたら、頭というか意識がもうろうとし、コンテンツの作成がさっぱり進まなくなった。
まずい。
よほどのことがないかぎり頼らないようにしている「ユンケル黄帝ロイヤル」に、とうとう手が延びてしまった。
仕事を中断することは許されない。

つけっ放しのテレビ東京から「ローカル線 秋の駅弁旅」という番組が流れてきた。
いまや、各駅停車で沿線の名物駅弁を楽しむのは、最高の贅沢である。
私はせわしない日常に押し潰されており、のんびりとした旅行に憧れてしまう。
仕事としてでなく、どこかへ行きたいとつくづく思う。

実は、講演や公開セミナー、企業研修で数えきれないくらい地方へ出向いたが、どの土地もまったく知らない。
なぜなら、目的地の駅と開催会場と宿泊ホテルの3カ所のほかは行ったことがない。
それも徒歩よりもタクシーのほうがずっと多い。
たいてい時間的にぎりぎりなので名所を訪れたり、街並みをぶらっとしたりする余裕が持てないのだ。

私は眠気覚ましのコーヒーを飲んでいて思い出した。
いまから半世紀以上前、子どもの頃、新潟の直江津駅から上野駅まで信越本線で10時間前後かけて行ったことがある。
おそらく昭和32〜33年、直江津小学校1年生。
記憶が非常に曖昧だが、各駅停車、そして乗り継ぎなし。
でも、この時代に鈍行でそんな長距離列車があったのか、どうもはっきりしない。
また、急行があったはずなのに、なぜそうしたのか。
それとも急行で10時間前後?

母は江戸っ子。
親戚のうちに遊びにいくことが確か休暇の直前に決まり、切符を取れなかった?
さらに、父が甘く見ていたせいか、座席にありつけなかった。
おそらく始発だった?
幾度も「失敗した」というようなことをつぶやいていた。
小さかった私はとてもつらかったので、覚えているのだろう。
通路もびっしり、トイレもいけないほどで、それは地獄だった。
懐かしい思い出だ。
昔の人は恐ろしく辛抱強かった・・・。

これも記憶が曖昧だが、途中で少なくとも私くらいは座れたのかもしれない。

このときは不明ながら、上京時の駅弁は横川駅の「峠の釜めし」とほとんど決まっていた。
製造・販売は「荻野屋(おぎのや)」。
ウィキペディアによれば、1958年(昭和33年)2月1日発売と記されている。

                      ◇◆◇

生まれ故郷・直江津に関するブログは以下のとおり。

⇒2010年5月1日「鱈めしと磯の漁火は名作駅弁…直江津」はこちら。

⇒2010年4月30日「直江津マイミクとセピオーラで歓談」はこちら。

⇒2010年4月29日「特急はくたか、強風で全面運休」はこちら。

⇒2010年3月20日「校歌を歌ってみなさい…就活・面接」はこちら。

⇒2010年3月17日「卒業式シーズン…大人への通過儀礼」はこちら。

⇒2010年3月13日「駅弁甲子園ハイマート鱈めし(再録)」はこちら。

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⇒2008年2月26日「上越・高田の観桜会…日本三大夜桜」はこちら。

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⇒2007年3月11日「NHK・桜井洋子さんの活躍が励み」はこちら。

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おひさま陽子…伊那中・西駒登山、直小・妙高登山

20070411-02NHK朝の連続テレビ小説「おひさま」。
土曜日から井上真央がヒロイン・須藤陽子を演じている。
子役経験が豊富であり、若くても実力派なのだろう。

先週金曜日の放送で、陽子の母が亡くなった。
原田知世が心臓病に苦しむ紘子を切なく演じた。
須藤家が東京から空気の澄んだ安曇野に引っ越してきた理由が、最後のときを1日でも長くという父の考えだった。
あるいは、母の思いだったのかもしれない。

こうした事情を知らされたのは長男だけだった。
が、この頃には次男も、そして陽子も母の命が長くないことを察していた。
目に見えて病状が悪化していったからだ。

母は最後の日が近いと悟り、長男と次男を別々に呼び寄せた。
そして、力を振り絞って言葉をかけた。
どうしても言い残しておきたかったのだ。
二人の男の子はそれをしっかりと胸に刻んだ。

