コンサルの引き出し|和田創ブログ

だれの目の前にも可能性の地平は広がる。それを切り拓けるかどうかは自分次第である。「面白くないジョークの会」初代会長が解き明かす経営と人生の奥義とは?

直江津生まれ

直江津の映画館…日本映画の全盛期

昭和26年(1951年)生まれの私は先だって、Huluで1957年の「喜びも悲しみも幾歳月」と1954年の「二十四の瞳」を“ながら視聴”しました。
どちらも松竹映画ですが、両親と見たかもしれません。
しかし、私の記憶は幼稚園の年長くらいからですので、少なくとも「二十四の瞳」を覚えているはずがありません。
昔は東京に数年遅れで地方都市に映画がかかったのでしょうか?
それとも情操教育の一環として直江津小学校で見たかもしれません。
悲しいかな、すべてがあいまい・・・。

私はたまたま、昭和32年(1957年)の直江津市に4つの映画館があったことを知りました。
「直江津銀座劇場」「直江津第一劇場」「直江津東映劇場」「みなと劇場」。
当時は人口3万人未満(?)の地方都市でした。

日本映画は1950年代前半〜半ばが全盛期のようです。
戦後、数少ない娯楽として大衆に愛されたのでしょう。
ちなみに、黒澤明の「七人の侍」は1954年の作品でした。
彼の代表作であるとともに、映画の黄金期の代表作でした。

私は両親と映画館に足を運んだ記憶がいくらか残っています。
しかし、映画館のなかの独特な雰囲気とにおいはわりとはっきりと覚えています。

当時、真行寺幼稚園前の自宅(呉羽紡績直江津支所)と直江津小学校の通学路の途中に映画の看板屋がありました。
道路(雁木)に面したガラス戸を開け放し、広い土間(コンクリート?)で映画館にかける横位置の大看板を巧みな筆さばきで描いていました。
私は下校時に足を止め、ほれぼれするような職人技に見入っていました。
まもなく上映される映画のタイトルと象徴的なシーン、そして主演の役者などでした。
看板屋の斜め向かいに映画館があった気がしますが、勘違いでしょうか。
直江津東映劇場?

おそらく半世紀以上隔てて「喜びも悲しみも幾歳月」と「二十四の瞳」に触れ、直江津小学校時代の両親と暮らしの思い出がぼんやりとよみがえり、とても懐かしくなりました。
戻れるものなら戻りたい・・・。

◇◆◇

生まれ故郷・直江津に関するブログは以下のとおり。

⇒2016年4月15日「直江津駅乗降客激減…北陸新幹線開業」はこちら。

⇒2014年10月20日「直江津小学校同窓会…半世紀振り」はこちら。

⇒2013年10月7日「直江津駅は北陸新幹線が通らない」はこちら。

⇒2012年7月13日「直江津港はエネルギー港湾へ…佐渡沖石油・天然ガス田」はこちら。

⇒2012年7月10日「直江津市街の衰退…北陸新幹線開業」はこちら。

⇒2011年11月10日「直江津駅から上野駅まで各駅停車の旅…直江津に関するブログ」はこちら。

⇒2010年7月25日「直江津祗園祭花火大会、山車集結の賑わい」はこちら。

⇒2010年5月1日「鱈めしと磯の漁火は名作駅弁…直江津」はこちら。

⇒2010年4月30日「直江津マイミクとセピオーラで歓談」はこちら。

⇒2010年4月29日「特急はくたか、強風で全面運休」はこちら。

⇒2010年4月8日「大正期の洋館・いかや旅館…直江津」はこちら。

⇒2010年3月20日「校歌を歌ってみなさい…就活・面接」はこちら。

⇒2010年3月17日「卒業式シーズン…大人への通過儀礼」はこちら。

⇒2010年3月11日「心にぽっかり穴…直江津小学校卒業式」はこちら。

⇒2010年3月10日「直江津ホテルハイマートに宿泊予約」はこちら。

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善光寺詣り…ホテル国際21…長野経済研究所

私は木曜日、おそらく直江津小学校の5年生以来、51年ぶりに長野駅に降り立ちました。
学校(学年)か、地域か、サークルか、家族か、いずれかで善光寺詣り(参り)へ出かけました。
何とも言えない感慨が込みあげてきました。

