私は戦後まもなくの生まれだ。
世の中に自由の風が吹くようになっていた。
それでも「親に楽をさせたい」という気持ちが色濃く残っていたように思う。

私は、家庭の経済状態がどん底だったため、日本経済新聞社の奨学制度に頼って明治大学へ進んだ。
夜行列車で富山から上京する際、入善駅まで見送ってくれた両親の顔を見て、そう心に誓った・・・。

私は収入の保証のないフリーランスのまま所帯を構え、家族5人を食べさせるのに汲々としていた。
しかし、そうした状態でも「親に楽をさせたい」という気持ちは忘れたことがなかった。
それが我武者羅に働くモチベーションの一つになっていた・・・。

私は能力も甲斐性もなく、それを叶えたのは49歳のときだった。
上京から30年の歳月を要してしまった。
せめてもう何年か早く富山・滑川から横浜に呼び寄せたかった。
いまだに大きな悔いである。

父は貧農の出であり、それも母親に育てられた。
「親に楽をさせたい」という気持ちが、私よりもはるかに強かっただろう。
が、自分の家族で精一杯の人生を送った。
皆、たいていそうだ。

私が数年前から気になっているのが、妻を一人で育てた会津の母である。
かなり老いているが、横浜にまだ呼び寄せられない・・・。

今日、「親に楽をさせる」はほとんど死語になっている。

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