陽子は、母の病状が切迫し、小学校の登山をためらった。
それを母は送り出した。
太陽を近くで見てらっしゃいと・・・。
陽子はご来光に母の死を感じた。

私は思った。
当人に告知を行えば、親子で、夫婦で、最後の言葉を交わす時間を持つことができた。
相手が認めないかぎり、当人はそうした前提で話せない。
前の妻が亡くなってから長い歳月が流れたが、私はいまだに引きずっている。

                       ◇

「ひまわり」の陽子の登山を見て、記憶がよみがえった。
戦後長らく、義務教育では「登山」が重んじられていた。

私は直江津小学校の5年生(曖昧)で「妙高山」に登った。
校歌は、「ながめとうとき 妙高山の まどにうつれる姿をあおぎ・・・」で始まる。
妙高山は標高2454メートル。
あいにく天候が思わしくなく、希望者だけが山頂まで登った。
私も…。
卒業文集にはその思い出を綴ったはずだ。
ところが、卒業証書や卒業アルバムの類は手元に残っていない。
引っ越しの連続で、私は半生の記録をすべて紛失してしまった。

伊那中学校の2年生(曖昧)で「西駒ケ岳」に登った。
校歌は、「山脈(やまなみ)は 青くめぐりて・・・」で始まる。
険しくてきつかったし、怖かった。
伊那谷は2つの駒ヶ岳に挟まれ、西側の木曽駒ヶ岳を「西駒ヶ岳(西駒)」、東側の甲斐駒ヶ岳を「東駒ヶ岳(東駒)」と呼んだ。
西駒ケ岳は標高2956m。
3千メートル級といってよい。
木曽山脈(中央アルプス)の最高峰だ。

ウィキペディアによれば、1913年(大正2年)、長野県中箕輪高等小学校(現在の長野県上伊那郡箕輪町立箕輪中学校)の集団登山において、将棊頭山付近で遭難事故が発生し、校長と生徒10人が死亡した。
現在の上伊那地区の中学校では、当時の教師たちの遺志を尊重し、また慰霊の意味も込めて、学校行事として集団登山を行っている。
私は登山前のオリエンテーションでこの話を先生から聞かされたことを覚えている。
いまなお伊那中学校では西駒登山を行っているのだろうか。

1967年(昭和42年)、駒ヶ岳ロープウェイ開通にともない、終点の千畳敷や木曽駒ヶ岳に多くの人が訪れるようになった。
登山はずいぶん楽になったのでないか・・・。

「おひさま」で子どもたちが歌う県歌「信濃の国」を久しぶりに聞き、懐かしくなった。
明治時代の作詞・作曲。
私もずいぶん歌った。

                      ◇◆◇

朝ドラ「おひさま」とヒロイン陽子役・井上真央などの出演者に関するブログは以下のとおり。

⇒2011年4月4日「井上真央・おひさま、日本を明るく照らす」はこちら。

⇒2011年4月5日「おひさまの舞台、安曇野の自然の美しさ」はこちら。

⇒2011年4月7日「八木優希のおかっぱ頭…おひさま陽子の子役」はこちら。

⇒2011年4月8日「瀧本美織がおひさまヒロインを演じたら・・・」はこちら。

⇒2011年4月8日「瀧本美織てっぱん続編は3年後に本放送か」はこちら。

⇒2011年4月9日「井上真央、謎めいた内面…おひさまヒロイン」はこちら。

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富山・滑川・魚津は記録的大雪…冬将軍猛威

新潟県、富山県、石川県、福井県の北陸地方が記録的な大雪に見舞われている。
実は、昨冬もかなり積もった。
今冬はそれを大きく上回る。
「雪国」とされる新潟県でさえ、私が直江津小学校時代の約半世紀前のような豪雪は珍しくなっていた。
最近では、津南町で4メートルを超える最深積雪を記録した「平成18年豪雪」。