私は直江津生まれですが、半世紀の間、直江津駅〜高崎駅間の信越本線の沿線を訪れる機会がありませんでした。
とても不思議です。
信越本線の沿線を通る機会もごくわずかでした。
父の転勤にともない、直江津小学校を卒業して伊那中学校に入学しました。
その後、北陸地方から乗り換えなしに上野駅へ行ける信越本線経由の特急や急行を幾度か利用しました。
しかし、これらは夜行列車を含め、だいぶ前に消滅しました。
私は長野新幹線に乗り、途中の軽井沢や上田の駅名の響きが懐かしく、新鮮でもありました。

私は当時の記憶が皆無であり、長野市の半世紀の変遷や変貌は記せません。
ただし、木造の駅舎の印象、そして善光寺の真っ暗闇のなかで触れた鍵か取っ手の感触がかすかに残っています。

私は午後3時に長野駅に着き、何が何でも善光寺へ出かけると決めていました。
しかし、仕事を終えられず、日がすっかり落ちてから「ホテル国際21」にチェックインしました。
そして、善光寺を目指して大体の見当で歩きましたが、すぐに挫折してホテルに戻りました。
長野を訪れる機会はもうないと思っていましたので、とても残念でした。

ホテルの自室で、締め切りが金曜日の朝一の仕事に追われました。
ノートパソコンの画面に長時間向かったせいか、午前3時過ぎにベッドに入っても寝つけません。
ほかにも納期の近い仕事を抱えていましたので、幾度か起きてはパソコンに向かい直すうちに朝を迎えてしまいました。
結局、一睡もできませんでした。
デスクワークははかどりましたが、頭と意識は朦朧としています。

私はその日、長野経済研究所(八十二銀行)主催の実務セミナー「目標必達・営業管理セミナー」の講師を務めることになっていました。
多くの地場企業の方々にお申し込みをいただいています。
長野は東京より数度涼しいとはいえ、体が持つかどうか心配でした。
主催者と参加者に迷惑をかけるわけにいかないので頑張り、何とか一日を乗り切りました。
力を使い果たし、立っているのも難儀です。

私は、木曜日の夜にまったく眠れなかったおかげ(?)で、仕事がいくらか片づいていました。
そこで、金曜日の夜に長野から帰京する予定を変更し、「ホテル国際21」に連泊しました。
そして、土曜日の朝にホテルと善光寺を徒歩でゆっくりと往復しました。
雨が降っており、ずいぶん濡れました。
なぜかタクシーに乗りたくなかったのです。
年齢的に最後の善光寺詣りになるでしょう。
足を運び、心の底からよかったと思います。
途中、参道の入口で、手打ちの「さらしなそば(更科蕎麦)」をいただきました。

私はせっかくの機会なので故郷の直江津まで足を延ばし、海水浴を楽しんでから上越線経由で帰りたいところでした。
が、さすがにそこまでの時間的な余裕はありません。
長野新幹線の「あさま」の車内販売で「峠の釜めし(本舗おぎのや)」をいただきました。
私は半世紀前までの直江津時代に幾度か信越本線で上京していますが、両親は横川駅でたいてい「峠の釜めし」を買い求めたものです。
列車の窓を開け、手招きしながら駅弁の売り子を呼ぶ顔が思い浮かんできました・・・。

仕事で訪れた長野でしたが、私にしては珍しく旅行気分を味わうことができました。
長野経済研究所の関係者と大勢のセミナー参加者に心より感謝します。

⇒2013年5月6日「四国巡礼88札所巡り…結願之証に感無量」はこちら。

⇒2009年9月20日「連休、伊豆88寺巡礼の旅へ」はこちら。

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自生のウドの炊き込みご飯と天ぷらは絶品!

先日、新潟県上越市の池田秀敏氏から天然もののウドが届けられた。
氏は、私の生まれ故郷・直江津在住の“図解”に特化した業務改革コンサルタント。
毎年ゴールデンウィークに送ってくれる。
今年は雪が深くて5月半ばにずれ込んだとのこと。

ウドが採れる場所は、氏の実家がある上越市大島区(長野県寄り)の山合い。
人が分け入らないところほど、いいものが採れる。
実は昨年、池田秀敏氏はマムシに咬まれて入院した。
命に別条はなかったが、重症だった。
私はそれを知ったので、今年は辞退していた。

自生のウドは信じられないくらい立派だ。
とんでもなく太く、しかも真っ青。
実際には濃い緑である。
食品スーパーの店頭に並んでいるウドしか見たことがない人はびっくりするはずだ。
というか、ウドと分からない。