妹夫婦が富山県滑川市天望町の両親のかつての実家に暮らしている。
隣が魚津市、さらに隣が黒部市。
その黒部市で住宅が積雪の重みに押し潰された。
古い木造家屋はとても危険な状態である。
が、休日はともかく平日に“ドカ雪”に襲われると、雪かきが追いつかない。
実家は築20年を超えている。
妹とうまく連絡が取れない。
義弟は富山市で営業活動を行っており、参っているのでないか。
NHK総合テレビなどで再三、雪に埋もれた市内の光景が映し出された。

北陸地方で交通網がもっとも深刻な影響を受けたのは福井県。
北陸自動車道や国道8号はクルマが走行不能になり、千台以上が立ち往生した。
福井県は陸上自衛隊に災害派遣を要請した。
ほぼ解消した模様・・・。

                       ◇

私は「昭和38年1月豪雪」を経験している。
「三八豪雪」「サンパチ豪雪」と呼ばれる。
階段の踊り場から出入りした。
2階の窓を玄関にする感じ…。
クリスマスから正月にかけ、小学5年生の私は連日、両親の雪かきを手伝った。
重労働で、体が熱くなる。
雪は案外、重い。

当時、降り注ぎ降り積もる雪で天も地も真っ白だった。
見るだけなら美しい雪も、そこで生活する人にはときに過酷である。

◆書き加え1(2月1日)

猛威を振るった寒波「冬将軍」はきょう弱まり、後ずさりした。
予想天気図のあちこちに見られた雪のマークが減った。
徐々に暖かくなっていくようだ。

北陸地方は大雪のピークが過ぎ、天候が回復する。
何よりだ。

                      ◇◆◇

富山県と魚津高校などに関するブログは以下のとおり。

⇒2010年11月24日「富山名物蒲鉾(かまぼこ)に舌鼓…魚津・河内屋」はこちら。

⇒2010年11月17日「富山ブラック2年連続日本一…東京ラーメンショー」はこちら。

⇒2010年11月5日「富山ブラック麺家いろは…東京ラーメンショー」はこちら。

⇒2010年6月7日「富山ダイチのスケート親父…田中実会長」はこちら。

⇒2010年5月18日「魚津の蜃気楼に壮大なロマンを感じる」はこちら。

⇒2010年4月29日「特急はくたか、強風で全面運休」はこちら。

⇒2010年4月15日「ダイチ・田畑真紀、メダルへの道のり」はこちら。

⇒2010年3月22日「魚津高校出身講師のセミナー」はこちら。

⇒2010年3月9日「五輪銀メダルのダイチは富山中小企業」はこちら。

⇒2010年2月11日「寝台特急北陸と北陸銀行セミナー」はこちら。

⇒2009年12月21日「寝台特急北陸、急行能登が消える」はこちら。

⇒2009年12月20日「巨大カボチャ風呂に入る…富山・入善」はこちら。

⇒2009年11月10日「地方紙危機、北日本新聞が夕刊廃止へ」はこちら。

⇒2008年2月19日「古里への屈折した思い」はこちら。

⇒2007年5月9日「月収1位、富山は富の山だった!」はこちら。

⇒2007年4月24日「親不孝、富山の実家に寄りつかず」はこちら。

                      ◇◆◇

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直江津祗園祭花火大会、山車集結の賑わい

あすから4日間にわたり直江津祗園祭(祇園祭)。
私はこの時期、直江津小学校時代(半世紀前)をかならず思い出す。
地域全体を巻き込んだ唯一のイベントの到来を待ち侘びた。

去年は雨にたたられた。
気温も上がらなかった。
今年は梅雨明けが早く、日本海側の地域に特有の夏の暑さが爆発した。
が、日本気象協会の週間天気によれば、上越(高田)は26日〜29日は快晴というわけにいかない(23日17時発表)。
曇〜曇時々晴。
降水確率は40〜30%。
しかも確度がやや低い予報。
要は、自信がないのだ。
何とか持ち堪えてくれますように…。

上越まつりは7日間にわたり、前半は高田地区、後半は直江津地区で行われる。
その中日、直江津地区では関川(荒川)を下ってくる神輿を屋台と花火が盛大に迎える。
「直江津祇園祭」の幕開け。
盛り上がるのは直江津地区。