自生のウドは香りと歯応えが素晴らしく、特有の苦みがいかにも山菜という感じがする。
毎年そのうまさに感動してきたが、今年は格別だった。
この上ない贅沢。
食べた、食べた・・・。
絶品! 至福!
夏暑く、冬寒かったからか?
炊き込みご飯や天ぷらなどにし、家族で叫びながらいただいた。
皆、食べすぎ。

それと大量だったので、私がお世話になっている知人に分けて差しあげた。
しまった、写真に撮り、ブログにアップすればよかった。
一瞬で消えた。

⇒2010年5月24日「マムシに咬まれた! 原稿が終わった!」はこちら。

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意外、人口最多は新潟県

新潟県の出身なのに、まったく知らなかった。
お恥ずかしい限り。
かつて人口最多は「新潟県」だった。
しかも長らく日本一の状態が続いていた。

私はSNSのアゴリアに登録している。
その事務局から平日毎朝、メールで「ディリー・ニュース」が送られてくる。
以下は、先日の内容の要約。

明治21(1888)年の人口調査では、1位は新潟県で 166万人、2位は兵庫県で 151万人、3位は愛知県で 144万人、4位は東京都で 135万人。
明治26年の調査でも、新潟県が1位。
明治36年に東京都が 188万人で1位となっている。
稲作に適した気候、そして大阪と北海道を結ぶ北前船航路が太平洋側の航路より豊かというのが主因らしい。
さらに明治8年、新潟県の新津油田で石油精製許可が申請され、本格的に操業が開始されている。
明治27年の日清戦争、明治35年の日露戦争で石油需要が増大し、大正時代には日本第3位の石油会社に成長している。
つまり、食料・エネルギー・流通航路基地として、三拍子揃っていた。
そうした新潟県が政財界に有力な人材を輩出しつづけてきたのも頷ける。

意外・・・。
しかし、思い当たる節がある。
私は全国を転々としたが、新潟県はとても自由な雰囲気だった。
自信に裏打ちされた、どこか突き抜けた明るさがあった。
人々はくよくよ考えたりしない。
その分、重さや深さに欠けるきらいが…。

新潟は北陸に含まれるようだが、富山・石川・福井と明らかに異なり、まして東北とまったく違う。
私が生まれ育った直江津について言えば、それほど方言や訛りがなかったように思う。
『自叙伝』を著した、大正期のアナーキスト、大杉栄は新潟県新発田市で育った。

田中角栄の自伝か何かに、以下のような趣旨の記述があると、だれかから聞かされた(うろ覚え)。
私は母の寝顔を見たことがなかった。
私が起きたときにはすでに田に出て働いていた。
私が寝るときにはまだ土間でわらを打っていた。
これは県民性の「勤勉」を見事に表している。
新潟県人は労働時間が長く、しかもそれを苦としない。
私もそう。

自信の背景は、稲作に適した気候に加えて土壌だろう。
信濃川など、日本海に注ぐ川が広い平野をつくっている。
肥沃な土地なので、まじめに働くなら食べていくのに困ることがなかった。
余談ながら、直江津在住のマイミク・池田秀敏さんが取れたてのコシヒカリを送ってくださる。おいしい。

私は不勉強で確かなことは分からないが、新潟はどこかに攻め込まれたり支配されたりした歴史がないのでないか?
少なくともそうした印象を持っている。

いまは「裏日本」という表現はなくなったらしい。
確かに冬場は雲に覆われ、雪に閉ざされた(子どもの頃は豪雪地帯だった)。
にもかかわらず開放的な風土だった。
私は暮らしていて、田舎の窮屈さとか息苦しさとかを感じなかった。

三波春夫、田中角栄。
新潟県人は自由闊達。

私が直江津で吸ったのは、そうした空気だった。

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プロフィール
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和田創

和田創研代表
シニア起業家
和田 創(わだ・そう)

数字立て直し(伸長)一筋の経営コンサルタント。
教育と指導の年間実績は約百回。対象は社長から役員、管理者、社員まで、テーマは経営から管理、採用、事業、商品、企画まで広範。著書や教材は多数。
2017年、66歳以降はAIやロボット関連の起業に挑むとともに、おもに内需・地場企業から先端分野・成長分野の事業・商品開発を請け負う。

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面白くないジョークの会会長 

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