私は当時、真行寺幼稚園前の自宅兼事務所(オフィス)、呉羽紡績(後に東洋紡績に吸収合併)支所に暮らしていた。
夕食が終わり、花火の音が聞こえると、幼い頃はおそらく親に手を引かれ、直江津小学校時代は親とともに会場へ向かった。
徒歩7〜8分。
決して広くない道の真上に大輪が開いた。
次第に音が体全体に響くようになる。
懐かしい思い出だ。

あす26日はその花火大会。
私は飛んでいきたい気分。
童心に返り、御幸町の屋台を引く…。

以下に「直江津祗園祭、花火大会、舟形屋台」と題する2009年8月16日のブログを収める。

                      ◇◆◇

私が子どもの頃もっとも楽しみにしていたのは、直江津祗園祭(祇園祭)。
それはもう待ち焦がれた。
7月26日〜29日の4日間(当時は不明)。
梅雨明けのタイミングと重なる。
直江津市が高田市などとの市町村合併を経て上越市となった現在、「上越まつり」の一部という位置づけ。
祭は1週間、前半の3日間は高田地区で、後半の4日間は直江津地区で行われる(これは昔から変わらないらしい)。

そして、直江津祗園祭の始まりを華かに告げるのが直江津花火大会。
いまは「上越まつり大花火大会(直江津地区)」。
5千発の打ち上げ、10万人の人出(当時は不明)。
人口3万人の小都市だったから規模は決して大きくないが、地域住民には最大のイベントだった。
花火大会の会場周辺に、後に述べる舟形屋台(山車)が集結して祗園囃子を奏でる様子は壮観である。
八坂神社(祗園社)から高田地区へ貸し出していた神輿(みこし)が両地区を流れる関川を船で下り、直江津地区に戻ってくる。
神輿の関川河口(花火大会会場)の到着に合わせ、ナイアガラとスターマインの豪華競演が繰り広げられる。

直江津地区の19町内会(当時は不明)がそれぞれ1台、装飾を凝らした舟形屋台(山車)を持っている。
昔、直江津は北前船の寄港地として栄え、千石船が絶え間なく出入りしていた。
舟形屋台はそれをかたどったもの。
これを各町内会の小学生がロープで引っ張る。
掛け声は、男の子が「わっしょい」と発し、女の子が「よいやさ」と受ける。
ニュアンスとしては「わぁーっしょい」「よいやさぁ〜」。

当時、直江津小学校の私も御幸町の舟形屋台(山車)を引いた。
かなりの重労働。
まして夏場なので汗だくになるが、それでも嬉しくて仕方がなかった。
「ご苦労さん」ということで、確かビニール袋に入った駄菓子が配られた。
しかし、それが目当てでない。
ひょっとすると、祗園祭に直江津小学校の鼓笛隊もパフォーマンスを披露したのでないか。
ならば、私は隊長だったので、先頭で指揮棒(指揮杖)を振っている。
記憶が曖昧。

この舟形屋台(山車)の後ろに太鼓が2つ据え付けられており、大人が叩く。
その後ろに笛を吹く大人数名が従う。
日が暮れて青っぽい提灯に明かりが灯ると、舟形屋台は優雅で幻想的な雰囲気に包まれる。
私は子ども心に、とても美しいと感じた。
ちなみに、祗園は京都八坂神社の旧称、祗園祭は京都八坂神社の祭礼。
知らなかった。

直江津祗園祭の4日間の大雑把なスケジュールは以下のとおり(当時は不明)。
1日目は、神輿が関川河口に到着。花火大会が開催。舟形屋台(山車)も会場周辺に集結。
2日目は、舟形屋台が市街巡回。
3日目は、舟形屋台が市街巡回。民謡流し(佐渡おけさのパレード)。
4日目は、舟形屋台がメーンストリート(八坂神社付近の商店通り)に集結。1台ずつ八坂神社に御饌米(おせんまい)を奉納。舟形屋台が解散(各町内会へ)。
なお、奉納では重い俵を担いだ大人が、露店が両脇を埋める八坂神社の百メートル強の参道を本殿目がけ、一気に駆ける。
なかなか勇壮!

私がグーグルで検索したら、生まれ育った直江津を深く愛する方のホームページが見つかった。
小学生、高校生、大学生、青年会と祗園祭にのめり込んだ経験が成長の糧となったと述べている。
氏は、さらに祗園祭が果たしてきた教育面の効用に言及し、その重要性を強調している。
祗園祭は長らく直江津地区で学校とは別の、地域社会のなかでの“学び”の機会になっていたとのこと。

近年、若者が祗園祭を支える青年会に入りたがらず、また小学生が少なくなり、永続が危ぶまれるのだとか…。
そのため、大人が担ってきた太鼓と笛を、中高生を含めた子どもが受け持つように…。
町内会によっては舟形屋台(山車)を引く小学生がほとんどいない。
また、地方衰退と人口減少の影響が祗園祭の沿道に現れている。
舟形屋台が集まっても人出が少なく、かつての熱狂が失われている。
地域住民の祗園祭に対する関心がかなり下がった。
私が子どもの頃は皆、祗園囃子が聞こえてくるだけで家の外に飛び出し、舟形屋台を探し歩いた。

ところで、私は「直江津屋台会館」ができたことは知っていたが、食べ物の屋台が揃う、観光客向けの飲食施設をイメージしていた。
何と食い意地が張っているのか。
そうでなく、祗園祭で繰り出される19町内会の舟形屋台(山車)を収蔵・展示しておくためにつくられた施設だった。
となると、明るい照明のもとですべての舟形屋台を四方八方から眺められる。

私は元気なうちに、直江津祗園祭を4日間じっくりと楽しみたい。
子どもの頃に覚えた胸の高鳴りを、もう一度取り戻したいのだ。
夢は叶うか?
両親と一緒というわけにいかない…。

                      ◇◆◇

直江津祗園祭に関するブログは以下のとおり。

⇒2009年8月8日「夏の風物詩・花火大会ランキング」はこちら。

⇒2009年8月16日「直江津祗園祭、花火大会、舟形屋台」はこちら。

ホテルハイマートの駅弁「鱈めし」に関するブログは以下のとおり。

⇒2009年8月15日「絶品駅弁! 直江津ハイマート鱈めし」はこちら。

⇒2009年9月21日「漁師まかない飯…直江津漁港」はこちら。

かなざわ総本舗「出陣餅」に関するブログは以下のとおり。

⇒2009年8月4日「上杉謙信・出陣餅と武田信玄・信玄餅」はこちら。

⇒2009年8月29日「筑紫もち、信玄餅、出陣餅、三つ巴」はこちら。

直江津途中下車に関するブログは以下のとおり。

⇒2007年4月25日「生まれ故郷・直江津へ自分探しの旅」はこちら。

⇒2008年2月17日「故郷・直江津にマイミク」はこちら。

⇒2009年8月30日「関川と荒川…直江津を流れる川」はこちら。

⇒2010年3月10日「直江津ホテルハイマートに宿泊予約」はこちら。

直江津小学校時代に関するブログは以下のとおり。

⇒2007年3月11日「NHK・桜井洋子さんの活躍が励み」はこちら。

⇒2008年2月26日「上越・高田の観桜会…日本三大夜桜」はこちら。

⇒2009年4月4日「桜の名所、高田城址と高遠城址」はこちら。

⇒2009年4月5日「意外、人口最多は新潟県」はこちら。

⇒2009年7月22日「46年前の皆既日食」はこちら。

⇒2009年7月24日「感激! 生まれ故郷・直江津から…」はこちら。

⇒2010年3月11日「心にぽっかり穴…直江津小学校卒業式」はこちら。

⇒2010年3月17日「卒業式シーズン…大人への通過儀礼」はこちら。

⇒2010年3月20日「校歌を歌ってみなさい…就活・面接」はこちら。

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心にぽっかり穴…直江津小学校卒業式

私は人生で一度も「卒業式」を経験していない。
直江津小学校では、卒業式の前日に長野県伊那市へ引っ越した。
私が愛してやまない生まれ故郷での最後は悲惨だった。
心にぽっかり穴が開き、それは半世紀近くを経たいまも埋まっていない。
呉羽紡績(現東洋紡績)は父親の転勤をなぜ遅らせてくれなかったのか?

直江津小学校には楽しくしかも誇らしい思い出しか残っていない。
私はこれ以降、輝きを放てなかった。
ささやかな栄光はこの時代に集中しているのだ。

私は6年生全員による投票を経て「児童会長」に選ばれた。
ほかに立候補者がいて、選挙演説を行った記憶がある。
当時、級長でもそうだったが、児童会長は成績が上位の子どもが就いた。
また、直江津小学校では「鼓笛隊」に力を入れており、私は先頭でバトン(指揮棒、指揮杖)を振った。
さらに中核の学校であったため、直江津市内の全小学校が集まるイベントでは、私が壇上に立って総指揮を執った。
それは壮観な眺めだった。

6年生は何度か全クラス揃って卒業式の練習。
松・竹・梅・桃の4クラス(学級名はひらがなだったかもしれない)。
おおよそ1クラス50人、計2百人。
私はその都度、教室にポツンと取り残された。
担任の先生が、卒業式に出席できない私に練習をやらせては可哀想と判断したのだろう。
教室の窓を開けると体育館から先生や児童のマイクの声、そして歌声などが聞こえてきた。
このときの寂しさを忘れられない。
仲のいい友だちが大勢いたのに、自分一人になった気分だった。
ただし、引っ越し前にクラスで別れの挨拶を行うことはできた。

私は卒業式で皆と一緒に6年間親しんだ校歌を力一杯歌いたかった。
無念…。

両親はこの件をどう考えていたのか。
一度聞いてみたいと思っているうちに、それも叶わなくなった。
現在では、仮にそうした命令を受け入れざるをえないにしても、私と母親は2日遅れで移動するのでないか。
しかし、そうした発想がまったくなかった。
家長に従う。
どちらかがホテルに泊まるなどとんでもない。
引越だって“お任せパック”はなく、家族の手で梱包も開梱も行うしかない。
記憶が曖昧だが、列車で移動した私たちと並行するようにトラックが走行していたのでないか。
あるいは、コンテナが貨物列車で輸送されていたか…。

私たちが伊那に着いて間もなく、荷物も届いたと思う。
疲れていたが、当日夜の生活に困らぬよう、一部は開梱を行ったのでないか。

日本海を眺めながら育った私にとり、2〜3千メートル級の山々に挟まれた伊那(盆地)は息苦しさを覚えた。
そして、西も東も分からない土地で伊那中学校に入学した。

入学式だったか始業式だったか、クラス分けが発表された。
3年間、担任も級友も変わらず。
同じクラスになった生徒が気さくに話しかけてきた。
人懐っこい顔をしている。
自宅がすぐそばと分かり、一緒に帰った。
私は不安が和らいだ。
互いにどれほど行き来しただろう。
やがて伊那が好きになった。

2009年10月16日のブログ「リニア中央新幹線は伊那谷ルート!」
むろん、私情にすぎず、その正当性を述べたものでない。
リニアの目的を考え、かつ特性を生かすなら、結論は議論するまでもない。
が、伊那中学校の卒業式に出席できなかった私は思うのだ。
リニア中央新幹線は伊那谷ルート!
これで決まり。
異議なし。

伊那中学校入学直後、私は人生の奥深さを教えられた。
大人の勉強…。
人はつまらないことを覚えていたりする。
級友がよそ者の私に「伊那盆地を反対から読め」と、偉そうに命じた。
けがれを知らない私は感動に身震いした。
それ以来、縮まったまま。
厚い氷に閉ざされた頂きは、ついに日の目を見ることがなかったとさ。
己の生涯と重なる。

                       ◇

余談。
高校以降はともかく、小学校や中学校の校舎は木造に尽きる。
人に優しく、味わいが深い。
直江津小学校も伊那中学校もそうだった。
古い建物を大切に使った。
雑巾掛け(ぞうきんがけ)をやったっけ。
木が乾いたのか、それともすり減ったのか、節目や木目が目立った。

校舎がコンクリート製だと愛着が湧きにくい。
とりわけ廊下や階段の印象が薄い。
不思議。

人間の基礎ができる年齢の学校生活は木造がマッチしているのでは…。
私は、どこかで教育の荒廃とつながっている気がしてならない。

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歩くということ。

私は年齢のせいか、各国や各地の自然と風土、風物と暮らしなどに触れられる番組が好きになってきた。
観光地などの旅番組に限らず、ドキュメンタリーに近い番組も気になる。

昨秋以降、世界を紹介する番組を何本か見た(ながら視聴)。
それぞれ美しさに満ちていた。
しかし、せっかく地球に生まれながら、どこにも行っていないことに気づいた。
私はまったく知らない。

それだけでない。
日本に住んでいながら、日本をほとんど知らない。
私は出張や講演などで主要都市をおおよそ訪ねたが、現地の印象が残っていないのだ。
駅とホテル、ホテルと講演会場、講演会場と駅の間をたいていはタクシーで、ときどき徒歩で移動しただけ。
そういえば、12年近く暮らす横浜もほとんど知らない。

ふと思った。
その土地を知るとは、自分の足で歩くということでないか。
なるべく幾度も…。

私がとことん歩いたのは、生まれ故郷の新潟・直江津。
直江津小学校6年生まで暮らした。
かなり歩いたのは、長野・伊那。
伊那中学校3年生の10月中旬まで暮らした。
いずれも、これといった目的もなく…。
直江津に対する愛着は格別、伊那に対する愛着もそれなり。

それ以降、私はほとんど歩かなくなった。
土地の思い出が薄く、したがって土地への思い入れがない。
歩いたとしても、移動が目的だった。

交通手段を用いることで活動範囲を広げられるが、それにより失うものも大きい。
人はゆっくりゆったり歩くことで、周囲と向き合える。
そして、周囲にそのときどきの考えや気持ち、ときに人生を投影しているのでないか。
それが自分と土地との“一体感”を育む。

自然や風土、風物や暮らしについて、私の心に深く刻まれている感動は、かならずといっていいほど歩きをともなう。

思い出した。
しばらく歩かなかった私が再び歩くようになったのは、20代前半だ。
東小金井〜武蔵境、吉祥寺〜西荻窪の界隈。
前の妻とどれくらい歩いたことか。
歩いてばかりいた。

20代半ばで結婚してからというもの、生活に追われた私は仕事で走っていた。
もしくは、タクシーで動いていた。
私は長い間、まったく歩いていない。

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2010年1月公開講座

感激! 生まれ故郷・直江津から…

ジェイックが主催した私の「提案営業セミナー」に、生まれ故郷・直江津(新潟県上越市)から受講者3名がやってきた。
わが人生0471不況、猛暑、遠路…。
ありがたいことである。
私の営業セミナーに限れば、初の参加者でなかろうか。
直江津小学校卒業式前日に離れ、すでに半世紀近く…。

冒頭の講師紹介で私が直江津の出身と知り、最初の休憩時に名刺交換に見えた。
わが人生0472懐かしい記憶が胸一杯に広がり、私はすっかり感激してしまった。
両親にとり、したがって私にとり、直江津にはいい思い出しか残っていない。
それは家族の幸せと希望に満ちた時期だった。

さて、そのうちのお一人は私より若いが、私の小学生時代の友人、野口製畳店の野口昌英さんを知っているとのこと。
私がソロバンを習った近所の観音寺で、やはりソロバンを習った。
私が住んでいたのは真行寺幼稚園の向かいだが、そこから遠くなく、直江津小学校を卒業。
目をおおう営業活動の実態当然、NHKの桜井洋子さんのこともご存じ。
親近感がおおいに湧いた。
しかも、直江津からクルマで参加してくださった。長旅。
セミナー受講者に差を付ける気はないが、これまでの講師経験のなかで一番うれしかった。

・・・私は引退が迫っている。
その前にボランティアでよいので、上越商工会議所「営業変革講演」「提案営業セミナー」の講師を務めてみたい。
わが人生0473日本の経営者と営業職に少なからず貢献したという自負がある。
ぜひとも声をかけてください。
講師料はゼロ。
私の話を一人でも聞いてくださる方がいれば、喜んで出向きたい。

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暗闇に茫然と立ち尽くす私

20080402-01先のブログの続き。
前回の北経研のセミナーでは、前日に妹と富山市で夕食をともにした。
妹夫婦は、両親が滑川市天望町に建てたかつての実家に住んでいる。
父は職業人生で大きな屈辱と挫折を味わったが、母とともにその後の度重なる苦難を乗り越えて、ついに理想の住まいを手に入れた。
決して贅沢でないが、生きる希望と執念が塗り込められた、とてもいい家だった(私は住んでいない)。
全体の造りと間取り、建物の内部と隅々に注意が行き届いていた。
わが人生0450私が東京から戻り、一緒に暮らす日を夢見ているのでないかと思ったことがある。
後年、私はいま暮らす横浜・港北ニュータウンの団地に一戸買い増し、両親を呼び寄せられた。

…話が横道に逸れてしまった。
セミナー当日に生まれ故郷の新潟県直江津市(現上越市)で途中下車した。
私が直江津小学校卒業まで暮らした真行寺幼稚園の前、直江津警察署の裏、呉羽紡績(現東洋紡績)の支所(住宅兼用)に足を運んだ。
わが人生0451しかし、生家はすでに取り壊されていた。
暗闇に茫然と立ち尽くす私。
更地になり、それほど時間が経っているように思えなかっただけに無念。
もう少し早く来られれば…。

木造住宅の寿命は30年。
まして、昔の粗末な造り。
暮らしていた当時も決して新しい建物でなかった。
私が長野県伊那市へ引っ越してから45年近くの歳月が流れていたから当然か。

主要営業セミナー私はそのまま直江津駅前のホテルセンチュリーイカヤに宿泊した。
翌日、同ホテルで直江津在住のマイミク・池田秀敏氏と歓談した後、帰路に…。
今回も直江津で途中下車して翌日、小学校の同級生、野口製畳店を訪ねたいと思っている。

わが人生0452私は中学、とくに高校を転々とした。
中学3年、東洋紡績による呉羽紡績の吸収合併を境に父が職業人生を転落し、家庭崩壊に直面していた。
大学は中退した。
上京後は食べていくのに精一杯で、まったくと言っていいほど授業に出席していない。ずっと働いていた。
中学・高校・大学は生涯の友人に恵まれやすい。
しかし、私はこの時期がほとんど空白のため、一度も同窓会に参加したことがない。

わが人生0453楽しい思い出に彩られた直江津小学校の同窓会はどうしても出席したかった。
だが、年ばかり取ってしまった。
皆は元気だろうか。
せっかくなので、街もぶらっとしてみたい。
記憶が消えかけているのだ。
それは自分を失うこと。

わが人生0454ところで、直江津小学校でも、私は卒業式の前日に引っ越したのだった。
卒業写真は空中に小さなマルで収まっている。
片隅…。
そのせいであるまいが、私はいまだに確たる居場所を得ていない。

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このブログは、おもに長期出張の移動時や宿泊時などに数日分〜1月分の記事を書き溜め、それを家族に更新してもらっています。
しかも、私がときどき新しい記事を割り込ませています。
内容が古かったり、順序が変だったりするのはそのためです。

なお、ブログによりぎりぎりのジョーク、成人向けの内容が含まれます。
ご承知おきください。
私は執筆に当たり全人格を投影したいと考えます。
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プロフィール
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和田創

和田創研代表
日本ロボコム代表
ロボットビジネス勉強会&交流会主宰
シニア起業家
和田 創(わだ・そう)

数字立て直し(伸長)一筋の経営コンサルタント。
教育と指導の年間実績は約百回。対象は社長から役員、管理者、社員まで、テーマは経営から管理、採用、事業、商品、企画まで広範。著書や教材は多数。
2017年、66歳以降はAIやロボット関連の起業に挑むとともに、おもに内需・地場企業から先端分野・成長分野の事業・商品開発を請け負う。クライアントとともに77歳までに百社の設立を目指す(内、自ら11社)。

その他の役職
面白くないジョークの会会長 

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